リシャールの批評は「テーマ批評」と呼ばれるが、この場合の「テーマ」とは作品の主題とか主張という意味ではなく、固着観念のように作品に繰りかえし登場する無意識的なテーマを意味する。本質的な作家は固着観念にとり憑かれているものだが、その固着観念を拾いだし、固着観念間のネットワークをあぶりだすために、従来見すごされてきた周縁的な作品まで含めて、あらゆるジャンルの作品を横断的に引照し、引用のパッチワークを作り上げる。(書評:加藤弘一 『マラルメの想像的宇宙』 ジャン=ピエール・リシャール)
◆蓮實重彦『夏目漱石論』より
漱石における『水』は、それが池であれ、河であれ、あるいは海であれ、奥行きを持って拡がる風景ではなく、人の視線を垂直に惹きつける環境なのだ。
漱石にあっては、雨が遭遇を告げる一つの符牒であるかのように、人と人を結び合わせる。そして多くの場合、漱石的「存在」は、その遭遇によって後には引き換えしえない時空へと自分を宙吊りにすることになる。
雨が担う説話論的機能はあまりにも明瞭であろう。語り手に一つの場面を捨てて別の情景へと移行するのを許すものは、ほかならぬ雨への言及なのだ。雨の光景を描くというより、雨の一語を口にすること、それが物語に変化を導入する符牒である。
溢れる水は漱石的存在に異性との遭遇の場を提供する。しかも、そこで身近に相手を確認しあう男女は、水の横溢によって外界から完全に遮断されてしまっているかにみえる。
あまたの漱石的「存在」が雨と呼ばれる厚い水滴の層をくぐりぬけたはてに出会うべきものは、ときには那美さんと呼ばれ、あるいは清子、あるいは嫂と呼ばれもする具体的な一人の女性ではなく、そうした水の女たちが体現する垂直の力学圏というか、縦に働く磁場そのものだということになろう。
漱石的存在は、だからあまたの水の女たちに向かってきわめて曖昧な、二律背反的な態度でしか応ずることができないのだ。女たちが現在へと誘うとき彼らは決まって過去か未来へと逃れ、運動そのものを回避してその軌跡や予想図と戯れる。だが、それには十分な理由がある。というのも、現在として生きられる運動はきまって死への契機をはらんでいるからだ。縦の世界、垂直に働く磁力に身をさらすことは、とりもなおさず生の条件の放棄につながっているからである。水滴の厚い層をくぐりぬけること、そして溜った水の表面に視線を落とすこと、それは未来と記憶とを同時に失うという代償なしには実現しえない身振りである。漱石的存在とは、その危険を本能的に察知しながらも、水の手招きにはことのほか敏感に反応してしまう者たちなのである。その背理は、しばしば彼らに優柔不断な相貌をまとわせ、それが「低徊趣味」とか「余裕派」とかの言葉を神話化することにもなるのだが、しかし水の誘いに反応してしまうというのは決定的な事態なのだ。漱石的優柔不断は、もっとも危険の近くにあるもののみに可能な、せっぱつまった身振りにほかならない。実際、彼らがはじめから垂直の磁力に身をゆだねてしまっていたとしたら、漱石的「作品」などはありうべくもなかったろう。