2020年10月17日土曜日

音楽を家とするのはしあわせか

  


作曲家の生活 高橋悠治

雨の朝きみは武満徹を思い出している。

かれが亡くなって一月たった。

きみはかれのピアニストだった。

作曲の助手だったこともある。そこできみは

細かく書き込まれたスケッチから

映画のためのオーケストラ・スコアを作り、

楽器について、映画と音楽の関係についてまなんだ。

ながいあいだのように思っていたが、それは

ただ3年ほどの、しかし密度のある時間だった。

それからかれの友人となり、つぎに批判者となった。

そのことでかれはきずついた。

だが、きみとちがって、かれは

きみのことを悪くいうことはなかった。

きみは別な道を行った。

しばらく会うこともなかった。

何年もたって、ある町でかれの楽譜が売られていた。

崇拝者の列が、かれのサインを待っていた。

きみは、昔きみのために書かれた曲の楽譜を買って

列に加わった。

冗談のつもりだったが、あれは冗談だったのか。

そしてまた友人となり、十年がすぎた。


しばらくかれの姿を見なかった。

病気といううわさだった。

ひとに会わないようにしているのだと思って

たずねることもしなかったが、

きみは何にこだわっていたのか。

そのあいだに季節はめぐり、きみは

友人を二度うしなうことになった。


記憶はもろいものだ。

かれとはじめて話したのは嵐の夜だった。

台風で電車が止まり、古い旅館に泊まった。

やかましい雨の音のなかで、何を話したのか。

かれの娘が生まれた夜も、きみはかれの家に泊まっていた。

知らせを待ちながら、何を話したのか。

ことばは浮かんでこない。

ありありと感じられるのは、かれの声の響だけだ。

かれを思い出すとき、かれの音楽は響いてこない。


かれは作曲家だった。

それだけではない。かれは作曲家であろうとしていた。

かれはたしかに音楽を愛していた。

そのために生きていたと言えるほどだった。

若い時あこがれた音楽、

かれのグループがコンサートでとりあげたシェーンベルクや

メシアン、ラジオから流れてきたあの頃のアメリカの唄、

それらがかれの内部で響きやめたことがあっただろうか。

そのひたむきな愛は、かれをどこに連れていったのか。

心の内側で響きかわす鐘の響、はるかな歌。

それはだれの音楽だろう。

それがかれの音楽となって現われた時から、

かれはその音楽の内側にとじこもらなかっただろうか。

音楽を家とするのはしあわせか。


音楽はかれをひろい世界に連れ出した。

かれはたくさんの音楽家たちを友人にもった。

指揮者、ソリスト、オーケストラ、音楽出版社。

オーケストラをめぐる世界の音楽市場。

そこでは、音楽は交換される手形のようなもの、

かれの署名、かれの身分証明書ではなくて何だろう。


オーケストラは世俗権力とむすびついている。

東アジアでは二千五百年も前から宮廷の音楽だった。

それがヨーロッパに現われたのは、そんな昔のことではない。

いま国家があるからオーケストラがある。

国家が壊れれば、オーケストラも壊れる。

国境がなくなれば、オーケストラもいらない。

オーケストラ音楽を作曲するひとは、音楽を

じぶんのものにするだけではたりない。

国家に属さず、国家を背負わないで作品がうけいれられると

思うなら、やってみるがよい。


音は生まれ、音は消え去る。同じ音は二度と生まれない。

一つの音があり、別な音がある、それだけだ。

一つの音が次の音に導くこともない。

一つの音は生まれたその場所で消える。

次の音は次の場所で生まれ、そこで消える。

それらを連続したものと感じているのは、

創造の衝動、心の軌跡、

一つの音を創り、それを完結することなく放棄して、

次の音に向かう欲望のメカニズムではないだろうか。

だが、現実には一つの音さえ創ることはできない。

手があり、楽器があり、意図があり、うごきがある。

それらの組み合わせが瞬間ごとに明滅する。

そこにはだれの姿も見えない。

一つの運動がそれ自体をうごかしていく。


音楽の創造とは夢にすぎない。幻覚にすぎない。

音楽を創るのは、穴のあいた器で水を汲むようなものだ。

こぼれる砂にかたちをあたえ、自分のものにしようとしても、

にぎりしめる手にのこるのは、空白の時間でなくて何だろう。

つかまえることのできない音を追って、一つの作品を創り、

最後のページを書き終えても、音楽は完成されることはない。

創られた音楽はかれのものにはならない。

音楽はかれのなかにあるとも言えず、

音楽のなかにかれがいるとも言えない。

かれは音楽ではない。音楽はかれではない。

音楽がどこに存在するか言うことはできるだろうか。

そして、かれはどこにいるのか。


ほかの人びとにとっては、かれの音楽はかれのものであり、

かれの作品のなかにはかれがいる。

かれのなかには、まだ書かれていない音楽がある。

かれ自身もほとんどそれを信じている。

信じていなければ、作曲家の生活はない。

だが、創造の衝動はだまされない。

ほかの人びとがこの響にかれの名をきくのなら、

かれはそこに何をきけばよいのだろう。

内部に響く歌にかれの名をあたえようとしても、

作品によってそれに近づくことはできない。

たくみに張り巡らした網は、音楽をとらえない。

かれのものとしてのこるのは、創造という行為だけだ。

創造行為とは、音楽によって音楽から遠ざかることではない

と、どうして言えないだろうか。

みたされない思いが次の作品を創らせる。

じぶんの紡ぐ糸に包み込まれるクモのような

このとらわれを、ほかの人びとは成熟と呼ぶ。

かれ自身もほとんどそれを信じるだろう。


これが音楽への愛だ。これが作曲家の生活だ。

生活はやがて壊れていく。顔も声もうしなわれる。

思い出も消え、名も消える。

作品も永遠ではありえない。

だが、だれもいなくなり、なにもなくなっても、

創造の夢だけは、種子のように漂いながら、

それ自身を夢見つづけるだろう。

この夢がやすらぎを知ることはない。





職業としてのピアニスト

ピアノは生活の手段だった。〔・・・〕ピアニストとみなされると、人が聞きたがるものを弾くことになる。バッハを弾いているとそればかり求められるが、日本では数十年前のグレン・グー ルドの代用品にすぎないから、弾くだけむだと最近は思うようになった。〔・・・〕


確信をもっていつも同じ演奏をくりかえす演奏家がいる。この確信は現実の音を聞くことを妨げる障害になるのではないかと思うが、感性のにぶさと同時に芸の傲慢さをしめしているのだろう。演奏が商品でありスポーツ化している時代には、演奏家の生命は短い。市場に使い捨てられない ためには、いつも成長や拡大を求められているストレスがあるのかもしれない。(高橋悠治「ピアノを弾くこと」




職業としての詩人

俊太郎)僕は生活がかかってるからね(笑)。そこがほかの詩人との大きな違いでしょうね。

賢作)今はかかってないでしょう(笑)。

俊太郎)う ん、今 は違うよ。でも基本的に生活をかけて仕事をしてきたから、ずっと書き続けてきたってことはあると思います。もちろん詩を書く仕事だけじゃありませんけどね。 僕の同世代の詩人たちは、大学の先生とか定職を持っていた人も多かった。僕は書いて稼ぐしかなかったんです。(谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー、2013年)