2023年1月31日火曜日

さんざしの匂と女の匂

 


◼️私の初恋のさんざしのしげみの回想

突然、幼時のある甘美な回想に胸を打たれて、私は小さな窪道のなかに立ちどまった[Tout d'un coup dans le petit chemin creux, je m'arrêtai touché au cœur par un doux souvenir d'enfance  ]、私は気づいたのであった、ふちの切れこんだ、色つやの美しい葉の、しげりあって、道ばたにのびでているのが、さんざしのしげみ[un buisson d'aubépines]だということに、それは春のおわりもとっくに過ぎて、ああ、その花も散ってしまったさんざしのしげみなのであった。私のまわりには、昔のマリアの月や、日曜日の午後や、忘れられたいろいろな信仰や過失などの雰囲気がただよってきた。私はその雰囲気をとらえたかった。私は一瞬のあいだ立ちどまった、するとアンドレは、私の心をやさしく占って、私がその灌木の葉とひととき言葉を交すのを、そっと見すごしてくれた。私は花たちの消息を、それらの葉にたずねた、そそっかしくて、おしゃれで、信心深い、陽気な乙女たちにも似た、あのさんざしの花たちの消息を。

「あの娘さんたちはもうとっくに行ってしまいましたよ」とそれらの葉は私にいうのであった。おそらく、それらの葉は、この私が、あの娘さんたちの親友と称している男にしては、彼女らの習慣を知っているようすが見えない、と考えたにちがいない。親友は親友だが、こちらは、約束をしておきながら、もう何年も再会していなかったのだ。それにしても、ジルベルトが少女への私の初恋であったように、さんざしは花への私の初恋であったのだ[Et pourtant, comme Gilberte avait été mon premier amour pour une jeune fille, elles avaient été mon premier amour pour une fleur]。「ああ、そうだったね、六月の中ごろにはもう行ってしまうんだね」と私は答えた、「だが、あの娘さんたちがここに住んでいたという場所を見るだけでも、ぼくにはとてもうれしいんだ。ぼくが病気だったとき、ぼくの母にみちびかれて、コンプレーのぼくの部屋に会いにきてくれたんだ。マリアの月には、土曜の夕方、ぼくらはいつも顔をあわせたっけ。こんなところからでも娘さんたちは出かけることができるんだね?」ー「行けますよ! もちろんです! それに、ここに一番近い教区のサン = ドニ = デュ = デゼールの教会でも、あの娘さんたちをとてもほしがっているんですよ。」ーー「ところで、いま会おうと思ったら?」ーー「それはどうも! むりでしょう、来年の五月まではね。」ーー「では、そのときはたしかにここにいるんだね?」ーーー「毎年きまったように。」ーー「ただ、ぼくにこの場所がうまく見つかるかどうかわからないんだが。」ーー「わかりますとも! あの娘さんたちはとても陽気で、讃美歌をうたうときしか笑うことをやめません、ですから、見そこなうことはありませんよ、小道のはずれからでもその匂でわかりますよ。」(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)





◼️木の葉の匂の記憶

その道は、フランスでよく出会うこの種の多くの道とおなじように、かなり急な坂をのぼると、こんどはだらだらと長いくだり坂になっていた。 当時は、べつにその道に大した魅力を見出さず、ただ帰る満足感にひたっていた。ところがそののちこの道は、私にとって数々の歓喜の原因となり、私の記憶に一つの導火線として残ったのであり[Mais elle devint pour moi dans la suite une cause de joies en restant dans ma mémoire comme une amorce ]、この導火線のおかげで、後年、散歩や旅行の途中で通る類似の道は、どれもみんな切れないですぐにつながり、どの道も私の心と直接に通じあうことができるようになるだろう。なぜなら、ヴィルパリジ夫人といっしょに駆けまわった道のつづきであるというように見える後年のそうした道の一つに、馬車または自動車がさしかかるとき、すぐに私の現在の意識は、もっとも近い過去にささえられるかのように(その中間の年月はすべて抹殺されて)、直接バルベック近郷の散歩の印象に[ce à quoi ma conscience actuelle se trouverait immédiatement appuyée comme à mon passé le plus récent, ce serait (toutes les années intermédiaires se trouvant abolies) les impressions ]、ーーあの午後のおわりの、バルベック近郷の散歩で、木の葉がよく匂い、タもやが立ちはじめて、近くの村のかなたに、あたかもその夕方までには到着できそうもない何か地つづきの違い森の国とでもいうように、木の間越しに夕日の沈むのが見られたとき、私が抱いたあの印象にささえられるようになるからである。


