2025年10月5日日曜日

柄谷行人のボロメオの環(資本=ネーション=国家)


ベネディクト・アンダーソンは、ネーション=ステートが、本来異質であるネーションとステートの「結婚」であったといっている。これは大事な指摘であるが、その前に、やはり根本的に異質な二つのものの「結婚」があったことを忘れてはならない。国家と資本の「結婚」、である。〔・・・〕

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年)


フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。


そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第1章「カント的転回」2001年)


ヘーゲルが『法の哲学』でとらえようとしたのは、資本=ネーション=国家という環である。このボロメオの環は、一面的なアプローチではとらえられない。ヘーゲルが右のような弁証法的記述をとったのは、そのためである。たとえば、ヘーゲルの考えから、国家主義者も、社会民主主義者も、ナショナリスト(民族主義者)も、それぞれ自らの論拠を引き出すことができる。しかも、ヘーゲルにもとづいて、それらのどれをも批判することもできる。それは、ヘーゲルが資本=ネーション=国家というボロメオの環を構造論的に把握した――彼の言い方でいえば、概念的に把握した(begreifen)――からである。ゆえに、ヘーゲルの哲学は、容易に否定することのできない力をもつのだ。


しかし、ヘーゲルにあっては、こうした環が根本的にネーションというかたちをとった想像力によって形成されていることが忘れられている。すなわち、ネーションが想像物でしかないということが忘れられている。だからまた、こうした環が揚棄される可能性があることがまったく見えなくなってしまうのである。(柄谷行人『世界史の構造』第9章、2010年)





ネーションを形成したのは、二つの動因である。一つは、中世以来の農村が解体されたために失われた共同体を想像的に回復しようとすることである。もう一つは、絶対王政の下で臣民とされていた人々が、その状態を脱して主体として自立したことである。しかし、実際は、それによって彼らは自発的に国家に従属したのである。1848年革命が歴史的に重要なのは、その時点で、資本=ネーション=国家が各地に出現したからだ。さらに、そのあと、資本=ネーション=国家と他の資本=ネーション=国家が衝突するケースが見られるようになる。その最初が、普仏戦争である。私の考えでは、これが世界史において最初の帝国主義戦争である。そのとき、資本・国家だけでなく、ネーションが重要な役割を果たすようになった。交換様式でいえば、ネーションは、Aの ”低次元での” 回復である。ゆえに、それは、国家(B)・資本(C)と共存すると同時に、それらの抗する何かをもっている。政治的にそれを活用したのが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムであった。今日では、概してポピュリズムと呼ばれるものに、それが残っている。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)



すでにマルセル・モースは、氏族社会の経済的土台を贈与──お返しという互酬交換に見いだしていた。私はそれを交換様式Aと呼ぶ。これが共同体を構成する「力」をもたらす。さらに私は、国家もまた、国民の自発的な服従-国家による保護という交換によって成り立つと考えた。それを交換様式Bと呼ぶ。武力とは異なる、国家の「力」はそこから来る。それらに対して、通常の商品交換を私は交換様式Cと呼ぶ。ここから、貨幣の「力」が生じるのだ。


以上の三つに加えて、それらを揚棄しようとする交換様式Dがある。これは歴史的には、古代帝国の時代に普遍宗教というかたちをとってあらわれた、いわば、神の「力」として。Dは局所的であれ、その後の社会構成体のなかに存続してきた。それはたとえば、一九世紀半ばに共産主義思想としてあらわれたのである。マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない

社会構成体は歴史的に、これらの交換様式の接合体としてあった。氏族社会では、交換様式Aが支配的である。注意すべきなのは、この段階でも、交換様式BやCが萌芽的に存在することだ。Bが支配的となるにつれて、国家が形成される。このとき、Aは消滅するのではなく、国家や領主に従属する農業的共同体として存続する。一方、CはBが発展するにつれて広がった。つまり、領域国家が形成される段階で、貨幣経済が発展した。古代の世界帝国の段階で、Bの下でAとCが接合されるにいたった。


交換様式Cが社会構成体において優越的となったのは、産業資本が出現した段階である。そして、マルクスは『資本論』でそれを解明したのである。ただ、交換様式の観点からいえば、交換様式の接合としてある社会構成体が、産業資本が出現した時点でつぎのように変容したことに留意すべきである。すなわち、AやBは、Cの優位の下で消滅したのではなく、変形された。たとえば、Bは市民国家というかたちをとり、Aは“想像の共同体”としてネーションを形成する。いいかえれぼ、資本=ネーション=国家が形成されたのである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年)



社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。

Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes.

ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher.  (1880/81)





彼(磯崎新)は、僕の思想にも、興味を持ち続けてくれた。そういえば、『世界共和国へ』(2006年)という本を出したばかりのとき、磯崎さんは、そこで僕が論じた、交換様式A、B、C、Dについて、4象限で表記するのはおかしいんじゃないか、と言ったんですよ。Dは、A、B、Cとは異なる次元にあるものだから、3象限プラス1にしないと、と。それは鋭い指摘で、実は、Dは厳密には交換様式ではないんです。Dは、すべての交換の否定、脱交換だからね。(文壇から遠く離れて 演劇や建築に広がった人間関係:私の謎 柄谷行人回想録⑮、2024.06.18



………………


晩年のラカンのボロメオの環に柄谷用語群を代入しておこう。



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2025年10月2日木曜日

大他者の享楽は享楽自体であり、モノの享楽である


 ラカンにおいて、一般に「大他者の享楽」ーー「〈他〉の享楽」とも邦訳されるーーは享楽自体であり、マゾヒズムの享楽、モノの享楽である。


反復は享楽の回帰に基づいている。・・・フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ。

フロイトのテキスト全体がこの廃墟となった享楽の探究の次元においてのみ思考されたマゾヒズムを中心に展開されている。

la répétition est fondée sur un retour de la jouissance…FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance.  C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD.  …c'est expressément autour du masochisme, conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. 

〔・・・〕

享楽の対象は何か?

私が「烙印の栄光」と呼んだものを担う者の享楽なのか?

これが「大他者の享楽」を意味するのは確かだろうか?  確かにそうだ!

Objet de jouissance de qui ?   

De celle qui porte ce que j'ai appelé « la gloire de la marque » ?   

Est-il sûr que cela veuille dire « jouissance de l'Autre » ? Certes !  

〔・・・〕

モノは曖昧なものではなく、快原理の彼岸にある喪われた対象である。

La chose n'est pas ambiguë, c'est au niveau de  l'Au-delà du principe du plaisir  …cet objet perdu.

(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)



モノは母であり、究極的には喪われた胎盤である。

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を徴示する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


つまり大他者の享楽とは、喪われた「モノの享楽=母の享楽」であり、原大他者の享楽にほかならない。

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)


この母なる原大他者が「大他者の性」 l'Autre sexe であり、喪われた母、あるいは究極的には喪われた母の身体である。

大他者の享楽ーーこの機会に強調しておけば、ここでの大他者は「大他者の性」であり、さらに注釈するなら、大他者を徴示するのは身体である[la jouissance de l'Autre - avec le grand A que j'ai souligné en cette occasion - c'est proprement celle de « l'Autre sexe »,  et je commentais : « du corps qui le symbolise ». ](ラカン, S20, 19  Décembre 1972)




喪われた対象とはフロイトの次の表現に相当する。

母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)


より直接的な「喪われた対象」は例えば次の文にある。

自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である。〔・・・〕母を見失なうというトラウマ的状況〔・・・〕この見失われた対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ。

Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…)  die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. (…) Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter(…) . Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle (フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


ここにある不安の別名が不快であり、欲動、つまり享楽である。

不快(不安)[Unlust-(Angst)](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章)

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)




これら母なるモノの享楽[la jouissance de la Chose maternelle]と呼びうるものが、マゾヒズムの享楽であり、死の欲動である。

享楽の本質はマゾヒズムである[La jouissance est masochiste dans son fond](Lacan, S16, 15 Janvier 1969)

死への道…それはマゾヒズムについての言説である。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[Le chemin vers la mort… c'est un discours sur le masochisme …le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969)


あるいはーー、

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il(Freud) l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


フロイトにおいてマゾヒズムは自己破壊欲動=死の欲動である。

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


そしてこのマゾヒズムがリアルな欲動であり、先に示した現実界の享楽[Jouissance du réel]である。

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)



………………




ところでラカンはファルス享楽と大他者の享楽を区別した。

ファルス享楽とは身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである[la jouissance phallique [JΦ] est hors corps,  la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique](ラカン、三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974)



大他者の享楽が享楽自体であるとすれば、ファルス享楽とは何か。


ここで私のファルスΦに戻ろう。この大きなファルスΦはまた幻想の最初の文字である[C'est bien en quoi je reviens à mon Φ, mon grand Φ là, qui peut aussi bien être la première lettre  du mot fantasme.  ]

このファルスΦの文字は音声の機能の関係に位置付けられる。一般に考えられている事とは異なり、ファルスの本質は音声の機能であり、このファルスは男を代理する[Cette lettre situe les rapports de ce que j'appellerai une fonction de phonation… c'est là l'essence du Φ,  contrairement à ce qu'on croit …une fonction de phonation qui se trouve être substitutive du mâle ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


つまりファルス享楽とは幻想の享楽であり、ファルスは音声の機能ともあるが、これはパロールのことである。

パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である[La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé》].(Lacan, S23, 17 Février 1976)

ラカンは、大胆かつ論理的に、パロール享楽をファルス享楽と同じものとしている。ファルス享楽が身体と不一致するという理由で。jouissance de la parole que Lacan identifie, avec audace et avec logique, à la jouissance phallique en tant qu'elle est dysharmonique au corps. (J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)






2025年9月24日水曜日

ラカンの享楽用語群簡潔版

 

質問を貰っているので、ラカンの享楽用語群を可能な限り簡潔にーーわかりやすいようにーー記す。

……………



享楽は去勢である[la jouissance est la castration.](Lacan parle à Bruxelles, Le 26 Février 1977)


