2019年7月26日金曜日

死への道は愛である


享楽=エロス(愛の力)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)


上にみられるように、享楽=エロス(愛の力)である。

死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

すなわち「死への道は、愛と呼ばれるもの以外の何ものでもない」。

この認識が、フロイト派どころか、ほとんどのラカン派でさえ欠けている。

愛は死の欲動の側にある。l'amour est du côté de la pulsion de mort. (Jean-Paul Ricœur, LACAN, L'AMOUR, 2007)

以下、こうでしかありえないことを文献をもって示す。


エロスとタナトスは融合と分離である
エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争 neikos[νεκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものである。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけzusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
究極のエロス(享楽)は死である
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un。…

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
原マゾヒズムとは自己破壊欲動である
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。⋯⋯

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
エロスとタナトスは引力と斥力である
愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がおそらくある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト『人はなぜ戦争するのか Warum Krieg?』1933年)
同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe (エロスとタナトス)の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
すべての欲動の目標は死である
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.…有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵Lebenswächterも元をただせば、死に仕える衛兵 Trabanten des Todes であった。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、……母胎回帰運動  Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
母胎回帰とは母なる大地との融合である
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)
欲動は死の漂流(享楽のさまよい)である
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語として「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance(ラカン、Télévision 、Autres écrits, p.534、1973)
死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。death is what Lacan translated as Jouissance.(J.-A. MILLER, A AND a IN CLINICAL STRUCTURES、1988年)
死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006)


ラカン的な「欲動一元論」ではなく、フロイトの記述を生かして「欲動二元論」の立場もある。

仮にそうであれ、愛の引力(死への引力)が先にある。斥力としてのタナトスは、死=エロスから分離しようとする運動ということになる。この立場をとれば、タナトスとは生きようとする運動である。




生の欲動は死を目指し、死の欲動は生を目指す。[the life drive aims towards death and the death drive towards life.] (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe , Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender, 2004)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009)




2019年7月15日月曜日

ニーチェ・フロイト・ラカンの三幅対



エス
人の発達史と人の心的装置において、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものはエスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
自我の、エスにたいする関係は、奔馬 überlegene Kraft des Pferdesを統御する騎手に比較されうる。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行うという相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志 Willen des Es を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923年)
力への意志 Willens zur Macht とエスの力能 Macht des Es
これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学 morphologyと力への意志 Willens zur Macht 展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。…

心理学者は…少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび諸科学(人間学 Wissenschaften)の女王として承認することを。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年)
エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図を表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすること 、不安の手段により危険から己を保護すること、そのような意図はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
おまえはエスを知っているではないか
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」)
「おまえはエスesを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスesを語らない」(Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht! )(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻」)
ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我Ichと呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」»gelebt» werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächtenと。…

(この力を)グロデックに用語に従ってエスEsと名付けることを提案する。

グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつも使われている。(フロイト『自我とエス』1923年)
Libido, Lust, Jouissance 
人間や動物にみられる性的欲求 geschlechtlicher Bedürfnisseの事実は、生物学では「性欲動 Geschlechtstriebes」という仮定によって表される。この場合、栄養摂取の欲動Trieb nach Nahrungsaufnahme、すなわち飢えの事例にならっているわけである。しかし、「飢えHunger」という言葉に対応する名称が日常語のなかにはない。学問的には、この意味ではリビドーLibido という言葉を用いている。(フロイト『性欲論』1905年)
学問的に、リビドー Libido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものではあるが、残念なことに多義的であって、欲求 Bedürfnisses の感覚と同時に満足 Befriedigungの感覚を呼ぶのにもこれが用いられる。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
享楽 Lustが欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ。Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.…すべての享楽は永遠を欲する。 alle Lust will - Ewigkeit! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
原マゾヒズムと死の欲動
マゾヒズムの根には、苦痛のなかの快 Schmerzlustがある。ー(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
不快とは、享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. (Lacan, S17, 11 Février 1970)
マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion (原マゾヒズム)を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
享楽 Lustが欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。―― _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」)
私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)
死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
おお、永遠よ!私はおまえを愛している。
君はおのれを「我 Ich」と呼んで、このことばを誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないものーーすなわち君の肉体 Leibと、その肉体のもつ大いなる理性 grosse Vernunft なのだ。それは「我」を唱えはしない、「我」を行なうのである die sagt nicht Ich, aber thut Ich。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「肉体の軽侮者」)
ああ、どうして私は永遠を求める激しい渇望に燃えずにいられよう? 指輪のなかの指輪である婚姻の指輪を、ーーあの回帰の輪Ring de Wiederkunftを求める激しい渇望に!
私はまだ自分の子供を産ませたいと思う女に出会ったことがないーーだが、ただ一人私が愛し、その子供が欲しい女がここにいる。おお、永遠よ!私はおまえを愛している。(第3部「七つの封印 Die sieben Siegel 」)
エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
力への意志と至高の欲動
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ『偶像の黄昏』「私が古人に負うところのもの」1888年)
力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。…しかし力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)
完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleib がある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
死への道 le chemin vers la mortは、享楽 jouissanceと呼ばれるもの以外の何ものでもない。(ラカン、S17、26 Novembre 1969)
有機体はそれぞれの流儀に従って死を願う sterben will。生命を守る番兵Lebenswächterも元をただせば、死に仕える衛兵 Trabanten des Todes であった。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
「完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがうWas vollkommen ward, alles Reife - will sterben!」 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)
傷ついた永遠の生
何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である  das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。生殖による、性の密儀による総体的永生としての真の生である。das wahre Leben als das Gesamt. -Fortleben durch die Zeugung, durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit. (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)
リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、永遠の生(不死の生 vie immortelle)である。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして、去勢は「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER,  Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
傷ついた享楽 jouissance blessée(Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。(Lacan parle à Bruxelles, Le 26 Février 1977
種こそがすべてであり個人は常に無に等しい
十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)
おまえたちは、かつて享楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -

……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第10節)


2019年7月4日木曜日

サントームは自閉症的享楽である



⋯⋯⋯⋯

以下、現在主流ラカン派の定義においてサントームは自閉症的享楽であり、フロイトの固着であることを示す。


サントーム(原症状)=トラウマによる反復強迫

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。 Le sinthome, c'est le réel et sa répétition (MILLER, L'Être et l'Un,, 9/2/2011)

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (Lacan, S23, 10 Février 1976)

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマtraumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。(Lacan, S23, 13 Avril 1976)

◆反復強迫


現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (Lacan, S 25, 10 Janvier 1978)

現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)

フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)

骨象=文字対象a=固着

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe,  BEYOND GENDER, 2001年)

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。( Paul Verhaeghe,  BEYOND GENDER, 2001年)

精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel,  2017年)

◆S2なきS1=固着


反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER、L'Être et l'Un, 23/03/2011)

サントーム=固着

ラカンが症状概念の刷新 rénovation du concept de symptômeとして導入したもの、それは時に∑(シグマ)と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (J.-A. MILLER, Ce qui fait insigne、1987)

「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつきconnexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。


フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。


Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,L'être et l'un 30/03/2011)


リビドーは、固着Fixierung によって、退行の道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。…


実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」1916年)

より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着 Fixierung、欲動の固着 Fixierung (des Triebes nämlich)と呼ばれるものである。(フロイト『精神分析入門』第22講、1916年)

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…


いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

享楽は身体の出来事である。享楽(身体の出来事)はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である。la jouissance est un événement de corps.[…] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的出来事の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。(フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1916年)

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」…


これは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

…この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

享楽の様式としてのサントーム、享楽の機能、欲動的享楽の反復機能 le sinthome comme mode de jouir, fonctionnement de jouissance, fonctionnement-répétition de jouissance pulsionnelle  (Miller, Choses de finesse en psychanalyse IV, 3/12/2008)

享楽はまさに固着である。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)





…………

ジャック=アラン・ミレールは、2005年のセミネールの冒頭で次の図を示している。



ーーこれは右項が地階、左項が上階にあるという意味である(現実界という地階/象徴界という上階)。穴とはラカンの定義においてトラウマのことである。オートマンとあるのは、フロイトの自動反復、ミレールが2011に言った身体の自動享楽のことである。

くり返して示しておこう。

…この欲動蠢動 Triebregungは(身体の)「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして(この欲動の)固着する瞬間 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es となる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1 を通した身体の自動享楽 [auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2]に他ならない。(Jacques-Alain Miller, L'être et l'un, 23/03/2011)

そしてこの自動反復=身体の自動享楽=サントームが自閉症的享楽である。

サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)


ーーこの自閉症的享楽が、現実界の享楽自体である(ファルス享楽とは象徴界の享楽にすぎない)。


2019年7月2日火曜日

去勢された自己身体ーー自体性愛文献


◼️自体性愛的欲動=享楽自体

自体性愛的欲動は原初的である。Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)


ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である。


Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance, et plus précisément, comme je l'ai accentué cette année, par sa jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. […] Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


われわれは口唇欲動の満足と純粋でシンプルな自体性愛を区別しなければならない。la pulsion orale …distinguer cette satisfaction  du pur et simple autoérotisme 


