2026年3月15日日曜日

終わらない世界へ 古井由吉✕蓮實重彦

 

◼️終わらない世界へ 古井由吉蓮實重彦 2006年

先日亡くなった古井由吉さんは、『辻』単行本刊行時に、蓮實重彦さんと「新潮」2006年3月号にて対談をしました。時代をリードしてきた同い年の小説家と批評家でありながら、お二人の対談はこの一度きりです。古井さんの追悼特集を組んだ「新潮」2020年5月号の蓮實重彦さんの追悼文にも、この対談の話が出てきます。対談を構成したのは私なのですが、緊張感と文学的高揚感のあふれるお二人の対話の場に立ち会えた記憶は、一生消えそうにありません。今回、古井さんご遺族と蓮實重彦さんのご厚意により、「新潮」掲載版の対談を復刻掲載いたします。(編集長 松村正樹)

第1回 「この人枯れてない」 


古井 蓮實さんとは初めての対談になりますが、大学では同級生ですね。


蓮實 そう。東大では駒場の二年間同じクラスだったわけだし、立教大学では紛争中に教員として同僚だった。


古井 そうなんですよ。


蓮實 これも二年一緒でした。二人が立教を離れてからも何かの折りに会って挨拶はしているし、一番最後にお会いしたのは、後藤明生氏の大阪での葬儀のときですね。だから、対談が初めてというのは不思議な気がします。別に避けあったわけではないし、疎遠というのとも違う。古井さんは作家としてしかるべき道を歩んでおられて、私も批評家として古井さんの作品はずっと読んできたわけです。一つ心残りだったのは、『仮往生伝試文』を発表された80年代の終わりから90年代の初めにかけて、古井由吉論を書くぞと決意して準備したことがあるんですが、それがさまざまな理由で流産してしまったことです。


古井 その頃は、分かれ道に直面していたから、僕も書かれると苦しいときでした。


蓮實 それ以後、個人的に妙に忙しくなったり、老後の設計ミスがいろいろあったりして、結局、古井論は書けないままでいました。それでも96年に「新潮」に短いながら『白髪の唄』について「狂いと隔たり」という文章を書き(『魅せられて』所収)、今回また最新作『』(小社刊)を読ませていただいたのですが、これにはとても深いところで動かされました。「この人枯れてない」っていう印象が最初に心に浮かびましたが、これはしょうがないんですね。


古井 しょうがないんですね(笑)。書いている最中だけは年齢不詳になる。あんまりいいことではないと思うんだけど。


蓮實 それから、どこにいるのかもわからない感じで書いておられる。


古井 そうなんです。


蓮實 『忿翁』などには、古井さんの日常がひそかに入ってくる感じがするんですが、『辻』にはそれも見えない。こちらも批評家という職業がら、いろいろな網をかけて読んではみるのですが、どうやら、この作品は、その網をすり抜けたところの方がすごいんだという感じがする。作家を必要以上に意識した批評家の読み方かもしれませんが、「ここまで、よくやりやがったな」っていうのが正直な感想です。これこれこういう小説だろうと思いながら読んでいくと、結局すり抜けられてしまう。それで、どうにも困ってしまいました。困ったっていうのは、大江健三郎さんもそうなのですが、まずそういう読みを強いてくる作家が同世代にいたということに対する、まあ幸福感かな。でも、こういう人にいられちゃあまずいぞ、という当惑感も否定できない(笑)。


 私は作品を読みながら、まったく無原則に作中の気になった言葉をノートする人間ですが、『辻』についてのノートを読み直してみると、十二篇の内、「白い軒」について一番たくさんノートをとっている。逆に一番短いのが「雪明かり」。作者にとって、そこら辺はなんかありますかね。


古井 「白い軒」は、書き手である著者、「白い軒」の話し手である折谷、その折谷が聞く話の語り手、とナレーションがちょっと込み入りすぎている。これはいつ何時破綻してもおかしくないものなんですよ。


蓮實 作者の破綻という意識には行きつけぬまま、こちらはただおたおたしていました。


古井 これをなんとかすり抜けすり抜け、破綻から免れようとしているので、いろいろ余計なことも書いてるかもしれません。


蓮實 余計なこと……。


古井 ええ。書き手である著者は、腰を据えていろいろと企みをしなきゃならないんだけど、書いているうちに自分の存在がわからなくなっていく。企みが企みにならない小説なんですね。


蓮實 でもこちらとしては、すべて企みと思うわけです。ですから、それを見きわめようとして気になったところを拾い上げていくと、「白い軒」は解決し得ない問題が一番多く残りました。


 それに対して「雪明かり」はある程度あっさりしている。話としては、望月という男と、従姉の真佐子との関係が軸になっており、九篇目のこの作品を読んで、「あ、これは一篇で完結はしているな」とひとまず安心する。しかし、「やはり、ある種の循環的な構造で前後につながっているな」と掴んだ気になって、残りの作品を読むと「半日の花」を経て、十一篇目の「白い軒」の冒頭が「
老婆に膝枕をして寝ていた。膝のまるみに覚えがあった。姿は見えなかった。ここと交わって、ここから産まれたか、と軒のあたりから声が降りた。」と始まる。いきなり、膝枕はないだろう(笑)。枯れていなければいけないはずの作者が執拗に枯れずにいる瞬間を書く場面を読んで、ほとほと困ってしまった。これはすごい企みにはまって、とても抜け出せないぞというあせりを強く感じました。


