サントームの臨床における自由連想ーーシニフィアンを介しての解釈の臨床ーーは2010年前後から、主流ラカン派では否定されている。
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ラカンは幻想を、欲動と主体を統合し調和させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカンの観点からすれば、この戦略は錯誤的であり、主体を反復循環に陥らせるものである。1960年代、ラカンは精神分析的治療の目的を「幻想の横断」と捉えていた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。その過程において、欲動および他者との新たな関わり方が可能になるはずだと。 しかし、1970年代の晩年の理論において、ラカンは、治療がシニフィアンを介して行われる限り、そのような「横断」は不可能であると結論づけた。なぜなら、シニフィアンは必然的に、欲動の現実界と、そこに存在するあらゆる表象形式との間の構造的な隔たりを是認してしまうからである。そこで彼は、いわゆるサントームの構築を提唱する、他者の支配や欲動の執拗な衝動を回避しつつ、現実界・想像界・象徴界に対処する純粋に私的な方法として、である。この新たな論理において、分析家は、転移関係において自分に帰属させられた同一性の破綻を容認し、分析対象者との関係において対象aの次元を能動的に体現する存在となる。 |
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Lacan conceptualizes phantasy as a typically neurotic strategy of integrating and reconciling the drive with the subject. From a Lacanian point of view this strategy is illusory and throws the subject into a cycle of repetition. In the 1960s, Lacan considered the aim of a psychoanalytic treatment to “traverse the phantasy.” This means that the compulsory way a subject repeats the scenario of phantasies over and over again is something to break through. In the process, another type of relating to both the drive and the other should become possible. Yet in his later theory from the 1970s, Lacan concluded that such a traversal is impossible as long as a treatment operates via signifiers, as these necessarily endorse the structural gap between the real of the drive and whatever form of representation exists. He then advocates the construction of what he calls a “sinthome” as a purely private way of dealing with the real, the imaginary, and the symbolic that gets around the dominance of the other as well as around the insisting urge of the drive. Within this new logic the analyst is a figure who endorses the bursts in the identity attributed to him/her in the transference relation, and who actively incarnates the dimension of the object a in relation to the analysant. |
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(スティン・ヴァンヒューレ&ポール・バーハウ Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe, Identity through a Psychoanalytic Looking Glass, 2009 PDF) |
ポール・バーハウとスティン・ヴァンヒューレはラカン研究のメッカのひとつベルギーゲント大学の師弟コンビだが、これは仏主流派でも同様。
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ピエール=ジルは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。 Pierre-Gilles tells us that Lacan makes an important clinical point indicating that the analyst should not interpret the fundamental fantasy, as it encourages the analysand to stay attached to it. |
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(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre–Gilles Guéguen Dublin, 6th December 2013) |
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ピエール=ジル・ゲガーンはミレール派(フロイト大義派)のたぶんナンバースリーぐらいのポジションにいる人物で、ジャック=アラン・ミレールに先行して1994年にラカンの現実界の症状は固着だとした(現実界の症状、すなわちサントーム)。 |
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症状はラカンが固着の名を与えたものである[Le symptôme est le nom que Lacan donne à la fixation ]( Pierre-Gilles Guéguen dans Options lacaniennes de mars 1994) |
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固着とはトラウマ的固着であり、前回も最後に記したように事実上、外傷神経症。だから少なくとも「幻想の臨床」ではなく「サントームの臨床」では自由連想はやっちゃあいけないんだ。これは、日本でも中井久夫も言っていたがね。 |
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境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りになれば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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中井久夫は私の知る限りで固着用語は使っていないが退行とはいっている。 |
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精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。 この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
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ここでの退行が事実上、固着であり、前エディプス期の固着への退行。 |
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固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である。発達の過程での固着が強ければ強いほど、固着への退行がある[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind. Je stärker die Fixierungen auf dem Entwicklungsweg, …Regression bis zu jenen Fixierungen ](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年) |
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前エディプス期の固着への退行はとても頻繁に起こる[Regressionen zu den Fixierungen jener präödipalen Phasen ereignen sich sehr häufig; ](フロイト『続精神分析入門』第33講、1933年) |
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このようにもしサントーム=固着に臨床の焦点を当てれば、自由連想はお釈迦である。
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男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。〔・・・〕 「身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す」と老いた詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)はその『カイエ』(生涯書き綴ったノート)に記している。心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八カ月で瘢痕治療する身体の外傷とは画然とした相違がある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。 しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー、一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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ーー《分析はあまりに遠くまで押し進めるべきではない。分析主体(患者)が自分は生きていてよかったと思えば、それで十分だ[Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.]》(Lacan, Universidad de Yale, 1975-11-24) |
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「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé … ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 ) |
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分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation]. 〔・・・〕われわれはトラウマ化された享楽を扱っているのである[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011) |
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ピエール=ジル・ゲガーンはミレール派のなかでは最も詩人的臨床家だよ、たぶんね。 |
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ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴をつくる。固着が無意識のリアルな穴を身体に穿つ。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。 |
