2026年10月3日土曜日

音楽日記:バッハBWV878フーガ

 


Prelude & Fugue No. 9, BWV878: II. Fugue

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Sviatoslav Richter

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Glenn Gould

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Rosalyn Tureck

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Edwin Fischer 

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Tatiana Nikolayeva

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Valery Afanassiev

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Zhu Xiao Mei

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Piotr Anderszewski

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Émile Naoumoff

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Emerson String Quartet

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Festival Strings Lucerne · Rudolf Baumgartner

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Mikkel Ploug, Electric Guitar




ーーと、いくつかの慣れ親しんだ演奏を聴くなか、最後にジャズギタリストのMikkel Plougの演奏に初めて出会った。彼はバッハのフーガが好きでたまらないんだろうな。


次の二曲もある。



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Mikkel Ploug - Bach F-minor Sinfonia BWV 795 for Guitar

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Mikkel Ploug - Bach's "Art of the Fugue" on a Gibson ES-330




……………



これまでの 80年間、私は毎日毎日、その日を、同じように始めてきた。ピアノで、バッハの平均律から、プレリュードとフーガを、 2曲ずつ弾く。〔・・・〕


シューマン、モーツァルト、シューベルト・・・ベートーヴェンですら、私にとって、一日を始めるには、物足りない。バッハでなくては。

どうして、と聞かれても困るが。完全で平静なるものが、必要なのだ。そして、完全と美の絶対の理想を、感じさせるくれるのは、私には、バッハしかない。

(パブロ・カザルス『鳥の歌』)
















フェティッシュと哲学のがらくた


以下、過去の在庫を探っていたら、10年以上前メモったラカンの哲学批判の文に行き当たった。完全に失念していたのでここに備忘。

あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。Méfiez -vous donc de votre précipitation: pour un temps encore, l'aliment ne manquera pas à la broutille philosophique.〔・・・〕


欲望の主体はない。あるのは幻想の主体である。つまりある対象によって引きおこされた主体の分裂、つまり対象によって覆われた主体の分裂、より正確にいえば、この対象とは、その場所が原因というカテゴリーによって主体の中で占められるような対象なのだが、こうした対象によって覆われた主体の分裂である。 

il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme, c'est-à-dire une division du sujet causée par un objet, c'est-à-dire bouchée par lui, ou plus exactement l'objet dont la catégorie de la cause tient la place dans le sujet.


この対象は、哲学的考察には欠如しており、そのために哲学的考察は自らを位置づけることができなくなっている、つまり、自らが無であることを隠している。 Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est-à-dire pour savoir qu'elle n'est rien. 〔・・・〕


私は、この対象を対象a と呼んでいる。〔・・・〕それはフェティッシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものだ。C'est seulement quand cet objet, celui que j'appelle l'objet petit a,(…) ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche, étant entendu que la psychanalyse

(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 AE205-207,1966)


上にフェティッシュとしての対象aとあるが、これは剰余享楽としての対象aである。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕

剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)



ラカンにはこの剰余享楽としての対象aだけでなく享楽自体としての対象aがある。ーー《私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されないものだ。[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, ]》(Lacan, S13, 09 Février 1966)


……………


❖附記


人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。

pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)


……問題は、この「力」 (交換価値)がどこから来るのか、ということです。マルクスはそれを、商品に付着する霊的な力として見出した。つまり、物神(フェティシュ)として。このことは、たんに冒頭で述べられた認識にとどまるものではありません。彼は『資本論』で、この商品物神が貨幣物神、資本物神に発展し、社会構成体を全面的に再編成するにいたる歴史的過程をとらえようとしたのです。〔・・・〕『資本論』が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、 物神的、つまり、観念的な力が支配する世界だということです。 〔・・・〕


マルクスはこう述べました。《商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(『資本論』第一巻1-2、岩波文庫1,p158)。いいかえれば、交換は、見も知らぬ、あるいは不気味な他者との間でなされる。 それは、他人を強制する「力」、しかも、共同体や国家がもつものとは異なる「力」を必要とします。これもまた、観念的・宗教的なものです。実際、それは「信用」と呼ばれます。マルクスはこのような力を物神と呼びました。《貨幣物神の謎は、商品物神の、目に見えるようになった、眩惑的な謎にすぎない》(『資本論』)。このように、マルクスは商品物神が貨幣物神、さらに資本物神として社会全体を牛耳るようになることを示そうとした。くりかえしていえば、 『資本論』 が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、物神的、つまり、 観念的な力が支配する世界だということです。〔・・・〕


一方、経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです。 (柄谷行人「交換様式論入門」2017年)




❖マルクス

商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

・・・この過程の全形態は、G - W - G' (貨幣-商品-貨幣')である。G' = G +⊿G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。

Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G - W - G', wo G' = G+⊿G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital. 

(マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)



❖フロイト

確かに、我々がフェティッシュの起源を観察した時、原初の欲動代理は二つ部分に分割され、一方は抑圧を受け、他方はまさにこの密接な結びつきのために理想化の運命を辿る。Ja, es kann, wie wir's bei der Entstehung des Fetisch gefunden haben, die ursprüngliche Triebrepräsentanz in zwei Stücke zerlegt worden sーein, von denen das eine der Verdrängung verfiel, während der Rest, gerade wegen dieser innigen Verknüpftheit, das Schicksal der Idealisierung erfuhr. (フロイト『抑圧』1915年)

フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕


幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt.

我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。

Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)



………………



単一体系で考える限り、貨幣は体系に体系性を与える 「無」にすぎない。しかし、異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章「価値形態と剰余価値」2001年)






ラカンの定義によれば、すべての主体は無に関わる[tout sujet, tel que le définit Lacan, a une relation avec le rien ] (J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)

我々は、見せかけを無をヴェールする機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)


見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971)

フェティッシュとしての見せかけである[c'est un semblant comme le fétiche.](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)


我々は、言語の使用の結果としての、剰余享楽(フェティッシュ)からの生まれた存在である[nous sommes des êtres nés du plus de jouir, résultats de l'emploi du langage.] (Lacan, S17, 21 Janvier 1970)

しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)




「幻想の横断の臨床」と「サントームの臨床」の相違

 


中期ラカンの「幻想の横断」の臨床というのは「欲望の横断」であり、欲動に出会うことだ。

どのように経験されるのか…根源的幻想を横断した主体によって…どのように欲動は体験されるのか?

Comment peut être vécue…  par un sujet qui a traversé le fantasme radical …comment dès lors est vécue la pulsion ?  (Lacan, S11, 24  Juin  1964)

(実際は)欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme ](Lacan, AE207, 1966)

欲望の機能の横断[traversée de la fonction du désir](Lacan, S14, 22  Février  1967)


他方、後期ラカンの「サントームの臨床」とは最も簡単に言えば、「欲動の臨床」である。


ジャック=アラン・ミレールは簡潔にこう言ってるがね。

われわれは症状からサントームへの道を取っている。それはまた、欲望から欲動への道、欠如から穴への道である[nous avons fait le chemin du symptôme au sinthome, qui est aussi un chemin du désir à la pulsion ou du manque au trou] (J.-A. MILLER, Conclusion des Leçons du sinthome, avril 2006)


まずサントーム=欲動=穴とはどういうことか。

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient]   (Lacan, S23, 17 Février 1976)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


要するに現実界の身体ーーエスの身体的要求ーーの臨床だ。

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


もちろん欲動はラカンの享楽であり、サントームの臨床は享楽の臨床と言ってもよい。

サントームという享楽自体 [la jouissance propre du sinthome] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


先に示したように穴は身体であり、享楽が身体の穴なのは次の文に現れている。

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)


次に症状=欲望=欠如とは何か。まず症状はサントームの覆いだ。

症状という形式的外被 [l'enveloppe formelle du symptôme ](Lacan, DE NOS ANTÉCÉDENTS, E66, 1966)

症状はサントームの形式的外被である[le symptôme est l'enveloppe formelle du sinthome ](Patricio Alvarez, Escabeau, 2016)


そして欲望は言語に関わる。

言語に翻弄される動物の特性として、人間の欲望は大他者の欲望であると仮定しなければならない[ il faut poser que, fait d'un animal en proie au langage, le désir de l'homme est le désir de l'Autre. ](Lacan, E628, 1960年)

欲望は言語と結びついている[le désir tient au langage ](J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


欠如も同様に言語であり、ファルス=欠如=言語=象徴界だ。

ファルスはそれ自体、主体において示される欠如の印以外の何ものでもない[  (le) phallus lui-même … n'est rien d'autre que ce point de manque qu'il indique dans le sujet. ](Lacan, LA SCIENCE ET LA VÉRITÉ, E877, 1965)

ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  ](ラカン, S18, 09 Juin 1971)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)






 要するに「中期ラカンの臨床から後期ラカンの臨床へ」とは、上階から始める臨床から地階から始める臨床、欲望の言語から欲動の身体に移行したということだ。



別の言い方をすれば、言語のように構造化された無意識ーー実際はフロイトの前意識ーーから話す身体の本来の無意識への移行だ。

無意識は言語のように構造化されている[L'inconscient est structuré comme un langage ](Lacan, S11, 22  Janvier  1964)


ーー《無意識の欲望は前意識に占拠されている[le désir inconscient envahit le pré-conscient]》(Solal Rabinovitch, La connexion freudienne du désir à la pensée, 2017)[参照]


私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ]〔・・・〕現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973)


ーー《現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ]》(Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)


➤参照:言語は身体に対する嘘


……………


❖注


最も簡潔に言ってしまえば上のようになるが、厳密には欲動の穴は心的なものと身体的なものの境界にあるので注意されたし。


欲動は、心的なものと身体的なものとの境界概念である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord.   ](Lacan, S16, 12 Mars 1969)