2017年8月30日水曜日

主体性とは女性性のこと

主体性の空虚$は、「語りうるもの」の彼岸にある「語りえぬもの」ではない。そうではなく、「語りうるもの」に固有の「語りえぬぬもの」である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

ラカン派においては、主体性とは女性性のことである。

標準的な読み方によれば、女はファルスを差し引いた男である。すなわち、女は完全には人間でない。彼女は、完全な人間としての男と比較して、何か(ファルス)が欠けている。

しかしながら、異なった読み方によれば、不在は現前 presence に先立つ。すなわち、男は、ファルスを持った女である。そのファルスとは、先立ってある耐え難い空虚を塞ぐ詐欺、囮である。ジャック=アラン・ミレールは、女性の主体性と空虚の概念とのあいだにある独特の関係性に注意を促している。

《我々は、「無」と本質的な関係性を享受する主体を、女と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女である主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。》 (Jacques-Alain Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)

ここから次の結論を引き出せないでどうしていられよう? すなわち、究極的には、主体性自体(厳密なラカン的意味での $ 、すなわち「棒線を引かれた」主体の空虚)が女性性である。これが説明するのは、女と見せかけ semblant (仮装としての女性性)とのあいだの独自の関係性である。見せかけとは「空虚」、「無」を隠蔽する外観である。無とは、ヘーゲル的に言えば、隠蔽するものは何もないという事実である。(ジジェク、FOR THEY KNOW NOT WHAT THEY DO、1991年→第二版序文、2008年より)

「見せかけ semblant (仮装としての女性性)」とあるのは、フロイト翻訳者でもあったジョン・リヴィエール Joan Rivièreの論「仮装としての女性性 Womanlinessas a Masquerade(1929)」にかかわる。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルスと同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958 )

前期ラカンとはいえ、そして精神分析理論に依拠しようがそうでなかろうがーーたとえばニーチェに依拠することも可能である、《真理は女である。die wahrheit ein weib 》(『善悪の彼岸』1886年)ーー、なによりもの出発点あるいは核心(たとえばフェミニストたちの議論において)は、この女性の仮装性を認めるか否かにかかわっている、と私は思う。

どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』)

《女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! 》(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)

ジャック=アラン・ミレールによって提出された「見せかけ semblant」 の鍵となる定式がある、「我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ。Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien」

これは勿論、フェティッシュとの繋がりを示している。フェティッシュは同様に空虚を隠蔽する、見せかけが無のヴェールであるように。その機能は、ヴェールの背後に隠された何かがあるという錯覚を作りだすことにある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

※「女性への推進力、男性への推進力」は、上の前提のもとに、現代における男女の役割の変貌の指摘をめぐるメモしている。

…………

※付記

女性の仮装性をニーチェは既に語っている。

・人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)

・女が男の徳をもっているなら、逃げだすがよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす。(同28番)

補足として、ふたたびジジェクを引用しておこう。

感情に強調が置かれる女に対して、ロゴスを代表するのが男ではない。むしろ、男にとって、全ての現実の首尾一貫・統一した普遍的原則としてのロゴスは、ある神秘的な言葉で言い表されない X (「それについて語るべきでない何かがある」)の構成的例外に依拠している。他方、女の場合、どんな例外もない、「全てを語ることができる」。そしてまさにこの理由で、ロゴスの普遍性は、非一貫的・非統一的・分散的、すなわち「非全体 pas-tout」になる。

あるいは、象徴的な肩書きの想定にかんして、男は彼の肩書きと完全に同一化する傾向にある。それに全てを賭ける(彼の「大義 Cause」のために死ぬ)。しかしながら、彼はたんに肩書き、彼が纏う「社会的仮面」だけではないという神話に依拠している。仮面の下には何かがある、「本当の私」がある、という神話だ。逆に女の場合、どんな揺るぎない・無条件のコミットメントもない。全ては究極的に「仮面」だ。そしてまさにこの理由で、「仮面の下」には何もない。

あるいはさらに、愛にかんして言えば、恋する男は、全てを与える心づもりでいる。愛された人は、絶対的・無条件の「対象」に昇華される。しかし、まさにこの理由で、彼は「彼女」を犠牲にする、公的・職業的「大義」のために。他方、女は、どんな自制や保留もなしに、完全に愛に浸り切る。彼女の存在には、愛に浸透されないどんな局面もない。しかしまさにこの理由で、彼女にとって「愛は非全体」なのだ。それは永遠に、不気味かつ根源的な無関心につき纏われている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳 )

今一部引用訳出した『LESS THAN NOTHING』第11 章「The Non‐All, or, the Ontology of Sexual Difference」は、ラカン理論における男女の性差を考える上ですぐれて核心的な注釈に満ち溢れている。→PDF


2017年8月29日火曜日

合理論と経験論

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 」2006)

理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。 (……)

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その真理に内在していた盲点と限界とが同時の露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

…………

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。

イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。

ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思う んです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。

しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山昌男『丸山座談5』針生一郎との対談)

もちろんたんに合理論だけでは埒が明かない、という観点もあろうが、合理論を「構造的」、あるいは「超越論的」に言い換えれば、この立場は欠かせない。

【構造的】
実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)


【超越論的】
柄谷) 僕は昔、批評と批判というふうに区別したことがあります。批判において、自分が含まれているものが批評、含まれていないものが批判というふうに呼んでいたことがある。

その意味で、カントの「批判」は、ふつうの批判とちがって批評と言いいんですけど、それは、彼の言葉でいえば、「超越論的」なのですね。自分が暗黙に前提している諸条件そのものを吟味にかけるということです。だから、彼のいう「批判」は、「超越的」、つまりメタレベルに立って見下ろすものではなく、自己自身に関係していくものだと思う。しかし、これは「自己意識」とは別だと思う。小林秀雄はそれを自己意識にしてしまった。(……)僕は、以前に」ゲーテル的問題」とか「自己言及のパラドックス」ということをいっていましたが、それは自己意識とはちがいます。形式的なものにかかわるからです。ウィトゲンシュタインは「論理学は超越論的である」といっている。論理学は言語に対して自己関係するものだからです。(柄谷行人/蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988)

《自分が批判している対象とは異質の地平に立って、そこに自分の主体が築けるんだと思うような形で語られている抽象的な批評がいまなおあとを絶たない》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。

しかし、カントの「批判」を、べつに「批判哲学」のように限定して考える必要はない。たとえば、今日デリダやド・マンのいうディコンストラクションは、「批判」以外の何であろうか。それは、一義的な意味(真理)を、決定不能性(二律背反)に追いこむことによって無効化するものだし、批判(解体)ではなく、「批判」(脱構築)なのである。「超越論的」という言葉も同様である。それをとくにフッサールのいう意味に限定する必要はない。(柄谷行人『探求Ⅱ』)


