2017年11月15日水曜日

神経症者の「倒錯行為」と倒錯者の「倒錯の構造」とのあいだの相違

◆ロラン・バルト、『テキストの快楽 Le plaisir du texte』 、Date de parution 01/02/1973)

テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストのうしろに、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない。テクストは文法的な態度を失わせる。それは、ある驚くべき著述家(アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius)の語っている区別できない眼だ。《私が神を見ている眼は、神が私を見ている眼と同じである。L'œil par où je vois Dieu est le même œil par où il me voit》 

◆ラカン、セミネール20(「アンコール」、20 Février 1973

例えば、アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius 。彼は自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同している confondre son œil contemplatif avec l'œil dont Dieu le regarde。そこには、倒錯的享楽 la jouissance perverse があるといわざるをえない。(ラカン S.20, 20 Février 1973)

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(倒錯者の倒錯構造と)神経症者における倒錯的特徴との差別化が認知されなければならない。神経症的主体は倒錯性の性的シナリオをただ夢見る主体ではない。彼あるいは彼女は同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認するということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯者の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の貧弱さを他者に向けて明示的に説教する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、2001,、PERVERSION II,PDF

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窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗き見行為の震えるような不安の興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、盗み見みする光景からくる悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深刻に観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN,2001)

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【倒錯の三つの特徴】

①頑固な(融通のない)前性器的シナリオがある。
②そのシナリオが倒錯的主体に強迫的に課されている。
③それを通して、彼(女)は権力と支配の関係性を設置する。
①は古典的特徴である。もっともここでの強調は形容詞に置かれる。すなわち「融通性のない」性格である。疑いもなく、神経症的文脈内でも、前性器的シナリオはいたる処にある。固有の倒錯的特徴は、自由の欠如と組み合わさった「頑固さ」に関わる。

シナリオからのどんな逸脱も、不安と緊張の源泉である。精神分析的観点からは、これを「反復強迫 Wiederholungszwang」の形式ーー「反復 Wiederholen」の形式ではなくーーとして理解しうる。事実、我々が神経症的文脈から知っているように、どの「反復」も、絶えず移行する想像的な欲望の弁証法の内に、何か新しいものを含んでいる。対照的に「反復強迫」ーーフロイトによって外傷神経症のなかに見出されたもの--は、外傷的現実界からの何かを象徴化するその試みにおいて、きわめて融通のなさ(執拗さ)を伴っている。
②の特徴は、倒錯にかんする神経症者の「薔薇の絵(羨望)」とは合致しない。倒錯者はエロティックな官能主義者ではない。全く正反対である。倒錯的主体は基本的に不自由である。彼は殆ど一定不変のシナリオの上演に向かって、衝動的な形を以て駆り立てられている。その上演はとてもしばしば何か奇妙なものとして倒錯者に経験される。そして目的は、まず何よりも不安と緊張の削減である。

上演後、倒錯者は安堵感に出会う。しかしまた、恥・罪・鬱の感情を抱く。言い換えれば、倒錯的主体は分割された主体である。彼は、自身の奇妙な振舞いへと駆り立てる要因自体にさえ気づいていない場合がある程に、二つの部分に分割されている。これが説き明かすのは、倒錯者はその社会生活において、とても正常な人物・社会適応した人物でありうることである。分割された他の部分が彼を乗っ取ったときにのみ、倒錯が瞭然とする。
③は最も興味深い特徴である。そしてこれはいくつかの点にかかわる。臨床的叙述が何度もくり返して示しているのは、倒錯的シナリオは権力関係の設置に至ることである。すなわち他者は支配されなければならない。マゾヒストでさえ、最初から終りまで糸を操っている。彼(女)は、他者がしなければならないことを厳しく命ずる。この権力は純粋に身体的次元には限定されない。さらに先に進んで、倒錯者はとてもしばしば、快楽の新しい倫理の唱導者となる。したがって彼は、自らの権力の掌中となる取り巻き連中を創造する。(ポール・バーハウ、2001、PERVERSION II,PDFより)

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倒錯者と神経症者が生み出される発達段階における相違は何か?

乳幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、彼は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外を通して、自己のアイデンティティの基礎を獲得する。いったんこの基礎のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。(……)

倒錯の心理起因においては、これは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化のために、子供は母の支配下・母自身の部分であり続ける。したがって、子供は自身の欲動の表象能力を獲得できない。ましてやそれに引き続く自身の欲望のどんな加工も不可能である。

構造的用語で言えば、これはファルス化された対象 a に還元されるということである。その対象a を通して、母は彼女自身の欠如を塞ぐ。母からの分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無力な観察者に格下げされる。

こうして子供は自らを逆説的なポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルスとなることは子供にとって勝利である。他方で、このために支払う代価は高い。分離がないのだ。(When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe ,2010,PDF)


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ジジェクはこれらの倒錯構造を一般化している。これは議論の余地はあるだろうが、ほぼ正しいだろう、なかんずく父なき時代(象徴的権威の崩壊の時代)には、人は多かれ少なかれ、みな構造的倒錯者でありうる。