そうした印象は、他の地方の、類似の路上で、後年私が感じる印象につながって、その二つの印象に共通の感覚である、自由な呼吸、好奇心、ものぐさ、食欲、陽気、などといった付随的なあらゆる感覚にとりまかれながら、他のものをすべて排除して、ぐんぐん強くなり、一種特別の型をもった、ほとんど一つの生活圏をそなえた、堅牢な快楽となるのであって、そんな圏内にとびこむ機会はきわめてまれでしかないとはいえ、そこにあっては、つぎつぎと目ざめる思出は、肉体的感覚によって実質的に知覚される実在の領分へ、ふだんただ喚起され夢想されるだけでとらえられない実在のかなりの部分をくりいれ、そのようにして、私がふと通りかかったこれらの土地のなかで、審美的感情などよりるはるかに多く、今後永久にここで暮らしたいという一時的なしかし熱烈な欲望を、私にそそるのであった。

そののち、ただ木の葉の匂を感じただけで、馬車の腰掛にすわってヴィルパリジ夫人と向かいあっていたことや、リュクサンブール大公夫人とすれちがって、大公夫人がその馬車からヴィルパリジ夫人に挨拶を送ったことや、グランド= ホテルに夕食に帰ったことなどが、現在も未来もわれわれにもたらしてはくれない、生涯に一度しか味わえない、言葉を絶したあの幸福の一つとして、何度私に立ちあらわれるようになった ことだろう!

Que de fois, pour avoir simplement senti une odeur de feuillée, être assis sur un strapontin en face de Mme de Villeparisis, croiser la princesse de Luxembourg qui lui envoyait des bonjours de sa voiture, rentrer dîner au Grand-Hôtel, ne m'est-il pas apparu comme un de ces bonheurs ineffables que ni le présent ni l'avenir ne peuvent nous rendre et qu'on ne goûte qu'une fois dans la vie. (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)




◼️隣のテーブルにいる女の匂

隣のテーブルにいる女の匂[l'odeur de la femme qui était à la table voisine]…それらの顔は、私にとって、節操のかたいこちこちの女だとわかっているような女の顔よりもばるかに好ましいのであって、後者に見るような、平板で深みのない、うすっぺらな一枚張のようなしろものとは比較にならないように思われた[leur visage était pour moi bien plus que celui des femmes que j'aurais su vertueuses et ne me semblait pas comme le leur, plat, sans dessous, composé d'une pièce unique et sans épaisseur]。〔・・・〕


それらの顔は、ひらかれない扉であった[ces visages restaient fermés]。しかし、それらの顔が、ある価値をもったものに見えてくるためには、それらの扉がやがてひられるであろうことを知るだけで十分なのであって[ c'était déjà assez de savoir qu'ils s'ouvraient] 、もしもそれらの顔が、愛の思出を金のふたにおさめたあのロケットではなくて、単なる美しいメダルにすぎなかったならば [s'ils n'avaient été que de belles médailles, au lieu de médaillons sous lesquels se cachaient des souvenirs d'amour]、私はそれらに価値を見出すことはなかっであろう。 (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)




◼️雌蕊の神秘な応答

こちらの方向にやってくる女の子が、見えたなと思う間もあるかなしである、にもかかわらずーー人間の美は、事物のそれとはちがって、意識と意志とをもった、独自な生物の美である、という感覚をわれわれはもっているためにーー彼女の個性、つまり漠とした魂、私には未知の意志である彼女の個性が、ぼんやりとさまよわせている彼女のまなざしの奥深くに、ひどく縮小されながらも完全な小映像として、宿っているのが見わけられると、すぐに、準備がととのった花粉への、雌蓋の神秘な応答[mystérieuse réplique des pollens tout préparés pour les pistils]のように、私は、その娘の思念に私という人間を意識させないでは彼女を通すまい、誰か他の男のところへ行こうとする彼女の望をさまたげないでは通すまい、彼女の夢想のなかに私がはいってそこに落ちつき、彼女の心をつかんでしまうまでは通すまいと思う欲望の、おなじように漠とした、微小な胚珠が、私のなかにきざすのを感じるのであった[je sentais saillir en moi l'embryon aussi vague]。しかしそのあいだに馬車は遠ざかり、美しい娘はもう私たちの背後に残され、彼女は私について、一個の人間を構成するなんの概念ももたないから、私を見たか見ないで過ぎた彼女の目は、すでに私を忘れさっていた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)




