2025年7月17日木曜日

愛の定義集


ある意図があって何人かの作家たちの愛をめぐる文を掲げる。

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悪魔だ、熱病だ!

愛は悪魔だ。熱病という名の精神病だ。自分のつごうでふりまいておきながら、見返りだけはがっちり求めてくる得手勝手なヤツだ。愛するというのは悪いことだ。/異性愛だけではない。親子の愛、兄弟愛、愛と名のつくものはみな片輪で、はためいわくな感情だからきらいだ。わたしが家族を持たないのは、きらいな愛にとらわれたくないためだ。(深沢七郎ーー鴎外の娘森茉莉のスクラップ帖にはさまっていた文)


愛という語[Wort »Liebe«]…この語ががこれほど頻繁にくりかえされてしかるべきものとは思えなかった。それどころか、この二音綴は、まことにいとわしきもの[recht widerwärtig]と思えるのだった。水っぽいミルクとでもいうか、青味を帯びた白色の、なにやら甘ったるいしろもののイメージに結びついていた [eine Vorstellung verband sich für ihn damit wie von gewässerter Milch, - etwas Weißbläulichem, Labberigem](トーマス・マン『魔の山』1924年)


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愛する者は、じぶんの思い焦がれている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの・最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む[der Liebende will den unbedingten Alleinbesitz der von ihm ersehnten Person, er will eine ebenso unbedingte Macht über ihre Seele wie ihren Leib, er will allein geliebt sein und als das Höchste und Begehrenswertheste in der andern Seele wohnen und herrschen]〔・・・〕

われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーつまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正 が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーーおそらく愛はエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーという事実に、である[so wundert man sich in der That, dass diese wilde Habsucht und Ungerechtigkeit der Geschlechtsliebe dermaassen verherrlicht und vergöttlicht worden ist, wie zu allen Zeiten geschehen, ja, dass man aus dieser Liebe den Begriff Liebe als den Gegensatz des Egoismus hergenommen hat, während sie vielleicht gerade der unbefangenste Ausdruck des Egoismus ist. ](ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)



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愛は拷問または外科手術にとても似ている[l'amour ressemblait fort à une torture ou à une opération chirurgicale]ということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。だがこの考えは、最も過酷な形で展開しうる。たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは死刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である[ c'est l'opérateur ou le bourreau ; l’autre, c'est le sujet, la victime.](ボードレール「火箭 Fusées」1851)


彼は思いだした、月のあかるかったあの夜ごと、ラ・ぺルーズ通に彼を乗せてゆくヴィクトリアのなかにぐったりからだを横たえ、恋する男のさまざまな感動を官能的に心のなかで育てながら、そうした感動がかならずむすぶであろう毒の果実[le fruit empoisonné ]を知らなかったことを。しかし、こうした思考はすべて一秒ほどのわずかなあいだしかつづかなかった、それは彼が手を胸にあて、ほっと一息つき、拷問の苦しみを顔からかくそう[dissimuler sa torture]とほほえんだほんのわずかなあいだであった。(プルースト「スワン家のほうへ」第2部「スワンの恋」)


私のように天分に恵まれた人間は世界にはいないわ、冥界の力よ、愛しているものを破壊するの[Aucun être au monde n'est doué comme moi de ce pouvoir infernal : détruire ce qu'il aime.] (コレット・ぺニョColette Peignot, 1935ーーバタイユ宛だが未送付の書簡)



ーー《破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である[Le terme de ravage,…– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré]》(J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


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こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂の分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」1927年)

こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」1947年)


一人の愛人があればそこから十篇の短篇小説がうまれることは、たやすい、一人の女の人の持つ世界は十人の世界をも覗ぎ見られるものであつて、それ故にわれわれはいつも一人にしかあたへる愛情しかもつてゐない、そのたつた一人を尋ねまはってゐる人間は、死たばるまでつひにその一人にさへ行き会はずに、おしまひになる人間もゐるのである。われわれの終生たづね廻つてゐるただ一人のために、人間はいかに多くの詩と小説をむだ書きにしたことだらう、たとへば私なぞも、あがいてつひに何もたづねられなくて、多くの書物にもならない詩と小説のむだ書きを、生涯をこめて書きちらしてゐた、それは食ふためばかりではない、何とか自分にも他人にもすくひになるやうな一人がほしかつたのである。これは馬鹿の戯言であらうか、人間は死ぬまで愛情に飢ゑてある動物ではなかつたか(室生犀星『随筆 女ひと』1955年)



