2018年9月24日月曜日

原抑圧とは現実界のなかに女を置き残すことである

【女・表象代理・原抑圧・対象a】
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というもの La Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

 ーーここでラカンは「抑圧」と言っているが、これは通常の抑圧ではない。原抑圧である。

表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、この原抑圧を他のすべての抑圧が可能となる引力の核 (le point d'Anziehung, le point d'attrait)とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)
表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation ⋯⋯, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)

《女の問題とは……空虚な理想ー象徴的機能―を形作ることができないことにある。これがラカンが「女というものは存在しない」と主張したときの意図である。この不可能な女というものは、象徴的フィクションではなく、幻想的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1 ではなく対象a である。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING、 2012) 


以下は2018年の主流ラカン派会議の中心議題である。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除(原抑圧)。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018

⋯⋯⋯⋯

さて以下、1999年に上梓されてから20年ほどたつにもかかわらず、実に明瞭な原抑圧の注釈をしているポール・バーハウの文を掲げる。この『女というものは存在するのか DOES THE WOMAN EXIST?』について、当時のジジェクは書評で「奇跡の書」と呼んでいる。


◆ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999


【受動性と女性性】
1897年5月25日、フロイトはフリース宛の手紙にこう書いている、《本源的に抑圧されているものは常に女性的なものではないかと疑われる》。

…この言明のすこし前の「トラウマ」期、フロイトは見出している。何かがある、我々の存在の核(Kern unseres Wesen) 、臍(navel)、菌糸体(mycelium)があることを。心的に加工されえず、唯一可能な反応としての不安を引き起こす何かである。これが、シニフィアンの彼岸(表象の彼岸)に位置づけられるラカンの現実界である。

フロイトは見出したこの何かは、常に受動的で不快なトラウマ的性質を持っている。受動性、そしてそれゆえに女性性である。より正確に言えば、受動性は女性性にとっての代替シニフィアンになる。というのは、フロイトは他に正しい語を見出せなかったから。言い換えれば、トラウマ的現実界ーー象徴界のなかにはこのトラウマ的現実界を言い表すシニフィアンはないーー、これが女性性である。フロイトは象徴システムにおける欠如を見出した。すなわち女というもののシニフィアンはない。半世紀後、ラカンはこのトラウマ的現実界に相当するものをȺ と記した。その意味は、シニフィアンの全体は決して完全ではなく大他者には欠如がある、ということである。

《Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。》(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


【フロイトの境界表象とラカンのS(Ⱥ)】
このトラウマ的現実界は抑圧され払い除けられる。この過程は特有の形式をとる。実際上、トラウマ的核・現実界的核は、それ自体としては抑圧されえない。それは単純な理由からである。すなわち現実界には抑圧するための何ものもない。抑圧のためのどんなシニフィアン(表象 Vorstellung)もない。

この点においてフロイトが「抑圧(追放・放逐)」という語を使用するとき、彼は特殊な事例を言い表わそうとしている。《抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud, 1 January 1896, 書簡K)

現実界の代わりに、われわれは「境界表象 Grenzvorstellung」を見い出す。これがラカンのS(Ⱥ)である(《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》のシニフィアン)。後に幻想のなかで、二次的防衛がこの境界表象に対して向けられる。この二次的防衛は正式の抑圧(後期抑圧 Nachdrängung)であり、Nachdrängungとは文字通りには、「後の(再)押しやりafter(re-) pression」である。

《S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。》(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)


 【原防衛過程と翻訳の失敗】
われわれはここでしばらくの間、この原防衛過程に集中しよう。より充実した解説は、フリース宛の二つの手紙(書簡46と書簡52)に見出される。

要約すれば次の内容である:心的素材は、特別の印 schrift のなかに整理されて書き込まれる。それは生のそれぞれの時期によって変容する。各々に継起する時期の境界において、心的素材の、次の時期の言語への翻訳としての転写(書き換えUmschrift)がある。書信46にて、フロイトはトラウマ的核は「転写されない」言っている。その意味は「語表象 Wortvorstellung」に書き換えられないということである。…