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le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas, |
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(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015) |
ラカンのいうポエジーとは要するにこういうことじゃないかね
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コトバとコトバの隙間が神の隠れ家(谷川俊太郎「おやすみ神たち」) |
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エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」) |
こういうことはおそらく日本のラカン派はまったく言わないだろうからな、詩人から遠く離れたヤツばっかりで。
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詩は身体の共鳴が表現される。 la poésie, la résonance du corps s'exprime(Lacan, S24, 19 Avril 1977) |
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詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である。la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou. (Lacan, S24, 17 Mai 1977) |
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身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
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詩の言葉は、分析主体の言葉と同様、「言語という意味の効果」と「ララングという意味外の享楽の効果」を結び繋ぐ。それはラカンがサントームと呼んだものと相同的である。Le dire du poème, donc, tout aussi bien que le dire de l'analysant, noue, fait tenir ensemble les effets de sens du langage et des effets de jouis-sance hors sens de lalangue. Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011) |
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これらはラカンがアンコールの最後で言った話す身体[le corps parlant ]に起源があるんだがな、 |
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私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ]〔・・・〕現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973) |
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現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016) |
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フロイトは『夢解釈』の7章で、心的装置を虚構と呼んでいる。虚構でないないものは話す身体である。フロイトは心的装置の虚構原理を身体に見出した。それは反射装置として構成されている。興奮を、可能な最低水準に維持するような仕方にて統制される過程として。 |
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L'appareil psychique, Freud l'appelle, au chapitre 7 de Die Traumdeutung, une fiction. Ce qui n'est pas une fiction, c'est le corps parlant. C'est dans le corps que Freud trouvait le principe de sa fiction de l'appareil psychique. Il est construit sur l'arc réflexe, en tant que processus réglé de manière à maintenir au plus bas la quantité d'excitation. |
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(ジャック=アラン・ミレール『無意識と話す身体』L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER, 2014) |
……………
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ラカンによれば非意味のシニフィアンの発明が必要らしいよ、サントームの臨床には。 |
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いずれにせよ、私が主張したいのは、シニフィアンの発明は記憶とは異なるものだということだ。子どもがそのシニフィアンを発明するわけではない。受け取るのだ。そして、それこそが、もっと深く掘り下げる価値がある点なのである。なぜ新しいシニフィアンを発明しないのだろうか? 私たちのシニフィアンは常に受け取られたものである。 例えば、「現実界」のように、まったく非意味のシニフィアンなどを…… どうなるかは分からないが、それはおそらく実り多いものになるかもしれない。 Ce que j'énonce en tout cas, c'est que l'invention d'un signifiant est quelque chose de différent de la mémoire. Ce n'est pas que l'enfant invente ce signifiant : il le reçoit. Et c'est même ça qui vaudrait qu'on en fasse plus. Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau ? Nos signifiants sont toujours reçus. Un signifiant par exemple qui n'aurait - comme le Réel - aucune espèce de sens… On ne sait pas, ça serait peut-être fécond. (ラカン、S24、17 Mai 1977) |
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ボクは《垣間見られた陰毛の光景への固着[fixieren den Anblick der Genitalbehaarung]》 (フロイト『フェティシズムFetischismus』1927年)があるからそれに同一化しつつ、かつ飼い馴らすために「蚊居肢」シニフィアンを発明してみたんだが、そういえば少しは「女狂い」がおさまったかな・・・ |
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分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。 Alors en quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse ? Est-ce que ça serait ou ça ne serait pas s'identifier… s'identifier en prenant ses garanties, une espèce de distance …s'identifier à son symptôme ? それは何を知ることを意味するのか? ーー症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。Alors qu'est-ce que ça veut dire connaître ? Connaître veut dire : - savoir faire avec ce symptôme, - savoir le débrouiller, - savoir le manipuler. (…) c'est là la fin de l'analyse. (Lacan, S24, 16 Novembre 1976) |
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ラカンは提言した、分析の終わりを症状との同一化によって(この症状は当時のラカンがサントームと名付けたものである)[Lacan a proposé de définir la fin de l'analyse par l'identification au symptôme (qu'il nomme alors sinthome).](Michel Bousseyroux Au commencement, le symptôme À la fin, le sinthome ou… ? 2015) |
何はともあれ重要なのは倒錯らしいよ、
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倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい 。〔・・・〕私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。« perversion » ne veut dire que « version vers le père », et qu'en somme le père est un symptôme ou un sinthome, comme vous le voudrez. …je l'écrive la « père-version ».(Lacan, S23, 18 Novembre 1975) |
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最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として[il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres]. (J.-A. MILLER, L'Autre sans Autre, 2013) |
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倶利伽羅紋々だって固着から距離を置くという意味でのサントームとして機能するらしいぜ。 |
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刺青は、主体と身体との関係における「父の名」でありうる。Un tatouage peut être un Nom-du-Père dans la relation que le sujet a avec son corps. (J.A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009) |
ヤアサンたちはあれで女狂いをコントロールしてんのかね、とすればサントームの臨床の至高の先行例さ。そこのキミ、堅物の臨床家なんか相手して症状を悪化させておらずにヤクザに弟子入りしたらどうだい?
いやシツレイしました、おバカなこと書いてしまって。どうも乱れるんだよな、書いてくうちに。
要するにサントームの臨床なんてたいしたもんじゃないよ。幻想の横断の臨床よりははるかにマシってだけでさ。いやあんなもん害悪でしかないのにいまだよくマガオでやってるよ。
そのうちこの投稿の後半消すからな、今日のハッパはなんだか効きすぎだぜ