古井 書き手である著者が、なるべく話の背後にいて、企みによって話に破綻が出ないようにするのが、小説だとしますね。それからいくと、『辻』は、著者がしきりに話のほうへわたくしの情欲を注ぎ、もたせているところがあるんです。すんなりと通る話を書くことが、長年の小説家としての悲願なんですけどね。


蓮實 本当ですか(笑)。

古井 それが失敗する。仕事として小説の道に入ってから、いわゆる「小説」は自分には書けないということを、自分に対して強く言い含めて、それを前提にしてやっているんです。幸せな作品は書くまい、と。そのつど一歩どちらにしても足を踏み込むことによって、そのつど破綻から逃れるような小説にしようという覚悟ではつねにあったけれど、でもどこかで悲願はあったんです。長年ご奉公してきたから、今度の連作は、ひょっとしてすんなりとしたお話として書けるか、と。そういう気持ちでやったんだけど、そうはいかないものですね。


蓮實 「すんなり」というのは、たとえば誰の作品がすんなりした話なんですか。


古井 誰のとはいいませんが、すんなりとした作品っていうのはあるでしょ。小説も幻想産業ですから、すんなりとした印象を読者に与えるのは美徳だと思いますし、あるいはそれは役割かもしれないんです。入院していた時、ある女性が本を一冊大事に抱えて、これお守りだって言うんですね。辻邦生さんの本で、なるほど小説にはこういう功徳があるのかって思いました。その後、退院間際に、担当医が紹介したい人がいるって若い患者を連れてきた。僕の『槿〔あさがお〕』を持ち込んでいるんですよ。なんだか疚やましい気持ちになりまして……。


蓮實 病気が治りそうなのに、混乱しちゃうじゃないですか(笑)。


古井 少なくとも僕以上の年配の方に、すんなりとした小説を読んだという幻想を与えるべきじゃないか、そういうことで、作家としての義務を果たすべきじゃないかとは思うんですが、自分にはそれができなくていやになるんですよ。ちょっとすんなりとなりかかると、不協和音をたたいて、変なほうへ持っていく。


蓮實 でも、それが作家じゃないですか。


古井 うーん、二通りありますよね。やっぱり作家っていうのは、通俗性を担わなきゃならないっていう考え方が一方、僕はその反対で、本当の通俗性ならともかく、なまじな通俗性は排するという立場なんですね。余計人好きのしない道に入るところがある。今度はひょっとしたらって思ってやったんですけど……。


蓮實 枯れて、すんなりといくかもしれないと……。


古井 そうなんです。


蓮實 それはないと思いますよ。古井さんが『辻』を書くにあたってどなたの小説をすっきりしたものとお考えになったかわからないし、ある種の小説を書けないと思っておられるのもわかるんですけれど、小説という前に、言葉と向かい合ったところで業ってものがあるわけでしょう。年齢に応じて違ってくると思うんだけれども、その業によって、言葉は「書け」と促したり、「書いてはならぬ」と促したりする。ダブルバインドというほど大袈裟なものではなく、もっと直接的なところで、言葉はごく自然に「禁止」であり「奨励」でもある。その両方のあやしい誘惑が、『辻』には不気味に出てるのです。


 おそらくあるとき、ある作家たちは、「禁止」というものに逆らって書いて、書けたと思うのかもしれない。また、ある作家は「禁止」そのものを主題にするかもしれない。でも「禁止」を主題にすると、これは単なる前衛になってしまうのですよね。古井さんは、その種の前衛にはいかない。


古井 いかないですね、ええ。


蓮實 そうすると、古井さんに、すんなり読ませてやってもいいよ、と思っておられるような気持ちがあったにしても、読み手は、やはり読めないという、そういう気分になるんですよ。読んでいるうちに、多くのものがこぼれ落ちていく。


 まず、境目が見えない。これは戦略でもあるような気がするんですけれども、十二のいわば短篇があって、「白い軒」は膝枕で始まる冒頭がポイントだぞとか、それはわかるわけです。ところが、それがわかってどうなるっていう話があって、膝枕は実は一篇目の「辻」の冒頭にあってもおかしくないんじゃないかというふうに思えてもくる。境があるようでいて、ない。


 一つの作品は有限の言葉からなっているわけですが、それを十二篇読むと、無限には達し得ないにしても、ほぼそれに近い途方もない複雑さにおさまってしまうわけです。その複雑さのなかで見えなくなってくるものが、ことによると辻というものなのかな、とも思いました。あえて簡単に言ってしまうと、辻っていうのは、そこで立ち止まってもいけないし、行き過ぎてもいけないし、行き過ぎた場合には、そのことでなにか禍々しいことが起こるというような場所ですよね。


古井 そうです。


蓮實 そんな危険な一点をごく自然にどこにでもある場所を使って書いてしまうのは、やはり作家・古井由吉の、ほとんどイチロー的な美技だと思う。あの人は、外野のフェンス際でとった球を、地を這うようにして投げて本塁で刺す。それから、外野の塀をかけ上って捕る。誰も刺せないはずなのに刺すし、誰も捕れないはずなのに捕るでしょう。松井だと全部落とすわけですよね。イチロー的とも言うべき美技を、そのつどそのつど意識して書いていたら、胃に穴が開くんじゃないかと思う。穴開きませんでした、今回?