2017年8月27日日曜日

ふたつの資本主義

◆Slavoj Žižek 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? PDF

眼差しと声は、標準的社会関係の領野において、恥と罪の仮装の中に刻み込まれる。恥は、大他者の眼差しにつながっている。すなわち、私が恥じ入るのは、 (公的)大他者が剥き出しの私を見たり、私の汚れた内面が公けに曝露されたとき等々である。反対に罪は、他者たちが私をどう見るか、彼らが私について何を話すかについては関係がない。すなわち、私が自分自身において有罪と感じるのは、私の存在の核から送り届けられる声から生じる、内部から来る罪の圧迫による。

したがって、「眼差し/声」の対立は、「恥/罪」の対立と同様に、「自我理想/超自我」の対立とつなげられるべきである。超自我は、私に憑き纏い非難する内部の声である。他方、自我理想は、私を恥じ入らせる眼差しである。

この対立のカップルは、伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行の把握を可能にしてくれる。ヘゲモニー的イデオロギーは、もはや自我理想としては機能しない。自我理想の眼差しに晒されたとき、その眼差しが私を恥じ入らせる機能はもはやない。大他者の眼差しは、その去勢力を喪失している。すなわちヘゲモニー的イデオロギーは、猥褻な超自我の命令として機能している。その命令が私を有罪にするのは、(象徴的禁止を侵害するときではない。そうではなく)、十全に享楽していないため・決して十二分に享楽していないためである。(ジジェク 2016、Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint?)

《伝統的な資本主義から現在支配的な快楽主義的-放埓的ヴァージョンへの移行》とあるが、これは岩井克人の「ふたつの資本主義」とともに読むことができる。


◆『終りなき世界』(柄谷行人・岩井克人対談集1990)より(岩井克人発言)。

【ふたつの資本主義】
じつは、資本主義という言葉には、二つの意味があるんです。ひとつは、イデオロギーあるいは主義としての資本主義、「資本の主義」ですね。それからもうひとつは、現実としての資本主義と言ったらいいかもしれない、もっと別の言葉で言えば、「資本の論理」ですね。

実際、「資本主義」なんて言葉をマルクスはまったく使っていない。彼は「資本制的生産様式」としか呼んでいません。資本主義という言葉は、ゾンバルトが広めたわけで、彼の場合、プロテスタンティズムの倫理を強調するマックス・ウェーバーに対抗して、ユダヤ教の世俗的な合理性に「資本主義の精神」を見いだしたわけで、まさに「主義」という言葉を使うことに意味があった。でも、この言葉使いが、その後の資本主義に関するひとびとの思考をやたら混乱させてしまったんですね。資本主義を、たとえば社会主義と同じような、一種の主義の問題として捉えてしまうような傾向を生み出してしまったわけですから。でも、主義としての資本主義と現実の資本主義とはおよそ正反対のものですよ。

【社会主義の敗北=主義としての資本主義の敗北】 
そこで、社会主義の敗北によって、主義としての資本主義は勝利したでしょうか? 答えは幸か不幸か(笑)、否です。いや逆に、社会主義の敗北は、そのまま主義としての資本主義の敗北であったんです。なぜかと言ったら、社会主義というのは主義としての資本主義のもっとも忠実な体現者にほかならないからです。

と言うのは、主義としての資本主義というのは、アダム・スミスから始まって、古典派経済学、マルクス経済学、新古典派経済学といった伝統的な経済学がすべて前提としている資本主義像のことなんで、先ほどの話を繰り返すと、それは資本主義をひとつの閉じたシステムとみなして、そのなかに単一の「価値」の存在を見いだしているものにほかならないんです。つまり、それは究極的には、「見えざる手」のはたらきによって、資本主義には単一の価値法則が貫徹するという信念です。

社会主義、とくにいわゆる科学的社会主義というのは、この主義としての資本主義の最大の犠牲者であるんだと思います。これは、逆説的に聞えますけれど、けっして逆説ではない。社会主義とは、資本主義における価値法則の貫徹というイデオロギーを、現実の資本家よりも、はるかにまともに受け取ったんですね。資本主義というものは、人間の経済活動を究極的に支配している価値の法則の存在を明らかにしてくれた。ただ、そこではこの法則が、市場の無政府性のもとで盲目的に作用する統計的な平均として実現されるだけなんだという。そこで、今度はその存在すべき価値法則を、市場の無政府性にまかせずに、中央集権的な、より意識的な人間理性のコントロールにまかせるべきだ、というわけです。これが究極的な社会主義のイデオロギーなんだと思うんです。


【資本の論理=差異性の論理】 
……この社会主義、すなわち主義としての資本主義を敗退させたのが、じつは、現実の資本主義、つまり資本の論理にほかならないわけですよ。

それはどういうことかというと、資本の論理はすなわち差異性の論理であるわけです。差異性が利潤を生み出す。ピリオド、というわけです。そして、この差異性の論理が働くためには、もちろん複数の異なった価値体系が共存していなければならない。言いかえれば、主義としての資本主義が前提しているような価値法則の自己完結性が逆に破綻していることが、資本主義が現実の力として運動するための条件だということなんですね。別の言い方をすれば、透明なかたちで価値法則が見渡せないということが資本の論理が働くための条件だということです。この意味で、現実としての資本主義とは、まさに主義としての資本主義と全面的に対立するものとして現れるわけですよ。

初期岩井克人による資本の論理の定義をも掲げておこう。

資本主義ーーそれは、資本の無限の増殖をその目的とし、利潤のたえざる獲得を追及していく経済機構の別名である。利潤は差異から生まれる。利潤とは、ふたつの価値体系のあいだにある差異を資本が媒介することによって生み出されるものである。それは、すでに見たように、商業資本主義、産業資本主義、ポスト産業主義と、具体的にメカニズムには差異があっても、差異を媒介するというその基本原理にかんしては何の差異も存在しない。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』1985)



2017年8月18日金曜日

女性への推進力、男性への推進力

男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』)

こう引用すれば、おそらくニーチェの考え方はもはや古いという人が多いだろう。

たとえば21世紀に入って次のようなことが言われている。

女であること féminité と男であること virilité の社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情 émotions を開き、愛することを。そして女性化する féminiser ことさえをも求められています。逆に、女たちは、ある種の《男性への推進力 pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちもmoi aussi」と言い続けるように駆り立てられています。…したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性 liquide」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、己自身の享楽の様式、愛することの様式を身につけるように求められているのです。(ジャック=アラン・ミレール、2010、On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? "

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。( Élisabeth Badinter ーーージジェク、2012より孫引き、PDF

男たちはセックス戦争において新しい静かな犠牲者だ。彼らは、抗議の泣き言を洩らすこともできず、継続的に、女たちの貶められ、侮辱されている。(Doris Lessing 「Lay off men, Lessing tells feminists,2001)