自体性愛の対象は実際は、空洞、空虚の現前以外の何ものでもない。〔・・・〕そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象aの形態をとる。この永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である。autoérotisme […] Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide……et dont nous ne connaissons l'instance que sous  la forme de la fonction de l'objet perdu (a), […] l'origine[…] il est à contourner cet objet éternellement manquant. (Lacan, S11, 13 Mai 1964)


《自体性愛の対象は、空洞[creux]、空虚[vide」》とあるが、これらは去勢あるいは穴と等価である。


私は常に、一義的な仕方で、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ).  (Lacan, S11, 11 mars 1964)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)


ーーここでの大他者とは、身体である。


大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](ラカン、S14, 10 Mai 1967)

身体は穴である。[corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)



ラカンは享楽=穴=去勢とも言っている。


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

享楽は去勢である la jouissance est la castration。(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)





◼️自体性愛的享楽=自己身体の享楽

モノは疑いもなく、われわれがナルシシズムと呼ぶものの深淵な真理である享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。この去勢された享楽の対象は、外密のポジションにある。ラカンはこの外密をモノの名として示した。[la Chose…C'est sans doute la vérité profonde de ce que nous appelons le narcissisme. La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même, et c'est cette jouissance foncièrement auto-érotique qui est marquée de l'obstacle. Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. Cet objet de la jouissance … comme occupant une position extime, …c'est ce que Lacan a désigné du nom de la Chose](J.-A. Miller,Introduction à l'érotique du temps, 2004)


ーーモノ=外密とは母、より厳密にいえば、母の身体、喪われた母の身体(去勢された母の身体)である[後述]。自己身体の享楽の徴は去勢(あるいは去勢された享楽の対象)とあるが、つまりは究極の自己身体とは去勢された自己身体である。これはどういうことか。


乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり、自己身体の重要な一部の喪失[Verlust eines bedeutsamen, zu seinem Besitz gerechneten Körperteils] と感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為[Geburtsakt ]がそれまで一体であった母からの分離[Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war]として、あらゆる去勢の原像[Urbild jeder Kastration]であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)

疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。乳房が分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)


つまり自己の身体だと見做していたが喪われてしまった身体が、実際の自己身体であり、去勢された自己身体=喪われた対象となる。フロイトは主に母の乳房の喪失を言っている。


去勢は、身体から分離される糞便や離乳における母の乳房の喪失という日常的経験を基礎にして描写しうる。Die Kastration wird sozusagen vorstellbar durch die tägliche Erfahrung der Trennung vom Darminhalt und durch den bei der Entwöhnung erlebten Verlust der mütterlichen Brust. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


だが上にあったように「去勢の原像」としては、出生による母との分離とされている。すなわちこれがいわば原去勢である。


例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  (ラカン、S11、20 Mai 1964)


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。欲動は身体の空洞に繋がっている。


il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou. C'est-à-dire ce qui fait que la pulsion est liée aux orifices corporels.


原抑圧との関係、原起源にかかわる問い。私は信じている、フロイトの「夢の臍」を文字通り取らなければならない。それは穴である。それは分析の限界に位置する何ものかである。


La relation de cet Urverdrängt, de ce refoulé originel, puisqu'on a posé une question concernant l'origine tout à l'heure, je crois que c'est ça à quoi Freud revient à propos de ce qui a été traduit très littéralement par ombilic du rêve. C'est un trou, c'est quelque chose qui est à la limite de l'analyse.〔・・・〕

人は臍の緒によって、何らかの形で宙吊りになっている。はっきりしているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤によってである。臍は聖痕である。

…que quelqu'un s'est trouvé en quelque sorte suspendu[…]  pour lui du cordon ombilical. Il est évident que ce n'est pas à celui de sa mère qu'il est suspendu, c'est à son placenta.…l'ombilic est un stigmate.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)


以上、「本来の享楽=自体性愛的享楽=自己身体の享楽」の対象は、「去勢された自己身体=喪われた対象」であり、究極の喪われた対象とは、母胎であることを示した。

すなわち究極の享楽回帰とは母胎回帰である。


反復は享楽回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは断言している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD].   〔・・・〕


フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。[conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. ](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)




究極の欲動ーー身体的要求ーーとは去勢された自己身体を取りもどそうとする生きている存在には不可能な反復強迫運動のことであり、これが自体性愛的欲動=享楽自体である。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。

Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)

エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(ラカン、E848、1966年)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)




「去勢された自己身体=喪われた対象」の別名は、異者としての身体である。

次の用語とマテーム群はすべて同じ価値を持っている。




以下、上に引用した文と重なるところもあるが、確認のため列挙する。


◼️現実界=モノ=異者

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)


