2025年2月9日日曜日

中井久夫と天皇制

 

以下、私が気づいた範囲で、中井久夫の天皇制をめぐる記述を列挙する。


◾️1988年

・・・

3、階級相互の距離が増大する。新しい最上階級は相互に縁組みを重ね、社会を陰から支配する(フランスの二百家族のごときもの)。階級の維持は教育によって正当化され、税制や利益の接近度などによって保証され、限度を超えた階級上昇はいろいろな障害(たとえば直接間接の教育経費)によって不可能となる。中流階級は残存するが、国民総中流の神話は消滅する。この点では西欧型に近づく。労働者内部の階級分化も増大する(この点では必ずしも西欧型でない)。


4、天皇制はそのカリスマの相当を失い、新階級と合体する。世代交代とともに君が代や日の丸は次第に争点ではなくなり、旧右翼は消滅するが、"皇道派"に代わる"統制派"のごとき、天皇との距離を置いた新勢力が台頭する。このなかにカリスマ的指導者が登場するかどうかはいうことができない。世界的に優秀な指導者の不足に悩む。国家意識もほどほどになり、ナショナリズムは非常のときだけのものとなる。軍備は最大の争点でなくなる。……(中井久夫「引き返せない道」産業労働調査所よりの近未来のアンケートへの答え、初出1988年『精神科医がものを書くとき』所収ーーこの文の前後は▶︎参照


◾️1989年

天皇制の廃止が、一般国民の表現の自由を高めると夢想するのは現時点では誤りである。新憲法によって強大な権力を持つ首相のほうがはるかに危険である。権限なくて責任のみ多い脆弱な旧憲法上の首相がよいというのではない。あれは、天皇規定の矛盾にまさる政治上の不安定要因であり、新憲法なくして自民党長期政権はありえなかった。しかし、危険な首相の登場確率は危険な天皇の登場確率の千倍、この危険を無力化する可能性は十万対一であろう。天皇の意見は悪用するものの責任であり、そういう連中が『こわいものしらず』にならないために天皇の存在が貴重である。〔・・・〕私は、皇室が政府に対して牽制、抑止、補完機能を果たし、存在そのものが国家の安定要因となり、そのもとで健全な意見表明の自由によって、日本国が諸国と共存し共栄することを願う。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」初出「文化会議」 1989年)

もとより、「天皇」は「父親」が投影されているスクリーンに過ぎない。幼児期には、親のやさしいよい時と不機嫌で辛く当たる時とを、同一の親と認識できず、「よい親」と「わるい親」とを別個の人物と認識することがある。これが成人になって意識の中に現れれば、「よい親」と「わるい親」との分裂となる。父親=陛下は通常意識世界の「よい陛下」と幻覚世界の「わるい陛下」とに分裂していたのである。(中井久夫「「昭和」を送るーーひととしての昭和天皇」1989年)

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた『外米』はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔・・・〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕でおれない。われわれはアジアに対して『昭和天皇』である。問題は常にわれわれにある。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」1989年)


◾️1991年

私の祖父は早くに陸軍を辞めた軍人でしたが、そこにまだ中国に行かされて戦っている友人たちが訪ねてきて、今は「南京事件」として知られる残虐行為のことなどを話していました。今度の戦争では日本軍は勝ったとはいえないとか、「皇軍」の名に値しないということを話していたのも覚えています。こどもに対しては油断しているものですから、そういう話を私は足許で聞いていました。それで、小学校時代には私は精神的に孤立していたと思います。かなりいじめらもしました。特に、天皇を神格化するということにはどうもなじめなかったのです。〔・・・〕


ところが、これだけいろいろ心理的努力をやっておきましたせいか、終戦のときのショックがあまりなかったんです。それがかえって私にはしんどいことでありました。つまり、エイヤッと切開手術をしてもらって膿を出して、反対側にまわるほうが楽なんです。それで、中学生の私はむしろちょっと国粋主義者――といっても神懸かりではないんですけれども――で、天皇制をうっかり廃止して大丈夫だろうかというような、むしろ保守的な考えの人間になりました。特に、アメリカの人たちが宣伝する民主主義というものに対して懐疑的になった時期がありました。このころ、『民主主義』という本がアメリカの勧めでしょうか、編纂され、文部省の名前で出て、みんな読んでいたわけですが、歯が浮いたような本だといって私は読まなかった。(中井久夫「私に影響を与えた人たちのことなど」初出1991年『兵庫精神医療』)