もともと享楽は斜線を引かれている。

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »(斜線を引かれた享楽)の文字にて、通常示す[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)


この斜線は喪われた享楽ということで、つまり《享楽の喪失がある[il y a déperdition de jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


したがって、《去勢は享楽の喪失である[ la castration… une perte de jouissance]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)だ。


この去勢なる喪失は、母の身体の喪失を意味する。乳児が自己身体と見做していた母の乳房の喪失、究極的には母胎の喪失が去勢である。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、自己身体の重要な一部の喪失と感じるにちがいない。〔・・・〕そればかりか、出生行為はそれまで一体であった母からの分離として、あらゆる去勢の原像である[der Säugling schon das jedesmalige Zurückziehen der Mutterbrust als Kastration, d. h. als Verlust eines bedeutsamen, …ja daß der Geburtsakt als Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war, das Urbild jeder Kastration ist. ](フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)


つまり、享楽は去勢だということは、享楽は自体性愛(喪われた自己身体愛)ということだ。

享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である[la jouissance …qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. …Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. ](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


厳密には享楽=自体性愛的欲動である、《自体性愛的欲動は原初的なものである[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich]》(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)




ラカンはセミネールⅩにて、去勢(-φ)を軸に、


自己身体[corps proper]

原ナルシシズム[narcissisme primaire]

自体性愛 [auto-érotisme]

自閉症的享楽[jouissance autiste]


を等置している。





「自閉症的」にだけ「享楽」がついているが、すべてに享楽をつけることができる。


すなわち、

自己身体の享楽[jouissance du corps propre]

=原ナルシシズム的享楽[jouissance narcissique primaire]

=自体性愛的享楽[jouissance  auto-érotique]

=自閉症的享楽[jouissance autiste]


である。


たとえばジャック=アラン・ミレールは次のように表現している。

自閉症的享楽としての自己身体の享楽 [jouissance du corps propre, comme jouissance autiste.] (J.-A. Miller,, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)

享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である[La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. ](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)




自体性愛が原ナルシシズムと等置されるのは、フロイト由来。


愛は欲動蠢動の一部を器官快感の獲得によって自体性愛的に満足させるという自我の能力に由来している。愛は原ナルシズム的である[Die Liebe stammt von der Fähigkeit des Ichs, einen Anteil seiner Triebregungen autoerotisch, durch die Gewinnung von Organlust zu befriedigen. Sie ist ursprünglich narzißtisch](フロイト『欲動とその運命』1915年)


そして自体性愛と自閉症が等置されるのは、自閉症概念造語者ブロイラー由来。


自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである[Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt](オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911)



ここでもうひとつラカンはセミネールⅩⅢで、マゾヒズムと原ナルシシズムを等置している。



マゾヒズムを唯一明示しうるのは、対象aの機能を持ち出す以外ない。それがまったき本質である。私は信じている、重要なのはかつて原ナルシシズムのため確保されていた場処に見い出さなければならないと。[On ne peut articuler le masochiste qu'à faire entrer…que la fonction de l'objet(a) en particulier y est absolument essentielle. Je crois que l'important  de ce que…peut être repéré à la place anciennement réservée au narcissisme primaire.] (Lacan, S13, 22 juin 1966)


ここで対象aとあるのは、何よりもまず去勢かつ母である。

私は常に、一義的な仕方で、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している[cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ).] (Lacan, S11, 11 mars 1964)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )


つまり去勢された母(喪われた母)が、マゾヒズム=原ナルシシズムだと言っていることになる。


先ほどの享楽リストにマゾヒズム的享楽[Jouissance masochiste]を付け加えて図示しておこう。




上の表現群がラカンの享楽であり、基本的に等置できる。

確認すれば、自体性愛の対象つまり享楽の対象は喪われた対象(去勢された対象)である。

自体性愛の対象は実際は、…喪われた対象aの形態をとる[autoérotisme … Cet objet qui n'est en fait que …sous  la forme de la fonction de l'objet perdu (a)](Lacan, S11, 13 Mai 1964)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


モノとは母、母の身体である、《モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère]》(Lacan, S7, 20  Janvier  1960)


そして究極の自体性愛つまり享楽の対象は喪われた母胎である。

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


ーーフロイトはこれを《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)とした。


なお晩年のラカンは「現実界の享楽=マゾヒズム=トラウマ=モノ(母なるモノ)」とした。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il (Freud) l'a découvert ](Lacan, S23, 10 Février 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)



ラカンはトラウマを穴ともしたが、これは喪失を意味し、冒頭に示したように去勢のことである。

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973)


トラウマと喪失の等置はフロイトの次の文にある。

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]。(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である。〔・・・〕母を見失なうというトラウマ的状況〔・・・〕この見失われた対象(喪われた対象)[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ。

Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…)  die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. (…) Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter(…) . Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle (フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


不安の別名は不快であり、欲動=享楽である。

不快(不安)[Unlust-(Angst)](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章)

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)



当面以上。