2017年9月17日日曜日

作家の手の爪の血

批評家は、作家のめざしてゐるものを見よ。最高の理想をめざして身悶えながら、汚辱にまみれ、醜怪な現実に足をぬき得ず苦悶悪闘の悲しさに一掬の涙をそゝぎ得ぬのか。然り。そゝぎ得ぬ筈だ。おん身らは、かゝる苦闘を知らないのだから。日本文学の伝統などといふものを表面の字づらの上で読みとり、綴り合せて、一文を草することしか知らないのだから。(坂口安吾「理想の女」)

この坂口安吾の文は、以下のドゥルーズ=プルーストとともに読むことができる。

《真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。》(ドゥルーズ)

哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。

プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

 …………

ロゴスの中には、どんなに隠されていても、それによって理知が常に前に来るような、それによって全体がすでに存在しているようなひとつの側面がある。それは、それを適用するものを前にして、すでに知られている法則である。つまり、あらかじめ与えられてあったものを再発見するだけであり、あらかじめ置かれてあったものを取り出すだけの、弁証法的手品である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)

『失われた時を求めて』は、一連の対立の上に築かれている。プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。理知が先に立ち、《全体的な魂》というフィクションのなかに集中させるような、我々のすべて能力全体の、論理的な、あるいは連帯的な使用に対して、我々がすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断された能力の使用がある。

また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシャ的同性愛には、ユダヤ的なもの・呪われたものが、言葉には名が、明示的意味作用には、暗示的シーニュ・巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)

・感受性 sensibilité/観察 observation
・思考 pensée /哲学 philosophie
・翻訳 traduction/反省 réflexion
・愛 amour/友情 amitié
・沈黙した解釈 interprétation silencieuse/会話 conversation
・名 noms/言葉 mots
・暗示的シーニュ signes implicites/明示的意味作用 significations explicites


以下の《シーニュ・症状(徴候)の世界 /属性の世界》も同じことを言っている。

プルーストはいたるところで対立させる、「シーニュ・症状の世界/属性の世界」、「パトスの世界/ロゴスの世界」、「象形文字・表意文字の世界/分析的表現・表音文字・合理的思考の世界」を。

いつも拒絶されるのは、愛 philos・知 sophia・対話 dialogue・ロゴス logos・声 phoné といったギリシャ人から継承した大きなテーマである。(Gilles Deleuze, Proust et les signes, Antilogos)

・パトスの世界 monde du pathos/ ロゴスの世界 monde du Logos

・ 象形文字・表意文字の世界 monde des hiéroglyphes et des idéogrammes/分析的表現・表音文字・合理的思考の世界 monde de l'expression analytiquc, de l'écriture phonétique et de la pensée rationnelle


…………

・自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる

・唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。

・鴎外の作品は《現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引き……もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた(折口信夫「好惡の論」初出1927年)


ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。

 誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。

 だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。

 誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。

 我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。

 ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。

 だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。

 私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。

 だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。(坂口安吾「理想の女」)

…………

折口の《血みどろになつた處》という折口の表現、あるいは安吾の《作家の手の爪には血が滲んでゐる〉に反応してヘーゲルを引用しておこう。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

折口は《血まみれの頭 blutiger Kopf》の人であったと同時に《白い亡霊 weiße Gestalt》の人でもあった(たとえば『死者の書』)。

だれにでも自己の内部にあるはずのこの「血まみれの頭」と「白い亡霊」、--それを見て見ないふりをして人生を送るべきかどうかは、人の生き方によるだろう。

力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。

精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

このヘーゲルの二つの文を要約していえば、人は「世界の夜」 に留まり、「血まみれの頭」、「白い幽霊」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力が生まれる、ということになる。

フロイトはヘーゲルのこの「否定性」ーーゴダールの表現ならポジに対するネガーー、「世界の夜」「血まみれの頭」に相当するものを、「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」、あるいは「欲動の根 Triebwurzel」「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」等と呼んだ。