貧乏な田舎者が、乗っていた船が難破して、たとえばシンディ・クリフォードといっしょに、無人島に漂着する。セックスの後、女は男に「どうだった?」と訊く。男は「すばらしかった」と答えるが、「ちょっとした願いを叶えてくれたら、満足が完璧になるんだが」と言い足す。頼むから、ズボンをはき、顔に髭を描いて、親友の役を演じて欲しいというのだ。「誤解をしないでくれ、おれは変態じゃない。願いを叶えてくれれば、すぐにわかる」。女が男装すると、男は彼女に近づいて、横腹を突き、男どうしで秘密を打ち明け合うときの、独特の流し目で、こう言う。「何があったか、わかるか? シンディ・クリフォードと寝たんだぜ!」

目撃者としてつねにそこにいるこの〈第三者〉は、無垢で無邪気な個人的快感などというものはありえないことを物語っている。セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

ポルノグラフィの時代における世界の変貌



◆Deborah De Robertis flashes Paris museum goers on May 2014



これは一つの例だが、ポルノグラフィの氾濫によって、世界は或は人間はーーそしておそらく芸術はーー変貌している事実を過小評価してはならない。


◆LECTURE BY JACQUES-ALAIN MILLER — PARIS, 15.07.2014  L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANTより


【精神分析の変貌】
精神分析は変貌している。 (……)

たとえば、ある断絶を我々は見逃すことはありえない。フロイトが精神分析を発明したのは、ヴィクトリア朝支配、セクシャリティ圧制の典型のいわば後ろ楯のもとでだ。他方、21世紀は、「ポルノ」よ呼ばれるもののとてつもない氾濫である。それは見せ物としての性交に到る。ウェブ上で、マウスの単純なワンクリックによって、誰にでもアクセス可能なスペクタクル。

ヴィクトリアからポルノへ。我々はただ禁止から許容へと移行したのではない。そうではなく、刺激・侵入・挑発・強制への移行だ。かつての幻想とは異なったポルノグラフィとは何だろう?あらゆる多様な倒錯性向を満足させるに充分なヴァラエティが映しだされるあのポルノは?

これは、セクシャリティにおいて、また社会制度において、新しい何かだ。若者のあいだでのその習得を促すパターンのなか、彼らはただひたすらこの道のりを歩み始める。(⋯⋯)


【男の性の弱化】
ポルノグラフィに触れると、弱くなる性は男の性だ。男たちのほうがいっそう容易に受け入れるから。我々は分析において、どんなにしばしば聞いただろう、あれらポルノの浮かれ騒ぎをやってみたいという強迫観念の不平不満を。彼らはハードディスクにストックしてさえいる。

他方、妻や恋人の側では、女たちは、パートナーの実践を自ら知っているにもかかわらず、彼らに比べてやってみることは相対的に少ない。そのときどうなるか? 場合によりけりだ。女は裏切りと思うかもしれない。取るに足らない娯楽と思うかもしれない。

ポルノグラフィの臨床は、21世紀に属する。私はいまそれに言い及んでいる。しかし、それは詳細に観察されるに値する。というのは、それはしつこく己れを主張し、この15年のあいだ、分析治療において際立って現前するようになったから。


【バロック時代と現代社会】
とはいえ我々は、このまさに現代的な慣習をめぐって思いを馳せざるをえない。ラカンによって指摘されたこと、すなわち芸術におけるキリスト教信仰の影響の高揚として、バロックの最盛期に実現された影響を。イタリアとその教会の周遊旅行から戻ってきてすぐ、ラカンはまさに「オーギー orgie (狂宴)」に言及した。ラカンは、セミネール「アンコール」にて、注意を促した。あれらすべての身体の露出は、享楽を呼び起こすことに相当する、と。

これが、我々がポルノグラフィティとともにある場だ。しかしながら、恍惚感をもたらす身体の宗教的露出は、性交自体に対しては、常に「オフ・スクリーン」のままだった。ラカンが観察したように、「人間の現実性」のなかの限界の彼方であるかのように。この「人間の現実性」の奇妙な再出現。Réalité humaine とは、ハイデガーの最初の翻訳者が Daseinと表現された語を仏語に翻訳した表現である。しかし、それは遠い昔のことだ。というのは、今ではどんな「存在」も、この Dasein への道のりから絶縁してしまっているのだから。

科学技術の時代には、性交はもはや個人の領野には限られていない。それは、我々おのおのの幻想を増長しつつ、今では表象の上演の領域に溶け込んでいる。それは大衆的な規模へと移り進んだ。

ポルノグラフィとバロックとのあいだで、強調されなけれなならない二番目の相違がある。ラカンが定義したように、バロックは、身体の観察手段、身体の凝視 “régulation de l'âme par la scopie corporell ”(S.20)を通して、魂の統御を図った。ポルノグラフィにはそんなものは微塵もない。何の統御もなく、むしろ絶え間ない侵犯がある。

ポルノグラフィにおける身体の凝視は、享楽に向かった「ひと突きnudge」として機能する。「剰余享楽」の型に従って満足させられるように図られた享楽への促し。それは、沈黙し孤立した達成のなかにある、危ういホメオスタシス(恒常性)的統御を逸脱する様式である。