ジャック=アラン・ミレールの文に《男性への推進力 pousse-à-l'homme》という表現があったが、これはラカンがファルス秩序(神経症的な秩序)に囚われない精神病的存在(倒錯的存在も含めてよいだろう)をめぐって語る発言のなかで、《女性への推進力 pousse-à-la-femme》(エトゥルディ、1972)と言っていることにかかわる。父の名(自我理想)の斜陽の時代には、男たちは女性化するのであり、他方、ミレールの考え方では(そして現実にも)、現在の女たちにおける《男性への推進力 pousse-à-l'homme》は明らかだろう。

とすればニーチェの《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」である》とはまったく古くなってしまったのだろうか。いや必ずしもそうではない。

たとえば日本において、一時期巷間で流通してい名言「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」を裏付けるものとして捉えられるフロイト・ラカン派の注釈がある。

男がカフェに坐っている。そしてカップルが通り過ぎてゆくのを見る。彼はその女が魅力的であるのを見出し、女を見つめる。これは男性の欲望への関わりの典型的な例だろう。彼の関心は女の上にあり、彼女を「持ちたい」(所有したい)。同じ状況の女は、異なった態度をとる(Darian Leader,1996)の観察によれば)。彼女は男に魅惑されているかもしれない。だがそれにもかかわらずその男とともにいる女を見るのにより多くの時間を費やす。なぜそうなのか? 女の欲望への関係は男とは異なる。単純に欲望の対象を所有したいという願望ではないのだ。そうではなく、通り過ぎていった女があの男に欲望にされたのはなぜなのかを知りたいのである。彼女の欲望への関係は、男の欲望のシニフィアンになることについてなのである。(ポール・バーハウ、1998、Love in a Time of Loneliness)

……男と女を即座に対照させるのは、間違っている。あたかも、男は対象を直ちに欲望し、他方、女の欲望は、「欲望することの欲望」、〈他者〉の欲望への欲望とするのは。(……)

真実はこうだ。男は自分の幻想の枠組みにぴったり合う女を直ちに欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底して一人の男のなかに疎外する。彼女の欲望は、男に欲望される対象になることだ。すなわち、男の幻想の枠組みにぴったり合致することであり、この理由で、女は自身を、他者の眼を通して見ようとする。「他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?」という問いに絶えまなく思い悩まされている。

しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ない。というのは、彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、裂け目自体、パートナーからの距離自体なのだから。その裂け目自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012)

なぜこういったことが起こるのかといえば、フロイト・ラカン派では次のように言われることが多い。

①男女とも最初の愛の対象は女である。つまり最初に育児してくれる母=女である。

②男児は最初の愛のジェンダーを維持できる。つまり母を他の女に変えるだけでよい。

③女児は愛の対象のジェンダーを取り替える必要がある。その結果、母が彼女を愛したように、男が彼女を愛することを願う。

つまり少女は少年に比べて、対象への愛ではなく愛の関係性がより重要視される傾向をもつようになる。

こういった発達段階的な基盤にある男女の相違とは、いくら男たちにおける「女性への推進力」、女たちにおける「男性への推進力」があってもなかなか変化はしがたい、と私は思う。

…………

※追記

次の発言は、上に記した文脈のなかで(も)読む必要がある。

定義上異性愛者とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである。Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair. (ラカン、L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)
「他の性 Autre sexs」は、両性にとって女性の性である。「女性の性 sexe féminin」とは、男たちにとっても女たちにとっても「他の性 Autre sexs」である(ミレール、The Axiom of the Fantasm)

ラカンによる異性(hétéro)の定義とは?

幼児性愛は自体愛的 autoérotique ではなく、ヘテロ的 hétéro である(ラカン、1975、ジュネーヴ)

ここでのヘテロ hétéro とは、「奇妙な、異物の、異者の、エイリアンの」という意味。

→《われわれにとって異者の身体 un corps qui nous est étranger》(ラカン、S23、11 Mai 1976)



2017年8月17日木曜日

おみこしの熱狂と無責任という「共感の共同体」症状

人は忘れるのだ。深く考えなかったこと、他人の模倣や周囲の過熱によって頭にタイプされたことは、早く忘れる。周囲の過熱は変化し、それとともにわれわれの回想も更新される。(プルースト「囚われの女」)

ツイッターを「共感・戦争」の用語で検索して眺めてみた。とくに批判するつもりはない。この「お盆」という時期に、戦争体験を語り、戦争を知らない人たちを啓蒙するのはとても大切である。


・戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。

・今、戦争をわずかでも知る世代は死滅するか現役から引退しつつある。

・戦争はいくら強調してもしたりないほど酸鼻なものである。しかし、酸鼻な局面をほんとうに知るものは死者だけである。

・時とともに若いときにも戦争の過酷さを経験していない人が指導層を占めるようになる。長期的には指導層の戦争への心理的抵抗が低下する。その彼らは戦争を発動する権限だけは手にしているが、戦争とはどういうものか、そうして、どのように終結させるか、その得失は何であるかは考える能力も経験もなく、この欠落を自覚さえしなくなる。(中井久夫「戦争と平和 ある観察」2005年)

だがどこからか何か悪い臭いが漂ってこないではない。

……わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗りによって隠れている。そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

悪い臭いの原因(私の錯覚かもしれない)は、どうやらお盆の度ごとのーーあるいはなにか機会がある度ごとの(たとえば映画への共感)--ツイッター共同体での「おみこしの熱狂」という振舞い自体にあるようだ。そして喉元過ぎれば、あのおみこしの熱狂はすぐさま忘れさられてしまっているのではないか、と。

以下、思いつくままにいくらかの文献を掲げる。

…………


【戦争を生み出した条件の存続】 
生まれる前に何が起ころうと、それはコントロールできない。自由意志、選択の範囲はないのです。したがって戦後生まれたひと個人には、戦争中のあらゆることに対して責任はないと思います。しかし、間接の責任はあると思う。戦争と戦争犯罪を生み出したところの諸条件の中で、社会的、文化的条件の一部は存続している。その存続しているのものに対しては責任がある。もちろん、それに対しては、われわれの年齢の者にも責任がありますが、われわれだけではなく、その後に生まれた人たちにもは責任はあるのです。なぜなら、それは現在の問題だからです。(「加藤周一「今日も残る戦争責任」)


【共感の共同体】
・この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。

・そのような『事を荒立てる』ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、実は抗争と対立の場であるという『本当のこと』を、図らずも示してしまうからである。

・「将来の安全と希望を確保するために過去の失敗を振り返」って、「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」のである。しかし、この共同体が機能している限り、ジャーナリズムは流通せず、「感傷的な被害者への共感」の記事に埋もれてしまう。(酒井直樹「無責任の体系」

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」『すばる』1988 年 7 月号)

…………

【おみこしの熱狂と無責任】
……国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。醒めている者も、ふつう亡命の可能性に乏しいから、担いでいるふりをしないわけにはゆかない(中井久夫「戦争と平和についての観察」『樹をみつめて』所収)


