2017年11月15日水曜日

神経症者の「倒錯行為」と倒錯者の「倒錯の構造」とのあいだの相違

◆ロラン・バルト、『テキストの快楽 Le plaisir du texte』 、Date de parution 01/02/1973)

テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストのうしろに、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない。テクストは文法的な態度を失わせる。それは、ある驚くべき著述家(アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius)の語っている区別できない眼だ。《私が神を見ている眼は、神が私を見ている眼と同じである。L'œil par où je vois Dieu est le même œil par où il me voit》 

◆ラカン、セミネール20(「アンコール」、20 Février 1973

例えば、アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius 。彼は自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同している confondre son œil contemplatif avec l'œil dont Dieu le regarde。そこには、倒錯的享楽 la jouissance perverse があるといわざるをえない。(ラカン S.20, 20 Février 1973)

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(倒錯者の倒錯構造と)神経症者における倒錯的特徴との差別化が認知されなければならない。神経症的主体は倒錯性の性的シナリオをただ夢見る主体ではない。彼あるいは彼女は同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認するということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯者の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の貧弱さを他者に向けて明示的に説教する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、2001,、PERVERSION II,PDF

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窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗き見行為の震えるような不安の興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、盗み見みする光景からくる悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深刻に観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN,2001)

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【倒錯の三つの特徴】

①頑固な(融通のない)前性器的シナリオがある。
②そのシナリオが倒錯的主体に強迫的に課されている。
③それを通して、彼(女)は権力と支配の関係性を設置する。
①は古典的特徴である。もっともここでの強調は形容詞に置かれる。すなわち「融通性のない」性格である。疑いもなく、神経症的文脈内でも、前性器的シナリオはいたる処にある。固有の倒錯的特徴は、自由の欠如と組み合わさった「頑固さ」に関わる。

シナリオからのどんな逸脱も、不安と緊張の源泉である。精神分析的観点からは、これを「反復強迫 Wiederholungszwang」の形式ーー「反復 Wiederholen」の形式ではなくーーとして理解しうる。事実、我々が神経症的文脈から知っているように、どの「反復」も、絶えず移行する想像的な欲望の弁証法の内に、何か新しいものを含んでいる。対照的に「反復強迫」ーーフロイトによって外傷神経症のなかに見出されたもの--は、外傷的現実界からの何かを象徴化するその試みにおいて、きわめて融通のなさ(執拗さ)を伴っている。
②の特徴は、倒錯にかんする神経症者の「薔薇の絵(羨望)」とは合致しない。倒錯者はエロティックな官能主義者ではない。全く正反対である。倒錯的主体は基本的に不自由である。彼は殆ど一定不変のシナリオの上演に向かって、衝動的な形を以て駆り立てられている。その上演はとてもしばしば何か奇妙なものとして倒錯者に経験される。そして目的は、まず何よりも不安と緊張の削減である。

上演後、倒錯者は安堵感に出会う。しかしまた、恥・罪・鬱の感情を抱く。言い換えれば、倒錯的主体は分割された主体である。彼は、自身の奇妙な振舞いへと駆り立てる要因自体にさえ気づいていない場合がある程に、二つの部分に分割されている。これが説き明かすのは、倒錯者はその社会生活において、とても正常な人物・社会適応した人物でありうることである。分割された他の部分が彼を乗っ取ったときにのみ、倒錯が瞭然とする。
③は最も興味深い特徴である。そしてこれはいくつかの点にかかわる。臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。(ポール・バーハウ、2001、PERVERSION II,PDFより)

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倒錯者と神経症者が生み出される発達段階における相違は何か?

乳幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、彼は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外を通して、自己のアイデンティティの基礎を獲得する。いったんこの基礎のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。(……)

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。したがって、子供は自身の欲動の表象能力を獲得できない。ましてやそれに引き続く自身の欲望のどんな加工も不可能である。

構造的用語で言えば、これはファルス化された対象 a に還元されるということである。その対象a を通して、母は彼女自身の欠如を塞ぐ。母からの分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる。

こうして子供は自らを逆説的なポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなることは子供にとって勝利である。他方で、このために支払う代価は高い。分離がないのだ。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe ,2010,PDF)


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ジジェクはこれらの倒錯構造を一般化している。これは議論の余地はあるだろうが、ほぼ正しいだろう、なかんずく父なき時代(象徴的権威の崩壊の時代)には、人は多かれ少なかれ、みな構造的倒錯者でありうる。

貧乏な田舎者が、乗っていた船が難破して、たとえばシンディ・クリフォードといっしょに、無人島に漂着する。セックスの後、女は男に「どうだった?」と訊く。男は「すばらしかった」と答えるが、「ちょっとした願いを叶えてくれたら、満足が完璧になるんだが」と言い足す。頼むから、ズボンをはき、顔に髭を描いて、親友の役を演じて欲しいというのだ。「誤解をしないでくれ、おれは変態じゃない。願いを叶えてくれれば、すぐにわかる」。女が男装すると、男は彼女に近づいて、横腹を突き、男どうしで秘密を打ち明け合うときの、独特の流し目で、こう言う。「何があったか、わかるか? シンディ・クリフォードと寝たんだぜ!」