2017年9月14日木曜日

言葉と眼差しによる新しい拷問形式

我々は基本的に皆、邪悪でエゴイスティック、嫌悪をもたらす生き物である。拷問を例にとろう。私はリアリストだ。私に娘があり誰かが彼女を誘拐したとする。そして私は誘拐犯の友人を見出したなら、私はこの男を拷問しないだろうなどとは言い得ない。 (ジジェク、2016,12)

…………

表題を「言葉と眼差しによる新しい拷問形式」としたが、以下の記述においてより具体的にいえば、「インターネットの書き込みという言葉と眼差しによる新しい拷問形式」であり、ここではそれをめぐる。


人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)

…………

《Twitter Japan本社前(東京都中央区)で9月8日、同社がTwitter上に投稿された「ヘイトスピーチ」を削除せずに放置していると訴える市民たちが、抗議活動をした。》(2017/09/9、伊吹早織 BuzzFeed News Reporter, Japan

以下、伊吹早織さんの記事より、画像を抽出。








 
おそらく次のような態度がーーすくなくとも当面はーー「まっとう」なのではないか(両ツイートとも、2017.9.13)

シュナムル@chounamoul

「ヘイト行為は禁止。見つけた方はご報告ください対処します」と言ってるツイッター社に「こんなに放置されてるから対処しろ」と抗議する当然の流れの横で、「嫌なら見るな」だの「紙を踏むなんて」だの「人には差別する自由が」だの言ってる人たち、控えめに言ってもズレ過ぎでしょ。

不良モダンガール@badmoderngirl

そもそもヘイトに行儀悪く抗議することが何故「憎悪の連鎖」になるの?そこが本当に分からない。「憎悪の連鎖」って学術的な言葉?論理的にどういう事なの?例えばテロに対して武力で報復する。その仕返しにまたテロが起きるってのなら分かるよ。でもヘイトに対して「止めろ」って抗議してるだけじゃん


【ネトウヨ生産装置としての左派やリベラル言説】

多くの人はあのような新しい拷問形態を見て見ぬふりをしているのだろう。

それにひどく苛立っているのが、たとえば野間易通である。

以下、2014年時点での、とても印象的だった、野間あるいはそれにかかわるツイートを二つだけ掲げる。

野間易通@kdxn: ネット上の左派やリベラルが、消化不良のポストモダンで相対主義の泥沼にはまりこみ、「おまえも本当は差別者だ」とお互いを指差し糾弾しあっている間に、難しいこと考えなくていいネトウヨが大増殖、現在に至る。これがこの15年に起きた出来事である。
Ikuo Gonoï‏ @gonoi: あれら先生方の言動で不思議なのは、カウンターの一挙手一投足にはダメ出しをしてくるのに、なぜかレイシストには直接対決しにいかないところ。あれでは避けているという印象を与えるし、何よりも説得力がない。RT @cracjpn なめてかかってんだろうね。学会ごと派手に批判してあげます。

最近では次のようなツイートがある。

野間易通@kdxn表現の自由を重視するリベラルが結果的にヘイト被害を軽視してしまうようなことが、リベラル・フェミニストの間にも起こってるんじゃないかなと、この間の論争を見ていて思います。(2017年01月19日)

…………

【正義という名の集団神経症の諫め】

他方次のような立場がある。ここではたまたまよくまとまった佐々木俊尚氏のツイートを掲げるが、もちろん彼だけではない。ほどよく聡明な心優しきインテリはおおむねこの立場をとっている筈である。





この考え方を言い換えれば、その核心は、《自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる》ときの危険性を説いているとしてよいだろう。

誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」)

 ジャズ界の大御所の最近の振舞い(醜態)でさえ、この文脈で捉えうるかもしれない。

あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。(……)

例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』2004)


 そしてにこの態度が集団神経症的に現われるとき最も危ない。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

社会運動・政治運動とはこの集団神経症的症状をまぬがれがたい、ということは言える。

「感情転移関係」とは、一種の偶像崇拝である。フロイトにとって、治療とは、それを人工的に再現することによってそこからひとを解放させることである。つまり感情転移関係を解消するために、別の種類の感情転移関係が必要なのだ。これは、ある意味で、モーゼにおいて、宗教(神経症)を解消するために、もう一つの宗教(一神教)が不可欠だったのと似ている。実際、世界宗教は「宗教批判」なのだが、それ自体やはり宗教なのだ。

