2020年3月25日水曜日

享楽=愛=死

享楽は愛である。

Libido = Lust = Liebestriebe = jouissance
Libido = Lust
人間や動物にみられる性的欲求 geschlechtlicher Bedürfnisseの事実は、生物学では「性欲動 Geschlechtstriebes」という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動Trieb nach Nahrungsaufnahme、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーLibido という言葉を用いている。(フロイト『性欲論』1905年)
性欲論1910年注:ドイツ語の「Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求Bedürfnissesの感覚と同時に満足Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。
Libido= Liebestriebe=Energie des Eros 
リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。…哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…

この愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
Lust=Libido =jouissance 
我々は、フロイトがLustと呼んだものを享楽と翻訳する。ce que Freud appelle le Lust, que nous traduisons par jouissance. (Jacques-Alain Miller, LA FUITE DU SENS, 19 juin 1996)
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



享楽は死である。


享楽=エロス(愛)=死
エロス =融合=大他者の享楽(享楽自体)
エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
大他者の享楽=死
大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort.  に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de  la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie.  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
享楽=死
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(J.A. Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES, 1988)
死は、享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance(ポール・バーハウ「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」2006)




永遠の享楽 ewige Lust は、死の彼岸 über Tod にある永遠の生ewige Lebenである。

生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensと永遠の享楽 ewige Lust
何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。

このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛Wehen der Gebärerin」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・創造の永遠の享楽 ewige Lust があるためには、生への意志Wille zum Leben がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能tiefste Instinkt des Lebensが、生の未来への、生の永遠性Ewigkeit des Lebensへの本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)
種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい
十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)




2020年3月5日木曜日

モノ=斜線を引かれた母なる大他者 LȺ Mère


モノとは何か? 誰も直接的にはそう言っているラカン派を知らないが、少なくとも究極的には、モノとは「斜線を引かれた母なる大他者 LȺ Mère」である。

以下、この想定の基盤となる文献群を掲げる。

モノ=現実界=享楽=反復
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel.(ラカン、S23, 10 Février 1976)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )

モノ=母=外密=対象a=異者身体=不気味なもの=無意識のエスの反復強迫
モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)
心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの或る参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03  Février  1960)

享楽の名=モノ=去勢(喪われた対象)=リビドー=エロスエネルギー
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…

享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…

大他者の享楽? 確かに!  [« jouissance de l'Autre » ? Certes !   ]

…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondをシンボライズする。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)

サントーム=モノの名(母の名)=享楽の固着=トラウマへの固着
=母へのエロス的固着の残滓=反復強迫
ラカンがサントーム(原症状)と呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰もがもっている症状)である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
疑いもなく、症状(サントーム)は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel,(Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30 nov 1974)
幼児期に起こるトラウマは自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…この「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

モノ=母なる異者身体
母はモノの場に来ると言うことが出来る。on peut dire la mère vient à la place de das Ding, (J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 23/03/99)
ラカンは「母はモノである」と言った。母はモノのトポロジー的場に来る。これは、最終的にメラニー・クラインが、母の神秘的身体をモノの場に置いた処である。« la mère c'est das Ding » ça vient à la place topologique de das Ding, où il peut dire que finalement Mélanie Klein a mis à la place de das Ding le corps mythique de la mère. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme  - 28/1/98)
モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
自己身体の享楽はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre. Il y a des modalités de cette étrangeté.](J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)

自己身体の享楽(自体性愛)=異者身体の享楽=喪われたモノの享楽
フロイトは、幼児が自己身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…が、自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro. 

…ヘテロhétéro、すなわち「異物的(異者的 étrangère)」である。
(LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)
われわれは口唇欲動 pulsion oraleの満足と純粋な自体性愛 autoérotisme…を区別しなければならない。自体性愛の対象は実際は、空洞creux・空虚videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)

享楽=自体性愛=自己身体の享楽=去勢によって喪われた母なる自己身体の享楽
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
享楽における場のエロス[ l'érotique de l'espace dans la jouissance]。この場を通してラカンは、彼がモノ[la Chose]と呼ぶものに接近し位置付けた。私が外密[extimité]を強調したとき、モノの固有な空間的場[la position spatiale particulière de la Chose]を描写した。モノとは場のエロス[l'érotique de l'espace]に属する用語である。…

疑いもなくこのモノは、ナルシシズムと呼ばれるものの深淵な真理である。享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。この享楽の対象は、禁じられ外密のポジションにある。すなわち内的かつ手に入らないものである。ラカンはこの外密をモノの名として示した。[C'est sans doute la vérité profonde de ce que nous appelons le narcissisme. La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. ](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、すべての去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

モノ=斜線を引かれた大他者Ⱥ
モノとは究極的には何か? モノは大他者の大他者である[la Chose […]c'est l'Autre de l'Autre]。モノは…大他者である。モノは大他者の徴示的構造を持っていない[la Chose […] est l'Autre. Cela n'a pas la structure signifiante de l'Autre]。モノは、厳密に大他者のなかで欠如しているものとしての大他者の大他者である[c'est l'Autre de l'Autre exactement en tant qu'il manque dans l'Autre]。ラカンがモノとしての享楽 [la jouissance comme la Chose]において認知したものは、斜線を引かれた大他者Ⱥと等価である[équivalente à l'Autre barré]。(Jacques-Alain Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [A barré [Ⱥ]の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort.  に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)

大他者=他の性=身体=モノ
「大他者」とは、私の言語では、「他の性 l'Autre sexe」以外の何ものでもない。« L'Autre », dans mon langage ce ne peut donc être que l'Autre sexe (ラカン、S20, 16 Janvier 1973 )
大他者の享楽ーーこの機会に強調しておけば、ここでの大他者は「他の性」であり、さらに注釈するなら、大他者をシンボライズするのは身体である。la jouissance de l'Autre - avec le grand A que j'ai souligné en cette occasion - c'est proprement celle de « l'Autre sexe »,  et je commentais : « du corps qui le symbolise ». (ラカン, S20, 19  Décembre 1972)
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 9/2/2011)
大他者の享楽[la jouissance de l'Autre]の遠近法において…、人がシニフィアン・コミュニケーションから始めれば、…大他者は大他者の主体[Autre sujet]である。その主体があなたに応答する。これはコードの場・シニフィアンの場である。…

しかし人が享楽から始めれば、大他者は他の性[Autre sexe]である。(Jacques-Alain Miller,Les six paradigmes de la jouissance,1999)
他の性[Autre sexe]は両性にとって女性の性[sexe féminin]である。他の性[Autre sexe]は、男にとっても女にとっても女性の性[sexe féminin]である。。(Jacques-Alain Miller, The Axiom of the Fantasm[L'Axiome du Fantasme])
原大他者(原母)のなかに体現されている「他の性」は、立ち退かされ、享楽を空洞化され、排除されている。The Other Sex, embodied in the primordial Other (Mother), is evacuated, emptied of jouissance, excluded, (ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
モノ=享楽の空胞  [La Chose=vacuole de la jouissance] (Lacan, S16, 12 Mars 1969)