2026年7月16日木曜日

想像界の復権の模索のすすめ


またひとつ思い出したな。最近はひどく忘れっぽいんだが、ひとつ思い出すと芋蔓式に出てくるよ。

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ラカンの想像界は次のように定義されているし、現代ラカニアンもこの定義を使っている。


想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955

想像界は影と反映の形象に過ぎない[imaginaires, …n'y font figure que d'ombres et de reflets. ](Lacan, E 11, 1956



ところがセミネール24で「想像界の復権」と扱いうる次のようなことを言ってるんだな。


人は、現実界のイデアを自ら得るために、想像界を使う。あなた方は、« イデアを自ら得る »と書かねばならない。私は、《球面 sphère 》としての想像界と書く。想像界が意味するものを明瞭に理解するためには、こうせねばならない。

On recourt donc à l'imaginaire pour se faire une idée du réel. Écrivez alors « se faire »… « se faire une idée » j'ai dit …écrivez le « sphère » pour bien savoir ce que l'imaginaire veut dire.  

Lacan, S24, 16 Novembre 1976


この当時は数人の数学者を呼んで、黒板にあれやこれやのボロメオの環の変形図を書いていた時期で、ほとんどのラカニアンはスルーしてんだがね。


だいたいこんな図はイミフだよ。


で、何が言いたいかというとボクはもちろんスルーしてるから、そこのキミ! どうだい、想像界的症状でかつ現実界的症状を模索したいなら、これに挑戦してみたら?

そもそもボロメオの環自体を現代ラカニアンはスルーしてるからな。むかし松本卓也くんがこう言ってるのを拾ったことがあるが。



後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也ツイート)


これはたしか2017年でいまはどう思ってるか知らないがね。


でもそこのキミは超マニアックそうだからいけるよ、頑張って後ほど教えてくれよ。



ま、ミレールが無視してるというのはいささか言い過ぎかもしれないがね。


例えば少し前に示したこの図、




これはボロメオの環にこう置きうるからな





言うまでもないかもしれないが、この現実界のa はトラウマの穴のほうのaでȺと記してもいいんだが、中心に置かれる穴埋めの剰余享楽 aではないので注意。






ま、冗談はさておき?、ボロメオに突っ込むなら想像界と現実界の重なり目が鍵だと思うがね。




ところでキミ、ボクの眼差しをとっても意識してるだろ? ま、そんなに頑張るなよ、仕事もしっかりあるようだし。その仕事が結び目だよ、本来の。


ボクはキミ向けに連投したけれど、もうやめとくよ、反復症状を悪化させたら悪いし、ボクもレミニサンス気味だからな。当面もう見るのをやめとくから、ゆっくりゆっくりススメヨ。



…………


❖追記



フロイトは『自我とエス』においては、《リビドーはエスに蓄積される》と言っている。

われわれはナルシシズム原理について一つの重要な展開をなしうる。原初において、リビドーはエスのなかに蓄積され[Libido im Es angehäuft]、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給に送り、次に強化された自我はこの対象リビドー[Objektlibido]をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象にしようとする。このように自我のナルシシズムは二次的なものである[Der Narzißmus des Ichs ist so ein sekundärer ]である。すなわち対象から撤退したものである。

An der Lehre vom Narzißmus wäre nun eine wichtige Ausgestaltung vorzunehmen. Zu Uranfang ist alle Libido im Es angehäuft, während das Ich noch in der Bildung begriffen oder schwächlich ist. Das Es sendet einen Teil dieser Libido auf erotische Objektbesetzungen aus, worauf das erstarkte Ich sich dieser Objektlibido zu bemächtigen und sich dem Es als Liebesobjekt aufzudrängen sucht. Der Narzißmus des Ichs ist so ein sekundärer, den Objekten entzogener. (フロイト『自我とエス』第4章、1923年)


ところが後年、《自我はリビドーのホームグランド》というようになる。

精神分析的欲動理論において、決定的な一歩は、ナルシシズム概念が導入されたことである。すなわち、自我自身がリビドーに備給されていること、事実上、自我はリビドーのホームグラウンドであり、自我は或る範囲で、リビドーの本拠地であることが判明したことである。psychoanalytischen Trieblehre …Entscheidend wurde hier die Einführung des Begriffes Narzißmus, d. h. die Einsicht, daß das Ich selbst mit Libido besetzt ist, sogar deren ursprüngliche Heimstätte sei und gewissermaßen auch ihr Hauptquartier bleibe. 


このナルシシズム的リビドーは、対象に向かうことによって対象リビドーともなれば、ふたたびナルシシズム的リビドーの姿に戻ることもある。Die Neurose erschien als der Ausgang eines Kampfes zwischen dem Interesse der Selbstbewahrung und den Anforderungen der Libido, ein Kampf, in dem das Ich gesiegt hatte, aber um den Preis schwerer Leiden und Verzichte. 


ナルシシズムの概念が導入されたことにより、外傷神経症、数多くの精神病に境界的な障害、および精神病自体の精神分析による把握が可能になった。

Der Begriff Narzißmus machte es möglich, die traumatische Neurose sowie viele den Psychosen nahestehende Affektionen und diese selbst analytisch zu erfassen. 

 (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)


最晩年の論文でもそうである、《自我のなかにすべての利用可能なリビドー量が蓄積される》と。

エスや超自我のなかにリビドーの振舞いの何ものかを言うのは困難である。リビドーについてわれわれが知りうるすべては、自我に関わる。自我のなかにすべての利用可能なリビドー量が蓄積される。われわれはこれを絶対的原ナルシシズム[absoluten primären Narzissmus]と呼ぶ。この原ナルシシズムは、自我がリビドーを以って対象表象に備給し、ナルシシズム的リビドーを対象リビドーに移行させるまで続く。

Es ist schwer, etwas über das Verhalten der Libido im Es und im Überich auszusagen. Alles, was wir darüber wissen, bezieht sich auf das Ich, in dem anfänglich der ganze verfügbare Betrag von Libido aufgespeichert ist. Wir nennen diesen Zustand den absoluten primären Narzissmus. Er hält solange an, bis das Ich beginnt die Vorstellungen von Objekten mit Libido zu besetzen, narzisstische Libido in Objekt-libido umzusetzen.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


これを受け入れるなら、前期ラカンの自我の想像界は《影と反映の形象に過ぎない》は容認し難い。当時のラカンは自我心理学叩きを強烈に推し進めていた結果、いささか道に迷ったのではなかろうか。したがって重要なのは、繰り返せば、ボロメオの環における現実界と象徴界の重なり目だと私は思う。