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偉そうに、ほざいてみても、だらしがないものだ。私は矢田津世子と別れて以来、自分で意志したわけではなく、いつとはなしに、死の翳が身にしみついていることを見出すようになっていた。今日、死んでもよい。明日、死んでもよい。いつでも死ねるのであった。


こうハッキリと身にしみついた死の翳を見るのは、切ないものである。暗いのだ。自殺の虚勢というような威勢のよいところはミジンもなく、なんのことだ、オレはこれだけの人間なんだ、という絶望があるだけであった。


その年の春さきに、牧野信一が、女房の浮気に悩んで、自殺した。たかが女房の浮気に、と、私は彼をあわれみながら、私自身は、惚れた女に別れたゞけで、いつとなく、死の翳が身にしみついているというテイタラクである。たかが一人の女に、と、いくら苦笑してみても、その死の翳が、現に身にさしせまり、ピッタリとしみついているではないか。みじめな小ささ。いかにすべき。わがイノチ。もがいてみても、わからない。〔・・・〕


何をすれば、生きるアカシがあるのだろうか。それも、分らぬ。ともかく、矢田津世子と別れたことが、たかが一人の女によって、それが苦笑のタネであり、バカらしくとも、死の翳を身にしみつけてしまったのだ。 


新しく生きるためには、この一人の女を、墓にうずめてしまわねばならぬ。この女の墓碑銘を書かねばならぬ。この女を墓の下へうめない限り、私に新しい生命の訪れる時はないだろう、と思わざるを得なかった。 そして、私は、その墓をつくるための小説を書きはじめた。書くことを得たか。否、否。半年にして筆を投じた。 


そして私が、わが身のまわりに見たものは、更により深くしみついている死の翳であった。私自身が、影だけであった。そのとき、私は、京都にいた。独りであった。孤影。私は、私自身に、そういう名前をつけていたのだ。 


矢田津世子が、本当に死ぬまで、私はついに、私自身の力では、ダメであった。あさはかな者よ。哀れ、みじめな者よ。(坂口安吾「死と影」1948年)



ーー《死は愛である [ la mort, c'est l'amour]》(Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)




強者を弱者たちの攻撃から守らなければならない


われわれの最高の洞察は、その洞察を受けとる資質もなく、資格もない者たちの耳に間違って入ったときには、まるでばかげたことのように、ことによると犯罪のように聞こえなければならないし――そうあるべきである!

Unsre hoechsten Einsichten muessen - und sollen! - wie Thorheiten, unter Umstaenden wie Verbrechen klingen, wenn sie unerlaubter Weise Denen zu Ohren kommen, welche nicht dafuer geartet und vorbestimmt sind. (ニーチェ『善悪の彼岸』第30番、1886年)


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さて以下に、おそらく一般の通念に反するだろう、ニーチェの「強者と弱者」の捉え方を列挙する。


人は強者を弱者たちの攻撃から常に守らなければならない[man hat die Starken immer zu bewaffnen gegen die Schwachen](ニーチェ『力への意志』草稿、Anfang 1888 - Anfang Januar 1889)


より弱い者はより強い者に対して群れる[Das Schwächere drängt sich zum Stärkeren](ニーチェ『力への意志』草稿、 1882 - Frühjahr 1887)

強者の独立に対する群れの本能[der Instinkt der Heerde gegen die Starken Unabhängigen]…例外に対する凡庸の本能[der Instinkt der Mittelmäßigen gegen die Ausnahmen](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888 )

最も強い者は、最もしっかりと縛られ、監督され、鎖につながれ、監視されなければならない。これが群れの本能である[Die Stärksten müssen am festesten gebunden, beaufsichtigt, in Ketten gelegt und überwacht werden: so will es der Instinkt der Heerde.](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888)


