2020年7月31日金曜日

「欲動の抑圧」と「抑圧の残滓」





フロイトの思考をマテームを使って翻訳してみよう。大きなAは抑圧、享楽の破棄(取り消し)である。


Chez Freud, et c'est ce que j'avais traduit, en son temps, par le mathème suivant : grand A refoulant, annulant la jouissance. 


フロイトにおいてこの図式における大きなAは、エスの組織化された部分としての自我の力である。さらにラカンにおいて、非破棄部分が対象aである。


Ce schéma, en termes freudiens, grand A, c'est la force du moi, en tant que partie organisée du ça. Et de plus, chez Lacan, ça comporte qu'il y a une partie non annulable, petit a, 〔・・・〕


フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れることである。つまり享楽の抑圧・欲動の抑圧は、欲動要求を黙らせるには十分でない。それは自らを主張する。

ce que Freud pose quand il aperçoit que la motion de la pulsion échappe à toute influence, que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. Comme il s'exprime : 


すなわち、症状は自我の組織の外部に存在を主張して、自我から独立的である。

le symptôme manifeste son existence en dehors de l'organisation du moi et indépendamment d'elle. 〔・・・〕


これは「抑圧されたものの回帰」のスキーマと相同的である。そして症状の形態における「享楽の回帰」と相同的である。そしてこの固執する残滓がラカンの対象aである。

C'est symétrique du schéma du retour du refoulé, …symétriquement il y a retour de jouissance, sous la forme du symptôme. Et c'est ce reste persistant à quoi Lacan a donné la lettre petit a. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)




《残滓がラカンの対象a》とあるが、この対象aの別名は、異者(異者としての身体[Fremdkörper])である。


享楽は、残滓 (а)  による。la jouissance[…]par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)


自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである。 das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es [...] in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. 〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



したがって冒頭図は次のようにも図示できる。




ラカン語彙においては、自我が言語に、欲動が享楽に変わるだけであり、基本はフロイトの思考と同じである。






斜線を引かれた享楽の上の大他者[grand A sur grand J barré. ]。


これが父の名の効果である。父の名の真の本質は言語である。すなわち言語の構造自体が享楽を投げ捨てる効果をもつ。[c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père, que la vraie identité du Nom-du-père, c'est le langage, que la structure de langage elle-même a un effet anéantissant sur la jouissance. ](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme,    14/1/98)

ファルスの意味作用とは厳密に享楽の侵入を飼い馴らすことである。La signification du phallus c'est exactement d'apprivoiser l'intrusion de la jouissance (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne,1987)



ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)

言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)



…………………



※付記


「欲動の抑圧」というときの「抑圧」は、原抑圧(=固着)である。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


この《原抑圧された欲動primär verdrängten Triebe》の別の呼び方は《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)である。


そしてここに残滓としての異者が発生する。


原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る。Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年、摘要)


フロイトにとって「抑圧」の意味は、初期から最後まで「翻訳の失敗」である。


翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧 Verdrängung」呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fließ, 6.12.1896)

抑圧されたものはエスに帰する。(…)自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままである。

Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen […]  das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand geho-ben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das ei-gentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5  Schwierigkeiten, 1939年)


エス、すなわち身体的な欲動の心的なものへの翻訳の失敗による「異者としての身体」の発生が、原無意識ということになる。


エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



ラカンは異者についてこうも言っている。


ひとりの女は異者である。 une femme, […] c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. 

しかしこの不気味なものは、人がみなかつて最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。Dieses Unheimliche ist aber der Eingang zur alten Heimat des Menschenkindes, zur Örtlichkeit, in der jeder einmal und zuerst geweilt hat.

「愛は郷愁だ」とジョークは言う。 »Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort,


そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい。und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen. 


したがっての場合においてもまた、不気味なものはこかつて親しかったもの、昔なじみのものである。この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴なのである。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


とはいえ異者はもちろん女性器だけではない(より詳しくは「不気味な異者」参照)。


心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。

im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,[…] daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)



2020年7月30日木曜日

人はみな穴埋めする





◼️すべての症状はトラウマに対する防衛である
すべての症状形成は、不安を避けるためのものである alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen。(フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)
結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)
不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる。Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand. (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion. (フロイト、シュレーバー症例 「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
我々の言説はすべて現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(J.A. Miller,  Clinique ironique, 1993)
明らかに、現実界はそれ自体トラウマ的であり、基本情動として原不安を生む。想像界と象徴界内での心的操作はこのトラウマ的現実界に対する防衛を構築することを目指す。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)

◼️人はみな穴埋めする
我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが、穴=トラウマを為す。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