◼️蜘蛛の糸のように繊細な雄蕊の束

私がさんざしを好きになりだしたのは、いま思いだすと、マリアの月の祭式に出てからである。そのさんざしは、この神聖な、しかしわれわれの誰もがはいる権利をもった教会で、単にその堂内にはいっているというだけではなく、祭壇そのものの上に置かれているのであって、神秘な儀式と切っても切れない関係でその儀式の執行に加わり、祭式のためにととのえられた材料として、ろうそくの灯明や聖容器にかこまれたなかに、束の一つ一つをたがいにしばりあわせたその枝々の筏を平につらねて流していたが、その枝々は、葉むらのふちかざりでさらにきれいに装われ、その葉むらのおもてには、目もさめるばかりの白さにかがやくつぼみの小束が、まるで花嫁の引裾の上さながらに、惜しげもなくばらまかれていた。しかし私は、そんな枝々を横目でちらちらと見る勇気しかなかったが、それらの豪華な材料が生きたものであることを感じるとともに、またそれらの葉に深い切れこみをつけ、純白のつぼみという最高のかざりをつけくわえて、この装飾に民衆のよろこびと神秘な儀式の厳粛さとをかねそなえさせたのは、まったく自然そのものであることを感じるのであった。枝々の束の上のほうには、無頓着な風情であちらこちらにさんざしの花冠がひらいていて、それらの花冠は、ふわりとかかっている蜘蛛の糸のように繊細な雄蕊の束、花冠を靄のようにつつむ雄蕋の束を、女が化粧の仕上につけるぼっとして目立たない装身具のように、まったく無造作につけていたので、それらの花冠がひらくときの動作を自分の奥深くで追い 、それをまねようと試みながら、私はその動作を、あたかも何かに気をとられていた活発な色白の乙女が、媚をふくんだまなざし、ほそめた瞳で、そそっかしくぱっと顔をふりむける、そんなしぐさであるかのように想像するのであった[Plus haut s'ouvraient leurs corolles çà et là avec une grâce insouciante, retenant si négligemment comme un dernier et vaporeux atour le bouquet d'étamines, fines comme des fils de la Vierge, qui les embrumait tout entières, qu'en suivant, qu'en essayant de mimer au fond de moi le geste de leur efflorescence, je l'imaginais comme si ç'avait été le mouvement de tête étourdi et rapide, au regard coquet, aux pupilles diminuées, d'une blanche jeune fille, distraite et vive]。(プルースト「スワン家のほうへ」)





◼️さんざしの間歇的な匂・雄蕊の昆虫の春の毒液

教会を去ろうとして、祭壇のまえにひざまずいた私は、立ちあがる拍子に、ふとアーモンドのようなむっとするあまい匂がさんざしからもれてくるのを感じた、そしてそのとき、この花の表面にひときわ目立つブロンドの小さな点々があることに気づき、あたかも、アーモンド・ケーキのこがし焼の下に、フランジパン・クリームの味がかくされ、ヴァントゥイユ嬢のそばかすの下に、彼女の頬の味がかくされているように、このブロンドの小さな点々の下に、この花の匂がかくされているにちがいないと私は想像した。さんざしの不動の沈黙にもかかわらず、この間歇的な匂[intermittente ardeur]は、さんざしの強烈な生命のささやきのようで、祭壇はそんな生命に満たされて、元気な触角をもった虫たちの訪れを受ける田園の生垣のように震動していたが、ほとんど赤茶色に近い雄蕊のいくつかの点々を見ていると、誰にもそんな元気な触角が思いうかぶのであって、それらの雄蕊は、きょうは花に変身しているが、元は昆虫で、その昆虫の春の毒液、はげしく刺す力を、まだ残しているのではないかと思われるのであった。