【 性交の怒濤による意味のゼロ度】
(⋯⋯)電子ネットワークによるポルノグラフィの世界的蔓延は、精神分析において、疑いもなく歴然とした影響を生み出している。今世紀の始まりにおけるポルノグラフィの遍在は、何を表しているのか? どう言ったらいいのだろう? そう、それは「性関係はない」以外の何ものでもない。これが我々の世紀の谺である。そしてある意味で、ひっきりなしの、絶え間なく続くあのスペクタクルの聖歌隊によって、詠唱されていることだ。というのは、性関係の不在が、おそらくこの熱中に帰されうるから。我々は既に、この熱中の帰結を、より若い世代の道徳観のなかの足跡を辿りつつある。あの世代の性的振る舞いスタイルにおける習俗のなかに、である。すなわち、幻滅・残忍・陳腐…。

ポルノグラフィにおける性交の怒濤は、意味のゼロ度に到っている。…(ミレール、2014、私訳)

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※付記

ジャック=アラン・ミレールの文に現れるラカンの《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel》とは何か。

先ずフロイトの言葉を掲げよう。

男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く。

Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『続・精神分析入門講義』1933年)

ーーラカンの「性関係はない」とは、上のようなフロイトの考え方を大胆に表現したものに過ぎない。

「〜のようなものはない il n'y a pas」という表現は、性関係を基礎づけることが不可能だということである。…l'énoncé qu'il n'y a pas, qu'il est impossible de poser le rapport sexuel (ラカン、S20、21 Novembre 1972)


すなわち 「性関係はない」は、性交関係の不在に言及しているのではない。むしろ《性関係を基礎づけるものはない》という意味である。

ジジェクの注釈なら次の通り。

ラカンが「性関係はない there is no sexual relationship」という逆説的な表現であらわしたものとは、パートナーとの調和的な性関係を普遍的に保証するものはない、ということである。個々の主体が自分なりの幻想、つまり性関係の「私的な」公式を作り上げなくてはならない。女性との関係が可能なのは、唯一、パートナーがこの公式にフィットしたときだけである。(ジジェク『ラカンはこう読め』私訳)

あるいは、《「性関係はない」……性差とは二つの性的立場の対立であり、両者の間に共通分母はない。》(同上ジジェク)


ところで前期ラカンは、男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 /女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》(E733)としているが、ジジェクの次の文は、この男性のフェティッシュ的愛/女性の被愛妄想の対照、そして《性関係を基礎づけるものはない il n'y a pas de rapport sexuel》の注釈として、すこぶる秀逸である。

二、三年前、イギリスのTVでビールの面白いCMが放映された。それはメルヘンによくある出会いから始まる。小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスをする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。

しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は物欲しそうな眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスする。すると少女はビール瓶に変わり、若者は誇らしげにその瓶を掲げる。女性から見れば(キスで表現される)彼女の愛情がカエルをハンサムな男、つまりじゅうぶんにファルス的存在に変える。男からすると、彼は女性を部分対象、つまり自分の欲望の原因(対象a)に還元してしまう。

この非対称ゆえに、「性関係はない」のである。女とカエルか、男とビールか、そのどちらかなのである。絶対にありえないのは自然な美しい男女のカップルである。幻想においてこの理想的なカップルに相当するのは、瓶ビールを抱いているカエルだろう。この不釣り合いなイメージは、性関係の調和を保証するどころか、その滑稽な不調和を強調する。

われわれは幻想に過剰に同一化するために、幻想はわれわれに対して強い拘束力をもっているが、右のことから、この拘束から逃れるにはどうすればよいかがわかる。同じ空間内で、同時に両立しえない幻想の諸要素を一度に抱きしめてしまえばいいのだ。つまり、二人の主体のそれぞれが彼あるいは彼女自身の主観的幻想に浸かればいいのだ。少女は、じつは若者であるカエルについて幻想し、男のほうは、じつは瓶ビールである少女について幻想すればいい。(ジジェク『ラカンはこう読め!』 鈴木晶訳 P.99~、一部訳語変更)

すなわち《性関係を基礎づけるものはない》とは、《ビール瓶を抱いたカエル》という男女の性の関係なのである。このイメージは、男性の愛の《フェティッシュ形式 la forme fétichiste》 と女性の愛の《被愛妄想形式 la forme érotomaniaque》とピッタリではなかろうか? 

これがわれわれの「標準的な」性関係の姿であることをしっかりと悟らねばならない。


2017年11月6日月曜日

真理は女である

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』「序文」1886年)
女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は嘘をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけ Schein と美しさである。

われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。(『善悪の彼岸』232番、1886年)

真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。la vérité, fille en ceci …qu'elle ne serait par essence, comme toute autre fille, qu'une égarée.》(ラカン, S9, 15 Novembre 1961)
真理はすでに女である。真理はすべてではない(非全体・非一貫性 pas toute)のだから。la vérité est femme déjà de n'être pas toute(ラカン,Télévision, 1973, AE540)

人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番、1888年)
女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)

見せかけ semblant とは仮象のことである(事実、ラカン独語訳では「仮象 Schein」とされている)。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象 Schein を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年追加版)

男は愚かにも信じている、象徴的肩書きの「彼岸」、彼自身のなかの「深い」ところに己れの実体、ある隠された秘宝があって、それが彼を愛するに値する者にすると。他方、女は知っている、仮面の下にはなにもないことを。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)