ーー流派によって一般化妄想と一般化倒錯が別々に強調されているが、穴埋めという観点からは一般化妄想と一般化倒錯は同一である。


◼️人はみな妄想する(一般化妄想)
フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する。
Freud[…] Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant (Jacques Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978)
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )

◼️人はみな倒錯する(一般化倒錯)
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である toute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。
あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
倒錯者は、大他者の穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)

ーー要するに一般化妄想も一般化倒錯も「一般化症状」に収斂する。

◼️一般化症状
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。あなた方がお好きなら、この症状をサントームとしてもよい ou un sinthome, comme vous le voudrez。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé,  (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、L'Autre sans Autre、2013)
症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011)

◼️一般化排除=女性のシニフィアンの排除
限定された父の名のシニフィアンの排除の彼岸には、女性のシニフィアンは存在しないという一般化された排除がある。Au-delà de la forclusion restreinte du signifiant du NDP, la forclusion se généralise à celle du signifiant LȺ femme n’existe pas. (Gustavo Stiglitz, Devant le fou, devant le délirant,  n’oublie, 2018)

◼️一般化排除の穴=女性のシニフィアンの排除の穴
女性のシニフィアンの排除の穴 trou de la forclusion de La femme, (Catherine Bonningue, Un « roque » final, 2012)
人はみな、標準的であろうとなかろうと、普遍的であろうと単独的であろうと、一般化排除の穴 Trou de la forclusion généralisée.を追い払うために何かを発明するよう余儀なくされる。…

もし、「妄想は、すべての話す存在に共通である le délire est commun à tout parlêtre」という主張を正当化するとするなら、その理由は、「参照の空虚 vide de la référence」にある。この「参照の空虚」が、ラカンが記したȺ(大他者のなかの穴)の意味であり、ジャック=アラン・ミレールが「一般化排除 forclusion généralisée 」と呼んだものである。(Jean-Claude Maleval, Discontinuité - Continuité – ecf、2018)

◼️人はみな性的妄想をする
父の名、この鍵となる機能[Nom-du-Père, cette fonction clé]は、ラカン自身によってディスカウントされた。彼の教えの進路においてデフレーションがあり、父の名は最後にはサントーム以外の何ものでもなくなる。つまり穴の補填である[finissant par faire du Nom-du-Père rien d'autre qu'un sinthome, soit une suppléance au trou]。…父の名の症状によって穴埋めされる穴は、人間における性関係の不在の穴である[que ce trou comblé par le symptôme Nom-du-Père renvoie à l'impossible du rapport sexuel dans l'espèce humaine]。

父の名の失墜[Le déclin du Nom du Père]は、臨床において予期されなかった遠近法を導入する。ラカンの表現「人はみな狂っている。人はみな妄想する[Tout le monde est fou, c'est à dire, délirant] 」はジョークではない。これは狂気のカテゴリーを話す存在すべてに拡張していると翻訳できる[Cela renvoie à l'extension de la catégorie de la folie à tous les être parlants]。つまり人はみなセクシャリティについてどうすべきかの知の欠如に苦しむ。(J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)
「性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel」。これは、まさに「女性のシニフィアンの排除 forclusion du signifiant de la femme」が関与している。そして女性のシニフィアンの排除とは、人が女の普遍的概念[concept universel de la femme]をもっていないということである。それは、ラカンの発言「人はみな狂っている Tout le monde est fou」を正当化する。
この正当化されたレベルにおいて、主体において、女性の主体と性関係 le sujet de la femme et du rapport sexuel において、各人は性関係の構築をする[chacun a sa construction]。すなわち各人は性的妄想を抱く[chacun a son délire sexuel]。したがって特に、「すべての女は狂っている Toutes les femmes sont folles」とラカンは言った。これは、女性性の普遍的概念が欠けているゆえである。女たちは女が何であるか知らないのである[elles ne savent pas qui elles sont]。しかしラカンはまたこうも言う、「女たちは狂っているわけではまったくないelles ne sont pas folles du tout」と。というのは女たちは自分が知らないことを知っているから[elles savent qu'elles ne savent pas]。他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。…
私は、フロイトのテキストを拡大し、…「性関係はないものとしての原抑圧の名[le nom du refoulement primordial comme Il n'y a pas de rapport sexuel」を強調しよう。…
話す存在 l'être parlant にとっての固有の病い、この病いは排除と呼ばれる[cette maladie s'appelle la forclusion]。女というものの排除 la forclusion de la femme)、これが「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」の意味である。(Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, Cours du 26 novembre 2008) 