民主主義的社会では弱者が社会的強者になりうる社会だとニーチェは言っている。

ある意味で、民主主義的社会において最も容易に維持され発展させられることがある。…それは、強者を破滅しようとすること、強者の勇気をなくそうとすること、強者の悪い時間や疲労を利用しようとすること、強者の誇らしい安心感を落ち着きのなさや良心の痛みに変えようとすること、すなわち、いかに高貴な本能を毒と病気にするかを知ることである。

In einem gewissen Sinne kann dieselbe sich am leichtesten in einer demokratischen Gesellschaft erhalten und entwickeln:…Daß es die Starken zerbrechen will, daß es ihren Muth entmuthigen, ihre schlechten Stunden und Müdigkeiten ausnützen, ihre stolze Sicherheit in Unruhe und Gewissensnoth verkehren will, daß es die vornehmen Instinkte giftig und krank zu machen versteht

(ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888)




さらにまた、弱者は強者に宿る寄生虫である。


寄生虫。それは君たちの病みただれた傷の隅々に取りついて太ろうとする匍い虫である。


 そして、登りつつある魂にどこが疲れているかを見てとるのが、このうじ虫の特殊な技能である。そして君たちの傷心と不満、感じやすい羞恥などのなかへかれはそのいとわしい巣をつくる。


強者のもつ弱い個所、高貴な者におけるあまりにも柔軟な個所、ーーそこにうじ虫はそのいとわしい巣をつくる。寄生虫は、偉大な者のもつ小さい傷に住みつく。

Schmarotzer: das ist ein Gewürm, ein kriechendes, geschmiegtes, das fett werden will an euren kranken wunden Winkeln. 


Und _das_ ist seine Kunst, dass er steigende Seelen erräth, wo sie müde sind: in euren Gram und Unmuth, in eure zarte Scham baut er sein ekles Nest.


Wo der Starke schwach, der Edle allzumild ist, - dahinein baut er sein ekles Nest: der Schmarotzer wohnt, wo der Grosse kleine wunde Winkel hat.  

あらゆる存在する者のうち、最も高い種類のものは何か。最も低い種類のものは何か。寄生虫は最低の種類である。だが、最高の種類に属する者は、最も多くの寄生虫を養う。


つまり、最も長い梯子をもっていて、最も深く下ることのできる魂に、最も多くの寄生虫の寄生しないはずがあろうか。--

Was ist die höchste Art alles Seienden und was die geringste? Der Schmarotzer ist die geringste Art; wer aber höchster Art ist, der ernährt die meisten Schmarotzer.


Die Seele nämlich, welche die längste Leiter hat und am tiefsten hinunter kann: wie sollten nicht an der die meisten Schmarotzer sitzen? -  

自分自身のうちに最も広い領域をもっていて、そのなかで最も長い距離を走り、迷い、さまようことのできる魂、最も必然的な魂でありながら、興じ楽しむ気持から偶然のなかへ飛びこむ魂。


存在を確保した魂でありながら、生成の河流のなかへくぐり入る魂。所有する魂でありながら、意欲と願望のなかへ飛び入ろうとする魂。ーー


 自分自身から逃げ出しながら、しかも最も大きい孤を描いて自分自身に追いつく魂。最も賢い魂でありながら、物狂いのあまい誘惑に耳をかす魂。ーー


自分自身を最も愛する魂でありながら、そのなかで万物が、流れ行き、流れ帰り、干潮と満潮時をくりかえすような魂。ーーおお、こういう最高の魂がどうして最悪の寄生虫を宿さないでいよう。


 - die umfänglichste Seele, welche am weitesten in sich laufen und irren und schweifen kann; die nothwendigste, welche sich aus Lust in den Zufall stürzt: -


- die seiende Seele, welche in's Werden taucht; die habende, welche in's Wollen und Verlangen _will_: 


-  die sich selber fliehende, die sich selber im weitesten Kreise einholt; die weiseste Seele, welcher die Narrheit am süssesten zuredet: -


- die sich selber liebendste, in der alle Dinge ihr Strömen und Wiederströmen und Ebbe und Fluth haben: - oh wie sollte _die_höchste_Seele_ nicht die schlimmsten Schmarotzer haben?