一般に、世界宗教は、偉大な宗教的人格によって開示されたものだといわれている。しかし、そのような人格と弟子たちとの関係は、けっしてフロイトのいう「感情転移関係」をまぬかれるものではない。つまり、世界宗教も集団神経症によってのみ可能なのだ。だからまた、それが始祖の死後に、その死自体を儀礼的に意味づける共同体の宗教を作り出すことも避けられない。さもなければ、どんな偉大な人格も、世界宗教の始祖となりえなかっただろう。

フロイトの運動体においても、同じことが生じている。それは、フロイトへの完全な服従と敵対に二分されてしまう。いずれも「感情転移」なのだ。フロイトは、彼の描くモーゼに似ている。偶像崇拝を摘出しつづける彼は、彼を偶像化する集団を作り出すことになる。精神分析運動は、文字通り“宗教”となる。フロイトがこの危険に気づいていなかったはずはない。しかし、彼はその理論的な核心を放棄することはできない。そうすれば、精神分析が「偶像崇拝」の傾向に押し流されることは眼にみえているからである。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

…………

【自分の影をみつめることのできるユーモア精神】


ではどうすべきなのか。正義という名の神経症を怖れていてはなにもできなくなってしまうことはないか?

すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う。(浅田彰シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」2000年)


《政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく》という態度をとって、たとえばネトウヨと呼ばれる「拷問者」への対抗運動をしたとしよう。そのとき最低限必要なのは、おそらく「ユーモア精神」である。

ユーモアとは、笑いとは直接的には関係がなく、むしろ精神的姿勢であり、「同時に自己であり他者でありうる力」(ボードレール)である。あるいは「自分の影をみつめることのできる」のがユーモア精神である。

そして《恋する人とテロリストにはユーモア感覚が欠如している。》(アラン・ド・ボトン『恋愛をめぐる24の省察』)

ついでながらいいうと、人間誰しもがヒューモア的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見いだされない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたヒューモア的快感を味わう能力をすら欠いているのである。(フロイト『ユーモア』)

フロイトのいうようにこのユーモア精神とは容易に獲得できるものではない。

……日本文化に内在するいじめのパターンがあるのではないか。戦時中のいじめーー新兵いじめをさらに遡れば、御殿女中いじめがある。現在でも新人いじめがあり、小役人の市民いじめがあり、孤立した個人にたいする庶民大衆のいじめがある。医師の社会にもあり、教師の社会にもあるだろう。ねちねちと意地悪く、しつこく、些細なことをとらえ、それを拡大して本質的に悪い(ダメな)者ときめつけ、徒党をくんでいっそうの孤立を図る。完全に無力化すれば、限度のないなぶり、いたぶりに至る。連合赤軍の物語で私を最もうんざりさせたのは、戦時中の新兵いじめ、疎開学童いじめと全く同じパターンだったことである。(……)

こういうものは何によって生まれるのか。私には急に答えられないが、思い合わせるのは、実験神経症である。些細な差にたいする反応のいかんによって賞か罰かが決まるような状況におけば、無差別的な攻撃行為や自分を傷つける行為が起こる。新兵いじめでは些細な規律違反が問題になった。御殿女中では些細な行動が礼儀作法にかなっているかどうかが問題になった。連合赤軍では些細な服装や言葉づかいが、かくれた「ブルジョア性」のあらわれではないかと問題になった。いずれも、閉鎖社会であり、その掲げる目的を誰もほんとうには信じていない状況であった。

戦時中の教師はよく殴ったが、それで日本精神を注入して戦争に勝てるとはほんとうに思っていなかったにちがいない。人間は、自分が信じていないということを自覚しないで、信じているぞと自他に示そうとするとかなり危険な動物になる。

