◾️人類最古の職業ーー王・売春婦・精神科医 |
古代都市の成立は、技術史家ルイス・マンフォードによれば、すでに人力による巨大機械の成立であり、今日まで連続する事態であるという。逆に見みれば、古代都市の成立あるいは一般に civilisation とは、人類文化の人間個体への一身具現性の急激な低下である。医師はより古い層より出て、この一身具現性を少なくとも最近まで残していた。特に精神科医は、その意味でも王や売春婦とともに"人類最古の職業"といいうるであろう。医療が"技術"といら言葉に尽しえないものを持ち、このことばに感覚的にもなじみえないのはそのためであろう。売春婦の”技術" がきわめて一身具現的であるのにやや劣るとしても(筆者は戯れに言うのではない。下位文化としての"治療文化" 全体を問題にしているのだ、古代中東の神殿売春を特筆するわけではないが)。(中井久夫「西洋精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年 |
◾️精神科医と売春婦 |
私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。 そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。 患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。 精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。 実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。 |
職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただの promiscuous なひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。) しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。 以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』1990年) |
◼️マッサージ師、ホステス、プロスティテュートというカウンセラー |
人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。 通常の友人家族による精神衛生の維持に失敗したと感じた個人は、隣人にたよる。小コミュニティ治療文化の開幕である。(米国には)さまざなな公的私的クラブがある。その機能はわが国の学生小集団やヨットクラブを例として述べたとおりである。 |
もうすこし専門化された精神衛生維持資源もある。マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化は無視できない広がりをもっている。古代ギリシャの昔のように、今日でも「体操教師」(ジョギング、テニス、マッサージ)、料理人(「自然食など」)、「断食」「占い師」が精神科的治療文化の相当部分をになっている。ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュートも、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。カウンセリング行動はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』1990年) |
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◾️呪術師・王・医師 |
呪術を司る者たちが、その法外な主張を信じて疑わない社会において重要で支配的な地位に立つのは必然であり、呪術師たちのうちのある者が、民衆から受ける信頼と民衆を圧する威厳の力によって、盲信的な大衆に対して至上権を振うようになるとしても不思議ではない。しばしば呪術師が酋長や王にまで成長発展したことは明らかな事実である。 ・・・〔しかし〕公的呪術師の占める地位は全く不安定な(very precarius)ものである。彼が雨を降らせたり、太陽を照らせたり、土地の実りをもたらす力をもっていると信じこんでいる人々は、当然のことながら旱魃や飢饉を彼の無責任な怠慢あるいは故意の計略であるか のように考え、その結果として彼を罰することになるからである。こうしてアフリカでは,雨を降らすことに失敗した酋長はしばしば追放されたり殺されたりした。・・・世界の他の多くの地方でも,王は民衆の福祉のために自然の運行を調節することを期待され,もしその企てに失敗する時は罰せられた。(フレーザー『金枝篇』) |
スワビアのいくつかの地域においては、懺悔の火曜日に鉄ひげ博士が病気の人から血を取るふりをするが、その人はそこで死者のように地に倒れる。しかし最後にはその医者が、彼に管で空気を吹き入れることによって彼を回復させる。医者によって生き返らせられるのである。(フレーザー『金枝篇』) |
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……「王と雨司と医師とが同じ時代があった」と人類学者フレーザーの言にあった。現代でも、ある程度、この境界人性は生きている。呼ばれた家の玄関で、家族が出迎えるのを待たずに、返事があっただけで、時にはなくとも、さらりと敷居をまたいで上がりこめるのは、僧侶と医師である。往診の時にはまったく自然にさっと靴を脱いで廊下を歩いている自分に驚くことがある。(中井久夫「家族の深淵」1991年) |
精神科治療者の先祖は、手軽な治療師ではない。シャーマンなど、重い病気にいのちがけで立ち向かった古代の治療者である。 しかし私たちは、一部の民間治療者のように、自分だけの特別の治療的才能を誇る者ではない。 私たちを内面的にも外面的にも守ってくれるのは、無名性である。 本当の名医は名医と思っていないで、日々の糧のために働いていると思っているはずで ある。 しかし、ベテランでもライバル意識や権力欲が頭をもたげると、とんでもない道に迷い込む ことがある。これらは隠れていた劣等感のあらわれである。特別の治療の才を誇る者がもっともやっかみの強い人であるのは、民間治療者だけではない。 (中井久夫『看護のための精神医学』 2004年) |
一般に治療文化において、患者とその家族は、治ってきたということ以外というか以上というか、治療費と家族の分担した治療努力とに対する反対給付をもとめるものである。それは、理由の解明あるいは治療の証拠である。歯科医は抜歯した歯を患者にみせる。外科医も切断した虫垂をみせる。精神医学的治療文化においては、最初期から「見せる物」に腐心してきた。シャーマン文化においては、ボアスの報告するカセリドというシャーマンは血まみれのミミズを口からだして、これを病いの原因として提示することによって乗り切っている。むろん、ミミズを口中にふくんだ上で口腔粘膜のどこかを自分で噛み切ったわけだ。精神医学という、治療にかんしてもっともあいまいな医術において「洞察」という治癒の証拠を発見したことは、力動精神医学の重要なポイントであった。すくなくとも「理由」を重視するヨーロッパ文化の下位文化としての精神医学的治療文化には要石である。それだけでなく患者と治療者との相互作用性を回復した。これなくしては、いかに「人道的」な精神病院も患者の排除というそしりを完全には免れることはできないだろう。治療文化はシャーマニズムのごとく重要な成員として患者をふくむのであって、そうでなければ、治療文化として大いに欠けるところがある。(中井久夫『治療文化論』1990年) |