Quand, au moment de quitter l'église, je m'agenouillai devant l'autel, je sentis tout d'un coup, en me relevant, s'échapper des aubépines une odeur amère et douce d'amandes, et je remarquai alors sur les fleurs de petites places plus blondes, sous lesquelles je me figurai que devait être cachée cette odeur comme sous les parties gratinées le goût d'une frangipane, ou sous leurs taches de rousseur celui des joues de Mlle Vinteuil. Malgré la silencieuse immobilité des aubépines, cette intermittente ardeur était comme le murmure de leur vie intense dont l'autel vibrait ainsi qu'une haie agreste visitée par de vivantes antennes, auxquelles on pensait en voyant certaines étamines presque rousses qui semblaient avoir gardé la virulence printanière, le pouvoir irritant, d'insectes aujourd'hui métamorphosés en fleurs. 

(プルースト「スワン家のほう」)





◼️さんざしの小道でのジルベルトの軽蔑のまなざし

私はその小道がさんざしの花の大群で一面にうなりをあげながら匂っているのを見出した[Je le trouvai tout bourdonnant de l'odeur des aubépines]。生垣は、一つづきの小祭壇の形をなしてつらなり、それらの小祭壇は、仮祭壇を思わせるばらばらにつみかさねられたさんざしの花束に被われて、その下にかくれていた、太陽はそうした花の下にさしこんで、あたかもステーンド・グラスの窓を通ってきたかのように、地上に光の碁盤格子を描いていた、さんざしの匂は、まるで私が聖母の祭壇のまえにいるかと思われるほどに、ねっとりと、かぎられた範囲にとどまっていて、花はというと、これまた装いを凝らし、それぞれ心も空のようすで、きらめく雄蓋の束をにぎっていたが、その雄はフランボワイヤン式の、ほそい、放射状の繊維模様で、たとえば教会の内陣桟敷の欄干やステーンド・グラスの仕切框の透かし細工になり、いちごの花の白い肌となってひらいたあの繊維模様にそっくりなのであった。それにくらべると、野ばらの花は 何週間かあとに、かすかな風にもはだける無地のシルクの赤いブラウスで、日光の直射のなかに、このおなじ田舎道をのぼってゆくあの野ばらの花は――なんと素朴で、農家の娘じみていることだろう。


しかし、私はそんなさんざしのまえで、目には見えないがそこに固定しているその匂を吸って、それを私の思考のまえにもってゆこうとじっと立ちつくしていたにもかかわらず、思考はその匂をどうあつかったらいいかを知らず、私はいたずらにその匂を失ったり見出したりするばかりで、さんざしが若々しい歓喜にあふれながら、楽器のある種の音程のように思いがけない間を置いて、ここかしこにその花をまきちらしている、そんなリズムに一体化しようとする私の努力はむだであった、しかもさんざしの花は、おなじ魅力を、つきることなくたっぷりと、無限に私にさしだしながら、連続して百度演奏してもそれ以上深くその秘密に近づくことができないメロディーのつながりのように、その魅力をそれ以上に深く私にきわめさせてくれないのであった。 私はひとときさんざしの花に背を向けた、やがてもっと新鮮な力でその花に近づくために。〔・・・〕


ついで私はさんざしのまえにもどってきた、ひととき目をはなしているともっとよく鑑賞できるような気がしてふたたび名画のまえにもどるように、しかし私は、さんざしだけしか見まいとして、両手でかこいをつくってもむだであった、さんざしが私のなかに呼びさました感情は、やはりどこまでもあいまいで、漠然としていて、私から離れて花にくっつこうとする感情の努力は空しかった。さんざしは、私をたすけてこの感情をあきらかにしてはくれなかったし、私もほかの花にたのんで満足をえるわけには行かなかった。〔・・・〕


突然私は立ちどまった、もう動けなかった、あたかもある視像が、ただわれわれのまなざしに呼びかけるばかりでなく、もっと深い知覚を要求し、われわれの全存在を手中におさめてしまうときのように。赤茶けたブロンドの女の子が一人散歩がえりのような恰好で、園芸用のシャベルを手にし、ばら色のそばかすがちらばった顔をあげて、私たちを見つめているのであった。彼女の黒い目はかがやいていた、そして、そのときの一種の強烈な印象を、個々の客観的な諸要素に還元することは、当時はもちろんできるはずはなく、それ以後も会得するにいたらなかったし、また目の色の観念を切りはなすだけの、いわゆる「観察の精神」も十分ではなかったので、そののち長いあいだ、彼女を思いうかべたたびに、その目の光の回想が、彼女はブロンドなのだから、目はあざやかな空色だ、というふうにただちに私の頭に浮かんできたのであって、したがって、おそらく、もし彼女があれほど黒い目をしていなかったらーーその黒い目がじつははじめて彼女を見る者を強く打ったのだがーー私は彼女のなかで、とくにその青い目に、あんなことになるほど恋いこがれはしなかったであろう。