2017年10月28日土曜日

いじめをめぐって(中井久夫)

中井久夫の「いじめ」をめぐる論は、「いじめの政治学」が名高い。いまは主にその前半にある「さわり」の箇所のみを引用しよう。

権力欲は(……)その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる、このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」という満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。⋯⋯
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。⋯⋯⋯
いじめられる者がいかにいじめられるに値するかというPR作戦(……)。些細な身体的特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。⋯⋯⋯
子どもの社会は権力社会であるという側面を持つ。子どもは家族や社会の中で権力を持てないだけ、いっそう権力に飢えている。子どもが家族の中で権力を制限され、権力を振るわれていることが大きければ大きいほど、子どもの飢えは増大する。⋯⋯⋯

いじめる側の子どもにかんする研究は少ない。彼らが研究に登場するのは、家族の中で暴力を振るわれている場合である。あるいは発言したくても発言権がなくて、無力感にさいなまれている場合である。たとえば、どれだけ多くの子どもが家庭にあって、父母あるいは嫁姑の確執に対して一言いいたくて、しかしいえなくて身悶えする思いでいることか。(中井久夫「いじめの政治学」初出1997年『アリアドネからの糸』所収)

だが、この「いじめの政治学」の約十年前に書かれた「精神科医からみた子どもの問題」にも多くのすぐれた指摘がある。もっとも、たとえばインターネット情報が流通する以前の、三十年以上前の論なので、細部の微調整は必要ではあるが。

精神科医が教育の問題を論じるには限界がいくつかある。

第一は、教育の現場が一種の密室であって、部外者が立ち入ると、場が必然的に変化してしまうということである。医療の現場と同じく、ありのままを観察することは原理的に困難である。

第二に、精神科医は、ごくかぎられた、病気といわれる域に達した、ある意味では極端な事例をとおしてしか、直接問題に接することができない。そういう場合には、ありきたりの例ではみえないものを照らしだすという利点もあるだろうが、極論に傾きやすい。精神科医の発言が比較的俗耳にはいりやすいのも、極端な例を挙げがちで、センセーショナルに受けとられやすいからという一面があるだろう。自戒すべきことである。

第三に、医学は経験と試行をくりかえして、ある解決法に達するものであるから、新しい問題が発生してから解決の定式がほぼできあがるまでには、ある一定の時間が必要である。戦後の児童精神医学にかんする限り、その期間を二十年とみてよいと私は思う。われわれは「いつも遅れて到着する」のである。これは、伝染病であろうと家庭内暴力であろうと、経験主義的立場に立つ限り、相違はない。(⋯⋯)
いじめの問題には、いくつかの層を区別する必要があると私は思う。

第一に、ある発達段階において意地悪あるいはいじめの現象には、人間あるいはそれ以前の動物において広くみられる永遠の問題だという部分がある。一九二二年にシュデルップ=ヘッペがニワトリのつつき順位を報告して以来、動物の集団には順位があり、それを確認する行為がいろいろな形でみられることが知られている。

ここで、最近強調されていることは、天然に生きる動物では、必ずしも、順位制による差別や虐待が絶対的・単線的なものではないということである。離れ猿になると利点がいくつもある。群の中でも逃がれ道はいくつもあり、ボスの地位は絶対的ではない。飼育によって順位制の論理が非常に強く貫徹するようになるということである。

動物園の動物はじめ飼育動物が一種の神経症状態になっていることがわかっているが、いささか気になることは、人間は自分で自分を動物園にとじこめて飼育している奇妙な動物である、というモリスの指摘である。人間は、攻撃性の処理を社会的にどう行うかが、そもそものはじめから大問題であった動物のようだ。数百万年前の原人の頭蓋骨に石の斧が食いこんだ跡があると聞かされると、まことにうんざりするが、事実は正視せざるをえまい。

教育とくに初等教育における対人関係発達論的な大課題を、アメリカの精神科医サリヴァンが三つのC、すなわち競争(コンベンション)、協力(コーペレーション)、妥協(コンプロマイズ)であるとしたのは、攻撃性を手なずける上で深い意味があるのであろう。これは校庭でも教室でも第一の課題とされるべきものである。これに成功しない人は、思春期の混乱をとおりぬけて成熟した成人になることが困難になる。

家庭教育でやりにくいのが、この三つのCである。第一に、家庭には同年齢の仲間は普通いないからである。年齢の接近したきょうだいは、母の愛をめぐって、むしろ強い葛藤関係にある。第二に、家庭はあまりに密接な人間関係である。密接な人間関係はすべての人間関係の代表ではない。たとえば、食うか食われるかの関係になりやすい(嫁姑問題など)。ある距離をおいた人間関係にはそれ自身の価値があり、安らぎと遊び(創造性)がある。家庭の中だけで育った子どもには味わえないものだ。そういう子は重力の強すぎる星で育った人のようなものである。第三に、最近特にそうであるが、家庭はごく少数の人間から成りたっているから、その人たちが偏っている確率は決してすくなくない。そもそも「人類の代表」を父母だけで演じるわけにはゆかない。これを修正するという仕事も初等教育にまかされている。