もちろん、信じていないことをしなければならないことはしばしば起こる。誰もが英雄ではないし、英雄には英雄の問題がある。最低、必要なのは、自分の影をみつめることのできるユーモア精神だと私は思う。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年初出『記憶の肖像』所収)  

…………

※付記

ここまではラカン派的な「享楽」という語を可能なかぎり使用せずにーージジェクの引用以外はーー記した。以下、参考としてラカン派のLevi Bryant の近著から付記する(参照:他者の享楽への嫉妬)。

あまりにも的確に、現代日本における在特会やネトウヨ言説の核心的あり方をついているように、わたくしは思う。

◆Levi R. Bryant The Democracy of Objects 2011(私訳)より

例えば、レイシストはしばしば他の集団の想像上の享楽に注視する。レイシストたちは、これらの集団が彼ら自身より格別の享楽を持っていると信じ込み、かつまたこの集団は彼ら自身から享楽を盗み取っているのではないかと信じるのだ。

レイシストは絶え間なく話し続ける、他の集団が、いかに怠け者で、いかに政府からタダ乗りを得て、いかに無分別で、いかに道徳観が欠けているか等々を。

このような幻想を基礎として、レイシストは、彼らの盗まれた享楽を取り戻すために、他の集団に対してあらゆる行動を取る。このメカニズムを、ミゾジニーやホモフォビアに、同じように見出すのは難しくない。

この種の享楽の悲劇は二重化されている。一方で、これらの暗澹とした幻想は、他の人びとや集団の迫害に導く。その迫害は想像上の享楽に基づいており、人は他の集団が享楽を盗んでいると信じ込むのだ。このようにして、喪われ盗まれた享楽の追求は、社会領域の難題となる。

他方、完全な享楽が存在するという信念は…利用可能な享楽を楽しむすることをいっそう難しくする。というのは想像上の享楽による不足感に取り憑かれているからだ。

結果として、主体は完全な享楽に幻想に苦しみ、人生は冷たい灰に変換されてしまう。他の集団が楽しんでいると信じ込む享楽への羨望に満たされ、かつ己れの生の享楽の不在への苦渋に押し潰され、主体はなにも楽しめなくなる。

2017年9月12日火曜日

ポストモダンをめぐって

ポスト・モダニズムについては、僕もさまざまな、かつ相互に矛盾しあうような考えをもっています。ある者たちに対して、僕は、自分はポストモダンだと宣言するでしょう。しかし、それは、ポスト・モダンがモダンのあとにくる「状態」や「段階」でなのではなく、モダンなものに対してその自明性をくつがえすという“超越論的”な「姿勢」であるかぎりにおいてです。だから、それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない。(柄谷行人『闘争のエチカ』1988年)

カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

 …………

フーコーにとって「ポストモダン」という問題は存在しない。(……)現在のエピステーメーの領域にはいかなる断絶の兆候もない。いわゆる「大理論」の成立は何の変化ももたらさず、またそれらの死と呼ばれるものも、全く効力がない。考古学者フーコーにとって、「ポストモダン」とは、いわば誤まった問題なのである。(蓮實重彦『フーコーと《19世紀》』)

僕自身としては、真実をめぐる言説が「大いなる物語」の中に錨をおろしていた時代をモダンと呼び、その「大いなる物語」の機能失調が明らかになって以後の時代をポスト・モダンとよぶことには反対であり、かりに「大いなる物語」が近代=モダンの言説だと呼ぶなら、その成立は、真実とは無縁の「小さな物語」の発生と同時代的であり、あるいはその「小さな物語」こそが「大いなる物語」の伝播に役立っていたという視点をとっているので、ポスト・モダンをモダンに続く時代ととることにも反対です……(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

…………

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。

しかし、カントの「批判」を、べつに「批判哲学」のように限定して考える必要はない。たとえば、今日デリダやド・マンのいうディコンストラクションは、「批判」以外の何であろうか。それは、一義的な意味(真理)を、決定不能性(二律背反)に追いこむことによって無効化するものだし、批判(解体)ではなく、「批判」(脱構築)なのである。「超越論的」という言葉も同様である。それをとくにフッサールのいう意味に限定する必要はない。

