2021年5月14日金曜日

根回しの民と非妥協的民

 


精神科医の真の栄光は、もとより印刷物や肩書きにあるのではない。その栄光の真の墓碑銘は患者とともに過ごした時間の中にある。〔・・・〕


きみと旅行したウィーン、ブタペストをなつかしむ。あれは一九九二年の初夏だった。あの旅にはふしぎな魅力があった。そして夫人へのきみのこまやかないつくしみと心くばりがよくわかった。


ふだん、きみの貴重な家族との時間の多くを奪ったのは私だった。きみは医局長として、私の人事の哲学を知っていたから、一人一人にできるだけチャンスを与え、希望をかなえようとして命をけずる思いをした。それは私の考えに共鳴してくれるところがあったからにちがいない。しかし、きみの肩を異常に凝らせたのは私の咎である。そして、きみの著書の序文を「若さと果断沈着さとに一抹の羨望を感じる」と終えた私が、その後五年ならずして、老いの身できみを送る言葉を書くということになろうとは、孔子さまではないが、天われをほろぼせりといわずして何といおうか。〔・・・〕


病院にかけつけてお母様と相擁した。涙を払ったお母様は、開口一番「素敵でしたよ」と仰った。「あんな素敵な死は見たことがありません」と。


二日間の意識混濁ののち、きみは全身体をつっぱらせて全身の力をあつめた。血圧は一七〇に達したという。そして、何かを語ってから「行くで、行くで、行くで、行くで」と数十回繰り返して、毅然として、再び還らぬブラックホールの中に歩み行った。〔・・・〕


きみは秋の最後の名残とともに去った。生まれかわりのように生まれた子に秋の美しさを讃える秋実の名を残して。


その国の友なる詩人は私に告げた。この列島の文化は曖昧模糊として春のようであり、かの半島の文化はまさにものの輪郭すべてがくっきりとさだかな、凛冽たる秋“カウル”であると。その空は、秋に冴え返って深く青く凛として透明であるという。きみは春風駘蕩たるこの列島の春のふんいきの中に、まさしくかの半島の秋の凛冽たる気を包んでいた。少年の俤を残すきみの軽やかさの中には堅固な意志と非妥協的な誠実があった。(中井久夫「安克昌先生を悼む」2000年12月弔辞)



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◼️柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」2013年

キム・ウチャン教授と知り合ったのは、一九八〇年代アメリカにおいてであった。以後、アメリカと韓国で何度もお会いしている。韓国の雑誌で対談をしたこともあり、一緒に講演をしたこともある。私が最も印象づけられたのは、キム教授の東洋的な学問への深い造詣であった。たとえば、私がカリフォルニア大学ロサンジェルス校で教えていたとき、キム教授は同アーヴァイン校で儒教について講義されていた。英文学者でこんなことができる人は日本にはいない。というより、日本の知識人に(専門家を別にして)、こんな人はいない。さすがに韓国きっての知識人だな、と思ったことがある。


ネットで読んだ新聞のインタビューで、先生は、韓国では人がすぐに激しいデモや抗議に奔ることを批判しておられた。それを読んだとき、私とはまるで違うなと思った。私は日本で、むやみやたらにデモをするように説いてきた。なぜなら、日本にはデモも抗議活動もないからだ。原発震災以来、デモが生まれたが、韓国でならこんな程度ですむはずがない。要するに、キム教授と私のいうことは正反対のように見えるが、さほど違っているわけではない。彼も日本のような状態にあれば、私と同じようにいうだろう。


私はこの文脈の違いを、近現代史において見るだけではなく、古代から考えてみたい。私は近年『世界史の構造』という本を(韓国でも)出版したが、その中で、帝国と周辺、亜周辺という問題に触れた。以後も、これにかんして、中国の周辺と亜周辺という問題として考えてきた。つまり、コリアはベトナムと並んで帝国の周辺部であり、日本は亜周辺部である。


しかし、両者の差異が生じたのは、コリアが統一新羅のころ、日本が平安時代のころである。それまでは大差がなかった。違いがあったとしても、それ以後に顕在化したのだ。この時期、日韓いずれでも、「中国化」が進められた。しかし、その深度が違った。日本の中国化は表層的であった。しかし、コリアは本格的で、その後も、科挙による文官制度が次第に確立されていった。王朝の正統性は民意にあるという考えが根を下ろした。高麗時代に武人政権があったが、続かなかった。


 一方、日本では、奈良平安時代に中国から律令体制を導入したものの、官僚体制は成立しなかった。逆に、武家の政権が生まれ、それが明治維新まで続いたのである。また、奈良時代に大王は天皇と名乗ったが、中国的な「天子」の観念はなかった。天皇の正統性はたんに血統で決まったからだ。天皇は政治的権力をもたなかったが、つぎつぎと交替する実際の権力(武家政権)を法的に支える権威として存続した。


コリアの場合、実際はどうであれ、建前として、民意にこそ天命があるという考えがあった。儒教の核心もここにある。ゆえに、コリアにおける政治は、民衆、というより、それを代弁する儒者、官僚の活動にもとづく。韓国では、そのような人たちがソンビと呼ばれて尊敬される。


一方、日本の場合、民意(民心)という観念はなかった。また、公然と意見を戦わせる習慣がなかった。日本で尊敬されるのは、いわば、サムライのタイプである。武士道では議論が嫌われ、むやみに死ぬことが奨励されたのである。一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。このような人たちが、激しいデモや抗議活動に向かうことはめったにない。