◼️現実界=トラウマ(穴)=異物(異者としての身体)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

現実界は…穴=トラウマを為す。le Réel […] ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß.フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


◼️現実界=享楽=去勢=穴=異者としての身体

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (Lacan, S23, 10 Février 1976)

享楽は去勢である。 la jouissance est la castration(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

私は常に、一義的な仕方で、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。cet objet(a)...ce que j'ai pointé toujours, d'une façon univoque, par l'algorithme (-φ).     (ラカン、S11, 11 mars 1964)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)


◼️(- φ) = (- J)

われわれは去勢と呼ばれるものを、 « - J »の文字にて、通常示す。[qui s'appelle la castration : c'est ce que nous avons l'habitude d'étiqueter sous la lettre du « - J ».] (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、享楽喪失(- J) を表すフロイト用語である。le moins-phi (- φ) qui veut dire « castration » , le mot freudien pour cette soustraction de jouissance. (- J) (J.~A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


◼️モノ=享楽=去勢=異者=穴

モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance(J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un  25/05/2011)

モノを フロイトは異者とも呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)

モノとしての享楽の価値は、穴と等価である。La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


◼️モノ=喪われた対象=対象a

享楽の対象としてのモノは喪われた対象である。Objet de jouissance …La Chose …cet objet perdu(Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

自体性愛の対象は実際は、空洞、空虚の現前以外の何ものでもない。〔・・・〕そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われ対象aの形態をとる。この永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である。


autoérotisme […] Cet objet qui n'est en fait que la présence d'un creux, d'un vide……et dont nous ne connaissons l'instance que sous  la forme de la fonction de l'objet perdu (a), […] l'origine[…] il est à contourner cet objet éternellement manquant. (ラカン、S11, 13 Mai 1964)



……………

※参照


◼️モノ=トラウマ=現実界=穴=母の身体=対象a

(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma, (ラカン、S11、12 Février 1964)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である。ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

「母はモノである」とは、母はモノのトポロジー的場に来るということである。これは、最終的にメラニー・クラインが、母の神秘的身体[le corps mythique de la mère]をモノの場に置いた処である。« la mère c'est das Ding » ça vient à la place topologique de das Ding, où il peut dire que finalement Mélanie Klein a mis à la place de das Ding le corps mythique de la mère. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme  - 28/1/98)

母は構造的に対象aの水準にて機能する。C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )

〈大文字の母〉、その基盤は「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou(Colette Soler « Humanisation ? », 2014)


クラインの分節化は次のようになっている、すなわちモノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である。L'articulation kleinienne consiste en ceci :  à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)




ラカンはフロイトに依拠しつつ、「異者としての身体」について次のトーラス円図も示している(参照)。





……………………


なお自体性愛の別名は、原ナルシシズムである。


後期フロイト(おおよそ1920年代半ば以降)において、「自体性愛-ナルシシズム」は、「原ナルシシズム-二次ナルシシズム」におおむね代替されている。原ナルシシズムは、自我の形成以前の発達段階の状態を示し、母胎内生活という原像、子宮のなかで全的保護の状態を示す。


Im späteren Werk Freuds (etwa ab Mitte der 20er Jahre) wird die Unter-scheidung »Autoerotismus – Narzissmus« weitgehend durch die Unterscheidung »primärer – sekundärer Narzissmus« ersetzt. Mit »primärem Narzissmus« wird nun ein vor der Bildung des Ichs gelegener Zustand sder Entwicklung bezeichnet, dessen Urbild das intrauterine Leben, die totale Geborgenheit im Mutterleib, ist. (Leseprobe aus: Kriz, Grundkonzepte der Psychotherapie, 2014)


自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)


原ナルシシズム的リビドー =自体性愛的欲動は欲動自体であり、究極の欲動の目標は母胎である。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



※追記


なお、フロイトは 1909年の段階で既にこう書いている。

自体性愛から対象愛への発展において、ある点に固着されたままのものがあり、それは自体性愛に近似する[Sie sind in der Entwicklung vom Autoerotismus zur Objektliebe an einer Stelle, dem Autoerotismus näher, fixiert geblieben. ](フロイト『症例ハンス』第3章、1909年)


この固着が自己身体への固着、あるいは「去勢された自己身体の固着=喪われた自己身体への固着」に相当する。かつて自己身体と見做していた母の身体への固着である。


対象関係の前性器的欲動への過剰な固着、それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。lun excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre..  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)


つまりは、自体性愛=自己身体の享楽=享楽自体とは、究極的には「喪われた自己身体への固着の享楽[la jouissance de fixation sur le corps propre perdu]である。