私は彼女を見つめていた、その私のまなざしは、はじめは、単に目を代弁しているというだけではなく、その窓から不安で石と化したすべての感覚が身をのりだしているといったまなざしであり、それが見つめる相手の肉体とともにその相手の魂をも触知し、つかまえ、連れさろうとするまなざしであった、ついで、私のまなざしは、いまにも祖父と父がこの少女に気がつき、自分たちのすこし先を走ってゆくように言いつけて私をこの場から離れさせるのではないか、とびくびくしたために、知らず知らずに哀願するような第二のまなざしとなり、このまなざしは、むりやりに彼女の注意を私に向けさせ、彼女を私の知りあいにならせようとしていた彼女は私の祖父や父のいることをたしかめるために、瞳をまえや横に投げた、そしてそのことから彼女にもたらされたのは、おそらく、私たちにたいする、なんだ、くだらない、という印象であっただろう、なぜなら彼女は顔をそむけ、無関心な、ばかにしたようなようすで、自分の顔を祖父と父の視野にはいらせないために、脇に身をひいたからだ、そして、一方祖父と父があゆみをつづけ、彼女には気づかずに私を追いこしていったあいだに、彼女は目のとどくかぎり私の方向に視線を走らせた、といっても、とくに意のある表情ではなく、私を見ているようすをしないで、ただじっと一方を見つめ、私にさずけられたよいしつけについての観念からすれば、はなはだしい軽蔑のしるしとしか解釈できないような、えたいのしれない微笑を浮かべていた、そして同時に、彼女の手は、無作法に宙にふられていたが、公衆の場で誰か知らない人に向かってそんなしぐさがされたときは、私が自分のなかにもっていた礼儀作法の小辞典では、ただ一つの意味、無礼な意図という意味しかあたえられなかったのである。


「さあ、ジルベルト、いらっしゃい、何をしているの」と、かん高い、威圧的な声で、私が見たことのなかった白い服の婦人が呼びつけた、そしてその婦人からすこし間隔を置いたところに、私の知らない一人の男の人が、デニムの服を着て、顔からとびだしそうな目をじっと私の上にとめていた、すると少女は、急に微笑をひっこめ、シャベルをにぎり、私のほうはふりむかずに、従順な、そとからはいりこめない、ずるそうなようすをして、遠ざかった。(プルースト「スワン家のほうへ」)




◼️自然の魅力と女の魅力

ときどき、私のひとりあるきのそんな興奮に、私がそれとの区別をはっきりさせることができなかったもう一つの興奮が加わったが、このほうは、私が腕にだきしめることができるような農家の娘が私のまえにあらわれるのを見たいという欲望によってひきおこされる興奮であった。そのような欲望は、種々さまざまな思考のさなかに、突然生まれ、しかも、それを正確にその原因にむすびつける余裕が私にはなかったものなのであったが、その欲望に伴う快楽は、さまざまな思考が私にあたえる快楽よりも一段とすぐれたものとしか思われなかった。そのような新しい感動から、私は、そのとき私の精神のなかにはいってくる周囲のすべてのものに、すなわちスレート屋根のばら色の反映、雑草、長らく行きたいと思っていたルーサンヴィルの村、 その森の木々、その教会の鐘塔に、一段と多くの価値をもたせたのであり、そのような感動をさそうのは周囲のそれらであることを私が信じていたからこそ、その感動は周囲のそれらをひたすら私の欲望にふさわしいものにするのであった、そしてまたその感動は、ある力強い、未知の、順風となって、私の帆をふくらませながら、周囲のそれらのほうに向かって一刻も早く私をはこぼうとしか考えていないように思われるのであった。しかし女の出現をねがうそんな欲望が、私にとって、周囲の自然の魅力にさらに何か興奮的なものをつけくわえたように思われたとすれば、その反面で、自然の魅力は、せまくなりすぎるおそれがあった女の魅力の領域をひろげるのであった[Mais si ce désir qu'une femme apparût ajoutait pour moi aux charmes de la nature quelque chose de plus exaltant, les charmes de la nature, en retour, élargissaient ce que celui de la femme aurait eu de trop restreint]。 (プルースト「スワン家のほうへ」)