古井 そうね、でも言葉が助けてくれるんです。つまり言葉でできることしかやっていないわけですから。限界にきたら、言葉は拒絶しますでしょ。それには逆らわないほうなんです。


蓮實 言葉が拒絶するっていうことに気づかない人もいるわけでしょ。


古井 そうですね。


蓮實 それに気づくのはやはり健康な証拠ですか。


古井 健康だと思います。というのは、接近と回避の運動が、この年にしては確かなんじゃないでしょうか。自分のやり方は接近と回避で、回避するために接近し、回避がもう次の接近に向かう。辻っていうのは境でしょ。僕の使い方だったら、本当は決定的な境じゃなきゃいけない。それに繰り返しさしかかり、繰り返し通り過ぎる。境が境ではなくなってしまう。そこから、十二篇書いたんだと思いますよ。境が境となる小説を一篇目に書いてたら、もうそれでおしまいですから。


人称の問題


蓮實 愚かな質問ですが、『辻』の十二篇の中でどれが一番お好きですか。


古井 意外にさっきご指摘のあった「雪明かり」かもしれない。自分でも読んでて楽だから。


蓮實 一応はすらりと読める。


古井 手入れしていても、あれ、自分で読まなかったのかしら、と思うくらい(笑)。


蓮實 この『辻』という作品は、文壇的な用語からすれば、連作短篇です。ただ、連作短篇という言葉には収まり難い、風向きが同じであったり、匂いが同じであったりといった、ある同質性が全編を貫いている。とんでもない方向には向かないんですよね。これは、辻を決定的に通り過ぎて死なないための、作家の長生きのための戦略になるわけですか。


古井 戦略にはなります。短くとっても、そのシリーズを書き継いでいくための戦略ですよね。でもまあ、デビュー当時から、最悪の場合は金太郎飴になっても構わないという具合でやってますから。


蓮實 最悪の場合といっても、古井さんはご自分のキャリアで、最悪になった例しはないじゃないですか。


古井 なんとか凌いでいるというか、回避する、その運動神経はあるかもしれません。


蓮實 よく古井さんの作品は「衰退の文学」だといわれるんですけれども、衰退が書けるのは健康だからでしょう。だから古井さんの作品は、衰退は扱っているけれども、「衰退の文学」ではないと思っているのです。


古井 衰退して歌うことは出来るかもしれないけど、書くのは難しいと思います。


蓮實 そこで思うのは、古井さんという人は、言葉のなかで生きて、言葉とともに暮らしているけれども、言葉に対するフェティシスムだけはない人だということです。


古井 そう思います。この前、法政大学でドイツと日本の作家のシンポジウムがあって、僕がパネリストになった回のテーマが「フェティッシュ」というものだったんですが、みんなの話しているのを聞いても、フェティッシュという観念が、僕には一向にピンと来ないんですよ。


 フェティッシュなんて言われて、一番はじめに連想するのは、戦争中に機銃掃射かけられると破片が落ちるでしょ、それを財布に入れて自分の弾除けにした、そういうもんかな、と。自分の生き方に関わるようなフェティッシュ……わからない、実はね。


蓮實 私も、言葉に対するフェティシスムは、小説家にとってはいちばん愚かなものだと思っています。しかし、大作家といわれる人まで、みんなついやっちゃうわけじゃないですか。自分は、カラダという字はこのようにしか書かないぞという人は結構いるわけです。ところが古井さんの小説を見てると、「身体」と書いたり、仮名で「からだ」と書いたり、そのつど変えられている。その場その場で理由があるのかと思っていくつか調べたんですが、まったくないわけではないけれども、どちらかといえば、そこは突き詰めずに済むぞ、と思っておられる方だと思ったんです。


古井 そうです、ええ。


蓮實 確かに、「昏乱する」や「忿怒」といった独特の表記はあるけど、最終的には、書いてしまえばそれでいいと思ってらっしゃるんじゃないですか。


古井 本にするとき、用語、漢字を少なくとも一篇のなかでは統一してくれっていうくらいで、大概は書いたときのままで済ませてますね。


蓮實 字面に対するフェティシスムというものがなく、しかし来た球に関しては、もっともすばやい動きでそれを捕れる。フェティシスムは排すべきだと思っていながらもつい引きずられてしまう私は、そういう人には憧れてしまう。


古井 表記が変わるというのは、書いているうちに連関が緩んでるせいなのかもしれません。最初は連関というものを意識して書いているけども、筆の佳境っていうものがありまして、書いている本人も、たいへん後ろ暗いところへ入っていく。すると守らなきゃならないと戒めてた連関が、おのずから緩んでいくことになる……。


蓮實 それは緩みなんですか。


古井 緩みから出てくる、一種の自在さに近いもの。自在さそのものではありませんけど。いかにこっちが言葉にフェティシスムをかけようとしても、言葉が相手してくれない。


蓮實 古井的な文体というものがあると思うんですが、これが実にまた定義しがたくて、普通に読むと、比較的息の短いところで「た」がきたりするのに、これまた「白い軒」になるんですけど、「白い軒」には、句点なしに八行から九行続く文章が三つもある。そのつど凄みがあるわけです。あえて長くする理由があるのかなと思うと、間接的な話法、つまり誰かが言ったことをもう一度誰かが要約してつなげていく、という理由はあるんだけれど、必ずしもそうせざるをえなかったというわけでもないらしい。こうした九行のような長文というものは、日本の作家にあってはよくないこととされているわけでしょ。


古井 はい。


蓮實 それを堂々とやってしまうのは、やはり佳境に入っているからですか?


古井 そうですね。それと、日本語のある特性が出るみたいです。日本語では、だいたい句読点というのはあってないようなものですから、これはかなり長い文章が綴れるはずなんです。そこは、ヨーロッパの言語のロングセンテンスとはまた構造が違う。それを普段は作者が戒めてるんです。ところが、たまりかねて、言葉のほうが勝手にやってしまう。特に長文になるのは、確かに間接話法、間間接話法のところで、それは、要するに書き手と話し手の齟齬に躓かないため、でしょうか。


蓮實 話し手っていうのは、作品の中の?