◾️2003年

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003年 『時のしずく』所収)




……………


※参照

◾️日本の宗教とアニミズム

日本では、・・・宗教が行方不明になりかけていて、無宗教だという意見が高度成長期時代まであった。〔・・・〕

しかし、強烈な宗教的情熱を最近目の当たりにした。偶像崇拝どころではない。最近の航空機事故は悲惨であったが、その処理も私を大いに驚かせた。いかなる死体のはしきれをも同定せずにはおかないという気迫が当然とされ、法医学の知識が総動員されて徹底的に実行された。こういうことは他国の事故では起こらない。海底の軍艦の遺骨まで引き揚げようとするのは我が国以外にはあるまい。


死者の遺体はーー特に悲惨な死を遂げた人の遺体はーーただの物ではなくて、それは火できよめて自宅、せめて自国まで持ってこないと「気がすまない」とはどういうことだろうか。一つは、定義はほんとうにむつかしそうだが、「アニミズム」と呼ぶのが適当な現象である。もう一つは、国なり家族なり、とにかく「ウチ」にもたらさないと「ゴミ」あつかいをしていることになるということである。「ゴミ」の定義は「ソト」にあるものだ(「ひとごみ」とはよく言ったものだ)。そうしておくとどうも「気がすまない」。「気がすまない」のは強迫的心理であり、それを解消しようとする行為が強迫行為である。そういう意味では、神道の原理が「きよら」であり、何よりも生活を重んじるのとつながる。〔・・・〕


アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。イスラエルと日本の合同考古学調査隊が大量の不要な遺骨を運び出す羽目になった時、その作業をした日本隊員は翌日こぞって発熱したが、イスラエル隊員は別に何ともなかったそうである。(中井久夫「日本人の宗教」1985年初出『記憶の肖像』所収)


◾️一神教とアニミズム

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

宗教原理主義が流行である。宗教の自然な盛り上がりか。むしろ、宗教が世俗的目的に奉仕するのが原理主義ではないか。わが国でも、千年穏やかだった神道があっという間に強制的な国家神道に変わった。原理主義の多くは外圧か内圧かによって生まれ、過度に言語面を強調する。言語と儀礼の些細な違いほど惨烈な闘争の火種になる。(中井久夫「日本人の宗教」2007年)

まことに、人生は偶発性と不確定性と不条理性に満ちている。宗教はこれに対する合理化であり埋め合わせでもある。「いかなる未開社会でも確実に成功するものに対しては呪術は存在しない」と人類学者マリノフスキーはいう。棟上げ式も、進水式も不慮の事故を怖れ、成功と無事故を祈るものである。


どの個別宗教もその教義、教典が成立した時に、その時のその場の何かがもっとも先鋭な不条理であったかを鋳型のように示している。一神教は苛烈な不条理に直面しつづけたユダヤ民族の歴史を映しているだろう。(中井久夫「日本人の宗教」2007年)



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最後に「「昭和」を送る」の二つの記述に戻る。


もとより、「天皇」は「父親」が投影されているスクリーンに過ぎない。幼児期には、親のやさしいよい時と不機嫌で辛く当たる時とを、同一の親と認識できず、「よい親」と「わるい親」とを別個の人物と認識することがある。これが成人になって意識の中に現れれば、「よい親」と「わるい親」との分裂となる。父親=陛下は通常意識世界の「よい陛下」と幻覚世界の「わるい陛下」とに分裂していたのである。(中井久夫「「昭和」を送るーーひととしての昭和天皇」1989年)

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた『外米』はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔・・・〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕でおれない。われわれはアジアに対して『昭和天皇』である。問題は常にわれわれにある。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」1989年)


投影(投射)のフロイトの定義のひとつは次のものである。

自己自身の邪悪な欲動を魔神に投影することは、原始人の「世界観」となった組織の一部にすぎない。…われわれはこれを「アニミズム」の世界観として知る。Die Projektion der eigenen bösen Regungen in die Dämonen ist nur ein Stück eines Systems, welches die »Weltanschauung« der Primitiven geworden ist, …als das »animistische« kennen lernen werden. (フロイト『トーテムとタブー』「Ⅱ タブーと感情のアンビヴァレンツ」第4節、1913年)