したがって、私は、超越論的ということを、自己意識の構造や自我の統一などといった問題に限定しないで、われわれが経験的に自明且つ自然であると思っていることをカッコにいれ、そのような思いこみを可能にしている諸条件を吟味(批判)することだという意味で考える。

すると、これは狭義の認識論に領域にとどまりえないことがわかる。たとえば、近代の思考が、デカルト的な二元論の機制の下にあると言うことは、それ自体超越論的なのだ。なぜなら、それは、われわれにとって自明且つ自然にみえていることがらをカッコにいれ、それをそのように受けとめさせている認識論的枠組そのものを吟味するということだからである。

しかし、これはいわゆる歴史的に考えるということと似て非なるものだ。ふつうの歴史的思考は、現代の認識論的枠組で過去を構成し解釈することでしかないからである。ニーチェがこのような「歴史主義」を攻撃する一方で、「歴史的に考える」ことを説いたことは矛盾しない。後者は、前者を超越論的に考察することにほかならない。

混乱を避けるために、後者を「系譜学的」と呼ぶことにしよう。系譜学的であることは、結果であるものを原因とみなす「認識の遠近法的倒錯」をえぐり出すことである。ニーチェがいう「歴史性」は、歴史的に規定されているということではなくて、この遠近法的な倒錯性ということなのだ。

けれども、こういう考え方はニーチェに固有のものではない。たとえば、マルクスもいっている。

《歴史とは、個々の世代の連続的交代にほかならない。それらのどの世代も、それ以前の全世代が贈った諸材料、諸資本、生産諸力を利用する。したがって各世代は、一面ではまったく変化した状況で、継承した活動を続行するのであり、他面ではまったく変化した活動によって、これまでのふるい状況の姿を変更するのである。ところが、思弁的にゆがめられたかたちでこれがとらえられると、後代の歴史が、前代の歴史の目的にされてしまう。たとえば、アメリカの発見の根底には、フランス革命の勃発を助けるという目的があったというように。こうなると、歴史は、自分だけの特殊な目的をかかえており(《自己意識》、《批評》、《唯一者》などといった)、《他の諸登場人物にならぶ登場人物》の一人となるのであるが、しかし、前代の歴史の《使命》、《目的》、《萌芽》、《理念》といった言葉でしめされているものは、実際は、後代の歴史からの抽象物、前代の歴史が後代におよぼす能動的な影響の抽象物にすぎない。》(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

つまり、マルクスはすでに系譜学的なのである。歴史が倒錯的に構成されていること、発生論的記述が「自然成長的」な生成を結果から逆投射的に構成したにすぎないことを指摘する、そのときにのみ、彼は「歴史性」を見出すのである。それは一切の目的論に対する「批判」である。それは、俗にマルクス主義といわれる目的論的な歴史観とは正反対なのであるから、そんなものを批判したところで、マルクスをこえたことにはならない。

そもそも、このような系譜学はこえること(超越的)ではなく、超越論的なのである。たとえば、マルクスやニーチェが何といおうと、ひとは(彼ら自身も)“目的論的”に生きている。それを否定することはできない。だが、それをカッコにいれることはできる。たとえば、日常的にもの(客観)が私(主観)の前にあるという考え方を否定するならば、ひとはまず生きていけない。その自明性をとりあえず還元(カッコ入れ)しようとするのが超越論的ということであって、本当にその通りに生きてしまえば、分裂病者になるだろう。(柄谷行人『探求Ⅱ』p187-189)

2017年9月11日月曜日

公理指向性と範例指向性

誰かが辞書を不変の権威として援用するなら、辞書は主人のシニフィアン、去勢されていない権威として機能する。(Levi R. Bryant,Žižek's New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist、2008,pdf

言葉に明確な定義を求めるのは、権威主義的態度である。「父なき時代」の現在、たとえば「差別」、「ヘイトスピーチ」の定義とは、あくまで範例指向性としての定義でしかありえない。