古井 そうです。それと書き手である著者。双方が必ずしもしっかりした足場にはいないわけですから、これをシンタックスから処理していくと、混乱してだいたい文章として成り立たなくなるんですよね。いたずらに接続詞を使わなきゃならなくなる。ところが僕には、日本語にとって、はたして接続詞っていうのは効く言語かどうかという疑問がありまして。


蓮實 それから関係代名詞は使っても意味がない、と思ってらっしゃいませんか。


古井 意味がないんですよ。


蓮實 前に古井論を書こうとした時の、テーマの一つが人称の問題だったんです。古井さんの小説では、「私」はともかく、「彼」、「彼女」という三人称の代名詞は執拗に避けられますよね。あれは、いつ頃からそうなったのか……初期作品には、「彼」、「彼女」があったような記憶があるんですが。


古井 何作かしかないと思いますよ。「彼」「彼女」を使ったのは、書き始めて一、二年ぐらいまでじゃありませんか。


蓮實 それはなぜと聞くのも野暮なんですが、なぜなんでしょう。


古井 「彼」「彼女」と書くときには、いわゆる物語作品にはなっていなくても、間接話法の域に踏み込んでるんです。けれども、僕の伝聞っていうのは、伝聞のまた伝聞でして……。


蓮實 伝聞の伝聞を「私」が書くというのではなくて、今度は「私」がないということですね。


古井 そうなんです。そのときに、人称をはっきりさせると破綻する場合が少なくないんです。つまり、「彼」「彼女」と括弧に入れても、ほとんど意味がない。人称に意味がないっていうのはどういうことかって、自分でも憮然として思うんですけれども。


蓮實 古井文学解明のためには、人称というのは避けて通れない道で、「彼」「彼女」を使わない人だということだけは確かなんですが、私自身がまだ解決法を持っていないんです。ただし、先頃出たばかりの、『詩への小路』(書肆山田刊)を読むと、評論というかエッセイというかああいうものには、「彼」は出てくる。


古井 出てくるんですね。


蓮實 ですから、『詩への小路』の中にも、なかば小説として読んでもいい部分がないわけじゃないと思うんだけれども、やはり「彼」が出てくるということは、あれは小説としては書かれてはいないのか、と使い分けを一応は納得したつもりなんです。




第2回 驚くべき方法的な賭け


古井 僕はドイツ文学の翻訳をやっていて、いつのまにか作家になった人間なんですが、ドイツ文学を訳している時に感じたのは、ヨーロッパの近代の散文っていうのは、告発と弁明の文章じゃないかということです。告発と弁明だから、関係を明瞭に出さなければいけない。その構造にのっとったものを日本語に訳すとき、日本語で告発と弁明の文章を書くと、ちょっと文学にならないところがあるんです。で、一時はそそっかしくも、言ってみれば日本の文学は、呪術、呼び出しの文学だなんて思ったことがあるんですけど、やはり僕には、巫女みたいにしてものを書くことはできない。物語っていうのは本来、書き手が失われることだろうと思う。


蓮實 過去30年くらい、欧米の文学理論を席巻したナラトロジーというのは、結局小説を物語として捉えてその構造を分析するわけですが、語り手、ナレーターという言葉がかなり重要な意味を持ってきてしまう。だれが語っているか。その言表の主体を客観化せよと。ところが日本の小説、これはほとんど樋口一葉からそうなんだけれども、言表の主体を客観化できないところから語っているわけです。


古井 はい、客観化できませんね。


蓮實 ひょっとしたら、ヨーロッパの小説も実はそうなのかもしれないというふうに、最近では思っているのです。ナレーターの問題を突き詰めると、ヨーロッパの文学においてすら、解決できない問題が出てくるんじゃないか。どこかで無人称の主体のようなものを想像しないと、実はヨーロッパの近代小説も語れないのに、ヨーロッパの文学理論家たちはきわどくそこのところを避けている。


古井 なるほど。


蓮實 その問題と古井さんのこの小説がどの程度重なっているかはわからないけれども、『辻』のなかの最初の一篇「辻」の冒頭部分、「何処に住んでいるのか。誰と暮らしているのか。そして生まれ育ちは――。/構えて尋ねられたくはないことだ。答え甲斐がないようにも思われる。/現住所は尋ねられれば差障りのないかぎり教える。手紙や書類にも欠かすわけにいかない。あちこちに登録されている。一切届け出ることのできぬ境遇に追いこまれれば、人の生き心地は一変する。しかし住所を書きこむ馴れた手が途中で停まりかける。にわかに、知らぬ所番地に見えてくる。ほんのわずかな間のことだ。既知が昂じると、未知に映ることはあるものらしい。」とあって、これは、言表行為の主体が確定できない。「誰が」と問うてはいけない、と古井さんが言っているように思うのです。