目撃者としてつねにそこにいるこの〈第三者〉は、無垢で無邪気な個人的快感などというものはありえないことを物語っている。セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

ポルノグラフィの時代における世界の変貌



◆Deborah De Robertis flashes Paris museum goers on May 2014



これは一つの例だが、ポルノグラフィの氾濫によって、世界は或は人間はーーそしておそらく芸術はーー変貌している事実を過小評価してはならない。


◆LECTURE BY JACQUES-ALAIN MILLER — PARIS, 15.07.2014  L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANTより


【精神分析の変貌】
精神分析は変貌している。 (……)

たとえば、ある断絶を我々は見逃すことはありえない。フロイトが精神分析を発明したのは、ヴィクトリア朝支配、セクシャリティ圧制の典型のいわば後ろ楯のもとでだ。他方、21世紀は、「ポルノ」よ呼ばれるもののとてつもない氾濫である。それは見せ物としての性交に到る。ウェブ上で、マウスの単純なワンクリックによって、誰にでもアクセス可能なスペクタクル。

ヴィクトリアからポルノへ。我々はただ禁止から許容へと移行したのではない。そうではなく、刺激・侵入・挑発・強制への移行だ。かつての幻想とは異なったポルノグラフィとは何だろう?あらゆる多様な倒錯性向を満足させるに充分なヴァラエティが映しだされるあのポルノは?

これは、セクシャリティにおいて、また社会制度において、新しい何かだ。若者のあいだでのその習得を促すパターンのなか、彼らはただひたすらこの道のりを歩み始める。(⋯⋯)


【男の性の弱化】
ポルノグラフィに触れると、弱くなる性は男の性だ。男たちのほうがいっそう容易に受け入れるから。我々は分析において、どんなにしばしば聞いただろう、あれらポルノの浮かれ騒ぎをやってみたいという強迫観念の不平不満を。彼らはハードディスクにストックしてさえいる。

他方、妻や恋人の側では、女たちは、パートナーの実践を自ら知っているにもかかわらず、彼らに比べてやってみることは相対的に少ない。そのときどうなるか? 場合によりけりだ。女は裏切りと思うかもしれない。取るに足らない娯楽と思うかもしれない。

ポルノグラフィの臨床は、21世紀に属する。私はいまそれに言い及んでいる。しかし、それは詳細に観察されるに値する。というのは、それはしつこく己れを主張し、この15年のあいだ、分析治療において際立って現前するようになったから。


【バロック時代と現代社会】
とはいえ我々は、このまさに現代的な慣習をめぐって思いを馳せざるをえない。ラカンによって指摘されたこと、すなわち芸術におけるキリスト教信仰の影響の高揚として、バロックの最盛期に実現された影響を。イタリアとその教会の周遊旅行から戻ってきてすぐ、ラカンはまさに「オーギー orgie (狂宴)」に言及した。ラカンは、セミネール「アンコール」にて、注意を促した。あれらすべての身体の露出は、享楽を呼び起こすことに相当する、と。

これが、我々がポルノグラフィティとともにある場だ。しかしながら、恍惚感をもたらす身体の宗教的露出は、性交自体に対しては、常に「オフ・スクリーン」のままだった。ラカンが観察したように、「人間の現実性」のなかの限界の彼方であるかのように。この「人間の現実性」の奇妙な再出現。Réalité humaine とは、ハイデガーの最初の翻訳者が Daseinと表現された語を仏語に翻訳した表現である。しかし、それは遠い昔のことだ。というのは、今ではどんな「存在」も、この Dasein への道のりから絶縁してしまっているのだから。

科学技術の時代には、性交はもはや個人の領野には限られていない。それは、我々おのおのの幻想を増長しつつ、今では表象の上演の領域に溶け込んでいる。それは大衆的な規模へと移り進んだ。

ポルノグラフィとバロックとのあいだで、強調されなけれなならない二番目の相違がある。ラカンが定義したように、バロックは、身体の観察手段、身体の凝視 “régulation de l'âme par la scopie corporell ”(S.20)を通して、魂の統御を図った。ポルノグラフィにはそんなものは微塵もない。何の統御もなく、むしろ絶え間ない侵犯がある。

ポルノグラフィにおける身体の凝視は、享楽に向かった「ひと突きnudge」として機能する。「剰余享楽」の型に従って満足させられるように図られた享楽への促し。それは、沈黙し孤立した達成のなかにある、危ういホメオスタシス(恒常性)的統御を逸脱する様式である。