【被害者意識】



被害者意識というのはやっかいなものです。私も、被害者なのだから何を言っても許されるというある種の全能感と権力性を有してしまった時期があります。時のヒーローでしかたらね。(……)

被害者意識は自己増殖します。本来、政治家はそれを抑えるべきなのに、むしろあおっています。北朝鮮を「敵」だと名指しして国民の結束を高める。為政者にとっては、北朝鮮が「敵」でいてくれると都合がいいのかもしれません。しかし対話や交渉はますます困難となり、拉致問題の解決は遠のくばかりです。

拉致問題を解決するには、日本はまず過去の戦争責任に向き合わなければならないはずです。しかし棚上げ、先送り、その場しのぎが日本政治の習い性となっている。拉致も原発も経済政策も、みんなそうじゃないですか。

(……)日本社会は被害者ファンタジーのようなものを共有していて、そこからはみ出すと排除の論理にさらされる。被害者意識の高進が、狭量な社会を生んでいるのではないでしょうか。(蓮池透発言(元「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」事務局長))

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)


【同情・共感は同一化によって生まれる】
同一化は…対象人物の一つの特色 (「一の徴 einzigen Zug」)だけを借りる(場合がある)…同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921)

われわれは、…次のように要約することができよう。第一 に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式であり、第二に、退行の道をたどっ て、同一化は、いわば対象を自我に取り入れる Introjektion ことによって、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代用物になり、第三に、同一化は性的衝動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じることである。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化 partielle Identifizieruitg は、ますます効果のあるものになるにちがいなく、また、それは新しい結合の端緒にふさわしいものになるにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)


【同情メカニズムの格率】

【第一の格率】:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。

【第二の格率】:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。

【第三の格率】:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。(ルソー『エミール』)

私たちはどのようにして憐れみに心動かされるのであろうか。私たち自身の外に身を置くことによって、 つまり、苦しんでいる存在に同一化する (se identifier) ことによってである。彼が苦しんでいると判断するのでない限り、私たちが苦しむことはないのであって、私たちは、自身のうちでではなく、まさに彼のうちで苦しむのである。この転移がいったいどれほど多くの獲得されたを前提としているか考えてほしい。私がそれについての何の観念も持っていないような不幸をどのように想像する (imaginer) というのであろうか。他人が苦しんで いることを知りもせず、 また、彼と私のあいだに共通するものがあるということを知らなければ、他人が苦しんでいるのを見ながら、どう して私が苦しむだろうか。決して反省(réfléchir) したことのない人間は、寛大でも公正でも憐れみ深く (pitoyable) もありえない。( ルソー『言語起源論』)



【ツイッター共同体におけるお盆の度毎の同一化症状】
ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)


…………

※付記

同情する人間と同情を持たない人間(ニーチェ)】
「もはや私のことを思わない。」――まあ本当に徹底的にとくと考えてもらいたい。眼の前で誰かが水の中に落ちると、たとえ彼が全く好きでないにもせよ、われわれがそのあとから飛びこむのは、なぜか? 同情のためである。そのときわれわれはもう他人のことだけを思っている。――と無思慮がいう。誰かが血を吐くと、彼に対して悪意や敵意さえ持っているのに、われわれが苦痛と不快を感じるのは、なぜか? 同情のためである。われわれはその際まさしくもはや自分のことは思っていない。――と無思慮が言う。

真実は、同情というときーー私は間違ったやり方で通常同情と呼ばれるのが常であるもののことを考えているのだが、――われわれはなるほどもはや意識的にわれわれのことを思っていないけれども、極めて強く無意識的にわれわれのことを思っているのである。ちょうど足がすべったとき、われわれにとって現在意識されていないが、最も目的にかなった反射運動をし、同時に明らかにわれわれの知性全体を使用しているように。

他人の不幸は、われわれの感情を害する。われわれがそれを助けようとしないなら、それはわれわれの無力を、ことによるとわれわれの卑怯を確認させるであろう。言いかえると、それはすでにそれ自体で、他人に対するわれわれの名誉の、またはわれわれ自身に対するわれわれの名誉の減少を必然的にともなう。換言すれば、他人の不幸と苦しみの中にはわれわれに対する危険の指示がある。そして人間的な危うさと脆さ一般の目印としてだけでも、それらはわれわれに苦痛を感じさせる。

われわれは、この種の苦痛と侮辱を拒絶し、同情するという行為によって、それらに報復する。この行為の中には、精巧な正当防衛や、あるいは復讐さえもありうる。われわれが根底において強くわれわれのことを思うということは、われわれが苦しむもの、窮乏するもの、悲嘆するものの姿を避けることのできるすべての場合に、われわれの行なう決心からして推測される。われわれが一層強力なもの、助けるものとしてやって来ることができるとき、喝采を博することの確実であるとき、われわれの幸福の反対のものを感じるのを望むとき、あるいはまたその姿によって退屈から脱出することを期待するとき、われわれは避けることをしまいと決心する。そのような姿を見るときわれわれに加えられ、しかも極めて多種多様でありうる憂苦を同情と名づけることは、間違った道に導く。なぜなら、どんな事情があっても、それは、われわれの前で苦しんでいる者とは関係がない憂苦であるからである。

しかしわれわれはこの種のことを、決してひとつの動機から行なうのではない。われわれがその際苦しみからの解放を望んでいることが全く確実であるように、われわれが同じ行為において、快楽の衝動に服従することもやはり確実である。――快楽が生じるのは、われわれの状態の反対のものの姿を見るときである。われわれが望みさえすれば助けうるという考えをもつときである。われわれが助けた場合、賞賛され、感謝されるという思いを抱くときである。行為がうまくゆき、そしてそれが一歩一歩成功するものとして実行者自身を楽しませるかぎり、助けるという行為そのものの中においてである。しかしとくに、われわれの行為が腹立たしい不正を制限する(彼の腹立たしさの爆発だけでも気分をさわやかにする)という感覚の中においてである。この一切合財に、さらに一層精巧なものがつけ加わると、「同情」である。――言語はそのひとつの言葉を用いて、何と不格好に、そのように多声的な存在の上に襲いかかることであろう! ――これに反して、苦しみを眺めるときに起きる同情が、その苦しみと同種のものであること、あるいは、同情が苦しみに対して特別に精巧な、透徹した理解をもつこと、この二つのことは、経験と矛盾する。そして同情をほかならぬこの二つの視点で称賛した者は、まさに道徳的なもののこの領域において、十分な経験を欠いていたのである。ショーペンハウアーが同情について報告することのできるすべての信じがたい事柄にもかかわらず、これが私の懐疑である。彼はわれわれをして、彼の大きな新発明品を信じさせようとしている。それによると、同情はーー彼によって極めて不完全な観察がなされ、全く粗悪な記述がなされた、まさにその同情はーー、一切のあらゆる以前の、また将来の道徳的な行為の源泉であるーーしかも彼がはじめて捏造して、同情になすりつけたほかならぬその能力のためにそうなのである。――