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【「公理指向性」と「範例指向性」】
分類には、共通項による分類のほかに、1930年代に論理哲学者ヴィトゲンシュタインが抽出した「家族類似性」という、共通項のない分類がある。(……)分類についての、個々人の基本的な構えも、各自異なる。究極には「世界を一つの宇宙方程式に還元する」ことをよしとする人と「世界は多様であること」をよしとする人があるのであろう。(……)前者を「公理指向性」、後者を「範例〔パラダイム〕指向性」と呼んだことがある。「単一精神病」論者と多数の「下位群」を抽出する人との間には心理的因子の相違がある。おそらく気質的因子もあるだろう。(中井久夫『治療文化論』)

もとより ”統合指向性” による解決に適した問題も存在する。しかしすべての問題をこの解決法に委ねるならば事態は急速に悪夢化する。とくに、自我同一性を決定すべき思春期から青年期にかけては、個物をつねに全体との関係において多少とも一般的・抽象的に位置づける”統合指向性” が、世界の中を実践的に動きまわって実例を探り、枚挙・比較・考量する ”範例指向性paradigmatotropism” によって補完されなければ、現実原則の枠内では解決しえない問題が続々と生起し、自我同一性を危殆に瀕せしめるであろう。ここで悪夢化とは、いうまでもなく、心的事態が深淵にのぞむような不安と激越な自律神経症状を伴い、しかも三者が相互誘発的に破局的な強度にむかって一意的に進行することである。 (中井久夫「精神分裂病状態からの寛解過程」『分裂病』所収 )


【家族的類似性】
・私たちが見ているのは、多くの類似性――大きなものから小さなものまで――が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである。

・私は、この類似性を特徴付けるのに「家族的類似性Familienähnlichkeit」という言葉以上に適切なものを知らない。なぜなら家族の構成員の間に成り立つ様々な類似性――体格、顔つき、眼の色、歩き方、気性、等々――は、まさにそのように重なり合い、交差しているからである。そこで私はこう言いたい、「ゲーム」もまた一つの家族を構成しているのだ、と。(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』66ー67節)

ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106) 



【ラカンの非全体≒ウィトゲンシュタインの家族的類似性】
ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性 family resemblance」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)




2017年9月8日金曜日

同質社会における宿命的「ルサンチマン」

 まずフロイト文を掲げる。

社会的公正の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等の要求こそ社会的良心と義務感の根元である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

この考え方のラカン派的変奏は次の通り。

ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを享楽している人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に享楽している人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である(ジジェク『ラカンはこう読め』原著2006年)

一言でいえば、平等としての正義は「他者の享楽への嫉妬」の基盤をもっている(参照)。

ジャン=ピエール・デュピュイは『聖なるものの刻印 La marque du sacré、2008)にてヒエラルキーを四つに分けている (四つの「象徴的制度 symbolic dispositifs」)。その分析において「身分社会」では、下位者が上位者に怨恨を抱くのは稀である、としているが、これは歴史的・文化的にみて誰もが頷く指摘だろう。

そしてデュピュイは「平等社会」でこそ、怨恨が渦巻くと主張している(このあり方のフロイト・ラカン派的分析は「二者関係先進国日本」を参照のこと)。

日本において、「他者の享楽への嫉妬」の典型的発露である政治家の不倫報道がひどく活発なのは、「同質化社会」であるからである。「身分社会」ではそんなことは起こらない。

これは柄谷行人が1980年代にすでに指摘している。

柄谷行人) ……欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。

文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(『闘争のエチカ』1988年)

政治家がことさら「いじめ」の餌食になるのは、彼らが「建て前」をいう職業であり、彼等の「本音」が露顕したときそのコントラストが際立つからだろう。

もっとも、そんなコントラストはないはずの「芸能人」にたいする「いじめ」、あるいは「他者の享楽への嫉妬」もいままで繰り返し起こって来た。

ここでは北野武と伊丹十三の事例を掲げる。

注目されたわたしが落ちていく姿、それを誰もが見たいんだから……。自分は事故のとき痛切に感じたですね……。マスコミから一般の人たちの憶測に秘められた嬉しさ……、ちょっとゾッとしますね……(北野武)