より一般化して言えば、《フロイトの投影メカニズム[le mécanisme de la projection]の定式は次のものである…内部で拒絶されたものは、外部に現れる[ce qui a été rejeté de l'intérieur réapparaît par l'extérieur]》(ラカン, S3, 11 Avril 1956)



中井久夫は日本の加害性を安易に天皇に投射して被害者面するな、と言っているのではないか。

最後に、ある自戒を述べなければならない。被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。


社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』所収)




2025年2月5日水曜日

科学の言説と資本の言説による伝統文化の破壊

 

◾️科学の言説と資本の言説による伝統文化の破壊

21世紀の象徴秩序…それはフロイトが「文化の中の居心地の悪さ」と呼んだものの成長、ラカンが「文明の行き詰まり」として解読したものの成長とともにある。


それは20世紀を置き去りにし、世界における我々の実践を更新し、二つの歴史的要因によって存分に再構成された。つまり科学の言説と資本の言説である。現代のこの支配的言説は、その出現以来、人間の経験の伝統的構造を破壊し始めている。それぞれが他方に依存しているこれら 2 つの言説の複合的な支配は、伝統の最も深い基盤を破壊し、おそらく粉砕することに成功するほどの規模になった。


我々が目にしているのは、象徴秩序に起こった大変動にともなう、その礎である父の名のひび割れである。ラカンが極めて正確に述べたように、伝統による父の名は、科学と資本主義の二つの言説の組み合わせによって影響を受け、価値を下げられたのである。

L'ordre symbolique au XXIème siècle …de ses coordonnées inédites au XXIème siècle, au moment où se développe ce que Freud appelle : « Le malaise dans la culture », que Lacan lira comme les impasses de la civilisation. 

Il s'agit de laisser derrière soi le XXème siècle, pour renouveler notre pratique dans le monde, lui-même suffisamment restructuré par deux facteurs historiques, deux discours : le discours de la science et le discours du capitalisme. Ces discours dominants de la modernité ont commencé, depuis leur apparition, à détruire la structure traditionnelle de l'expérience humaine. La domination combinée de ces deux discours, chacun s'appuyant sur l'autre, a pris une telle ampleur qu'elle a réussi à détruire, et peut-être à briser, les fondements les plus profonds de la tradition.

Nous l'avons vu, …avec le bouleversement survenu dans l'ordre symbolique, dont la pierre angulaire, le Nom-du-Père, s'est fissurée. Et, comme le dit Lacan avec une extrême précision, le Nom-du-Père selon la tradition, a été touché, dévalué, par la combinaison des deux discours, celui de la science et celui du capitalisme.

(ジャック=アラン・ミレール、21世紀における現実界 JACQUES-ALAIN MILLER, LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE , 27 avril 2012 )


◾️最悪の時代への突入

今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕

私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…)  nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021)


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◾️自らを貪り喰う資本の言説

危機は、主人の言説ではなく、資本の言説である。それは、主人の言説の代替であり、今、開かれている [la crise, non pas du discours du maître, mais du discours capitaliste, qui en est le substitut, est ouverte.  ]〔・・・〕

資本の言説…それはルーレットのように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが実際はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、自らを貪り喰う [le discours capitaliste… ça marche comme sur des roulettes, ça ne peut pas marcher mieux, mais justement ça marche trop vite, ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume.]

さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…[vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…](Lacan, Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)


◾️死の欲動としての科学の言説

ラブレーはこう書いている、《良心なき科学は魂の墓場にほかならない》と。まさにその通り。坊主の説教なら、昨今の科学は魂の荒廃をもたらしているとの警告になるが、周知の通り、この時世では魂は存在しない。事実、昨今の科学は魂を地に堕としてしまった 。〔・・・〕魂以外に人間は存在しないのにもかかわらず。

ce qu'a écrit RABELAIS…  « Science sans conscience - a-t-il dit - n'est que ruine de l'âme ».   