おしまいに、同情をもたない人間は、同情する人間と何で区別されるか? 何よりもまずーーここでもやはり荒っぽくのべるだけであるがーー同情をもたない人間は、恐怖という刺激されやすい想像力や、危険をかぎつける鋭い能力をもっていない。さらに、何事か起きても、かれらが阻止できるならば、彼らの自惚れはそんなに速やかに傷つけられはしない。(彼らの誇りの慎重さは、関係のない事柄に無益な干渉をしないように、彼らに命令する。それどころか、彼らは自発的に、各人が自分自身を助け、自分自身のトランプで遊ぶことを好むのである。)その上彼らは大てい、同情的な人間よりも、苦痛に堪えることに馴れている。さらに彼ら自身苦しんできたのであるから、他人が苦しむことは、彼らにはそう不公平には思われない。最後に彼らにとっては心の優しい状態は、ちょうど同情する人間にとってストア主義的な無関心の状態が苦痛であるように、苦痛である。彼らはその状態に軽蔑的な言葉を付加し、自分の男らしさと冷たい勇気がそれによって危険にさらされたと思う。――彼らは涙を他人の眼からかくし、自己自身に立腹して、それをぬぐう。それは、同情する人間とは別の種類の利己主義である。――しかし彼らをすぐれた意味で悪いと呼び、同情する人間をよいと呼ぶことは、時をえているひとつの道徳的な流行にほかならない。ちょうど反対の流行にも時が、しかも長い時があったように! (ニーチェ『曙光』第133番 茅野良男訳)

ポリティカルコレクトネスをめぐる

鈴木 優‏ @_YuSuzuki

・私は2年間の米国生活で一度たりとも人種差別的な暴言を浴びたことがなかった。最初の頃は優しい世界だと思った。でもだんだんと言ってはいけないことという暗黙の了解に包囲されていて常に地雷を踏まないように気を配らなくていけない世界だということに気付いた

・Berkeleyは全米でも最もリベラルな場所の一つとされていたけど、2年間見てきて少し疲れましてね。差別反対だの性的マイノリティーの権利だの叫ぶのは結構だけど、ちょっとバランス感覚を欠いているというか、自分が絶対の正義で少しでも異を唱える者は差別主義者として袋叩きにするというか

・私は決して右翼とか排外主義者ではないですが、Political Correctnessでがんじがらめになっているアメリカよりも日本の方が言いたいことを自由に言えて気が楽です

すばらしいツイート。ニーチェやジジェクの言っていることのすぐれた解説のような。

放棄する。--その所有物の一部分を放棄し、その権利を断念することは、ーーもしそれが大きな富を暗示するなら、楽しみである。寛容はこれに属する。(ニーチェ『曙光』315番)

…………


享楽の基本的パラドックス…。享楽のどの放棄も、放棄することの享楽を生む。欲望のどの障害物も、障害物への欲望を生む、等々。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

フランスは…わが国こそ世界で最も自由、平等、友愛の理念を実現した国だという自負そのものが、ナショナリズムや愛国心を生み、他国、他民族を蔑視し差別するメカニズムが働いてしまっている。…フランスは(人種差別において)ドイツやイギリスに比べてもはるかに悪い。(『ジジェク自身によるジジェク』2014)


…我々はまた、アイデンティティのポリティカル・コレクトネス主張という基本的パラドックスにおいて、剰余享楽 Mehrgenuss (plus-de-jouir )に出会う。周辺的で排除されたアイデンティティであればあるほど、人は民族的アイデンティティと排他的な生活様式の主張を許容される。これがポリティカル・コレクトネスの風景がいかに構成されているかの在り方である。すなわち西側世界から遠く離れた人々は、本質主義者-人種差別主義者のアイデンティティ(アメリカ原住民、黒人…)と公然と非難されることなく、彼ら固有の民族的アイデンティティの十全な主張を許容される。人が悪評高い白人の異性愛男性に近づけば近づくほど、そのアイデンティティの主張はいっそう問題視される。アジア人はまだ大丈夫だ。イタリア人、アイルランド人もたぶんいける。ドイツ人やスカンジナビア人は既に問題である…

しかしながら、白人の固有アイデンティティ(他者の圧制のモデルとして)のこのような禁止は、彼らの罪の告白を表出をしているとはいいながら、それにもかかわらず、彼らに中心ポジションを授与する。すなわち、彼ら固有のアイデンティティ主張のこの禁止自体が、彼らを普遍的-中立の媒介者、場ーーそこから他者の圧制についての真理が接近しうるーーにする。

この中心ポジションが剰余享楽 Mehrgenuss であり、アイデンティティの放棄によって生み出された快楽である。西側の我々が人種差別を本当に打倒したいなら、最初にしなければならないのは、この終わりなき自責のポリティカル・コレクトネス過程から離脱することである。

Pascal Bruckner の現代左翼への批判はしばしば冷笑に近づいているとはいえ、時に優れた洞察をもたらさないわけではない。人は彼に同意せざるを得ない。ヨーロッパ人のポリティカル・コレクトネス的自己責苦のなかに、転倒された優越性への執着を Bruckner が嗅ぎ付ける時。

西側の人間が非難された時、最初の反応は攻撃的防衛ではなく自己反省である。ーー我々はその報いを受ける何をしてきただろう? 我々は究極的には世界の悪の責任がある。第三世界の惨事とテロリストの暴力はたんに我々の犯罪への反応にすぎない…

このように、白人の「重荷」(植民地化された野蛮人を文明化する責任)のポジティブな形式が単にネガティブな形式に置き換わったにすぎない(白人の罪の重荷)。すなわち、我々がもはや第三世界の慈悲深い主人であり得ないなら、少なくとも特権化された悪の源泉であり得ると。恩着せがましく第三世界の破滅の責任を取り上げてやりつつ(第三世界のある国が酷い犯罪に携わったなら、それは決して彼らだけの責任ではなく、常に植民地化の後遺症だ。彼らは単に植民地の主人が為したことを模倣しているだけだ、等々)。この特権意識が、自責によって獲得された剰余享楽 Mehrgenuss である。 (Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge,2016、私訳)


女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しいーーポリティカルコレクトネスなーー表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006 鈴木晶訳)

