2026年7月12日日曜日

サントームの臨床における自由連想のお釈迦


サントームの臨床における自由連想ーーシニフィアンを介しての解釈の臨床ーーは2010年前後から、主流ラカン派では否定されている。


ラカンは幻想を、欲動と主体を統合し調和させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカンの観点からすれば、この戦略は錯誤的であり、主体を反復循環に陥らせるものである。1960年代、ラカンは精神分析的治療の目的を「幻想の横断」と捉えていた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。その過程において、欲動および他者との新たな関わり方が可能になるはずだと。


しかし、1970年代の晩年の理論において、ラカンは、治療がシニフィアンを介して行われる限り、そのような「横断」は不可能であると結論づけた。なぜなら、シニフィアンは必然的に、欲動の現実界と、そこに存在するあらゆる表象形式との間の構造的な隔たりを是認してしまうからである。そこで彼は、いわゆるサントームの構築を提唱する、他者の支配や欲動の執拗な衝動を回避しつつ、現実界・想像界・象徴界に対処する純粋に私的な方法として、である。この新たな論理において、分析家は、転移関係において自分に帰属させられた同一性の破綻を容認し、分析対象者との関係において対象aの次元を能動的に体現する存在となる。


Lacan conceptualizes phantasy as a typically neurotic strategy of integrating and reconciling the drive with the subject. From a Lacanian point of view this strategy is illusory and throws the subject into a cycle of repetition. In the 1960s, Lacan considered the aim of a psychoanalytic treatment to “traverse the phantasy.” This means that the compulsory way a subject repeats the scenario of phantasies over and over again is something to break through. In the process, another type of relating to both the drive and the other should become possible.


Yet in his later theory from the 1970s, Lacan concluded that such a traversal is impossible as long as a treatment operates via signifiers, as these necessarily endorse the structural gap between the real of the drive and whatever form of representation exists. He then advocates the construction of what he calls a “sinthome” as a purely private way of dealing with the real, the imaginary, and the symbolic that gets around the dominance of the other as well as around the insisting urge of the drive. Within this new logic the analyst is a figure who endorses the bursts in the identity attributed to him/her in the transference relation, and who actively incarnates the dimension of the object a in relation to the analysant.

(スティン・ヴァンヒューレ&ポール・バーハウ Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe, Identity through a Psychoanalytic Looking Glass, 2009 PDF



ポール・バーハウとスティン・ヴァンヒューレはラカン研究のメッカのひとつベルギーゲント大学の師弟コンビだが、これは仏主流派でも同様。


ピエール=ジルは、ラカンの重要な臨床転回点について、我々に告げている、分析家は根本幻想を解釈すべきでない。それは分析主体(患者)を幻想に付着したままにするように唆かす、と。

Pierre-Gilles tells us that Lacan makes an important clinical point indicating that the analyst should not interpret the fundamental fantasy, as it encourages the analysand to stay attached to it.

(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre–Gilles Guéguen Dublin, 6th December 2013)


ピエール=ジル・ゲガーンはミレール派(フロイト大義派)のたぶんナンバースリーぐらいのポジションにいる人物で、ジャック=アラン・ミレールに先行して1994年にラカンの現実界の症状は固着だとした(現実界の症状、すなわちサントーム)。


症状はラカンが固着の名を与えたものである[Le symptôme est le nom que Lacan donne à la fixation ( Pierre-Gilles Guéguen dans Options lacaniennes de mars 1994


固着とはトラウマ的固着であり、前回も最後に記したように事実上、外傷神経症。だから少なくとも「幻想の臨床」ではなく「サントームの臨床」では自由連想はやっちゃあいけないんだ。これは、日本でも中井久夫も言っていたがね。


境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りになれば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


中井久夫は私の知る限りで固着用語は使っていないが退行とはいっている。

精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)


ここでの退行が事実上、固着であり、前エディプス期の固着への退行。

固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である。発達の過程での固着が強ければ強いほど、固着への退行がある[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind. Je stärker die Fixierungen auf dem Entwicklungsweg, …Regression bis zu jenen Fixierungen ](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年)

前エディプス期の固着への退行はとても頻繁に起こる[Regressionen zu den Fixierungen jener präödipalen Phasen ereignen sich sehr häufig; ](フロイト『続精神分析入門』第33講、1933年)


このようにもしサントーム=固着に臨床の焦点を当てれば、自由連想はお釈迦である。



ピエール=ジルによればサントームの臨床は事実上、ララングの臨床。➤参照:ララング文献集


最終的に、精神分析は主体のララングを基盤にしている[Enfin, une psychanalyse repose sur lalangue du sujet]。ミレールは厳しくララングと言語を区別した。主体の享楽の審級にあるのは言語ではなくララングだと[ce n'est pas le langage qui met en ordre la jouissance du sujet, mais lalangue]。たとえばミシェル・レリスの « …reusement »である。ミレールはこのレリスの事例を何度も注釈している。これを通して、精神分析は言語のモノ性[motérialité]を見出だす。ある言葉との出会いの偶然性があるとき、《一者の身体の孤独における享楽を引き出す[retirent la jouissance dans la solitude du Un-corps]》。そして知の外部の場に位置付けられたその場を《人は何も知らない[où on n'en sait rien 》(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen 「一般化フェティシズムの時代の精神分析 PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ 2010年)


最晩年のラカンはこう言ってるがね

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. (Lacan, S24. 17 Mai 1977


分析家は本来的には詩人の必要があるようだな。中井久夫のような。



男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。〔・・・〕

「身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す」と老いた詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)はその『カイエ』(生涯書き綴ったノート)に記している。心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八カ月で瘢痕治療する身体の外傷とは画然とした相違がある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。


しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー、一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


ーー《分析はあまりに遠くまで押し進めるべきではない。分析主体(患者)が自分は生きていてよかったと思えば、それで十分だ[Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.]》(Lacan, Universidad de Yale, 1975-11-24)



「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé … ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. 〔・・・〕われわれはトラウマ化された享楽を扱っているのである[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE2011


ピエール=ジル・ゲガーンはミレール派のなかでは最も詩人的臨床家だよ、たぶんね。

ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴をつくる。固着が無意識のリアルな穴を身体に穿つ。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas,

(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015



ラカンのいうポエジーとは要するにこういうことじゃないかね


コトバとコトバの隙間が神の隠れ家(谷川俊太郎「おやすみ神たち」)

エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだという。(中井久夫「顔写真のこと」)



こういうことはおそらく日本のラカン派はまったく言わないだろうからな、詩人から遠く離れたヤツばっかりで。


詩は身体の共鳴が表現される。 la poésie, la résonance du corps s'exprime(Lacan, S24, 19 Avril 1977)

詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である。la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice


詩の言葉は、分析主体の言葉と同様、「言語という意味の効果」と「ララングという意味外の享楽の効果」を結び繋ぐ。それはラカンがサントームと呼んだものと相同的である。Le dire du poème, donc, tout aussi bien que le dire de l'analysant, noue, fait tenir ensemble les effets de sens du langage et des effets de jouis-sance hors sens de lalangue. Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011