Eh ben, c'est vrai.  C'est à prendre seulement, non pas comme les curés le prennent, à savoir que ça fait des ravages, dans cette âme qui comme chacun sait n'existe pas, mais ça fout l'âme par terre !   …il n'y a pas plus de monde que d'âme(Lacan, S21, 19 Février 1974)

科学はとりわけ死の欲動と結びついている[La science est liée à ce qu'on appelle spécialement pulsion de mort](ラカン、S 25, 20 Décembre 1977)



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◾️文化共同体病理学ーー人間の宿命的課題(攻撃欲動と自己破壊欲動の飼い馴らし)

われわれとしては、いつの日か、この種の文化共同体病理学[Pathologie der kulturellen Gemeinschaften ]という冒険をあえて試みる人が現われることを期待せずにはいられない。〔・・・〕


私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動[Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb]による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である[Die Menschen haben es jetzt in der Beherrschung der Naturkräfte so weit gebracht, daß sie es mit deren Hilfe leicht haben, einander bis auf den letzten Mann auszurotten.]。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)

欲動要求の永続的解決 [dauernde Erledigung eines Triebanspruchs]とは、欲動の飼い馴らし [die »Bändigung«des Triebes]とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。


しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな [So muß denn doch die Hexe dran]」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイ[Die Hexe Metapsychologie」である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)


◾️マゾヒズムなる自己破壊欲動(死の欲動)とその投射としてのサディズムなる他者破壊欲動

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕


我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動ーー原サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない。

Wenn man sich über einige Ungenauigkeit hinaussetzen will, kann man sagen, der im Organismus wirkende Todestrieb –; der Ursadismus –; sei mit dem Masochismus identisch. 

その大部分が外界の諸対象の上に移され終わったのち、その残滓として内部には本来の性愛的マゾヒズムが残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として自分自身を対象とする。ゆえにこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。

Nachdem sein Hauptanteil nach außen auf die Objekte verlegt worden ist, verbleibt als sein Residuum im Inneren der eigentliche, erogene Masochismus, der einerseits eine Komponente der Libido geworden ist, anderseits noch immer das eigene Wesen zum Objekt hat. So wäre dieser Masochismus ein Zeuge und Überrest jener Bildungsphase, in der die für das Leben so wichtige Legierung von Todestrieb und Eros geschah. 


ある種の状況下では、外部に向け換えられ投射されたサディズムあるいは破壊欲動がふたたび取り入れられ内部に向け換えられうるのであって、このような方法で以前の状況へ退行すると聞かされても驚くには当たらない。これが起これば、二次的マゾヒズムが生み出され、原マゾヒズムに合流する。

Wir werden nicht erstaunt sein zu hören, daß unter bestimmten Verhältnissen der nach außen gewendete, projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb wieder introjiziert, nach innen gewendet werden kann, solcherart in seine frühere Situation regrediert. Er ergibt dann den sekundären Masochismus, der sich zum ursprünglichen hinzuaddiert.

(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)


ーー《フロイトの投射メカニズム[le mécanisme de la projection]の定式は次のものである…内部で拒絶されたものは、外部に現れる[ce qui a été rejeté de l'intérieur réapparaît par l'extérieur]》(ラカン, S3, 11 Avril 1956)





◾️「リアルな欲動=現実界の享楽」とマゾヒズム(死の欲動)

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il(Freud) l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)




2025年2月3日月曜日

人類最古の職業ーー王・売春婦・精神科医(中井久夫)

 

◾️人類最古の職業ーー王・売春婦・精神科医

古代都市の成立は、技術史家ルイス・マンフォードによれば、すでに人力による巨大機械の成立であり、今日まで連続する事態であるという。逆に見みれば、古代都市の成立あるいは一般に civilisation とは、人類文化の人間個体への一身具現性の急激な低下である。医師はより古い層より出て、この一身具現性を少なくとも最近まで残していた。特に精神科医は、その意味でも王や売春婦とともに"人類最古の職業"といいうるであろう。医療が"技術"といら言葉に尽しえないものを持ち、このことばに感覚的にもなじみえないのはそのためであろう。売春婦の”技術" がきわめて一身具現的であるのにやや劣るとしても(筆者は戯れに言うのではない。下位文化としての"治療文化" 全体を問題にしているのだ、古代中東の神殿売春を特筆するわけではないが)。(中井久夫「西洋精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年


◾️精神科医と売春婦

私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。


そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。


患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。


精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。


実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。

職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただの promiscuous なひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。)


しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。


以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(中井久夫『治療文化論』1990年)


◼️マッサージ師、ホステス、プロスティテュートというカウンセラー

人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。


通常の友人家族による精神衛生の維持に失敗したと感じた個人は、隣人にたよる。小コミュニティ治療文化の開幕である。(米国には)さまざなな公的私的クラブがある。その機能はわが国の学生小集団やヨットクラブを例として述べたとおりである。