書簡52は、より概括的な仕方で転写(書き換えUmschrift)概念を取り上げている。《心的装置は重層化 Aufeinanderschichtung により発生する》と。「重層化 Aufeinanderschichtung」とはレイヤーの上のレイヤーを伴う過程であり、その過程のあいだに既に獲得された素材は、折々に新しい形式へと転写/翻訳される。

引き続く時期の言語への翻訳は、生の継起する時期の境界に起こる。例外はこの素材のいくつかは翻訳されないことである。《翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.》  (フロイト、フリース書簡52、1896)

最晩年のフロイトはこう言っている。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

この抑圧が原抑圧であるのは、次の文が証する(参照)。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ふたたびポール・バーハウ1999に戻る。


【原抑圧と原固着】
われわれは、フロイトの主張によって別の歩みをさらに進めることができる。心的でないもの(身体的なもの)から心的なものへの転換の次には、心的なものへの書き直し working-over が引き続くのである。この加工 elaboration のフロイトの議論は、『ヒステリー 研究』にて三層構造として取り上げられている。そこでは、ヒステリー の基盤にある「トラウマ」、受動的で不快な「光景」、つまり「女性性」は、心的書き直し working-over の全形式の外部あるいは彼岸に位置づけられる。

最初の段階は境界表象(Grenzvorstellung)の勃立 erectionである。その後に防衛的書き直し working-over が起りうる。われわれの見解では、境界シニフィアンによるこの原防衛は、フロイトがのちに「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは何よりもまず「原固着」として現れる。

《フロイトは固着、リビドーの固着、欲動の固着を抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. 》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 )


 【原抑圧=現実界のなかに女を置き残すこと】
原固着とは何かが固着されたままになる、心的領域外部に置かれたままになるという意味である。これに対する唯一の可能な反応は、固着の代役としての境界素材による書き直しである。それは後に後期抑圧にとっての妥当な標的となる。こうして、原抑圧とは現実界のなかに女というものを置き残すものとして理解することができる。

《抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido》(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)


【トラウマ的現実界の穴埋め】
原防衛は穴(トラウマ的現実界Ⱥ)を覆い隠すこと、裂開を埋め合わせることを目指す。この原防衛、原抑圧は、欠如のエッジに位置づけられる代表象、つまり境界構造の勃立によって最初は実現化される。この代表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(フロイト書簡K ,pp. 228-229)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。「最初」とは、その後の展開はここで立ち止まることはないから。

防衛を意図するこの「境界表象 Grenzvorstellung」は、いっそう錯綜とした心的構造へと展開する。だがそれらは全て同じ機能をもつ。すなわちトラウマ的現実界の心的書き直しworking-over である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

(PAUL VERHAEGHE, 1999)


ーーこの図でバーハウは、受動性とS (Ⱥ)を並置しているが、この受動性とは、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ論の記述にかかわる。

受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

この文のほぼ直後、次の記述が現れる。

私は、「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

これこそ原抑圧の別の表現の仕方である。「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」、すなわち女は原抑圧されている、である。

そして原抑圧としてのS (Ⱥ)は、トラウマ的現実界Ⱥに対する防衛の最初の歯止めの刻印(境界表象)である。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

そのS (Ⱥ)を基盤にして人はみな妄想する。

「人はみな妄想する」(ラカン)の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)

⋯⋯⋯⋯

※付記

ラカンのサントームΣ(原症状)概念とS(Ⱥ) は等価である(参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)

かつまたS(Ⱥ) とは、文字対象aと等価である。

私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、 大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)

ラカンはのちにこの文字を「文字対象a[la lettre petit a]」(S23、11 Mai 1976)とも言うようになる。
結局、原症状としてのサントームΣ = S(Ⱥ)=「文字対象a[la lettre petit a]」=「S2なきS1」(「一のようなものがある Y a de l’Un」)=「欲動の固着」である(参照)。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)

※参照:女性の享楽と自閉症的享楽

2018年9月15日土曜日

原抑圧によって「強制された運動の機械」

ドゥルーズ のエロスとタナトスをめぐる最もすぐれた記述は、次のものである。

生の欲動 pulsions de vie        共鳴の機械(エロス)
 
死の欲動 pulsions de mort     部分対象の機械(欲動)