 また、最後十二篇目の「始まり」という作品はついに固有名詞を失った話になるわけですね。「葉ばかりになった桜並木から傘に硬い滴の落ちる雨の日曜の午さがりに、共同墓地のある丘陵へ続く長い坂の途中の、山門らしい構えもない寺に男が母親の遺骨を風呂敷に包んで提げて早目に着くと、先客がまだ済んでいないようで本堂のほうから読経の声が流れて、玄関に出迎えた高年の女性が男の手渡した故人についての短い書付けに目を通し、六十二でしたか、まだお若いのに、と華やいだような声で惜んで控室へ案内した。納骨の前に宗派を問わずに経をあげてくれる寺だった。外見も寺らしくなくて控室も人の家の応接間に変わらず、男はかえって居心地が苦しく、遺骨を膝に抱えて椅子に浅く腰を掛け、しかし年末に母親に入院されてからはのべつこうして控えて、呼ばれるのを待っていたような気がする、と母親を亡くして初めて感慨らしきものに耽るうちに、本堂の読経の声が止んで、やがて廊下から女が現われ、黒いセーターに長目の茶のスカートをはいたその姿に、その細い腰つきに男は見覚えのある気がして思わず頭をさげると、女はうつむいた顔をあげずに髪の下からかすかに礼を返し、遺骨を抱え直して玄関から外へ出て行った。」『辻』全体の中で一番長い作品なのに、この冒頭部分以降、固有名詞を奪われた非人称的な男と女しか出てこない。


 他の作品でも、たまたま固有名詞が出てくると、ああそうだったのかと思う程度で、固有名詞なしで、我々は快くというか、あるいはことによると自分自身の意思を失って、古井的なエクリチュールに身を任せているわけです。固有名詞はたまたまの仮のものだぞ、という雰囲気が、『辻』では強い。


古井 そうですね、その気はいつもあるんですけれど、『辻』では、なまじ第三者的な人物を表そうとしただけに、余計に登場人物がインディビジュアルでは必ずしもない、そういう僕の傾きが強く出た、とは思ってます。


蓮實 すると、その古井さんの傾きについて二つの見方が出来るような気がする。一つは、そのような主体の曖昧さに拘泥しているのは、ある種の日本文学の文脈にずるずるべったり居直っているんじゃないか、という考え方。もう一つは、先ほどちょっと申し上げた、ヨーロッパ近代小説も実は持っていたかもしれない無人称を小説に取り戻すための、いわば犠牲者として演じている演技なんだぞ、という考え方。僕はそうは思わないけども、最初の見方をとれば、日本語には主語はない、だから自と他の識別がし難く、古井はそこに逃げたな、と捉えられても仕方がないとも思うのです。


古井 そう捉える人はいるでしょう。


蓮實 そこは、古井さんのご自身の気持ちとして、そうじゃないんだぞと言えるのかどうか。これは作品が答えているといえばいいのかもしれないけど、ちょっとそこを伺えますか。


古井 僕は50歳を過ぎてから、日本の古典文学をあえて読まず、あらかた横文字を読むようにしてきました。それで、いろいろ考えたんですが、言表主体というのは、これは近世ヨーロッパに近代語が定まっていく過程で、おそらく法律関係、裁判というものを通して出てきた考え方じゃないかなと思うのです。告発側と弁護側に、両方とも言表主体がはっきりしなくてはならない。だから、ヨーロッパの近代語は、言表主体っていうものにこだわらざるを得ない。そしてまた、その話し手と書き手の関係が、非常に安定していた時代と、安定がはずされた時代があるということが見えてくる。安定がはずされると余計に言表主体と、現象学にこだわるようになる。それで、だんだんにものが表現しがたくなっていくんじゃないか。


蓮實 ええ。


古井 それから、古代ギリシア語のほうに深入りした。ギリシア語は、言表主体が曖昧とは言えないんだけど、不定詞や分詞を多用するでしょう。なんでここで不定詞や分詞の構文を使うのか、というところで使われる。つまり文章全体を見れば主語が何かははっきり定まってるけれども、どうも文章の過程で、主語が拡散していることがある。当時の人々はこんな文章を読んで、論理的に把握できたのか、と思ったときに、ああ、おそらく読んではいなかった、聞いていたのだろう、と気付いたんです。


蓮實 うん、そうだと思う。


古井 僕が、ギリシア語をいくらやっても、なかなかすんなりと理解できないのは、あの長短、高低のアクセントの、リズムに全然のってない。はっきり言って、近代ヨーロッパ語に翻訳しながら読んでるようなもんです。読書でも、行き詰まりっていうものがありましてね。そのギリシア語の行き詰まりの最中に、『辻』を始めたんです。あの不定詞的な用語をもっと膨らませたら、語り手と書き手との間の関係が、もう少し楽になるんではないか、とそんなことを思いながら書きました。


蓮實 楽になるというのは、どういうことなんでしょう。


古井 闊達になるといったほうがいいのかな。


蓮實 小説というものは、そこにしか生まれ得ないという感じでしょ。それは古井さんが書いておられるものに限って、ということなのか、それとも小説全体についての話なのか。


古井 ここはもう、言表主体ってことにこだわればこだわるほど、文章にこわばりが出てくる。


蓮實 なるほど。


古井 ちょっとしたものを、書けなくなってしまうわけです。つまり、客観的なことを語っているような文章でも、実は、「I say」とか「He says」とかが省略されてるんだと、そこまで考えてしまうんですよ。それに比べると古代ギリシア語の「エゴ」はとっても強くて、「I say」だから、言表主体をきちっと強く主張してるように見えるんだけど、読んでいるとどうもそうじゃないみたいなんです。つまり、神々がそう言っているとか、習俗がそう言っているとか、そういう感じがするんですよ。