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第三部「新旧の表 Von alten und neuen Tafeln」1884年)




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ニーチェと同じような思考はフローベールにもある。


◼️凡庸のみが正しく、独自性は危険で馬鹿げたもの

ぼくは、誰からも容認されてきたすべてのことがらを、歴史的な現実に照らし合わせて賞讃し、多数派がつねに正しく、少数派はつねに誤っていると判断されてきた事実を示そうと思う。偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ、それを極度に過激な、火花の散るような文体で実践してみようというのです。従って文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したいのです。

Ce serait la glorification historique de tout ce qu’on approuve. J’y démontrerais que les majorités ont toujours eu raison, les minorités toujours tort. J’immolerais les grands hommes à tous les imbéciles, les martyrs à tous les bourreaux, et cela dans un style poussé à outrance, à fusées. Ainsi, pour la littérature, j’établirais, ce qui serait facile, que le médiocre, étant à la portée de tous, est le seul légitime et qu’il faut donc honnir toute espèce d’originalité comme dangereuse, sotte, etc.

(フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Flaubert À Louise Colet. 17 décembre 1852)


◼️平等は精神的優位の否定であり奴隷制

平等は、あらゆる自由の否定、あらゆる精神的優位性と自然そのものの否定でないとしたら何でしょう。平等は奴隷制です。

Qu'est-ce donc que l'égalité si ce n'est pas la négation de toute liberté, de toute supériorité et de la nature elle-même? L'égalité, c'est l'esclavage.  (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Lettre du 23 mai 1851)

1789年は王族と貴族を、1848年はブルジョワジーを、1851年は民衆を粉々にした。残っているのは悪党と愚か者の群れだけです。ーーわれわれは皆、同じ水準の凡庸さに沈んでしまった。社会的平等は、精神にまで入り込んだのです。

89 a démoli la royauté et la noblesse, 48 la bourgeoisie et 51 le peuple. Il n’y a plus rien, qu’une tourbe canaille et imbécile. ― Nous sommes tous enfoncés au même niveau dans une médiocrité commune. L’égalité sociale a passé dans l’Esprit (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Flaubert À Louise Colet. A Louise Colet, le 22 septembre 1853)




この文脈のなかにクンデラの「愚かさは進歩する」がある。

フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)




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ここでニーチェに戻れば、ニーチェの云う「弱者」はおそらく「善人=末人」に結びつく。


善人どもの生存条件は嘘である、言いかえれば、現実というものが根本においてどういうふうにできているかを絶対に見ようとしないこと。すなわち、現実というものは、いつでも善意的本能をそそのかし、招きよせるようなものではないこと、まして、近視眼的な、 お人好しの人間が出しゃばって手を出すことにいつも甘い顔を見せるようなものではなに見ようとしないことである。


Die Existenz-Bedingung der Guten ist die Lüge—: anders ausgedrückt, das Nicht-sehn-wollen um jeden Preis, wie im Grunde die Realität beschaffen ist, nämlich nicht der Art, um jeder Zeit wohlwollende Instinkte herauszufordern, noch weniger der Art, um sich ein Eingreifen von kurzsichtigen gutmüthigen Händen jeder Zeit gefallen zu lassen.