死の本能 instinct de mort      強制された運動の機械(タナトス)

まず「生の欲動」「死の欲動」「死の本能」の三区分を示そう。

『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。

なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混淆された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれること La combinaison avec Eros は、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。

従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。無意識に「否 Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。

ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。

すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的 transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)

次に部分対象の機械(欲動)、共鳴の機械(エロス)、強制された運動の機械(タナトス)の三区分である。

『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)である。

このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。

それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「三つの機械 Les trois machines」第二版 1970年)


『差異と反復』には三区分はない。

エロス Érôs は己れ自身を循環 cycle として、あるいは循環のエレメント élément d'un cycle として生きる。それに対立する他のエレメントは、記憶の底にあるタナトス Thanatos au fond de la mémoire でしかありえない。両者は、愛と憎悪 l'amour et la haine、構築と破壊 la construction et la destruction、引力と斥力 l'attraction et la répulsion として組み合わされている。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

いま掲げた三つの書の内容の核心をまとめてしめせば、次のようになる。


引力と斥力は、フロイトにおいては次のような形で現れる。

われわれは、ただ二つののみの根本欲動 Grundtriebe の存在を想定するようになった。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb である。…

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。食事という行為 Akt des Essens は、食物の取り入れ Einverleibung という最終目的のために対象を破壊 Zerstörungすることである。性行為Sexualaktは、最も親密な結合 Vereinigungという目的をもつ攻撃性 Aggressionである。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirkenという二つの基本欲動の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossungという対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)

ところで『アンチオイディプス』において、「強制された運動の機械」としての死の本能はどこかに行ってしまい、自由に流体する「欲望機械」としての「死の本能」という記述が前面にでる。

ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もないPas de bouche. Pas de Io.Hgue. Pas de dents. Pas de larynx. Pas d'œsophage. Pas d'estomac. Pas de ventre. Pas d'anus. 」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能 Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』1972年)

1960年代の仕事における、超越論的原理としての「強制された運動の機械=死の本能」と、1972年の、自由な流体としての「欲望機械=死の本能」は、明らかに矛盾がある、とわたくしは思う。そしてフロイト・ラカンの欲動論においては、強制された運動の機械が明らかに正しい。
強制するもの何か? --原抑圧としてのトラウマ的穴である。ラカンの駄洒落的表現では《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)》(S21)である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
リビドーは、その名が示唆しているように、穴に関与せざるをいられない。身体と現実界が現れる他の様相と同じように。 La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou, tout autant que des autres modes sous lesquels se présentent le corps et le Réel (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


ドゥルーズは上でこう言っているのを見た。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(『差異と反復』)

この原抑圧の認識が、フロイト・ラカン派観点からは、正当的な認識である。人間はトラウマに強制されるのであって、どこにも純粋な流体 un pur fluide à l'état libre の自由などない。

※参照

トラウマ界
構造的トラウマと事故的トラウマ
三種類の原抑圧


⋯⋯⋯⋯

上に次の文があった。

フロイトが、表象 représentations にかかわる「正式の proprement dit」抑圧の彼岸に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる(ドゥルーズ『差異と反復』)

原抑圧という語は次のような形でも現れる。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)l'objet virtuel (objet = x) に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。

潜在的対象の遷移 Le déplacement de l'objet virtuel は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisement とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

反復は、実在性(レアリテ réalité)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。

したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化 la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。

そうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』)

ドゥルーズにとっての「反復」は、フロイトの原抑圧概念に全面的にかかわるのである。そしてこれが《強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)》という表現と直結する、とわたくしは考える。

(プルーストの作品は)ジョイスの聖体顕現 épiphanies とはまったく異なった構造をもっている。しかしながらまた、それは二つの系列の問いである。 すなわち、かつての現在(生きられたコンブレー)と現勢的 actuel な現在の系列。疑いもなく経験の最初の次元にあるのは、二つの系列(マドレーヌ、朝食)のあいだの類似性であり、同一性でさえある(質としての味、二つの瞬間における類似というだけでなく自己同一的な質としての味覚)。