蓮實 非人称的な集合性、みたいなものがありますよね。


古井 そうなんです。


蓮實 でも、古井さんのものには、そのような非人称的な集合性を、民俗学的に適用したものではないぞ、という強みがあるわけでしょ。


古井 それは違います。


蓮實 一時、そういう集合的な非人称性がはやったんだけれども、「俺が書くときにその問題を超えるぞ」ということで、民俗学的な方法をとっているわけではない。表面上は『辻』にも、「おこもり」であるとか、「役」の祖母が口にする「トキノケ」とか、我々が無意識に持っている、民俗学的な儀式というものを取り上げておられる。ただしそれは、人称性を低めるためのものではない。単に集合的ななにかではなくて、それは最終的には「始まり」のように、男と女に行き着く。しかも、それは精神分析的な男と女の関係とは違うところに、男と女を立てたいという強い意志を感じて、誰も理論化していないことを書いているように思える。


古井 そうですね。


蓮實 確かに『辻』において、固有名詞による人称性は他とは識別し難いけれども、それでも男がいて女がいるというのはわかる。『辻』という連作短篇全体を、仮に名づけておいたいくつかの人称代名詞を持っているものたちが成り立たせる世界だとすると、最後に、「始まり」に至って、その仮につけていた姓なり名なりを放棄しても、自分は立つ、というそのような強さを感じたわけなんです。これはだから、いわゆる日本的な曖昧さというものでは全然ない。そこを勘違いされると困ると思うんですけれども、ある作中人物を「男」と呼んでしまうというのは、作家としての賭けみたいなものでしょ。


古井 ええ。


蓮實 ただその賭けを、人はそのとおりに理解するとは限らないという問題があって、世間の中にいて、古井さんは居直っておられるのか、どこかで世間に対して手を差し伸べようとしておられるのかっていうのは、ちょっとわからない。僕にはもう、作家としての感動的な居直りとしか見えないんですけれども。世間ではやれ「古井文学は衰退を描いている」とか、「死に近づけば主体と客体は消えるだろう」とか、そんなふうに簡単に考えているんだけれども、これはもっともっと考え抜いた末の、驚くべき方法的な賭けであって、読んだばかりだからかもしれないけども、今度の『辻』はおそらくいままでの最高傑作じゃないかと思った。なぜ最高傑作かというと、徹底して方法的なんですよね。恐ろしいほど方法的なのに、その方法がなんであるかを我々がすぐには読めない。これは読者として、斎戒沐浴してからでないと読んではいけないぞ、という感じがするわけです。


古井 話として立つか、小説として立つかではなくて、書くということが成り立つかどうかっていう地点に来ているんでしょうね。まあ、異様に不安定なとこで居直っているわけです。書くことが成り立ったと言っても、刻々ですから。部分部分で、刻々書くことが成り立っている、ということを理解してもらえればいい。そうすると、もう一つ問題が出てくるんですよ。僕のほうは「書く」でしょう、読者は「読む」でしょう。この「書く」と「読む」が対応してくれるかどうか。これが実は苦しいところで。だから、『辻』の成果は自分でまだわからない。




第3回 辻とは何か


蓮實 たとえば、「草原」の中で安居という男が智恵という女に、松山という知人を「あなたが殺したのではないの」と言われますね。殺めたのか殺めてないのか、その問いは「割符」などにも出てきて、『辻』のいろいろなところに浸透してるんだけれども、書き方として、殺めたというふうに読めとは指定していない。


古井 してません。


蓮實 すると、何でも黒白つけたがるこのご時世、読者には、殺めたのか殺めてないのか本当のところどっちなんだという問いが生まれると思うのです。


古井 僕のほうとしては、過去に人を殺めたという場合の下敷きと、殺めてないという場合の下敷きの両方を用意するんです。けれど、作品の中ではどちらの方向も示したくない。未定の状態で、両方が際どく継続してるっていう、そういう様相で書き進めようと思うんですね。だから、二通りの小説を下敷きにして、最終的にはそれを破ってしまう、そういう書き方だと自分では思ってます。


蓮實 でも、下敷きは実際には書かれないわけでしょう。


古井 ええ、書かないです。


蓮實 普段、書き直しはなさるんですか。


古井 汚い紙に書いて、そのつど原稿用紙に書き直します。全体の書き直しはやりません。そうすると、また別な小説になるもんですから。


蓮實 でも二通りの小説を下敷きにして、それを破るようにして書くというのは、これは非常にやばいことですよね。


古井 そうなんですよ。


蓮實 つまり見ろ、と言っておいて、見るな、と言っているのとほとんど同じですから。そして、それはまた辻っていうものがそうなんです。通り過ぎればいいのか、まだ通り過ぎてはいけないのか。読んでいくと、決定的に辻で立ち止まってしまっては駄目だということだけはわかるのですが、辻と呼ばれるものの場も、あるときは四辻であったり、あるときは三叉路であったり、鉤の手が曲がったようなというものや、複数の道が交差してるケースもある。


古井 はい。


蓮實 そのつどが異なる辻であって、総称されていない。つまり、人が別の形で呼ぼうとすれば呼べるかもしれないものをあえて辻と呼んでおられる。そうすると、私も幾分そそっかしい読者であるから、辻は象徴であろうかと思ってしまうわけです。もちろん象徴ではないということを考えつつも、読んでるときは、古井由吉という名前を私は忘れますから、この作者は、書いていることによって、この空間的な一点と思われているものを、なにかの象徴であるかのように書いているのかと、つい考えます。もう一方で当然、象徴であってはならない、であるがゆえに何度も出てくるんだ、という考えにも至るんですが、そこで私は、ある程度悩むわけです。この反復性は、あるものを強調しているのか、その内実をゼロにするためなのかと。それで私のたどり着いた読み方は、ゼロ地帯としての辻というものなのですが、それじゃいけないんでしょうか。