ツァラトゥストラは、楽天家は厭世家と同様にデカダンであり、おそらくはいっそう有害であることを掴んだ最初の人間であるが、こう言っている。「善人はけっして真実を語らない。いつわりの岸べといつわの安全とを、善い者たちは君たちに教えていたのだ。君たちは、善い者たちの嘘のなかで生まれ、それにかくまわれていたのだ。一切は善い者たちによって、徹底的にいつからか、曲げられている。」と。世界は幸いなことに、ただ善良であるだけの畜群がそこでちっぽけな幸福を見いだそうとするような、そんなけちけちした本能を見越して建てられてはいない。万人が「善人」に、畜群に、お人よしに、善意的なものに、「美しき魂」にならねばならないとかーーもしくは、ハーバート・スペンサー氏の希望にかなうように、利他的にならねばならないと要求することは、生存からその偉大な性格を奪うことにほかならない。人類を去勢して、あわれむべき宦官の状態に引き下げることにほかならない。ーーしかもこれがいままで試みられてきたことなのだ!・・・・・道徳と呼ばれていたことなのだ!・・・・・この意味で、ツァラトゥストラは、善人たちを、あるいは「末人」と呼び、あるいは「終末の開始」と呼ぶのである。何よりも、彼は善人たちをもっとも有害な人種と感ずる。それは、彼らが真理を犠牲にし、また未来を犠牲にして、おのれの生存をつらぬくからである。


Zarathustra, der Erste, der begriff, dass der Optimist ebenso décadent ist wie der Pessimist und vielleicht schädlicher, sagt: gute Menschen reden nie die Wahrheit. Falsche Küsten und Sicherheiten lehrten euch die Guten; in Lügen der Guten wart ihr geboren und geborgen. Alles ist in den Grund hinein verlogen und verbogen durch die Guten. Die Welt ist zum Glück nicht auf Instinkte hin gebaut, dass gerade bloss gutmüthiges Heerdengethier darin sein enges Glück fände; zu fordern, dass Alles "guter Mensch," Heerdenthier, blauäugig, wohlwollend, "schöne Seele"—oder, wie Herr Herbert Spencer es wünscht, altruistisch werden solle, hiesse dem Dasein seinen grossen Charakter nehmen, hiesse die Menschheit castriren und auf eine armselige Chineserei herunterbringen.— Und dies hat man versucht! ... Dies eben hiess man Moral ... In diesem Sinne nennt Zarathustra die Guten bald "die letzten Menschen," bald den "Anfang vom Ende"; vor Allem empfindet er sie als die schädlichste Art Mensch, weil sie ebenso auf Kosten der Wahrheit als auf Kosten der Zukunft ihre Existenz durchsetzen. 

(ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私は一個の運命であるのか」第4節、1888年)




そして例えば次の記述は「強者」に関わる。

この書物はごく少数の人たちのものである。おそらく彼らのうちのただひとりすらまだ生きてはいないであろう。それは、私のツァラトゥストラを理解する人たちであるかもしれない。今日すでに聞く耳をもっている者どもと、どうした私がおのれを取りちがえるはずがあろうか? ――やっと明後日が私のものである。父亡きのちに産みおとされる者もいく人かはいる。


人が私を理解し、しかも必然性をもって理解する諸条件、――私はそれを知りすぎるほどしっている。人は、私の真剣さに、私の激情にだけでも耐えるために、精神的な事柄において冷酷なまでに正直でなければならない。人は、山頂で生活することに、――政治や民族的我欲の憐れむべき当今の饒舌を、おのれの足下にながめることに、熟達していなければならない。人は無関心となってしまっていなければならない、はたして真理は有用であるのか、はたして真理は誰かに宿業となるのかとけっして問うてはならない・・・今日誰ひとりとしてそれへの気力をもちあわせていない問いに対する強さからの偏愛、禁ぜられたものへの気力、迷宮へと予定されている運命[die Vorherbestimmung zum Labyrinth]、七つの孤独からの或る体験。新しい音楽を聞きわける新しい耳、最遠方をも見うる新しい眼。これまで沈黙しつづけてきた真理に対する一つの新しい良心。そして大規模な経済への意志、すなわち、この意志の力を、この意志の感激を手もとに保有しておくということ・・・おのれに対する畏敬、おのれへの愛、おのれへの絶対的自由・・・

いざよし![Wohlan! ]このような者のみが私の読者、私の正しい読者、私の予定されている読者である。残余の者どもになんのかかわりがあろうか? [was liegt am Rest?] ――残余の者どもはたんに人類であるにすぎない。――人は人類を、力によって、魂の高さ[Höhe der Seele]によって、凌駕していなければならない、――軽蔑 [Verachtung]によって・・・(ニーチェ「反キリスト」序言、1888年)