以下、備忘である。
ベネディクト・アンダーソンは、ネーション=ステートが、本来異質であるネーションとステートの「結婚」であったといっている。これは大事な指摘であるが、その前に、やはり根本的に異質な二つのものの「結婚」があったことを忘れてはならない。国家と資本の「結婚」、である。〔・・・〕 近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年) |
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フロイトの精神分析は経験的な心理学ではない。それは、彼自身がいうように、「メタ心理学」であり、いいかえると、超越論的な心理学である。その観点からみれば、カントが超越論的に見出す感性や悟性の働きが、フロイトのいう心的な構造と同型であり、どちらも「比喩」としてしか語りえない、しかも、在るとしかいいようのない働きであることは明白なのである。 そして、フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。むろん、私がいいたいのは、カントをフロイトの側から解釈することではない。その逆である。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第1章「カント的転回」2001年) |
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ヘーゲルが『法の哲学』でとらえようとしたのは、資本=ネーション=国家という環である。このボロメオの環は、一面的なアプローチではとらえられない。ヘーゲルが右のような弁証法的記述をとったのは、そのためである。たとえば、ヘーゲルの考えから、国家主義者も、社会民主主義者も、ナショナリスト(民族主義者)も、それぞれ自らの論拠を引き出すことができる。しかも、ヘーゲルにもとづいて、それらのどれをも批判することもできる。それは、ヘーゲルが資本=ネーション=国家というボロメオの環を構造論的に把握した――彼の言い方でいえば、概念的に把握した(begreifen)――からである。ゆえに、ヘーゲルの哲学は、容易に否定することのできない力をもつのだ。 しかし、ヘーゲルにあっては、こうした環が根本的にネーションというかたちをとった想像力によって形成されていることが忘れられている。すなわち、ネーションが想像物でしかないということが忘れられている。だからまた、こうした環が揚棄される可能性があることがまったく見えなくなってしまうのである。(柄谷行人『世界史の構造』第9章、2010年) |
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ネーションを形成したのは、二つの動因である。一つは、中世以来の農村が解体されたために失われた共同体を想像的に回復しようとすることである。もう一つは、絶対王政の下で臣民とされていた人々が、その状態を脱して主体として自立したことである。しかし、実際は、それによって彼らは自発的に国家に従属したのである。1848年革命が歴史的に重要なのは、その時点で、資本=ネーション=国家が各地に出現したからだ。さらに、そのあと、資本=ネーション=国家と他の資本=ネーション=国家が衝突するケースが見られるようになる。その最初が、普仏戦争である。私の考えでは、これが世界史において最初の帝国主義戦争である。そのとき、資本・国家だけでなく、ネーションが重要な役割を果たすようになった。交換様式でいえば、ネーションは、Aの ”低次元での” 回復である。ゆえに、それは、国家(B)・資本(C)と共存すると同時に、それらの抗する何かをもっている。政治的にそれを活用したのが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムであった。今日では、概してポピュリズムと呼ばれるものに、それが残っている。(柄谷行人『力と交換様式』2022年) |
すでにマルセル・モースは、氏族社会の経済的土台を贈与──お返しという互酬交換に見いだしていた。私はそれを交換様式Aと呼ぶ。これが共同体を構成する「力」をもたらす。さらに私は、国家もまた、国民の自発的な服従-国家による保護という交換によって成り立つと考えた。それを交換様式Bと呼ぶ。武力とは異なる、国家の「力」はそこから来る。それらに対して、通常の商品交換を私は交換様式Cと呼ぶ。ここから、貨幣の「力」が生じるのだ。 以上の三つに加えて、それらを揚棄しようとする交換様式Dがある。これは歴史的には、古代帝国の時代に普遍宗教というかたちをとってあらわれた、いわば、神の「力」として。Dは局所的であれ、その後の社会構成体のなかに存続してきた。それはたとえば、一九世紀半ばに共産主義思想としてあらわれたのである。マルクスは晩年にL・H・モーガンの『古代社会』を論じて、共産主義は氏族社会(A)の”高次元での回復”であると述べた。いいかえれば、交換様式DはAの“高次元での回復”にほかならない。 |
社会構成体は歴史的に、これらの交換様式の接合体としてあった。氏族社会では、交換様式Aが支配的である。注意すべきなのは、この段階でも、交換様式BやCが萌芽的に存在することだ。Bが支配的となるにつれて、国家が形成される。このとき、Aは消滅するのではなく、国家や領主に従属する農業的共同体として存続する。一方、CはBが発展するにつれて広がった。つまり、領域国家が形成される段階で、貨幣経済が発展した。古代の世界帝国の段階で、Bの下でAとCが接合されるにいたった。 交換様式Cが社会構成体において優越的となったのは、産業資本が出現した段階である。そして、マルクスは『資本論』でそれを解明したのである。ただ、交換様式の観点からいえば、交換様式の接合としてある社会構成体が、産業資本が出現した時点でつぎのように変容したことに留意すべきである。すなわち、AやBは、Cの優位の下で消滅したのではなく、変形された。たとえば、Bは市民国家というかたちをとり、Aは“想像の共同体”としてネーションを形成する。いいかえれぼ、資本=ネーション=国家が形成されたのである。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』英語版序文 2020年) |
社会の崩壊は、唯一の最終目標が富であるような歴史的な来歴の終結として、私たちの前に迫っている。なぜなら、そのような来歴にはそれ自体が破壊される要素が含まれているからだ。政治における民主主義、社会における友愛、権利の平等、普遍的な教育は、経験、理性、科学が着実に取り組んでいる、社会の次のより高い段階を発足させるだろう。それは氏族社会の自由・平等・友愛のーーより高次元でのーー回復となるだろう。 |
Die Auflösung der Gesellschaft steht drohend vor uns als Abschluss einer geschichtlichen Laufbahn, deren einziges Endziel der Reichtum ist; denn eine solche Laufbahn enthält die Elemente ihrer eignen Vernichtung. Demokratie in der Verwaltung, Brüderlichkeit in der Gesellschaft, Gleichheit der Rechte, allgemeine Erziehung werden die nächste höhere Stufe der Gesellschaft einweihen, zu der Erfahrung, Vernunft und Wissenschaft stetig hinarbeiten. Sie wird eine Wiederbelebung sein – aber in höherer Form – der Freiheit, Gleichheit und Brüderlichkeit der alten Gentes. |
ーーマルクス『民族学ノート』Marx, Ethnologische Notizbücher. (1880/81) |
彼(磯崎新)は、僕の思想にも、興味を持ち続けてくれた。そういえば、『世界共和国へ』(2006年)という本を出したばかりのとき、磯崎さんは、そこで僕が論じた、交換様式A、B、C、Dについて、4象限で表記するのはおかしいんじゃないか、と言ったんですよ。Dは、A、B、Cとは異なる次元にあるものだから、3象限プラス1にしないと、と。それは鋭い指摘で、実は、Dは厳密には交換様式ではないんです。Dは、すべての交換の否定、脱交換だからね。(文壇から遠く離れて 演劇や建築に広がった人間関係:私の謎 柄谷行人回想録⑮、2024.06.18) |
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晩年のラカンのボロメオの環に柄谷用語群を代入しておこう。
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