教育の前段階において若者をあつめて何らかの集団をつくるようにしている部族は多いはずである。ブッシュマンの社会においては、親族関係によって冗談を言ってよい相手――ジョーキング・パートナー ――と言ってはいけない相手がきまっているというが、これは攻撃性を放電する一つの回路としての冗談(からかい)の制度化という、すぐれた解決法である。

冗談、からかい、地口、皮肉――これらの中には攻撃性が薄められてはいっている。しかし、薄められた攻撃性は遊びに接続しており、むきだしの攻撃性にたいする一種の免疫効果がある。冗談と言葉遊びと遊戯との三者の間に密接な関係があるのは、遊戯の多くが冗談的な言葉遊びを伴奏として行なわれること一つを考えてみてもわかる。これれは、先の三Cを教えるものである。他者との妥協は自分(の欲望など)との妥協でもある。それなしには他者と交わることができないのを遊びは教える。

私は、思春期の問題が声たかくとりあげられていた時に、たとえば悪いが、破産する会社は破産の時点での運営が問題であるよりも、その前の時期の放蕩経営こそが破産の素地をつくったのであろうから、そのように、思春期に先行する児童期ーー精神分析でいう「潜伏期」--がどうなっているかを調べる必要があると主張したことがある。当時は、児童期はいちばん問題のない時期とされていた。私は、児童期の子が大人顔まけのいやらしい現実主義者であり、政治的動物になれると述べた。今は問題が思春期をまたずにあらわれて児童期のいじめになっていると考えることができる。
ここで、第二の側面、すなわち時代の流れの中での問題にはいろう。一体何が問題を即座に破綻させるようになったのか。多くの指摘があって、いずれも一面をとらえていると思う。学園紛争の中にも、校内暴力の中にも、不登校の中にも、家庭内暴力の中にも、いじめ的要素はあった。いずれも「無理難題」を吹きかけて相手を追いつめるという戦略が主流だった。ただ、思春期の新しい問題が上を表土のようにおおっていた。ただそれだけだったのか。それが、思春期をとおらないで即座に出現したので何の粉飾もない「殺風景」な「いじめ」というものになったのか。

学園紛争が、全世界同時的に、一九六八年を中心に起こったのには、多くの者が説明にくるしんだ。私は、結局、第二次大戦からの時間的距離しかアメリカから日本、フランス、さらに中国に至るまでの共通項はなかろうと考えた。戦時中から戦後にかけての兵役、捕虜などによる父親不在があり、さらに日本では敗戦による成人の価値変換をまのあたりに見てそだった世代の子どもたちである。親が戦後の社会改革の中でもまれて中心的価値をみうしなったことが問題なのか。両親の家族中心主義。大量出産が示す家庭志向(ベビー・ブームはどの国の戦後にも起こった)への反発か。あるいは親の挫折感(戦後には「世直し」期待が戦勝国でも敗戦国でも発生したが失望におわった)を継承しているのか。とにかく、青年として戦争をすごした親から生れた子が紛争世代であった。

では、今の小・中学生は? ちょうど高度成長時代に小・中学生時代を送った親の子ではないか。高度成長時代は生活の基盤そのものが移動した時代であった。将来こうもあろうかと予想していなかったものが次々にあらわれた。ヨーロッパの一国――ギリシャだったかボルトガルだったかーーをついに追いこしたと、通産省が誇らしげに発表したのは一九六〇年ごろだったと思う。その直前まで日本は確実に第三世界に分類されており、その指導者たちの集まるバンドン会議に代表を送ることを不思議に思う者はいなかった。

生活が急速に向上した家庭の子どもは、特殊な自己規定困難を背負いこむ。幼児期は民間アパートで、小児期は団地で、思春期はマンションで、青年期になって豪邸で過した人は、その都度なじんだ環境に別れ、友人を失うだけでなく、自分にたいする周囲の目も、呼び方も、しかるべき服装も言葉も振舞いも換えねばならない。こういうことに耐えて成長する子があることも確かだが、混乱と混沌に陥る者の比率も増大する。病気にはならなくても、弱点をしょいこむ者はずっと多いだろう。高度成長時代の日本人の大部分がそうだったと言えるかもしれない。いわゆるニュー・ファミリー世代である。海外旅行は一九六〇年代半ばまでは上流階級のものであった。外国に旅行することは少年時代の人生計画の予定外だった。

高度成長は終わったが、生活の変化はつづいた。普遍的職業としての「サラリーマン」は消えた。文系の高等教育を受けて帳簿をつけて会議にでて一生を送るという、江戸時代の武士の延長のような存在は決定的になくなった。平均的な人間が生きにくい時代になった。「こつこつやっていれば報いられる」という教えを説くことが、家庭でも学校でもむつかしくなった。さらに、単身赴任者が三分の一に及ぶという時代になった。都会人でも田舎の人でもない、住宅地人、団地人、つまり「あなたの故郷は?」ときかれて答えられない人が大量に発生した。これが単身赴任を心理的にやさしくしたのであろう。一方、持ち家政策で一戸建の家に住む日本人は有史以来の率にたっした。単身赴任は、労働の能率化・流動化と持ち家政策との矛盾に発生したともいえる。ニュー・ファミリーを待っていた試練である。

