2020年10月12日月曜日

職人芸術家芸能人知識人

 


中野重治は「芸術家の立場」というエッセイで注目すべきことをいっている。まず彼は芸術家と職人を対比する。この場合、「職人」という語は、中野がつけ加えていっているように、芸人や農民、あるいはすべての職業人をもふくんでいる。いわば、それは、どの「職」にも固有のスキルと、それに伴う責任感やプライドをもつ者のことである。

《職人は、ある枠のなかに安住し、あるいはこの枠を到着目標とする。彼らは枠をやぶろうとしないのみならず、そもそも枠に気づかない。それに対して、芸術家は、この枠を突破しようとする。しかし、その結果はわからない。《職人の場合、その努力は何かの結果を約束する。約束された結果への努力が職人の仕事になる。約束されていない結果への努力が芸術家の仕事になる。》(「芸術家の立場」)

中野のこの区別は、ある意味でロマン派以後の考えのようにみえる。しかし、実は彼はそれ以前の状態で考えている。たとえば、中野はこの「芸術家」と「職人」の関係を上下において見ていない。《職業としての一人の大工と、職業としての一人の建築芸術家があるわけではない。そういう上下はない》。しかし、職業としての上下はなくても、芸術家と職人の上下関係は本質的にある。《ある人は職業として芸術家となって行ってつまりは職人になる。あるひとは職業として職人になって行ってつまりは芸術家になる。識別に困難はあるが、実際にはそれがある》。たとえば、中野は、職人として始めて芸術家に至った例として、樋口一葉や二葉亭四迷をあげている。

いうまでもなく、一葉や四迷は芸術家という意識をもっていない。同じことが、イタリアのルネッサンスの芸術家についていえる。彼らは職人として始めて、その「特権的な才能」ゆえに、ロマン派以後なら芸術家と呼ばれるものになった。しかし、彼ら自身は芸術家とは考えていなかった。つまり、中野がここでいう芸術家とは、芸術家という観念が出現する以前の ”芸術家” である。ところで、中野は、ここで芸術家でもなく職人でもない芸能人というものをもちこむ。

《芸術家とならべて考える言葉に職人というのがある。たいていは、芸術家は職人よりも上のもの、職人は芸術家よりも下のものとなっている。芸術家とならべて考えるもう一つの言葉に芸能人というのがある。芸能人という言葉はあたらしい。それは、芸術家よりもあたらしく、ほんとうをいえば、言葉としてどの程度安定したものか、いったい安定するものかどうかさえすでにうたがわしい。しかし、とにかく、日本の現在でその言葉はあり、それは、なにかの程度で何かをいいあてている。そしてたいていは、芸術家は芸能人よりも上のもの、芸能人は芸術家よりも下のものとなっている。》(「芸術家の立場」)

芸能人という言葉は、事実この当時はまだ新しかったけれども、今日ではむしろ中野がいったとは違った意味で「安定」している。そもそも職人や芸人が消滅してしまったからだ。したがって、中野がいう「芸能人」は今日われわれがいう芸能人とは別であることに留意すべきである(むしろ「文化人」という語がそれに該当している)。ここで中野が意味するのは、芸術家でも職人でもないタイプ、職人に対しては芸術家といい、芸術家に対しては職人というタイプである。それは「枠」を自覚し越えるようなふりをするが、実際は職人と同じ枠のなかに安住しており、しかも職人のような責任をもたない。中野は、これを「きわめて厄介なえせ芸術家」と呼んでいる。なぜなら、彼らを芸術家の立場から批判しようとすれば、自分は職人であり大衆に向かっているのだというだろうし、職人の立場からみれば、彼らは自分は芸術家なのだというだろうから。中野はこういっている。

《そこへさらに例の芸能人が混じってくる、職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。》(「芸術家の立場」)

こうした「芸能人」のなかに、中野はむろん学者や知識人をいれている。中野がこの「芸能人」という言葉が「何かの程度で何かをいいあてている」と書いたとき、彼はたしかに何かをいいあてていたといってよい。というのは、まさにこの時期「大衆社会」という言葉があらわれ、且つその言葉が「いいあてている」ような現象が出現していたからだ。

中野がこれを書いた1960年以降、芸術家あるいは知識人は失墜した。かといって、職人あるいは大衆が自立したわけではない。そのかわり知識人でも大衆でもないような大衆があらわれた。それは中野がいう「芸能人」に対応しているといってよい。べつの言葉でいえば、ハイ・カルチャアでもなくロー・カルチャアでもない、サブ・カルチュアが中心になって行った。むろん、それがもっと顕著になるのは八〇年代である。この時期、中野のいう「芸能人」にあたるものは、ニューアカデミズムと呼ばれている。学者であり且つタレントである、というより、正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。

文学にかんしても同じことがいえる。もはや「純文学」などという者はいない。しかも、純文学を軽侮することがアイロニーとしてあった時代もとうに終っている。今や新人作家がその二冊目のあとがきにつぎのように書く始末なのだ。《良いもの、つまんないかもしれないものも、ちゃんと読んでくれる人がいて、ごまかしがきかないくらい丸ごと伝わってしまうことはプロの喜び、幸せ、大嬉しいことです。しっかり生きて、立派な職人になりたい。いい仕事をしよう》(『うたかた/サンクチュアリ』)。

「立派な職人になる」と言うのは、一昔前なら、「大問題」を相手にする戦後派的な作家に対して身構えた作家の反語的な台詞としてありえただろう。それは、実際はひそかに “芸術家” を意味していたのである。そういうアイロニーはまだ村上春樹まではある。しかし、吉本ばななは、これを自信満々でいっているのではないかと思われる。それは文字どおり芸能人のファン・クラブ会誌にふさわしい言葉である。そもそも「職人」や「芸人」がどこにもいなくなった時代に、こういう言葉が吐かれていることは、知識人や芸術家が死語にひとしいことを端的に示している。1960年に中野重治がいった事態はその極限に達したかのようにみえる。

しかし、中野のいう「芸能人」は、べつに1950年代後半以降の新しい現象ではない。むしろ、芸術家や知識人は、それがあらわれたときすでに中野のいう「芸能人」のような存在だったというべきなのである。べつに芸術を実現しているわけでもないのに、「芸術家」と名乗る人たち。「知識」を追求しているわけでもなく、そのことを指摘されれば、実践が大切であり大衆に向わねばならないという人たち。そして、大衆から孤立しているが、その理由が大衆の支持を最も必要とするからにすぎないような人たち。こういう種族がもともと知識人や芸術家なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」初出1990年『終焉をめぐって』所収)