◼️農家の娘とかたつむりが通った跡

木々の美はさらにその女の美であり、その女のくちづけは、私が見わたしていた地平の風景の、ルーサンヴィルの村の、その年に私が読んでいた本の、それぞれの魂を私につたえてくれるように思われた、そして私の想像力は、私の肉感性に接触して力をとりもどし、肉感性は想像力の全領域にひろがり、私の欲望にはもはや限界がなかった。つまり――われわれがそのように自然のただなかで夢想するときに、習慣の作用は停止され、事物についてのわれわれの抽象的な概念は脇におしやられるので、われわれは自分が所在する場所の独自性、その場所の個性的な生命を、深い信仰のように信じるものなのだが、そのようなときによく起こるように ーー私の欲望が出現を呼びかけている通りがかりの女は、女性というあの普遍的なタイプの任意の一例ではなくて、この土壌から生まれた必然的な、自然な存在であると私に思われたのであった。なぜなら、そのとき私には、私以外のすべてのもの、大地もそこに生きている存在も、出来合の人間の目に映る以上に、貴重なもの、重要なもの、現実的な生存権をもって生まれたものに見えたからであった。だから、大地とそこに生きている存在とを、私は切りはなしはしなかった。メゼグリーズやバルバックそのものにたいして欲望をもったように、私はメゼグリーズやルーサンヴィルの農家の娘に、またはバルベックの漁師の娘に、それぞれ欲望をもった。しかし彼女らが私にあたえることのできる快楽の条件を、私が好き勝手に変えたとしたら、そんな快楽は私にはほんとうらしくなく見えたであろうし、私もそんな快楽をもはや信じなかったであろう。 バルベックの漁師の娘またはメゼグリーズの農家の娘とパリで知りあいになることは、浜辺で私が見かけたこともなかった貝殻、森で私が見つけたこともなかった羊歯を人からもらうにもひとしかったであろうし、女が私にあたえるであろう快楽から、私の想像力が多くの快楽の中心に女をつつんでいたそんな快楽のすべてを、とりのぞいてしまうことになったであろう。しかしそんなふうに、接吻すべき農家の娘もいなくてルーサンヴィルの森をさまよい歩くことは、この森のかくれた宝、この森の秘められた美を知らないということであった。 私の目に、木の葉の影をまだらに浴びた姿でしか思いうかばなかったその娘は、それ自身、私にとって、いわば特定の地方に自生する植物の一種類であった、そしてその種類は、おなじ植物の他の種類より丈が高いだけでなく、その構造も、この地方の風致の本質に一段と深くせまることを可能にするものなのである。そういうことが私にそれだけたやすく信じられたというのも(そして、私をこの地方の風致に到達させるであろう彼女の愛撫もまた一種独特のものであり、彼女よりほかの女ではその独特の快楽を知ることができなかったであろう、ということが私にたやすく信じられたというのも)、私は年少であったからで、さまざまの女たちの肉体を占有して快楽を味わい、そんな快楽を抽象し、また普遍的な概念に還元し、それからはその概念にしたがって、女たちをつねに同一の快楽をもたらすとりかえのできる道具だと考えるようになる、そんな年齢に達するには私はまだまだ先が長かったのであった。私の場合のような快楽は、一人の女に近づきながら人がねらう目的のように、または予測で感じられる不安の原因のように、精神のなかに孤立し、それだけ切りはなされ、形が定められて存在するものではない。 やがて自分がもつ快楽としてそれを考えるのではなく、むしろ女自身がもっている魅力のことを快楽と呼ぶのである、 なぜならそんなとき人は自分自身のことは考えず、自分自身からそとへ出ようとしか考えていないからだ。ひそかに期待されている、内在的な、かくされた快楽、じつはそれが、完全な形になっておのずからあらわれようとする瞬間に、われわれのかたわらにいる女のやさしいまなざしやくちづけによってそそられる他のさまざまの快楽を頂点に達せしめるのであって、そのためにその内在的な快楽は、とりわけわれわれ自身に、一種の熱狂ーー惜しみもなく相手の女があたえる恩恵や幸福からくみとられるわれわれへの彼女の心づくしや胸をうつ偏愛に感謝しようとするわれわれの一種の熱狂――としか思われないのである。