こういう時代の人の子が、今小学生から中学生になっているのである。
しかし、今問題になっている「いじめ」の内容には新しさがあるのだろうか? 新しさとしてあげられているものは、そのしつこさ、限度の知らなさである。昔はそうでなかったという。しかし、それは戦前の陸軍の新兵いじめ、戦時中の疎開学童いじめを知らないものである。(……)

いじめの体験でいちばんつらいのは、成人に訴えても甲斐ないことであり、友人も巻きぞえを避けることであり、しかも一つ一つを取りあげれば些細な事件とされることである。時には被害者の気力のないせいにされる。「出口なし」という状況である。こういう体験を社会への出発にあたって持った人が人生に悲観的になりやすいとしても、それは当然であろう。

この世代の戦争体験は、空襲で逃げまわり、空腹に耐える体験えあり、少し年長の世代のように、精神的に戦争に賛成したとか積極的に参加したという意識が希薄である。私もこの世代だが、空襲は台風に近い天然現象であって、恐怖ではあったが、アメリカにたいする敵意は実感がなかった。物心ついた時はすでに戦争であったから、そもそも戦争していない日本というものが考えにくかった。いじめのほうが空襲とちがって毎日のことであり、空襲よりも対応策がなく、空襲の時よりも周囲からみすてられていた。先の調査でも、戦時中の恐怖体験の有無と自殺親近性とは、被虐待体験の有無ほど相関性がないのである。

この世代の子は紛争以後の比較的平穏な学園時代を作ったともいえる。親の教育指向が強いのは、教育への機会が急速に増大した時代に青少年期を生きたからかもしれない。一方では、教育ママを生み、不登校児をも生んだ。しかし、教育への信頼はまだあったと思う。今の小・中学生の親は教育にたいして何を期待してよいか、わからなくなっているような感じを持つ。いわゆる教育ママは減少して当然である。階級が教育によってこえるには厚すぎる壁になりつつあるから。
第三の側面がほの見える。つまり、日本文化に内在するいじめのパターンがあるのではないか。戦時中のいじめーー新兵いじめをさらに遡れば、御殿女中いじめがある。現在でも新人いじめがあり、小役人の市民いじめがあり、孤立した個人にたいする庶民大衆のいじめがある。医師の社会にもあり、教師の社会にもあるだろう。ねちねちと意地悪く、しつこく、些細なことをとらえ、それを拡大して本質的に悪い(ダメな)者ときめつけ、徒党をくんでいっそうの孤立を図る。完全に無力化すれば、限度のないなぶり、いたぶりに至る。連合赤軍の物語で私を最もうんざりさせたのは、戦時中の新兵いじめ、疎開学童いじめと全く同じパターンだったことである。そういえば、シベリアの捕虜の間でも「暁に祈る」という、死に至らしめるいじめがあった。忠臣蔵という芝居が江戸時代を通じて上演記録の一、二を(佐倉宗五郎とともに)争い、今日もくり返しテレビに登場して高い視聴率を挙げているのは、いじめに対して反撃して挫折した者の感情がこめられているのではないか。幕府は冷酷だった。しかし(実際の被害者は通常もてないところの)家来たちがかたきをとってくれる。幻想の中の解放感である。

この第三の側面は、私には日本人のいちばんいやな面である。戦時中の日本兵の残虐行為も、このパターンであったろう。
こういうものは何によって生まれるのか。私には急に答えられないが、思い合わせるのは、実験神経症である。些細な差にたいする反応のいかんによって賞か罰かが決まるような状況におけば、無差別的な攻撃行為や自分を傷つける行為が起こる。新兵いじめでは些細な規律違反が問題になった。御殿女中では些細な行動が礼儀作法にかなっているかどうかが問題になった。連合赤軍では些細な服装や言葉づかいが、かくれた「ブルジョア性」のあらわれではないかと問題になった。いずれも、閉鎖社会であり、その掲げる目的を誰もほんとうには信じていない状況であった。

戦時中の教師はよく殴ったが、それで日本精神を注入して戦争に勝てるとはほんとうに思っていなかったにちがいない。人間は、自分が信じていないということを自覚しないで、信じているぞと自他に示そうとするとかなり危険な動物になる。

もちろん、信じていないことをしなければならないことはしばしば起こる。誰もが英雄ではないし、英雄には英雄の問題がある。最低、必要なのは、自分の影をみつめることのできるユーモア精神だと私は思う。

誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。
いじめの現象は、時代をこえた永遠なものがあり、時代の流れによるものがあり、一世代前の影響がある。流行さえあるだろう。流行の部分は「いじめなんてダサイ」という噂を流すだけでなくなるかもしれない。しかし、それだけでは、いじめが外にむかって「障碍者いじめ」「老人いじめ」になる可能性がある。すでに「浮浪者いじめ」がでた。そして、すでに引用した例からも、少年期のいじめられ体験が生涯の終わりにまで影響することをみた。このことを思えば、われわれは少なくとも、してはよくないだろうことはしないようにしたいものである。荒れた精神病棟を再建するには、まずどの患者をも無視せずにていねいにあいさつし、なるべく病棟への滞在時間を長くし、スタッフにはユーモアをもって対し、性急に一致を求めず、そしていつも楽観論を心にもっていることである。有益なことをしようとあせるよりも、人間の自然回復力を信じて、有害なことをしないようにしようと心掛けることである。これは今でも通用する方法である。教育の世界にも多少は他山の石になるだろうか。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986初出『記憶の肖像』所収)