◼️一般化トラウマ(一般化穴)
穴、それは非関係・性を構成する非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexue(S22, 17 Décembre 1974)
人はみなトラウマ化されている。…この意味は、すべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)

◼️一般化去勢=一般化穴
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident (Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
-φ [去勢]の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めの結びつきを理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi. […]c'est la façon la plus élémentaire de comprendre […] la conjugaison d'un trou et d'un bouchon. (J.-A. MILLER,  L'Être et l'Un,- 9/2/2011)

◼️穴としての享楽/穴埋めとしての剰余享楽
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
あなた方が知っているように、ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別 [distinguera la jouissance du plus-de-jouir.]した時、形式化をいっそうしっかりしたものにするようになった。なぜラカンは区別したのか、空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽  [la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir] を? その理由は対象aは二つを意味するからである。生き生きとした形で言えば、対象aは穴と穴埋め [le trou et le bouchon] である。

対象aが示しているのは、「中心にないものとしての不在[l'absence de ce qu'il n'y a pas en ce centre])と「その不在を埋め合わせる穴埋め [le bouchon qui comble cette absence]」の両方である。したがって、対象aは二つの顔を持つ。ポジの顔は穴埋め le bouchonである。もう一つの顔は、不在 un absence、控除 un moinsと等価である。これは対象aが去勢 castrationを含んでいることを示す記述に見出される。われわれは対象aを去勢(- φ) を含んだものとして置く。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986)



2020年7月29日水曜日

男女差 (J.-A. Miller, 1999)





J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999
「持つこと」の水準には、厳密にリアルなペニスがある。それは、パートナーの一方に属し、他方には属さないものである。われわれはそれをシンプルにプラスマイナスで書く。「ある」と「ない」である。au niveau de l'avoir, précisément du pénis réel […] Nous l'écrivons, […] en opposant simplement le plus et le moins, le il y a et le il n'y a pas.  
対象の項において、男性側では対象は、フェティッシュの形式[la forme du fétiche]を取る。フェティッシュは基本の対象であり、対象aである[objet de base, l'objet petit a]。…フェティッシュはもちろん対象aの特徴を強調するが、対象aのひとつのヴァージョンに過ぎない。[Le fétiche, bien sûr, accentue le caractère de l'objet petit a. Ce n'est qu'une des versions de l'objet a]。

女性側の被愛妄想érotomanieはフェティッシュに比べ、より対象的はなくmoins objectal、愛を支える対象un objet support de l'amourであり、ラカンは穴Ⱥと徴した。
ラカンは繰り返し強調している、愛があるところには、去勢の条件があると。この理由で、愛の大他者は彼が持っているものを剥奪されなければならない。Lacan a souligné, de façon répétitive, que, pour qu'il y ait de l'amour, il y a une condition de castration. C'est pourquoi Lacan pouvait dire que, pour une femme, l'Autre de l'amour doit être privé de ce qu'il donne.  
欲望の原因 cause du désirの項において、剰余享楽と愛の対立opposition entre le plus-de-jouir et, de l'autre côté, l'amourがある。さらにこの愛を強調すれば「狂気の愛 amour fou」である。この意味は何か。アンドレ・ブルトンの書名であるが、この「狂気の」という形容詞は、本質として限度なき愛を示す[amour, par essence, est sans limite]。

ラカンの定義において、「愛はあなたが持っていないものを与える l'amour est donner ce qu'on n'a pas」である。愛は、持つことの完膚なきまでの廃棄[annulation complète de l'avoir]にある。…これが構造Ⅲにて示したものである。左側には有限[le limité]、右側には無限[l'illimité]がある。この無限は、持つことの彼岸としての愛の地位[statut de l'amour comme au-delà de l'avoir]から還元したものである。
享楽の様式 modes-de-jouir の項の左側に症状、右側に破壊[à gauche le symptôme et à droite le ravage]を記す。

破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。穴とは、「限度なき」という意味での非全体である。Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, le pas-tout au sens du sans-limite. 

他方、症状は常に有限の苦痛・局地化された苦痛である。le symptôme, c'est une souffrance toujours limitée, une souffrance localisée.  (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999、摘要訳)


2020年7月27日月曜日

性別化の式のデフレ


ジャック=アラン・ミレール は2012年、ラカンのアンコールセミネール20の名高い「性別化の式」は二次的なものに過ぎないと言った。フロイト大義派(ミレール 派)のメンバー以外は、いまだほとんどのラカン派はこの観点を受け入れていないように見えるが、ここではこのミレールを受け入れつつ、資料を提示する。

ーーそもそも後期ラカンの現実界の定義を受け入れるなら、ミレールのように捉える他ないのではあるが➡︎「後期ラカンの現実界の定義」。 

性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。[Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. ]