ああ、私はルーサンヴィルの楼閣に哀願したけれども空しかったーーコンブレーの私たちの家のてっぺんの、アイリスの香がただよう便所にはいって、半びらきの窓ガラスのまんなかにその尖端しか見えないルーサンヴィルの楼閣に向って、その村の女の子を私のそばによこしてほしい、とたのんだけれども空しかったーーそしてそこにそうしているあいだに、あたかも何か探検をくわだてている旅行者か、自殺しようとする絶望者のような、悲壮なためらいで、気が遠くなりながら、私は自分自身のなかに、ある未知の道、死の道とも思われた一つの道をかきわけていた、そしてそのあげくは、私のところまで枝をたわめている野性の黒すぐりの葉に、あたかもかたつむりが通った跡のように見える、自然に出たものの跡が、一筋つくのであった。je me frayais en moi-même une route inconnue et que je croyais mortelle, jusqu'au moment où une trace naturelle comme celle d'un colimaçon s'ajoutait aux feuilles du cassis sauvage qui se penchaient jusqu'à moi.


いまは私の懇願も空しかった。私は野のひろがりを視野におさめ、そこから女を一人ひっぱってこようと目路のかぎりをあさりつくしたけれども空しかった。私はサン=タンドレ=デ=シャンの正面玄関まで行くこともできた、しかし、祖父と連れだっていて私が相手と言葉を交すことが不可能な場合には、そこで出会いそこねることはなかっただろうと思われる農家の娘も、私がひとりのときはそこにいたためしがなかった。私は遠くの一本の木の幹をいつまでも見つめていた、その背後からふいに娘があらわれ、私のほうにやってくるかもしれないのであった、しかし地平線をさぐりつくしても、いつまでも人影はなく、夜がおりてきた、それでも私の注意は、この不毛の土壌、この枯渇した大地がかくしているかもしれない女たちを吸いあげようとして、望もなく土地にしがみつくのであった、そしてルーサンヴィルの森の木々を私がたたくのは、もはや歓喜からではなくて、腹立たしさからであり、その木立からは、それがパノラマの画布に描かれた木々であったかのように、もはやどんな生きた人間も出てはこず、そのようにして私は、あんなに自分が欲した女を腕にだきしめないうちに家に帰ることをあきらめかねる気持で、しかも同時に、途上にその女があらわれる偶然の可能性がますますすくないことを自分自身に認めながら、コンブレーへの道をふたたびとらなくてはならなかった。それにしても、もし女が途上で見つかったら、私は思いきって彼女に話しかけたであろうか?  それこそ彼女は私を気違あつかいにしただろうと思われた。私がこうした散歩のあいだにつくりあげ、そして実現されなかった欲望は、ほかの人たちにもそれぞれわけあたえられているものであり、私自身のそとにあっても真実である、というふうには私は考えなくなっていた。そんな欲望は、いまはもう私の気質からつくりだされたまったく主観的な、無力な幻影的なものだとしか思われなかった。そんな欲望は、もはや自然とのつながり、現実とのつながりをもたず、このとき以来、自然も現実も、それがもつ魅力と意味のすべてを失い、私の人生にとってまったく便宜的な外枠にすぎなくなった、あたかも旅客が腰かけてひまつぶしに読んでいる小説の筋にとって、彼が乗っている客車がそうであるように。

(プルースト「スワン家のほうへ」)