古井 少なくとも、象徴にはしたくなかった。ぎりぎり、刻々の反復の形を書きたかった。そして、この作品全体にわたる疑問のようなものを押し出した、それが辻なんです。象徴にしたら、この作品ははやくまとまってしまうのじゃないですか。


蓮實 象徴でないがゆえに反復されなければならないし、それはそのつど修正されなければならないし、そのつどの修正が決定的な輪郭には収まらない、ということですよね。


古井 ええ。せいぜい、ゼロにまで戻すというか、ゼロがまたなにかを生んで反復していく。


蓮實 もう一つ考えたのは、辻というものが、たとえば『円陣を組む女たち』の円のような意味で、抽象的な図形かと思うと、これがまたそうじゃないんですね。むしろ、そのような図形性に収まろうとするときに、一陣の風が吹いて、時間のほうに押し流してしまう。


古井 はい、そうですね。


蓮實 現在というものはあまり見えず、まだ見てはいない未来が過去に見えたり、自分が知らない過去が今に投影されてしまったりと、時間というものが拡散してしまう。


古井 いろいろ見える。見えるがかえって見えない。見てる自分が見えない、いない、ということです。いないというのは、また至るところにいることかもしれない、とも採れる。


蓮實 明視が極まると不可視にいくといった言葉や、既知が昂じると未知に映るといった言葉も書かれていますが、これも、やっぱりダブルバインドと読めないこともない。見てはならぬし、見なくてはならぬ、と。それから、通り過ぎなくてはならないけれども、通り過ぎてはいけない。これは、ことによると我々が言葉に対して持っている姿勢そのものなのかな、という気がするんですね。


古井 それもありますし、僕が文学作品を読むときの、受け止め方でもあるんです。どの文学作品も僕にとって、見ろ、見るな、と同時に言ってる。ここを通れ、通るな、と同時に言う。僕はそういう読み方しかできない人間なのかもしれない……。


蓮實 最近、ある一冊の書物を読了するということがとてもはしたないことに思えてきましてね……。


古井 そうそう、わかります。


蓮實 若いときには言うじゃないですか。『特性のない男』読んだぞとか、『失われた時を求めて』読んだぞとか。実は全然、読んではいない。


古井 年月隔てて読み返したときに、それを感じます。


蓮實 『忿翁』の「八人目の老人」の中の「霧と氷雨に閉ざされた巴里の陋巷で姿かたちのそっくりな老人につぎつぎ、七人まで出会うという、ボードレールの詩についてたまたま話していた時のことだ。」という一節だって、最近読み直さなければ出てこないものでしょ。


古井 出てこないです。


蓮實 ということは、我々の年齢と関係があるのかな、という気もするんですが。


古井 年を隔ててある本を読むと、すっかり忘れてるってこともある。前に読んでないんじゃないかと思って読むと、自分の書き込みに出会うことがある。


蓮實 線なんか引いてあったりするんです。


古井 あれ気味悪いですね。幽霊に会ったような。さっと、そのそばを通り過ぎていくわけだ。


蓮實 だから、読み終えたとは言えないという実感をずっと持っていたんだけど、それでも今回の『辻』ほど、読み終えなかった、という実感が強かったものはないんです。「狂いと隔たり」という文章を書かせてもらった『白髪の唄』については、錯覚にしても自分なりに読み終えたと思ったんです。ところが、『辻』についてはいくらノートをとっても、結論めいたことを書き付けても、読み終えたと思えない。別にこれは音楽のように循環形式があるからついには読めないとか、そういう話ではなく、原理として読めないことがついに小説の形になって、目の前に現れてきたぞという、不気味な感想を持ちました。こんなことを作家は許されるのかという気持ちにもなったんです。


古井 書き手のほうとしては、今度は読みきれる小説を書こうか、と思って始めたのに。


蓮實 それは業ですよ、そんなことは古井由吉にできっこない(笑)。


古井 よけいひどくなったのかもしれない。『辻』を書いている間に、芥川賞選考委員をやめまして、それはもう時期だからやめようと思ったんだけど、僕も律儀な男で、やめることになって作品の力が衰えたと見られるのはいやなものだから、ちょっとムキになってね、やめることが内定してから、公表するまでの間、一時力が入りすぎたんですよ。


文学の上品と下品


蓮實 大江さんが最近よく「老人の愚行」って言っておられますが、古井さんの『辻』は、もう愚行の極みじゃないですか。こんなことされちゃ、読むほうは始末に負えない。


古井 書くほうも、こんなことして始末がつくのかどうか、と思いながらやりました。

蓮實 「新潮」にほぼ連載形式、三月やって一月休むというペースで十二篇、約一年お書きになったわけでしょ。それで、これを終わらせることができると思うものは、なんですか。先ほど引用した「始まり」の冒頭の段落、十二行が、たった三つのセンテンスにおさまっている。これはやっておると、こちらは震えるわけじゃないですか。


古井 作品を書いているうちに、季節が流れるわけですよ。季節のめぐりが、終わりを保証してくれるっていうもので、ああまた夏になったから、これでおしまいだ、と。それぐらいで、終わってもよろしいっていう保証はないんです。季節感覚でしめくくってる。


蓮實 いろいろなところに、ふと「日曜日の午後」というのが出てきますが、これはなんですか。


古井 ちょっと個人的な体験で、入院してると、日曜の午後って、いちばんさびしいんですわ。


蓮實 首で入院されたっていう話は、私も伺って知ってたんですけれども、目でも入院されたの?