…………

※追記

浅田彰)アメリカの状況は…有色人種や先住民族、女性、同性愛者、その他、何にせよマイノリティの側に立って、従来の多数派による抑圧を逆転してゆくことが「政治的に正しい」(politically correct――略してPC)という主張が、数年前から知的階層において支配的になってきている。(……)アメリカは粗野なレイシズムやセクシズムが根強く残っており、それとの対抗関係でPCが大きな社会的役割を果たし得ることは事実ですから、私はPCを一方的に批判しようとは思いません。にもかかわらず、PCが白人プチプル男性のやましい良心の裏返しの表現であることも否定しがたいと思うのですが。
ジジェク)PCの問題とは、端的に言って、「白人・男性・異性愛者でありながら曇りのない良心を保持するのはどうすればいいか」ということです。他のどんな立場の人間も、自らの固有性を主張し、固有の享楽を追及することができる。白人・男性・異性愛者の立場だけが空っぽであり、かれらだけが享楽を犠牲にしなければならない。これは神経症的強迫の典型です。問題は、それが過度に厳格であることではなく、十分に厳格ではないということです。見たところ、PC的態度は、レイシズムやセクシズムを連想させるすべてを断念する極端な自己犠牲のように見える。しかしそれは、自己犠牲という尊敬すべき行為そのものを、その行為をあえて引き受ける良心的な主体性そのものを、犠牲にしようとはしない。罪深い内容のすべてを断念することによって、それは白人・男性・異性愛者の立場を普遍的な主体性の形式として確保するのです。これはヘーゲルが禁欲主義批判において言っている通りです。PC主義者は、初期のキリスト教の聖人のように、自分の内なる罪をあくことなく暴き立てようとする。かれらが本当に恐れているのは、その探求がどこかで終わり、問題が解消されてしまうことなのです。言い換えれば、PC的態度は、アラン・ブルームらの言うように六八年以後の極左主義の偽装された現れであるどころか、ブルジョワ自由主義を守るイデオロギーの盾にほかなりません。

ちなみに、精神分析的に言えば、アメリカ人の強迫的なPC妄想に対して、ヨーロッパの古典的知識人のヒステリー的な問いを対置することができるでしょう。「私が曇りのない良心をもって従うことのできる正当な権力はどれか」という問いです。かれらは自分たちのアドヴァイスを聞き入れてくれる「良き主人」を探している。しかし、自分たちの側が勝利するたびに、「これは自分たちが本当に望んでいたものじゃない!」というヒステリー的な反応を示す。社会党が政権をとったときのフランスの左翼知識人の反応はその典型です。
浅田)あなたの精神分析的な診断は、そのアイロニカルな倍音も含めて、最終的には正しいと思います。ただ、重ねて強調したおきたいのは、PCならPCが、レイシズムはセクシズムが潜在的に広がっているアメリカの文脈においては、それなりの社会的役割を果たし得るということです。むしろ、私たちが認識すべきなのは、具体的な文脈によって、一見リベラルな立場が正反対の効果をもらたし得るし、逆もまた真であるということ、あらゆる局所的な文脈を超越するメタ・レヴェルの視点やそれに基づく価値判断などあり得ないということでしょう。(浅田彰「スラヴォイ・ジジェクとの対話」1993『「歴史の終わり」と世紀末の世界』)

2017年8月5日土曜日

強者と寄生虫

ひとは強者を、弱者たちの攻撃から常に守らなければならない(ニーチェ遺稿 1888)

以下、ニーチェ、およびニーチェ注釈者たちの資料の列挙。


【権力への意志は支配欲とは異なること】
われわれニーチェの読者は、次のような、ありうる四つの意味の取り違えを避けるようにしなければならない。

(一)権力への意志(〈力〉への意志)に関して(権力への意志が、「支配欲」を、あるいは「権力を欲すること」を意味すると信じこむこと)。

(二)強い者と弱い者に関して(ある社会体制において、最も〈力〉の強い者が、まさにそのことによって「強者」であると信じこむこと)。

(三)〈永遠回帰〉に関して(そこで問題となっているのが、古代ギリシア人、古代インド人、バビロニア人……から借りた古いイデーであると信じこむこと。だからサイクルが、〈同一なもの〉の回帰が、同一への回帰が問題となるのだと信じこむこと)。

(四)最も後期の諸作品に関して(それらの著作が度を越した行き過ぎであると、あるいは狂気のせいで既に信用を失ったものであると信じこむこと)。》(ドゥルーズ『ニーチェ』)

…………

【おのれを弱者として示し、粗暴な権力手段を放棄すること】

道徳の発展がたどる傾向。——誰でも、おのれ自身がそれで成功するようなもの以外の教えや事物の評価が通用しないことを願望する。したがって、あらゆる時代の弱者や凡庸な者どもの根本傾向は、より強い者たちをより弱化せしめること、引きずりおろすことであり、その主要手段が道徳的判断である。より強い者のより弱い者に対する態度は烙印をおされ、より強い者の高級な状態は悪しざまな別名をつけられる。  

多数者の少数者に対する、凡俗な者の稀有な者に対する、弱者の強者に対する闘争——。この闘争を最も巧妙に中絶せしめるものの一つは、精選された、繊細な、要求するところの多い者がおのれを弱者として示し、粗暴な権力手段を放棄するときである——(ニーチェ『権力への意志』)


【寄生虫は、偉大な者のもつ小さい傷に住みつく】

寄生虫。それは君たちの病みただれた傷の隅々に取りついて太ろうとする匍い虫である。

そして、登りつつある魂にどこが疲れているかを見てとるのが、このうじ虫の特殊な技能である。そして君たちの傷心と不満、感じやすい羞恥などのなかへかれはそのいとわしい巣をつくる。

強者のもつ弱い個所、高貴な者におけるあまりにも柔軟な個所 Wo der Starke schwach, der Edle allzumild ist、ーーそこにうじ虫はそのいとわしい巣をつくる。寄生虫は、偉大な者のもつ小さい傷に住みつく。

あらゆる存在する者のうち、最も高い種類のものは何か。最も低い種類のものは何か。寄生虫は最低の種類である。だが、最高の種類に属する者は、最も多くの寄生虫を養う。

つまり、最も長い梯子をもっていて、最も深く下ることのできる魂に、最も多くの寄生虫の寄生しないはずがあろうか。--

自分自身のうちに最も広い領域をもっていて、そのなかで最も長い距離を走り、迷い、さまようことのできる魂、最も必然的な魂でありながら、興じ楽しむ気持から偶然のなかへ飛びこむ魂。

存在を確保した魂でありながら、生成の河流のなかへくぐり入る魂。所有する魂でありながら、意欲と願望のなかへ飛び入ろうとする魂。ーー

自分自身から逃げ出しながら、しかも最も大きい孤を描いて自分自身に追いつく魂。最も賢い魂でありながら、物狂いのあまい誘惑に耳をかす魂。ーー

自分自身を最も愛する魂でありながら、そのなかで万物が、流れ行き、流れ帰り、干潮と満潮時をくりかえすような魂。ーーおお、こういう最高の魂がどうして最悪の寄生虫を宿さないでいよう。(ツァラトゥストラ第三部、「新旧の表Von alten und neuen Tafeln」より)