◆北野武 with 蓮見重彦(TAKESHI KITANO WITH SHIGEHIKO HASUMI)




以下、大江の小説からだが、吾良のモデルは伊丹十三である。

吾良の死以後の短い間に古義人がテレヴィ局や新聞社、また週刊誌の人間から受けとった印象は特殊なものだった。それは、かれらに自殺者への侮蔑の感情が共有されている、ということだ。

侮蔑の感情は、マスコミの世界で王のひとりに祭り上げられていた吾良が引っくり返り、もう金輪際、王に戻って反撃することはないという、かれらの確信から来ていた。

吾良の死体に向けて集中した侮蔑はあまりに大量だったので、ついにはみ出すようにして、マスコミのいう吾良の関係者にも及んだ。書評委員会の集まりなどでは親身にあつかってくれた女性記者から、取材申し込みが留守番電話に入っていたが、そこに浮びあがるのは、やはり権威が揺らいだにせの王への、無邪気に偽装された侮蔑だった。(大江健三郎『取り替え子』)

2017年9月7日木曜日

他者の享楽への嫉妬

千葉雅也 @masayachiba ・ 2017/7/25 松本卓也が、ネトウヨは何に苛立っているかというと、他者が享楽しているように見えることに苛立っているのだというレイシズム分析をしている。それと同じことが、ネットでのくだらない「論争」の原因。「こいつ、なに享楽してやがんだ」という他者の享楽への嫉妬が原因。

この「他者の享楽への嫉妬」をめぐってブルース・フィンクは次のように説明している。

我々は動物がけっしてしないことをするように見える。我々は、我々がそうあるべきだと思っている標準、絶対的な標準、規範、水準に照らし合わせて、享楽を判断している。標準や基準は、動物界にはない。標準などは言語によってのみ可能となる。言い換えれば、言語は、我々が得ている享楽が標準には達していない、基準に達していない、そうあるべきものではない、と思わせるのだ。

言語は、我々に「言う」ことを可能にする、我々が種々の方法で得ている満足は取るに足りないもので、別の満足、より良い満足、決して我々を裏切らない満足、決して期待外れに終わらず、失望させない満足があると。我々はかつて一度でもそのような期待通りの満足を経験することができただろうか? 大抵の人にとっては、おそらく「否」だろう。だが、そのことは信じることを止めはしない、きっとそのような満足があるに違いない、何かより良いものがあるに違いない、と。たぶん我々は、ある他の集団ーーユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ゲイ、女性ーーにその徴を見ると考えるかもしれない。そして憎悪したり羨望したりする。たぶん、我々はある集団にそれを投影するのだ。というのは、我々はそれが存在すると信じていたいのだから(私はここでレイシズムやセクシズムなどの全ての局面を、このひどく単純化した形式で説明するつもりは毛頭ないことを断っておく)。

いずれにせよ、我々は、何かより良いものがあるに違いないと思い、何かより良いものがあるに違いないと言い、何かより良いものがあるに違いないと信じる。そのように何度もくり返しして言うのだ、我々自身に、あるいは友人に、さらには分析家に。そうすることによって、我々はこの他の満足、この〈他者〉の享楽に一貫性を与える。結局、それにとても大きな一貫性を与えることそのものが、我々が実際に得ている享楽はひどく不十分なものに見えてしまうことに導く。そのため、我々のもつ僅かな享楽は、更に先細りになってしまう、我々がひどく重要だと思い込んでいる享楽の理想との比較によって、いっそう色褪せてしまうのだ。そして我々はその享楽を決して諦め切れない。(ブルース・フィンク2002, Bruce Fink“Knowledge and Jouissance”、私訳)

Levi Bryant の近著からも付け加えておこう。

◆Levi R. Bryant The Democracy of Objects 2011(私訳)より
例えば、レイシストはしばしば他の集団の想像上の享楽に注視する。レイシストたちは、これらの集団が彼ら自身より格別の享楽を持っていると信じ込み、かつまたこの集団は彼ら自身から享楽を盗み取っているのではないかと信じるのだ。