◼️さんざしの坂道の回想

「……何度私は思いうかべたことでしょう、あなたのことを、あなたと二人でこの土地をくまなく歩きまわり、あなたのおかげでたのしいものになったあの散歩のこと、その土地がいまは荒らされ、こうしているあいだも、あなたがお好きだった、そして二人であんなによく出かけた、あの道、この丘を占領するために、大きな戦闘がおこなわれているのです! たぶんあなたも、私とおなじように、想像さえなさっていなかったでしょう、私たちの手紙がいつもそこから配達されてきた、そして、あなたが病気になったときそこへ医者を呼びに行った、あの薄ぐらいルーサンヴィル、あの退屈でたまらないメゼグリーズ、そこが、いつかこんなに有名な土地になろうとは。それがどうでしょう、私の親しい友よ、アウステルリッツやヴァルミーとおなじ資格で、永久に栄光のなかにはいったのです。 メゼグリーズの戦闘は八か月以上もつづき、ドイツ軍はそこで六十万以上の兵を失い、彼らはメゼグリーズを破壊してしまったのですが、 ついにそこを奪取するにはいたりませんでした。 あなたがあんなにお好きで、私たちがさんざしの坂道と呼んでいた小道、あなたが幼いころにそこで私への恋に陥ったとおっしゃっているけれど、一方私からは、真実のところ、私こそあなたに恋をしていたと申しあげられるあの小道、そこがこのたびどれほど重要な意味をもったかは、とてもおつたえすることができません[Le petit chemin que vous aimiez tant, que nous appelions le raidillon aux aubépines et où vous prétendez que vous êtes tombé dans votre enfance amoureux de moi, alors que je vous assure en toute vérité que c'était moi qui étais amoureuse de vous, je ne peux pas vous dire l'importance qu'il a prise]。その小道をのぼりつめたところにあるひろい麦畑は、有名な三〇七高地で、あんなに何度もコミュニケに出てきたその名を、きっとごらんになったでしょう。フランス軍はヴィヴォーヌ川にかかった小さな橋を爆破させました、そういえば、この橋は思ったほど幼い時代を思いださせない、とあなたはおっしゃっていましたね、それの代わりにドイツ軍はべつのものをいくつか架橋しましたが、一年半というものは、彼らがコンブレーの半分を占拠し、 フランス軍が他の半分を固守したのです。」 このジルベルトの手紙を受けとった日の翌日、つまり私が暗闇のなかを歩いて 、こうしたすべての思出をかみしめながら、自分の足音のひびくのをきいた日の前々日、サン=ルーは、前線から帰ってふたたび前線にひきかえそうとする途中で、ほんの数分間だけ私を訪ねてくれたのだが、彼の名が告げられただけで、そのとき私ははげしく感動したのであった。(プルースト「見出された時」)



◼️人間の変質と記憶の固着

きょう私が目にしてきた人たちのすべてを、そしてジルベルト自身をも、変えてしまった歳月の作用は、いま生きのこっている少女たちのすべてを、アルベルチーヌが死んでしまっていなかったら彼女をもふくめて、私の思出とはあまりにもちがった女たちにしてしまったことは確実だった。私は自分ひとりで元の彼女らに到達しなくてはならない苦しみを感じた、なぜなら、人間たちを変化させる時も、われわれが記憶にとどめている彼らのイマージュを変更することはない。人間の変質と記憶の固着とのあいだの対立ほど痛ましいものはない。そんな対立に気づくとき、われわれは否応なく納得させられるのだ、記憶のなかにあれほどの新鮮さを残してきたひとが、実生活ではもはやそれをもちこたえることができないのを、そしてわれわれの内部であのように美しく見えるひと、もう一度会いたいというそれも非常に個人的な欲望をわれわれのなかにそそりたてるひと、そういうひとに外部に近づくことができるには、いまそれとおなじ年齢のひと、すなわち別人のなかに、そのひとを求めるよりほかはないのを。


L'action des années qui avait transformé tous les êtres que j'avais vus aujourd'hui, et Gilberte elle-même, avait certainement fait de toutes celles qui survivaient, comme elle eût fait d'Albertine si elle n'avait pas péri, des femmes trop différentes de ce que je me rappelais. Je souffrais d'être obligé de moi-même à atteindre celles-là, car le temps qui change les êtres ne modifie pas l'image que nous avons gardée d'eux. Rien n'est plus douloureux que cette opposition entre l'altération des êtres et la fixité du souvenir, quand nous comprenons que ce qui a gardé tant de fraîcheur dans notre mémoire n'en peut plus avoir dans la vie, que nous ne pouvons, au dehors, nous rapprocher de ce qui nous parait si beau au dedans de nous, de ce qui excite en nous un désir, pourtant si individuel, de le revoir, qu'en le cherchant dans un être du même âge, c'est-à-dire d'un autre être.

(プルースト「見出された時」)