⋯⋯⋯⋯

以下、別の論からも二箇所抜き出しておく。

一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなお してみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。 このようなことが問題になるのは、風邪のように、あまりこちらのこころが巻き込まれずにす む病気が精神科には少ないからである。精神科治療者の先祖は、手軽な治療師ではな い。シャーマンなど、重い病気にいのちがけで立ち向かった古代の治療者である。 しかし私たちは、一部の民間治療者のように、自分だけの特別の治療的才能を誇る者ではない。 私たちを内面的にも外面的にも守ってくれるのは、無名性である。 本当の名医は名医と思っていないで、日々の糧のために働いていると思っているはずで ある。 しかし、ベテランでもライバル意識や権力欲が頭をもたげると、とんでもない道に迷い込む ことがある。これらは隠れていた劣等感のあらわれである。特別の治療の才を誇る者がも っともやっかみの強い人であるのは、民間治療者だけではない。 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年 )
日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及ぼしているおそれがある。

四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったのかもしれない。踏み越えは、通過儀礼という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。

一般に健康を初め、生命的なものはなくなって初めてありがたみがわかるものだ。ありがたみがわかっても、取り戻せるとは限らない。また、長びくと、それ以前の「ふつう」の生活がどういうものか、わからなくなってくる。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)

最後にもう一つ。《性的虐待の昨日の犠牲者は、今日の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。》(When psychoanalysis meets Law and Evil、 Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe  2010)ーーであるならば、いじめ被害者は当然いじめ加害者になりがちであることをめぐって。


治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。

特に、男性治療者に対する誘惑的な態度は、不幸にもレイプによって女性としての歴史を始めた場合に多い印象がある。それは必ずしも治療者ではなく異性一般に向かい、時に結ばれるところまで行くが、結婚の場合、男性側の「同情結婚」となっていることも多く、しかも結婚当初から波瀾が多く、不仲を継続している。その中には結婚に伴う行為が配偶者にはわからないままでセカンド・レイプになっている場合もあるにちがいない。配偶者がこれに気づくことは一般に期待できず、事態は螺旋状に悪循環となって、精神科医に相談されるならまだしも、そのまま離婚となっている場合も少なくないのではないか。「夫の理不尽性」が主訴であって、しかも具体的内容に乏しい時には、特にその可能性が高い。

それが思春期の事件であった場合だけでなく、幼児の性虐待の再演である場合もある。成人期における男女交際において、同情的な男性も親密になれば性的接近にうかうかと陥る。これが女性には過去の再演となる。これは、児童期の性虐待自体がまず同情を示して児童に接近する場合が少なくないからであろう。一見「堅い」人物が性的劣等感を持ち、あるいは社会的に禁欲を強いられ(寡夫や障碍者)ているうちに、たまたま攻撃者となり、攻撃が児童に向かって時に噴出することがありうる。男性教師が、不幸な家庭の、才能があって美しい女性徒に同情し可愛がることが、性的凌辱に終わることもあり、結婚に至ることもあるが、幸福な結婚となる場合もそうでない場合もある。婚外関係において、打ち明け手と選んだ「立派な」人が性的接近者となってしまう場合もある。彼女は「結局はこの人も男性にすぎないのだ」と結論し、隠微な方法でこれは世間に暴露する。男性一般への一つの復仇である。こういう場合に「境界型人格障害」という診断を下すのはまだしも、インテンシヴな治療を試みて難症化が起こることは大いにありうるのではないか。

犠牲者は聖者ではない。彼女が傷口に塩を塗るような「精神的リストカット」を行うことも、外傷の再演を強迫的に求めることも、どんな男性もしょせん男性であることを確認しようとすることも、これらがすべてないまぜになっていることもありうる。

スイスの研究者ヴィリーがその論文「ヒステリー性結婚」において挙げているいくつかの例は明らかに同情結婚である。彼は同情する男性でなく同情される一見清純な女性のほうに過去の男性関係があることを述べ、さらに彼のいうヒステリー性結婚においては性は妻の権力の道具となり、同情する夫が性的に迫れば「不潔」と退け、遠ざかっていると「冷たい」と罵ることによって、夫の立つ瀬をなくし、支配するさまを、最後の乾ききった「ヒステリー性欠損結婚」期まで四期にわけて追跡しているが、ヴィリーがいささか辛口の皮肉を交えて述べている女性たちがかつての性被害者である可能性を私は思わずにはいられない。性を権力の道具として女性を支配するのは性加害者の特徴であるからである。妻の現在の行動は加害者との同一視を経ての性の権力化であろうか、それとも転移を経ての、あるいは異性一般への端的な復讐であろうか。「男性は皆五十歩百歩である」ことを反復確認しているのであろうか。そしてそれは被害者の自責感を軽減するのであろうかまた、「同情的結婚者」も意識的・無意識的に「恩に着せる」支配者でありうる。夫からのDVへの通路も開かれている。