しかしながら、秘密はそこにはない。味覚が力能をもつのは、それが何か=X を包含するenveloppe ときのみである。その何かは、もはや同一性によっては定義されない。すなわち味覚は、それ自身のなか en soi にあるものとしてのコンブレー、純粋過去の破片 fragment de passé pur としてのコンブレーを包んでいるenveloppe Combray 。それは、次の二つに還元されえない二重性のなかにある。すなわち、かつてあったものとしての現在(知覚)、そして意志的記憶 mémoire volontaire によって再現されたり再構成されたりし得るかもしれないアクチュアルな現在への二重の非還元性のなかにある。

それ自身のなかのこのコンブレーは、己れの本質的差異 différence essentielle によって定義される。「質的差異 qualitative difference」、それはプルーストによれば、「地球の表面には à la surface de la terre」存在せず、固有の深さのなかにのみ存する。この差異なのである、それ自身を包むことによって、諸々の系列のあいだの類似性を構成する質の同一性を生み出すのは。

したがって再びまた、同一性と類似性は「差異化するもの différenciant」の結果である。二つの系列が互いに継起するなら、それにもかかわらず、二つの系列に共鳴を引き起こすもの、すなわち対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレーとの関係において共存する。さらに、二系列の共鳴は、その系列をともに越えて溢れ返る déborde 死の本能 instinct de mort をもたらす。たとえば半長靴と祖母の記憶である。

エロスは共鳴 résonanceによって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼方に、その輝かしい核を見出す)。プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰 l'éternité du retour dans le temps を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

⋯⋯⋯⋯

※追記

『意味の論理学』第34のセリーにも決定的な文がある。《le mouvement forcé qui représente la désexualisation, c'est Thanatos ou la « compulsion»》(ドゥルーズ『意味の論理学』第34のセリー)

その前後も含めて貼り付けておこう。








2018年9月8日土曜日

女性の享楽と自閉症的享楽

【女性の享楽と自閉症的享楽】
身体の享楽(女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)
自閉症的享楽としての身体固有の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller


【自閉症的享楽=原ナルシシズム=自体性愛】
丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste

(ラカン、S10、05 Décembre 1962)


【自体性愛の底にある去勢(享楽控除)】
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
《自体性愛 auto-érotisme》という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)
ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)



【話す身体=自ら享楽する身体】

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)


【身体の出来事としての女性の享楽】
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
症状(サントーム・原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽は欲望の法 la loi du désirによって明示化されうるものではない。享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。 du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事としての享楽はは欲望の法とは反対である。享楽は欲望の弁証法としては捉えられない。そうではなく、享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



【女性の享楽=身体の享楽=他の享楽】
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
ファルス享楽 jouissance phallique とは身体外 hors corps のものである。他の享楽 jouissance de l'Autre とは、言語外 hors langage、象徴界外 hors symbolique のものである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


【(女性の)享楽と欲動の固着】
「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(結びつき connexion)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ミレール L'être et l'un IX, 2011)
固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状(コレット・ソレール、Avènements du réel、2017)


【固着=「身体的なもの」の「心的なもの」への移行不能】
・原抑圧はなによりもまず欲動の固着(リビドーの固着)として捉えなくてはならない。

・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1917年)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残存物 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…この残存物Reste が存続…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
忘れられたものをふたたび反復経験すること Wiederholung davon von neuem zu erleben…これは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma 、あるいは反復強迫 Wiederholungszwang の名の下に要約しうる。…そしてそれは不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge である。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


【暗闇に蔓延る異者としての身体】
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、1976年)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


【異者としての身体=異物】
トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


【異者=他の身体の症状=ひとりの女】
ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である! « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
サントームは、「身体の出来事 un événement de corps」(AE569)、享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」「一人の女 une femme」でありうる。(ミレール 2014、L'inconscient et le corps parlant )
ヒステリーの女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようse nommer comme femme と試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。

これは、女性性の場にある名付けえないものを名付ける nommer l'innommable à la place du féminin ための方法である。

彼女の女性性 féminité は、彼女にとって異者 étrangère である。……

ラカンは、女性性について問い彷徨うなか、症状としてのひとりの女 une femme comme symptôme を語った。ひとりの女は、他の性 l'Autre sexe がその支えを見出す症状のなかにある。ラカンの最後の教えにおいて、私たちは、症状と女性性とのあいだの近接性 rapprochement entre le sinthome et le féminin を読み取りうる。