もうすこし専門化された精神衛生維持資源もある。マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化は無視できない広がりをもっている。古代ギリシャの昔のように、今日でも「体操教師」(ジョギング、テニス、マッサージ)、料理人(「自然食など」)、「断食」「占い師」が精神科的治療文化の相当部分をになっている。ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュートも、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。カウンセリング行動はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』1990年)



………………




◾️呪術師・王・医師

呪術を司る者たちが、その法外な主張を信じて疑わない社会において重要で支配的な地位に立つのは必然であり、呪術師たちのうちのある者が、民衆から受ける信頼と民衆を圧する威厳の力によって、盲信的な大衆に対して至上権を振うようになるとしても不思議ではない。しばしば呪術師が酋長や王にまで成長発展したことは明らかな事実である。


・・・〔しかし〕公的呪術師の占める地位は全く不安定な(very precarius)ものである。彼が雨を降らせたり、太陽を照らせたり、土地の実りをもたらす力をもっていると信じこんでいる人々は、当然のことながら旱魃や飢饉を彼の無責任な怠慢あるいは故意の計略であるか のように考え、その結果として彼を罰することになるからである。こうしてアフリカでは,雨を降らすことに失敗した酋長はしばしば追放されたり殺されたりした。・・・世界の他の多くの地方でも,王は民衆の福祉のために自然の運行を調節することを期待され,もしその企てに失敗する時は罰せられた。(フレーザー『金枝篇』)

スワビアのいくつかの地域においては、懺悔の火曜日に鉄ひげ博士が病気の人から血を取るふりをするが、その人はそこで死者のように地に倒れる。しかし最後にはその医者が、彼に管で空気を吹き入れることによって彼を回復させる。医者によって生き返らせられるのである。(フレーザー『金枝篇』)


……「王と雨司と医師とが同じ時代があった」と人類学者フレーザーの言にあった。現代でも、ある程度、この境界人性は生きている。呼ばれた家の玄関で、家族が出迎えるのを待たずに、返事があっただけで、時にはなくとも、さらりと敷居をまたいで上がりこめるのは、僧侶と医師である。往診の時にはまったく自然にさっと靴を脱いで廊下を歩いている自分に驚くことがある。(中井久夫「家族の深淵」1991年)

精神科治療者の先祖は、手軽な治療師ではない。シャーマンなど、重い病気にいのちがけで立ち向かった古代の治療者である。 しかし私たちは、一部の民間治療者のように、自分だけの特別の治療的才能を誇る者ではない。 私たちを内面的にも外面的にも守ってくれるのは、無名性である。 本当の名医は名医と思っていないで、日々の糧のために働いていると思っているはずで ある。 しかし、ベテランでもライバル意識や権力欲が頭をもたげると、とんでもない道に迷い込む ことがある。これらは隠れていた劣等感のあらわれである。特別の治療の才を誇る者がもっともやっかみの強い人であるのは、民間治療者だけではない。 (中井久夫『看護のための精神医学』 2004年)

一般に治療文化において、患者とその家族は、治ってきたということ以外というか以上というか、治療費と家族の分担した治療努力とに対する反対給付をもとめるものである。それは、理由の解明あるいは治療の証拠である。歯科医は抜歯した歯を患者にみせる。外科医も切断した虫垂をみせる。精神医学的治療文化においては、最初期から「見せる物」に腐心してきた。シャーマン文化においては、ボアスの報告するカセリドというシャーマンは血まみれのミミズを口からだして、これを病いの原因として提示することによって乗り切っている。むろん、ミミズを口中にふくんだ上で口腔粘膜のどこかを自分で噛み切ったわけだ。精神医学という、治療にかんしてもっともあいまいな医術において「洞察」という治癒の証拠を発見したことは、力動精神医学の重要なポイントであった。すくなくとも「理由」を重視するヨーロッパ文化の下位文化としての精神医学的治療文化には要石である。それだけでなく患者と治療者との相互作用性を回復した。これなくしては、いかに「人道的」な精神病院も患者の排除というそしりを完全には免れることはできないだろう。治療文化はシャーマニズムのごとく重要な成員として患者をふくむのであって、そうでなければ、治療文化として大いに欠けるところがある。(中井久夫『治療文化論』1990年)