彼のスタジオ擁護論は、同一楽曲をコンサート録音で聴く人間を納得させるにはいたらない。 一九五九年八月二十五日ザルツブルクでの〈ゴールドベルク変奏曲〉、一九五七年五月十二日モスクワで演奏されたベルクのピアノ・ソナタ、あるいは一九五八年六月十日ストックホルムで演奏された同じ曲目、ストックホルムでのベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品110などはスタジオ録音によるそれらの姉妹よりもはるかに美しい。 スタジオ録音が絶対的にすぐれているとするグールドの主張は間違っていた。ストックホルムでのピアノ・ソナタ作品110の実況録音には厚みがある。時間に対してどこか緊張したところ、なにか奪われたもの、最後のシカゴ・コンサートで同じ曲目の演奏がどのようなものだったかを想像させるに足るなにかが存在する。時間の切迫 Zeitnot が動作を鋭くし思考の速度をはやめるチェスの勝負のように、ある種の絶対的必然性があるのだ。スタジオの場合、時間はじゅうぶんにある。あらゆる方向で時間をたどりなおすことができる。自由だともいえるが、それなりの代価を払わねばならない。 同じようにグールドはつねに同一例をもちいてコンサート演奏が外面的なものに終わる点を批判する。バッハの〈パルティータ〉第五番の例であり、この曲は一九五七年にソ連各地で彼が演奏し、その年の夏の終りに帰国して録音されたものだ。彼の主張によれば、〈パルティータ〉の録音のなかでこの曲が一番ひどい出来であり、「ことさらピアニスティックで」あり、「バッハではなくリスト編曲のバッハ」だというのだ。 |
欠点はまさにコンサートが演奏におよぼす変形作用によるものだった。 カデンツァはあまりにも奔放であり、元の楽譜にフレーズとパラグラフの切れ目をたどれないほどであり、強弱の急速な変化、クレッシェンドとデクレッシェンドが演奏に「侵入」している。というのも「チャイコフスキー・ホール二階のバルコニー席まで音楽を届かせる」必要があったからだ。たしかに演奏は場所によって変化するわけであり、たとえばホロヴィッツは彼のピアノのテクニックの大部分(ことにペダルの使用法)は大ホールでの演奏の必要から生み出されたものだとみずから認めている。 しかしながらグールドがマイクに託したこの二種類の演奏を数小節ばかり聞きくらべてみると呆然とせざるをえない。たしかに「冷たい」ヴァージョンでは構造がよりはっきりと浮き彫りにされている。だが、「実況録音」ヴァージョンでは息づかい、時間の呼び声、不可抗力などによって独特の緊迫した感じが生まれている。 |
(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』第6変奏) |
Glenn Gould: Beethoven Op.110 in Stockholm 1958 | |
Glenn Gould plays Beethoven Op.110 studio recording | |
Goldberg Variations: Var.18 Canon on a Sixth Comparison Glenn Gould |
ま、でもすべてではないよ
イギリス組曲1番のブーレの録音風景を見て感心したことがあるがね、 | |
English Suite No.1 In A BWV 806 | |