私から見ると、韓国にあるような大胆な活動性が望ましいが、キム教授から見ると、むしろそのことが墓穴を掘る結果に終わることが多かった。韓国では激しい行動をしない者が非難されるが、それはなぜか、という新聞記者の問いに対して、教授は、つぎのように応えている。《知行合一という考え方が伝統的に強調されてきたからだと思う。知っているなら即刻行動に移さなければならないとされていた。行動が人生の全てを決定するわけではない。文明社会では行動とは別に、思考の伝統も必要だ》。日本と対照的に、韓国ではむしろ、もっと慎重に「空気」を読みながら行動すべきだということになるのかもしれない。


しかし、このような違いは、たんに国民性というようなものではない。「世界史の構造」にかかわるものだ。今後の日韓の関係を考える上でも、重要な問題である。それについて、七年ぶりにお会いするキム・ウチャン教授と、お話できるならば幸いである。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」 2013.6)





◼️中井久夫「Y夫人のこと」1993年

昭和三十八年の秋から四十一年の同じく秋まで、私はある韓国のおばあさんの家に下宿していた。私の出した新聞広告を見て「京都の方ですか、私は京都がなつかしい。韓国人ですがいいですか」という電話があった。お宅に伺った。大韓帝国最後の留学生として来日し、同志社を卒業して、小山内薫門下の早稲田卒の同国人演出家と結婚したが早く死別して、上海、ソウルを経て、半島をめぐる大戦争の際に日本に避難してこられた方であった。


毅然とした独りぐらしであったが、人間関係の豊かさは、身のまわりの品だけでもすぐに知れた。欄間にかかる美貌の朝鮮乙女の肖像は若き日の崇拝者の筆になるものにちがいなかった。


私はその国の言葉を多少知っていた。最初の朝鮮語辞典(北系統の人の労作)の表紙のハングルが裏文字でも誰る気づかなかった時代のことである。李舜臣と安重根の二人の名を知っていたのも「合格」に幸いしたのであろう。この二人への尊敬を祖父は幼い私に語っていた。


夫人は縁戚として安家につながるひとであった。重根の夫人は戦後まもなく故国に帰ろうとして中国の徐州まできて亡くなられたと伺った。手には一握の祖国の土があったという。この時が昭和六十年末の夫人逝去までの長い長いお付き合いの始まりであった。


韓国(朝鮮)の方、あるいはこの民族の方と結婚しておられる方は皆ご存じと思うが、お母さんがお婿さんを大切にすることはそれこそ尋常一様ではない。


私と同年の令嬢「ルミさん」とは今日までお会いせずじまいであるが、家族の写真を張りめぐらした夫人の居間で、長身に丸顔のすらりとした美しいお姿は馴染みであり、先方も「二階の博士[バクサ]」こと私の話は、夫人との度重なる国際電話でよくご存じのようであった。学問を尊敬する韓国のお国柄が私を過大評価させたが、私は少しばかり「娘婿」の代理でもあったのではと思う。三年後の私はこの家から荷物を出し夫人一人に見送られて新居に向かうのである。夫人逝去後も知己の方とのご交際がある。


「ルミさん」は、同国人のMIT卒の電子工学者と結婚して長らく米国東部にお住まいであった。三十年前の当時でも、ボストン では京畿高校(韓国におけるかつての「日比谷高校」か)の同窓会に三百人が集まったという。韓国の知的底力を私は知った。やがてまた、韓国系、北朝鮮系の意外な人脈が、(旧制)京畿中学の名簿をみると納得できることを知った。


韓国と日本では知識人の基準が少し違う。日本では何らかの専門家であることが必要である。しかし、それでまあ十分である。韓国では、専門の力量に加えて高度の一般教養がなくてはならない。いま小学生から英語を教え、高校で二ヶ国語を必修としている隣国の教育の凄さに日本人は無知である。この家(中井久夫が下宿したY夫人家:引用者)に来訪する韓国の知識人との交際はこよなく洗練され高度なものであった。夫人との毎晩の四方やま話も尽きなかった。当時の私は韓国から毎日出稼ぎに日本へ行っては毎晩帰っているようなものであった。三年間私は文化的に韓国に住んでいた。おそらく、その最良の部分の一端に触れていた。……(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993年4月「みすず」『家族の深淵』所収)




夫人は愛国者だが盲目的でなかった。さらりと日本の年号を使われ、美しい日本文字で和歌も作られた。


かつて住み込んだ同志社の牧野先生のお宅の生活を懐かしまれることしきりであった。「どの国もいい人はいい、わるい人はわるいですよ」といわれ、戦後の日本人は顔がよくなったといわれた。


「韓国文化五千年展」が上野で開かれた時には、檀君紀元四千何年という日付の当時の旅券をみせつつ、「どっちもだいぶん掛け値があるョ」と阿々と高笑いされた。「何でも韓国が元祖だ」という人は夫人の家には現れなかった。


わが民族の欠点は妥協を知らないことだ」と何度も言われた。いっぽう、故国の詩人M女史のベトナム戦争従軍を賛美する勇しい詩に触れて「あれは駄目ですよ、ほんとの詩人じゃない」ともいわれた。国連の大立物、インドのクリシュナ・メノンの恋人として当時有名だった人である。戦後ほどないころ、「民族の恥を知れ」と、タッと車から降りて同国人を足蹴にされたことがあったそうである。どういうことが夫人の勘気に触れたのかは聞かなかった。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993年4月「みすず」『家族の深淵』所収)