女は「他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps」であることに従う。すなわち「他の身体の享楽 la jouissance d'un autre corps」へと彼女の身体を貸し与える。他方、ヒステリーの女性は、彼女の身体を貸し与えない。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)


【暗闇に蔓延る異者としての女】

ーー以上より、女性の享楽とは、「暗闇に蔓延る異者としての女」の反復強迫とすることができる。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。…この内的反復inneren Wiederholungszwangを喚起させるものこそ不気味なもの unheimlich として感じられるとみてよいと思う。(フロイト『不気味なもの Unheimliche』1919)

この《症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel 》(ラカン『三人目の女 La Troisième』1974)

固着とは、心的なものの領野の外部に置かれるということである。…この固着、すなわち(心的なものからの排除としての)原抑圧は「現実界のなかに女というものを置き残すこと」として理解されうる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE , DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
自我は堪え難い表象をその情動とともに排除(拒絶 verwirft)し、その表象が自我には全く接近しなかったかのように振る舞う。

daß das Ich die unerträgliche Vorstellung mitsamt ihrem Affekt verwirft und sich so benimmt, als ob die Vorstellung nie an das Ich herangetreten wäre. (フロイト『防衛-神経精神病 Die Abwehr-Neuropsychosen』1894年)
排除 Verwerfung の対象は現実界のなかに再び現れる qui avait fait l'objet d'une Verwerfung, et que c'est cela qui réapparaît dans le réel. (ラカン、S3, 11 Avril 1956)
象徴界に拒絶されたものは、現実界のなかに回帰する Ce qui a été rejeté du symbolique réparait dans le réel.(ラカン、S3, 07 Décembre 1955)


※付記

【本源的に抑圧されている(原抑圧されている)女というもの】
本源的に抑圧(追放)されているものは、常に女性的なものではないかと疑われる。(フロイト, Brief an Wilhelm Fließ, 25, mai, 1897)
男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)

両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
実際、男性のシニフィアンはあります。そして、それしかないのです。フロイトも認めています。つまり、リビドーにはただ一つのシンボルがある、それは男性的シンボルで、女性的シニフィアンは失われたシニフィアンであるということです。ですから、ラカンが「女というものは存在しない la Femme n'existe pas」というとき、彼はまさにフロイディアンなのです。おそらく、フロイト自身の方が完全にはフロイディアンではないのでしょう...(ミレール「もう一人のラカン(D'un autre Lacan)」Another Lacan by Jacques-Alain Miller, 1980)

女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)
私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、 大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。 …

La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)

ーー《後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。》(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)

「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018




⋯⋯⋯⋯

※追記

おそらく現在主流臨床ラカン派(フロイト大義派)の議論を受け入れるか否かは、性別化の式のデフレ(価値下落)をみとめるか否かである。


ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。


(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(ミレール 、JACQUES-ALAIN MILLER、「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)

2018年9月3日月曜日

構造的トラウマと事故的トラウマ

人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。

構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

ポール・バーハウのいう構造的トラウマとは、フロイトのいう「病因的トラウマ」と等価な表現として捉えられる。

我々の研究が示すのは、神経症の現象(症状)は或る経験と印象の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traume」と見なす。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

「神経症の現象(症状)Phänomene (Symptome) einer Neurose」とあるが、ここでの神経症は一般に流通する神経症(精神神経症)だけではなく、現勢神経症も包含している。

原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。

(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。…外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

要するに「神経症の現象(症状)」とは、フロイトにとって人間のすべての症状のことである。

バーハウの文に戻れば、事故的トラウマとは、もちろん一般に言われる心的外傷、事故によるトラウマにことである。

外傷性神経症 traumatischen Neurose を起こす体験にさいして、外側の刺激保護壁Reizschutzがこわれて過剰度の興奮 übergroße Erregungsmengeが心的装置に入り込む。(フロイト『制止、症状、想起』7章、1926年)