古井 そうです。目は左右やりましたから。それに併発の症状があるんで、小出しに手術して、五回入院しました。東大にも、久しく足を運んでなかったけど、そのおかげでまめに東大には足を運んでます(笑)。


蓮實 でも、そういうことは、体の衰えというふうに思っておられないでしょう。


古井 ちょっと、違うようなんです。病気っていうより故障ですね。治療っていうより修繕ですね。


蓮實 一流選手が、故障を隠してもファインプレーができるっていうのと、なにか似てる気がします。よく入院したことを糧にして書く方がいますが、それはなさいませんし。


古井 要するに、自分は元気だって宣言して、書いているようなもんですから。


蓮實 最後に伺いたいのは、長篇小説についてなんですが、たぶん、古井さんのなかには長篇小説というアイデアがないんじゃありませんか。


古井 ないですね。


蓮實 言葉の配置が、たぶん成立しないんじゃないかと思うんですね。


古井 かもしれません。構想したこともないんですよ。


蓮實 でも、ムージルやブロッホの長篇小説を訳しておられる。


古井 そうなんですね。それで懲りたかな、そうでもないんだろうけど(笑)。でも、僕の訳した長篇小説は、スタンダールやバルザックのを長篇小説というならば、ロマンではありませんから。


蓮實 いわゆる十九世紀的なロマンではないという点では、むしろ古井さんに近いのかもしれませんが。


古井 なぜだか、長篇小説を構想したことがないんです。だから、書きおろしの話には、のったことがない。


蓮實 ロラン・バルトは、小説を書くことを夢としながら、結局、書かなかったんですけれども、それは多分、長篇小説の構想というものが、いわば途方もなく不自然なものだということを感づいてしまった書き手が、無意識にとった行動だと思うんです。彼は二年間、コレージュ・ド・フランスで、〈小説の準備〉という講義をして、小説に使われるかもしれないいくつかのエピソードを、日誌風にごく短く残した。それを読んでみると、とても長篇小説にはならない、ということは明らかなんです。


 ことによると長篇小説というのは、人になにかを強要する下品なものなのかもしれない。厚顔無恥なものかもしれない。


古井 あるいは長篇小説の代表は、ディケンズかもしれない。僕なんか、いつも書くことの破綻に迫られながら一行ずつ書いてるから、一息の長篇小説なんて構想しにくいんですね。だいたい言葉が持つかどうかわからない。


蓮實 しかし奇妙なことに、古井由吉は、短篇作家とも思われていない。


古井 思われてないです。


蓮實 ですから、たとえば、志賀直哉みたいに、短篇小説で一冊の本ができる、というのとも違うわけです。


古井 違います。まああの手の短篇集というのは近代日本文学が開拓したもんなんでしょう。その仕組みを僕は、拒絶してますからね。日本の近代の短篇で、多少参考にしようかなと思うのは嘉村礒多ぐらい。あとは参考にならないから尊敬してればいい、と思ってますよ。


蓮實 私は、太宰治という人が読めないんです。どう読んでも、この下品さは文学ではないと思ってしまう。つまり、読者に対して釣り針をいろいろ広げている気がしてしまう。それから、古井さんが競馬がお好きだというのでふと思いだしたのですが、織田作之助に『競馬』っていう短篇があります。しかし、これも下品極まりないものだと思いました。あの時代の人たちが、どうしてああいう短篇を許容し、しかも織田作之助を短篇の名手などというふうに言ったのかが僕はわからない。

古井 僕も太宰は短篇の名手だと思えないんですね。もし魅力があるとしたら、仕掛けながら釣りぞこなうっていう、この釣りぞこなうことの変な気前の良さね、それは面白いと思う。ただ、蓮實さんが、先ほどひょっとして長篇小説は下品なものじゃないかとおっしゃったことで言えば、日本の、いわゆる鮮やかな短篇小説ぐらい下品なものはないんじゃないかとも思うんですよ。


蓮實 なるほど。


古井 芸人の芸だと割り切ればいいのかも知れませんがね。ただし、近頃の評論では、上品、下品っていう言葉は禁句かもしれませんし、また深刻に考えると、文学は上品なものか下品なものかっていう問題もあるんですね。


蓮實 まあ、下品だったから生き延びてきたんだ、ともいえますね。バルトが書いているんですが、フロベールもプルーストも好きな作家だ。しかし、彼らの文章には、たとえば男女が交わるときの肌の赤味のようなものがまぎれこんでいる。マラルメにはそれがない。マラルメだけが自分の肌の色を制御できると言っているのですが、しかし、それを制御しつくしたらおしまいでしょうね、文学は。


古井 そうです。マラルメというのは、僕に引きつけていうと、詩にしても詩として成り立っているかどうか、疑問ですよね。でも、そういうものばかり読んできたわけです、僕は。


蓮實 もう次の小説をお考えになってらっしゃいますか。


古井 はい。


蓮實 終わりがありませんね。


古井 終わりがないだろう、と思って始めてます。だって、終わりがないようなほうへ突っ込んでいくんだもの。


蓮實 それは達観ではなくて、こわいわけですよね、終わりが。


古井 そうです。いろんな戒めを守って、慎重に諸条件をふまえて、あるところまで進んでいったとき、自分はとんでもないことをやった、と恐ろしく恣意な感じに捕えられるんですよ。そこで思ってもいなかった何行か書いてしまうでしょ。仕方がないから、これで踏んばるよりしょうがないと腹の据わるところまで、どんどん終わらない方へいってしまう。その繰り返しなんですね。


(2006・1・6)