レイシストは絶え間なく話し続ける、他の集団が、いかに怠け者で、いかに政府からタダ乗りを得て、いかに無分別で、いかに道徳観が欠けているか等々を。

このような幻想を基礎として、レイシストは、彼らの盗まれた享楽を取り戻すために、他の集団に対してあらゆる行動を取る。このメカニズムを、ミゾジニーやホモフォビアに、同じように見出すのは難しくない。

この種の享楽の悲劇は二重化されている。一方で、これらの暗澹とした幻想は、他の人びとや集団の迫害に導く。その迫害は想像上の享楽に基づいており、人は他の集団が享楽を盗んでいると信じ込むのだ。このようにして、喪われ盗まれた享楽の追求は、社会領域の難題となる。

他方、完全な享楽が存在するという信念は…利用可能な享楽を楽しむすることをいっそう難しくする。というのは想像上の享楽による不足感に取り憑かれているからだ。

結果として、主体は完全な享楽に幻想に苦しみ、人生は冷たい灰に変換されてしまう。他の集団が楽しんでいると信じ込む享楽への羨望に満たされ、かつ己れの生の享楽の不在への苦渋に押し潰され、主体はなにも楽しめなくなる。

「小さな大他者たち little big Others」としての「倫理委員会」

「大他者の不在」という新しい状態の、もしかすると最も目を引く面は、技術的発達がますますわれわれの生活世界に影響力をもつときに顔を出す、いわゆる倫理的な問題について決断を迫られる「委員会」の発生かもしれない。(……)

例えばある言明が、実際にセクシュアル・ハラスメントを構成したり、人種差別的な憎悪による発話を構成したりするかどうかを決定することには、構造的な困難がある。そのようなはっきりしない言明を前にすると、「ポリティカルコレクトネス的」急進派は、まずもって、非をならす被害者の方を信じる傾向にある(被害者がそれをいやがらせとして経験したのなら、それはいやがらせなのだ……)のに対して、強硬な正統派リベラルは、告発される加害者の方を信じる(本気でいやがらせのつもりでやったことでないのなら、それは免罪されるべきだ……)傾向にある。もちろん肝心なところは、この非決定性は、構造的なもので避けようがないということだ。最終的に意味を「決する」のは、「大他者」(被害者と加害者がともに組み込まれている象徴界のネットワーク)なのであり、「大他者」の命令は、そもそも結果が決まっているものではなく、誰もその結果を支配し、規制することはできない。だから、行き詰まりを打破するには、結局は恣意的なかたちで正確な行動規則を定めるために、委員会を招集することになる……。

(……)まるで「大他者」の欠如が、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大他者たち little big Others」としての「倫理委員会」で埋められているかのようである。(……)

この大他者の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。その根底にある論理はルサンチマンである。主体は、大他者が存在しないことを喜んで引き受けるのではなく、その失敗かつ/あるいは無力を大他者のせいにする。大他者が存在しないということが、大他者の罪であるかのようだ。つまり、無力は言い訳にはならないかのようだーー大他者はまさにそれが何もできなかったということに責任があるのだ。主体の構造が「ナルシシスティック」になればなるほど、主体は大他者に責めを負わせ、そうして自分がそれに依存していることを確める。「苦情の文化」の基本的な特徴は、大他者に向けられた、介入して事態を正してくれ(損害を受けた性的少数派あるいは少数民族などに報いてくれ)という要求であるーーまさにそれをどうするかが、さまざまな倫理的=法的「委員会」の問題になる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」2001)

 ジジェクは最近次のように言っていることを付け加えておこう。

・大文字の他者の不在が示すのは、どんな倫理的/道徳的体系も、想像しうる最も根源的な意味で、「政治的」な深淵に立脚していることである。政治とは、まさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をし協議することである。

・真の「非全体pas-tout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれるだろうことである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )

非全体とは大他者の大他者はない・大他者の不在・大他者は非一貫的であるという意味である。