【「強者/弱者」をめぐる若き浅田彰の注釈(1987年)】
いろいろ問題があったけれども、やはり<強者>と<弱者>の問題というのが重要だと思うんです。これはさっきのファシズム問題ともつながるけれども、ニーチェの<強者>というのは普通の意味での強者、例えばヘーゲルの意味での強者と徹底的に区別しないと、プロトファシストみたいになってしまうわけです。実際、普通の意味でいうと、ニーチェの<強者>というのは物凄く弱い。ニーチェは能動的なものと反動的なもの、肯定的なものと否定的なもののおりなす系譜をたどっていくのだけれども、なぜか世界史においては必ず反動的なもの・否定的なものが勝利し、能動的なもの・肯定的なものは全面的に敗北しているわけです。

これはなぜかというと、<弱者>の側が力で勝っているからではなく、<弱者>が<強者>に病いを伝染させ、それによって<強者>の力を差っ引くからであるというんですね。これはほとんど免疫の話になっているんですが、たまたま『ニーチェの抗体』という変な論文を書いた人がいて、83年ぐらいに既にAIDSの問題が出かかったときそれとの絡みで書かれた(……)思いつき倒れの論文なんだけれども、面白いことに、ニーチェの<強者>というのは免疫不全だと言うんです。何でもあけっぴろげに受け入れてしまう。それにつけ込んで有毒なウィルスを送り込むのが<弱者>なんです。事実、その論文は引いていないけれど、ツァラトゥストラも、最高の存在というのは最も多くの寄生虫に取りつかれると言っている。全くオープンなまま常に変転しているから、それをいいことにして寄生虫がパーッと入って来て、ほとんどAIDSになってしまうわけです(笑)。だから「<強者>をつねに<弱者>の攻撃から守らなければならない」。(『天使が通る』(浅田彰/島田雅彦対談集))


…………

【権力への意志=情動】
権力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

【権力への意志・永遠回帰・欲動】
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

…………

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retou rは権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

権力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

…………

【永遠回帰と不気味なもの】

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)


精神分析が、神経症者の転移現象について明らかにするのとおなじものが、神経症的でない人の生活の中にも見出される。それは、彼らの身につきまとった宿命、彼らの体験におけるデモーニッシュな性格 dämonischen Zuges といった印象をあたえるものである。精神分析は、最初からこのような宿命が大かたは自然につくられたものであって、幼児期初期の影響によって決定されているとみなしてきた。そのさいに現れる強迫は、たとえこれらの人が症状形成 Symptombildung によって落着する神経症的葛藤を現わさなかったにしても、神経症者の反復強迫 Wiederholungszwang と別個のものではない。

あらゆる人間関係が、つねに同一の結果に終わるような人がいるものである。かばって助けた者から、やがてはかならず見捨てられて怒る慈善家たちがいる。彼らは他の点ではそれぞれちがうが、ひとしく忘恩の苦汁を味わうべく運命づけられているようである。どんな友人をもっても、裏切られて友情を失う男たち。誰か他人を、自分や世間にたいする大きな権威にかつぎあげ、それでいて一定の期間が過ぎ去ると、この権威をみずからつきくずし新しい権威に鞍替えする男たち。また、女性にたいする恋愛関係が、みなおなじ経過をたどって、いつもおなじ結末に終る愛人たち、等々。

もし、当人の能動的な態度を問題にするならば、また、同一の体験の反復の中に現れる彼の人がらの不変の性格特徴を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。自分から影響をあたえることができず、いわば受動的に体験するように見えるのに、それでもなお、いつもおなじ運命の反復を体験する場合の方が、はるかにつよくわれわれのこころを打つ。

一例として、ある婦人の話を想い起こす。彼女は、つぎつぎに三回結婚し、やがてまもなく病気でたおれた夫たちを死ぬまで看病しなければならなかった。(……)

以上のような、転移のさいの態度や人間の運命についての観察に直面すると、精神生活には、実際の快原理 Lustprinzip の埒外にある反復強迫 Wiederholungszwang が存在する、と仮定する勇気がわいてくるにちがいない。また、災害神経症者の夢と子供の遊戯本能を、この強迫に関係させたくもなるであろう。もちろん、反復強迫の作用が、他の動機の助力なしに純粋に把握されるのは、ごくまれな場合であることを知っておく必要がある。小児の遊戯のさいに、われわれは、その発生についてどのような別種の解釈ができるかをすでに指摘した(糸巻き遊び、fort-da「いないいないばあ」のこと:引用者)。

反復強迫 Wiederholungszwang と直接的な快い衝動満足 direkte lustvolle Triebbefriedigung とは、緊密に結合しているように思われる。転移の現象が、抑圧を固執している自我の側からの抵抗に奉仕しているのは明らかである。治療が利用しようとつとめた反復強迫は、快原理を固執する自我によって、いわば自我の側へ引き寄せられる。

運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多いと思われるので、新しい神秘的な動機を設ける必要はないように思う。もっとも明白なのは、災害の夢であろうが、ほかの例でも一層くわしく吟味すると、われわれがすでに知っている動機の作用によってはつくしがたい事態のあることをみとめなければならない。反復強迫の仮定を正当づける余地は充分にあり、反復強迫は快原理をしのいで、より以上に根源的 ursprünglicher、一次的 elementarer、かつ衝動的 triebhafter であるように思われる。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

ーーフロイト=ニーチェの「同一のものへの回帰」についてはドゥルーズからの異議がある。

永遠回帰 L'éternel retourは、同じものや似ているものを環帰させることはなく、それ自身が純粋な差異 la pure différenceの世界から派生する。

・・・永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的で、純粋で、総合的で、即自的な差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)


この点に関しては、ラカンもドゥルーズよりの解釈である。

・「一の徴 trait unaire」は、享楽の侵入(突入)の記念物 commémore une irruption de la jouissance である。(Lacan,S17)

・「一の徴 trait unaire」と反復――徴 marque として享楽を設置するものーー、それは享楽のサンスのなかに極小の偏差(裂け目) très faible écart に起源を持つのみである。…du trait unaire, de la répétition, de ce qui l'institue dès lors comme marque, …s très faible écart dans le sens de la jouissance que cela s'origine.(S17)
・…この「一」自体、それは純粋差異を徴づけるものである。Cet « 1 » comme tel, en tant qu'il marque la différence pure(Lacan、S.19)

・「一の徴 trait unaire」は反復の徴 marqueである。 Le trait unaire est ce dont se marque la répétition. (ラカン、S19)


「純粋差異」とはジジェクの解釈においては、対象aのことである。

……対象a はカントの超越論的対象 transcendental object に近似している。なぜなら、対象a は「知られていないX」、仮象の彼方の対象の「ヌーメノンNoumenon」的核を表すから。それは《あなたのなかにあるあなた以上のもの quelque chose en toi plus que toi》である。

したがって対象a は、純粋視差対象 pure parallax objectとして定義される。…さらに厳密に言えば、対象a は、視差の裂目 parallax gapの「原因」である。

ここでのパラドクスは厳密なものである。まさにこの点にて、純粋差異が現れる。差異はもはや「二つの可能的に存在する対象 two positively existing objects」のあいだの差異ではない。そうではなく「「一」とそれ自体からの同じ対象を分割する divides one and the same object from itself」差異である。この差異「それ自体」は即座に測り知れない unfathomable 対象と一致する。

諸対象の間の単なる差異とは対照的に、純粋差異はそれ自体、対象である。(パララックス・ヴュー、私訳、原文

原対象aは「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環すること自体である。

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(ジジェク2016, Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , pdf)


【反復と享楽回帰】
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
享楽 Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての享楽 Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!

Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«

ーー手塚富雄訳だが、「悦び lust」を「享楽」に変更した。

ここでのニーチェの「悦び(享楽 Lust)」とは、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)とほとんど等価である。

そしてラカンはこの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》をなによりもまず「享楽」(jouisssance = déplaisir)とした。

享楽が欲しないものがあろうか。享楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。享楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が享楽のなかに環をなしてめぐっている。――

- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」)


※より現代ラカン派解釈におけるニーチェの永遠回帰をめぐっては、「ララングとサントーム」を見よ

…………

※追記

『ツァラトゥストラ』第二部「墓の歌」にて、ニーチェは「心のうぶ毛」をもっている者が強者だと読みとれることを記しているのをつけ加えておこう。

・どこへ行ったのだ、わたしの目の涙は? わたしの心のうぶ毛 Flaum meinem Herzen は?

・わたしの所有している最も傷つきやすいものを目がけて、人々は矢を射かけた。つまり、おまえたちを目がけて。おまえたちの膚はうぶ毛に似ていた。それ以上に微笑に似ていた、ひとにちらと見られるともう死んでゆく微笑に。

・そうだ、傷つけることのできないもの、葬ることのできないもの、岩をも砕くものが、わたしにはそなわっている。その名はわたしの意志 Wille だ。それは黙々として、屈することなく歳月のなかを歩んでゆく。



2017年8月3日木曜日

「知の権力者」の測り知れない「知」

スピノザやドゥルーズ、ニーチェやらの哲学愛好家らしいお方が《「情動」とか言い出す奴は「畜群」だ》と囀っている。




このお方は自称「知の権力者」である。




《「情動」とか言い出す奴は「畜群」だ》とおっしゃっているのは何かトクベツに深い意味があるに相違ない。きっと私には測り知れない深い知からの断言であるだろう・・・

なぜならスピノザは《衝動 appetitus とは人間の本質 hominis essentia》と言っているが、私にはこの衝動は情動と近似した意味に読める。すなわちほぼ「情動とは人間の本質」とスピノザは言っているように読める。だが「知の権力者」からみれば、これは甚だしい誤読なのであろう・・・

以下、スピノザのエチカ第三部「情動論」からいくらか抜き出そう。


【欲動と情動】
情動 affectusとは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変様 affectiones、また同時にそうした変様観念affectionum ideasであると解する。(スピノザ、エチカ第三部、定義3)

Per affectus intelligo corporis affectiones, quibus ipsius corporis agendi potentia augetur vel minuitur, iuvatur vel coercetur, et simul harum affectionum ideas.(E T H I C E S

情動 affectusと変様 affectiones についてドゥルーズは、次のように注釈している。

これまで、変様、変様状態(アフェクチオ[affectio])は概して直接、身体や物体について言われるが、情動(アフェクトゥス[affectus])は精神に関係しているといった指摘がなされてきた。しかしこの両者の真の相違はそこにあるのではない。真の相違は、身体の変様やその観念がそれを触発した外部の体の本性を含むのにたいして、情動の方は、その身体や精神のもつ活動力能の増大または減少を含んでいるところにある。アフェクチオは触発された身体の状態を示し、したがってそれを触発した体の現前を必然的にともなうのに対して、アフェクトゥスは、ひとつの状態から他への移行を示し、この場合には相手の触発する体の側の相関的変移が考慮に入れられている。感情という情動が特殊なタイプの観念や変様として提示されることはありうるにしても、変様(像または観念)と情動(感情)とは本性を異にするのである。(ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』)


ニーチェは「権力への意志」=「情動」としている。

権力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

クロソウスキーは、情動は欲動と相同的だとしている。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

クロソウスキーの『悪の循環』の前年に上梓されたドゥルーズからも抜き出そう。

権力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

…………

次は「衝動」である。以下畠中訳

【衝動 appetitusと欲動 trieb】
自己の努力が精神だけに関係するときは「意志voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「衝動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに衝動とは人間の本質に他ならない。(スピノザ、エチカ第三部、定理9)

Hic conatus cum ad mentem solam refertur, v o l u n t a s appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur a p p e t i t u s , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia,

現在、「衝動 appetitus」と triebと訳されることが多い。すなわち「欲動」である。

たとえば注釈者たちによって次のように記述される

・Körper Trieb (appetitus)
・Appetitus ist Trieb

よって《……精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる》と記すことができる。

この文をフロイトの欲動の定義とともに読んでみよう。

「欲動 Trieb」は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である(フロイト『欲動および欲動の運命』1915)

…………

こうして私のこのうえなく雑な頭では、情動≒衝動≒欲動となる。

ニーチェは「権力への意志」を「欲動の飼い馴らされていない暴力」としている。


私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889

「飼い馴らされていない」という語をフロイトは次のように使っている。


自我によって、荒々しいwilden 飼い馴らされていない欲動の蠢きungebändigten Triebregung を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)

あるいは《リビドーによる死の欲動の飼い馴らし Bändigung des Todestriebes durch die Libido》(『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)

おそらく知の権力者は《「情動」とか言い出す奴は「畜群」だ》と宣言することで「家畜化のすすめ」をしているのではなかろうか。実にこのうえなく深い知である・・・

…………


※付記

ここでの話題から外れるが、『ニーチェと悪の循環』の英訳者 Daniel W. Smith による序文には、ニーチェの用語の使い方をクロソウスキーはどう捉えているかについてのを簡明な記述があり、それを付記しておく。

Impulsion(衝動) は、仏語の pulsion(欲動) に関係している。pulsion はフロイト用語の Triebeを翻訳したものである。だがクロソフスキーは、滅多にこの pulsion を使用しない。ニーチェ自身は、クロソフスキーが衝動という語で要約するものについて多様な語彙を使用しているーー、Triebe 欲動、Begierden 欲望、Instinke 本能、Machte 力・力能・権力、Krafte 勢力、Reixe, Impulse 衝迫・衝動、Leidenschaften 情熱、Gefiilen 感情、Afekte 情動、Pathos パトス等々。クロソフスキーにとって本質的な点は、これらの用語は、絶え間ない波動としての、魂の強度intensité 的状態を示していることである。(PIERRE KLOSSOWSKI,Nietzsche and the Vicious Circle Translated by Daniel W. Smith)