⋯⋯結局、性別化の式は)、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」の後に介入された「二次的結果」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。[…sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après] (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)

《身体とララングとのあいだの最初期の衝撃choc initial du corps avec lalangue》とあるが、このララングは母の言葉であり、原症状としてのサントームに関わる。

ララングlalangueは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の言葉[lalangue maternelle)]と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。(コレット ・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
サントームは母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère(ジュヌヴィエーヴ・モレル Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)

最晩年のラカンは「言語は存在しない」=「大他者は存在しない」、つまり象徴界は存在しない(象徴界は仮象に過ぎない)、ララングしかないと言っている。

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)
象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ).(ラカン、 S24, 08 Mars 1977)

したがってミレールはこう言う。

すべてが仮象(見せかけsemblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない rapport sexuel qu'il n'y a pas」という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT、2014)

《話す身体 le corps parlant》 については次の通り。

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
真理は本来的に嘘と同じ本質を持っている。(フロイトが『心理学草稿』1895年で指摘した)proton pseudos[πρωτoυ πσευδoς] (ヒステリー的嘘・誤った結びつけ)もまた究極の欺瞞である。嘘をつかないものは享楽、話す身体の享楽である Ce qui ne ment pas, c'est la jouissance, la ou les jouissances du corps parlant。(JACQUES-ALAIN MILLER, L'inconscient et le corps parlant, 2014)

《話す身体》とは《言存在 parlêtre》とも言い換えられるが、この話す身体が事実上のララングの身体、サントームの身体である。

ラカンは “Joyce le Symptôme”(1975)で、フロイトの「無意識」という語を、「言存在 parlêtre」に置き換える remplacera le mot freudien de l'inconscient, le parlêtre。…
言存在 parlêtre の分析は、フロイトの意味における無意識の分析とは、もはや全く異なる。言語のように構造化されている無意識とさえ異なる。 analyser le parlêtre, ce n'est plus exactement la même chose que d'analyser l'inconscient au sens de Freud, ni même l'inconscient structuré comme un langage。

言存在のサントーム le sinthome d'un parlêtre は、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現 une émergence de jouissanceである 。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《ひとりの女 une femme》でありうる。(ジャック=アラン・ミレール、L'inconscient et le corps parlant、2014)

ミレールが《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《ひとりの女 une femme》と言っているのは、ラカン自身の発言なら次の通り。

ひとりの女は、他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (Laan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)

ラカンは、こうも言っている。

ひとりの女は異者である。 une femme, […], c'est une étrangeté.  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

したがって《サントームは異者である》とも言いうる(参照)。

ラカンの享楽には大きく言語内の享楽としてのファルス享楽と本来の享楽としての身体の享楽があるが、サントームが本来の享楽である。

サントームという本来の享楽 la jouissance propre du sinthome (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)
サントームは反復享楽であり、S2なきS1(フロイトの固着)を通した身体の自動享楽に他ならない。ce que Lacan appelle le sinthome est […] la jouissance répétitive, […] elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2(ce que Freud appelait Fixierung, la fixation) (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011、摘要訳)



性別化の式のデフレに伴って女性の享楽が本来の享楽となる。

確かにラカンは第一期に「女性の享楽 jouissance féminine」の特性を「男性の享楽jouissance masculine」との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)

サントーム=本来の享楽とは、フロイトの自体性愛のことである。

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

自体性愛とは、自己身体の享楽だが、この「自己身体」は実際には異者身体である(参照:異者文献)。

この異者身体とは究極的には、原幼児期に自己身体だと見なしていたが、去勢=分離されてしまった母の身体である。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
享楽の対象 Objet de jouissance…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…それは…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)
例えば胎盤は…個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を示す。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)

乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

したがってミレール は次のように言う。

享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。…去勢呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が、自己身体の享楽の徴である。La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. […] la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. (J.-A. MILLER, Introduction à l'érotique du temps、2004)
去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)
サントームはモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)


以上。

現実界の定義の移行


書かれることを止めないもの [un ne cesse pas de s'écrire]。これが現実界の定義 [la définition du réel] である。…


書かれぬことを止めないもの[ un ne cesse pas de ne pas s'écrire]。すなわち書くことが不可能なもの[ impossible à écrire]。この不可能としての現実界は、象徴秩序(言語秩序)の観点から見られた現実界である。[le réel comme impossible, c'est le réel vu du point de vue de l'ordre symbolique] (Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse IX  Cours du 11 février 2009)