「過剰度の興奮」とあったが、この表現と近似したフロイトの表現のいくつかを拾っておこう。


【量的要因としてのトラウマ】
・外部から来て、刺激保護壁Reizschutz を突破するほどの強力な興奮 ankommenden Erregungsgrößenを、われわれは外傷性のものと呼ぶ。外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。

・刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射Projektionである。

・通常の外傷性神経症 gemeine traumatische Neurose を、刺激保護のはなはだしい破綻の結果と解してみてもよいだろうと思う。(フロイト『快原理の彼岸』第4章)

次の文には量的要因という語が出現する。

経験が外傷的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである。das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt (フロイト『モーセと一神教』1939年)

ーー量的要因 quantitativen Faktors、すなわちQ要因である。

ここでもポール・バーハウの簡潔な解説を掲げる。

フロイトにおいて、欲動の問題は最初から見出される。欲動概念が導入される以前のはるか昔からである。その当時のフロイトの全ての試みは「エネルギーの量的要因 Energiequantitäten Faktor」とそれに伴った刺激を把握することである。出発点から彼を悩ました臨床的かつ概念的問題のひとつは、内的緊張の高まり、つまり(『科学的心理学草稿 ENTWURF EINER PSYCHOLOGIE』1895 における)名高いQ要因(quantitativen Faktor)である。すなわちそれは身体内部から湧き起こるエネルギーの流体であり、人はそのQ要因から逃れ得ないことである。Q要因は応答を要求するのである(注)。

このQ要因(quantitativen Faktor)は欲動Triebの中核的性質である。すなわち圧力(衝迫 Drang)と興奮 (Erregung) である(『欲動とその運命』1915)。これは欲動の本来の名をを想起すれば明瞭である。独語TriebはTreiben (圧する)である。不快な興奮の集積として、Q要因は解除されなければならない。そしてその過程で数多くの厄介事が発生する。現勢神経症から神経精神病の発生まで。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、ON BEING NORMAL AND OTHER DISORDERS、2004年)

上の文の注には、次のフロイト文が付されている。

心的機能において、なんらかの量 Quantität の性質を持っているもの(情動割当 Affektbetrag あるいは興奮量 Erregungs-summe)を識別しなければならないーーもっともそれを計量する手段はないがーー。その量とは、増加・減少・置換・放出 Vergrößerung, Verminderung, der Verschiebung und der Abfuhr が可能なものであり、電気的負荷が身体の表面に拡がるように記憶痕跡 Gedächtnisspuren の上に拡がるものである。(フロイト『防衛-神経精神病 DIE ABWEHR-NEUROPSYCHOSEN 』1894年)

フロイトは『ヒステリー研究 STUDIEN ÜBER HYSTERIE』1895年においても、「興奮の量 Quantität von Erregung」という表現を使いながら、トラウマ的要因を神経システムによっては十分には解消しえない「興奮増大 Erregungszuwachs」として定義している。この「興奮増大 Erregungszuwachs」を患者は意識から遠ざけようとする。そして、この「意識的になること不可能な表象 bewusstseinsunfähiger Vorstellungen」が病理コンプレクスの核である、と結論づけている。

「意識的になること不可能な表象」とはモノのことである(参照)。

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『科学的心理学草案』に次のような形で現れる。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる

最晩年のフロイト文も付け加えておこう。

忘れられた経験を想起する vergessene Erlebnis zu erinnern こと、よりよく言えば、その経験を現実的なもににする real zu machenこと、忘れられたものをふたたび反復経験すること Wiederholung davon von neuem zu erleben…これは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma 、あるいは反復強迫 Wiederholungszwang の名の下に要約しうる。…そしてそれは不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge である。(フロイト『モーセと一神教』)

⋯⋯⋯⋯

ここで冒頭の文に戻ろう。《構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である》。

これは、トラウマの階層構造を語っている。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

簡潔に三層として記せば(実際はもっと重層でありうるが)次の通り。

 被  災
ーーーー
 いじめ
ーーーーー
原トラウマ

フロイトは次のように記している。

経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

すなわち、
現在の事故的トラウマ
ーーーーーーーーーー
過去の事故的トラウマ
ーーーーーーーーーー
    構造的トラウマ