【 性交の怒濤による意味のゼロ度】
(⋯⋯)電子ネットワークによるポルノグラフィの世界的蔓延は、精神分析において、疑いもなく歴然とした影響を生み出している。今世紀の始まりにおけるポルノグラフィの遍在は、何を表しているのか? どう言ったらいいのだろう? そう、それは「性関係はない」以外の何ものでもない。これが我々の世紀の谺である。そしてある意味で、ひっきりなしの、絶え間なく続くあのスペクタクルの聖歌隊によって、詠唱されていることだ。というのは、性関係の不在が、おそらくこの熱中に帰されうるから。我々は既に、この熱中の帰結を、より若い世代の道徳観のなかの足跡を辿りつつある。あの世代の性的振る舞いスタイルにおける習俗のなかに、である。すなわち、幻滅・残忍・陳腐…。

ポルノグラフィにおける性交の怒濤は、意味のゼロ度に到っている。…(ミレール、2014、私訳)

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※付記

ジャック=アラン・ミレールの文に現れるラカンの《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel》とは何か。

先ずフロイトの言葉を掲げよう。

男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く。

Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『続・精神分析入門講義』1933年)

ーーラカンの「性関係はない」とは、上のようなフロイトの考え方を大胆に表現したものに過ぎない。

「〜のようなものはない il n'y a pas」という表現は、性関係を基礎づけることが不可能だということである。…l'énoncé qu'il n'y a pas, qu'il est impossible de poser le rapport sexuel (ラカン、S20、21 Novembre 1972)


すなわち 「性関係はない」は、性交関係の不在に言及しているのではない。むしろ《性関係を基礎づけるものはない》という意味である。

ジジェクの注釈なら次の通り。

ラカンが「性関係はない there is no sexual relationship」という逆説的な表現であらわしたものとは、パートナーとの調和的な性関係を普遍的に保証するものはない、ということである。個々の主体が自分なりの幻想、つまり性関係の「私的な」公式を作り上げなくてはならない。女性との関係が可能なのは、唯一、パートナーがこの公式にフィットしたときだけである。(ジジェク『ラカンはこう読め』私訳)

あるいは、《「性関係はない」……性差とは二つの性的立場の対立であり、両者の間に共通分母はない。》(同上ジジェク)


ところで前期ラカンは、男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(E733)としているが、ジジェクの次の文は、この男性のフェティッシュ的愛/女性の被愛妄想の対照、そして《性関係を基礎づけるものはない il n'y a pas de rapport sexuel》の注釈として、すこぶる秀逸である。

二、三年前、イギリスのTVでビールの面白いCMが放映された。それはメルヘンによくある出会いから始まる。小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスをする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。

しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は物欲しそうな眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスする。すると少女はビール瓶に変わり、若者は誇らしげにその瓶を掲げる。女性から見れば(キスで表現される)彼女の愛情がカエルをハンサムな男、つまりじゅうぶんにファルス的存在に変える。男からすると、彼は女性を部分対象、つまり自分の欲望の原因(対象a)に還元してしまう。

この非対称ゆえに、「性関係はない」のである。女とカエルか、男とビールか、そのどちらかなのである。絶対にありえないのは自然な美しい男女のカップルである。幻想においてこの理想的なカップルに相当するのは、瓶ビールを抱いているカエルだろう。この不釣り合いなイメージは、性関係の調和を保証するどころか、その滑稽な不調和を強調する。

われわれは幻想に過剰に同一化するために、幻想はわれわれに対して強い拘束力をもっているが、右のことから、この拘束から逃れるにはどうすればよいかがわかる。同じ空間内で、同時に両立しえない幻想の諸要素を一度に抱きしめてしまえばいいのだ。つまり、二人の主体のそれぞれが彼あるいは彼女自身の主観的幻想に浸かればいいのだ。少女は、じつは若者であるカエルについて幻想し、男のほうは、じつは瓶ビールである少女について幻想すればいい。(ジジェク『ラカンはこう読め!』 鈴木晶訳 P.99~、一部訳語変更)

すなわち《性関係を基礎づけるものはない》とは、《ビール瓶を抱いたカエル》という男女の性の関係なのである。このイメージは、男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 と女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》とピッタリではなかろうか? 

これがわれわれの「標準的な」性関係の姿であることをしっかりと悟らねばならない。


2017年11月6日月曜日

真理は女である

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)
女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は嘘をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさである。

われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。(『善悪の彼岸』232番、1886年)

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.》(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)
真理はすでに女である。真理はすべてではない(非全体・非一貫性 pas toute)のだから。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)

人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)
女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

見せかけ semblant とは仮象のことである(事実、ラカン独語訳では「仮象 Schein」とされている)。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象 Schein を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年追加版)

男は愚かにも信じている、象徴的肩書きの「彼岸」、彼自身のなかの「深い」ところに己れの実体、ある隠された秘宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)