二つの現実界

セミネール1973年4月までの現実界

後期ラカンの現実界

書かれぬことを止めない

ne cesse pas de ne pas s'écrire

書かれることを止めない

ne cesse pas de s'écrire

私の定式: 不可能性は現実界である ma formule : l'impossible, c'est le réel. (Lacan, RADIOPHONIE、AE431、1970)

症状は現実界について書かれることを止めない。le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン, La Troisième, 1974)

不可能性:書かれぬことを止めないもの Impossible: ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrire (Lacan, S20, 13 Février 1973)         

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (S 25, 10 Janvier 1978)

現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)

現実界は、見せかけ(象徴秩序)のなかに穴を為す。ce qui est réel c'est ce qui fait trou dans ce semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…それは原抑圧と関係がある。私は信じている、フロイトの夢の臍を文字通り取らなければならない。それは穴である。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt,[…] je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou (ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

現実界との出会いとしてのテュケーは、出会い損なうかもしれない出会いのことである。la τχη [ tuché ]… du réel comme rencontre, de la rencontre en tant qu'elle peut être manquée, (ラカン, S11, 12 Février 1964)



………………


問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
ある時期以降のラカンの反復はフロイトの反復強迫であり、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )

モノを 、フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
原抑圧と同時に固着が行われ、暗闇に異者が蔓延る Urverdrängung[…] Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; […]wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen, (フロイト『抑圧』1915年)
現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 Fremdkörper のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)
フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

心的無意識のうちには、欲動蠢動Triebregungenから生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫[inneren Wiederholungszwang]を思い起こさせるものである。


Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,[] daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche1919年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es [] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation [] der Exterritorialität, [] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen [] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。〔・・・〕そして抑圧において固着する要素は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである。


Triebregung  [] vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –[] Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. (フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)


私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(J.-A. MILLER, Le Partenaire Symptôme - 19/11/97)

フロイトにとって症状は典型的に反復強迫と結びついた「止めないもの qui ne cesse pas」である。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは彼の思考を概括している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫に見出されるフロイトはこの論文で、症状を記述するとき、欲動の絶え間なさを常に示している。欲動要求は「行使されることを止めないものであるne cesse pas de s'exercer」。


Pour Freud remarquons que le symptôme est par excellence lié à ce qui ne cesse pas, lié à la compulsion de répétition, et c'est ainsi que dans le chapitre X de Inhibition, symptôme et angoisse, où Freud récapitule ses réflexions, il indique que le symptôme implique une fixation et que le facteur de cette fixation est à trouver dans la compulsion de répétition du ça inconscient. Et chaque fois que Freud dans cet ouvrage a à décrire le symptôme, il le décrit comme lié à la constance de la pulsion, à l'exigence pulsionnelle en tant qu'elle ne cesse pas de s'exercer. . (J.-A. MILLER, L'Autre qui  n'existe pas  et ses comités d'éthique - 26/2/97)

われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwang の作用、その自動反復 automatisme de répétition (Automatismus) の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求はリアルな何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un,  - 2/2/2011)


ーーミレール が示していることは、ラカンの《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire》 (S 25, 10 Janvier 1978)とは、現実界は無意識のエスの反復強迫だということである。


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)
人はみなトラウマ化されている。…この意味は、すべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
現実界は穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)



幼児期の純粋な出来事的経験は、リビドーの固着を置き残す傾向がある。daß rein zufällige Erlebnisse der Kindheit imstande sind, Fixierungen der Libido zu hinterlassen.(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)

フロイトが固着と呼んだもの。無意識の最もリアルな対象aは、享楽の固着だと考えねばならない。ce que Freud appelait [] la fixation. Il faut considérer que ce qui a de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)

病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕


問題となる出来事は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児型健忘の期間内にある。その出来事は、「隠蔽記憶」として知られる、いくつかの分割された記憶残滓へと通常は解体されている。Die betreffenden Erlebnisse sind in der Regel völlig vergessen, sie sind der Erinnerung nicht zugänglich, fallen in die Periode der infantilen Amnesie, die zumeist durch einzelne Erinnerungsreste, sog. Deckerinnerungen, durchbrochen wird.〔・・・〕


このトラウマは自己身体の上への出来事 もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我への傷(ナルシシズム的屈辱)である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs (narzißtische Kränkungen)]〔・・・〕


この作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]


これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印 と呼びうる。[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen] (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年

フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)

享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、トラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est []  de l'ordre du traumatisme,[] elle est l'objet d'une fixation. J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011

精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状・シニフィアンと享楽の結合としての症状である。〔・・・〕現実界の到来は文字固着を通して起こる。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion, coalescence de signifant et de jouissance;[] L' avènement de réel se fait par sa lettre-fixion (コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)