幻想的復讐を初め、これらの被害者側の行為は外傷の治癒に寄与せず、むしろ「化膿」をひどくするからこそ強迫的反復が起こるのであろう。治療者も、この行為の被害者(にして加害者)となることがあり、その確率は相手の外傷被害性に気づいていない場合に特に高い。特定の具体的被害を同定する前に、これらを含めて外傷被害者的特性に対する感覚を持っている必要がここにある。通常の逆転移分析では足りない。いずれにせよ、このような例では、治療者が困惑する事態が頻繁に起こり、対処に苦しむことが多い。

時には、被害者が、家族の誰かの治療者役を演じることによって、その誰かの「病気」を永続させる結果になっていることもある。その誰かが治癒した時に、被害者の重大な障害が明らかになったこともあった。

私たち治療者も、私たちが治療者になった動機の中に外傷性の因子があって、それが治療の盲点を創り、あるいは逆転移性行動化に導いていないかどうか、吟味してみる必要があるだろう。男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。直感的に「苦手な患者」が自己の外傷と関係している場合もある(たとえば私の戦時下幼少時の飢餓体験とそれをめぐる人間的相克体験は神経性食欲不振者の治療を困難にしてきた)。逆に「特別の治療に値する患者」と思い込む危険な場合もある。いずれも、治療者を引き受けないことが望ましく、外的事情でやむをえず引き受ける際には、スーパーヴァイザーあるいはバディ(秘密を守ってくれる相互打ち明け手)を用意するべきである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年初出『徴候・記憶・外傷』所収)




2017年10月18日水曜日

大衆社会における「知識人=芸能人」

中野重治は「芸術家の立場」というエッセイで注目すべきことをいっている。まず彼は芸術家と職人を対比する。この場合、「職人」という語は、中野がつけ加えていっているように、芸人や農民、あるいはすべての職業人をもふくんでいる。いわば、それは、どの「職」にも固有のスキルと、それに伴う責任感やプライドをもつ者のことである。

《職人は、ある枠のなかに安住し、あるいはこの枠を到着目標とする。彼らは枠をやぶろうとしないのみならず、そもそも枠に気づかない。それに対して、芸術家は、この枠を突破しようとする。しかし、その結果はわからない。《職人の場合、その努力は何かの結果を約束する。約束された結果への努力が職人の仕事になる。約束されていない結果への努力が芸術家の仕事になる。》(「芸術家の立場」)

中野のこの区別は、ある意味でロマン派以後の考えのようにみえる。しかし、実は彼はそれ以前の状態で考えている。たとえば、中野はこの「芸術家」と「職人」の関係を上下において見ていない。《職業としての一人の大工と、職業としての一人の建築芸術家があるわけではない。そういう上下はない》。しかし、職業としての上下はなくても、芸術家と職人の上下関係は本質的にある。《ある人は職業として芸術家となって行ってつまりは職人になる。あるひとは職業として職人になって行ってつまりは芸術家になる。識別に困難はあるが、実際にはそれがある》。たとえば、中野は、職人として始めて芸術家に至った例として、樋口一葉や二葉亭四迷をあげている。
いうまでもなく、一葉や四迷は芸術家という意識をもっていない。同じことが、イタリアのルネッサンスの芸術家についていえる。彼らは職人として始めて、その「特権的な才能」ゆえに、ロマン派以後なら芸術家と呼ばれるものになった。しかし、彼ら自身は芸術家とは考えていなかった。つまり、中野がここでいう芸術家とは、芸術家という観念が出現する以前の ”芸術家” である。ところで、中野は、ここで芸術家でもなく職人でもない芸能人というものをもちこむ。

《芸術家とならべて考える言葉に職人というのがある。たいていは、芸術家は職人よりも上のもの、職人は芸術家よりも下のものとなっている。芸術家とならべて考えるもう一つの言葉に芸能人というのがある。 芸能人という言葉はあたらしい。それは、芸術家よりもあたらしく、ほんとうをいえば、言葉としてどの程度安定したものか、いったい安定するものかどうかさえすでにうたがわしい。しかし、とにかく、日本の現在でその言葉はあり、それは、なにかの程度で何かをいいあてている。そしてたいていは、芸術家は芸能人よりも上のもの、芸能人は芸術家よりも下のものとなっている。》(「芸術家の立場」)

芸能人という言葉は、事実この当時はまだ新しかったけれども、今日ではむしろ中野がいったとは違った意味で「安定」している。そもそも職人や芸人が消滅してしまったからだ。したがって、中野がいう「芸能人」は今日われわれがいう芸能人とは別であることに留意すべきである(むしろ「文化人」という語がそれに該当している)。ここで中野が意味するのは、芸術家でも職人でもないタイプ、職人に対しては芸術家といい、芸術家に対しては職人というタイプである。それは「枠」を自覚し越えるようなふりをするが、実際は職人と同じ枠のなかに安住しており、しかも職人のような責任をもたない。中野は、これを「きわめて厄介なえせ芸術家」と呼んでいる。なぜなら、彼らを芸術家の立場から批判しようとすれば、自分は職人であり大衆に向かっているのだというだろうし、職人の立場からみれば、彼らは自分は芸術家なのだというだろうから。中野はこういっている。

《そこへさらに例の芸能人が混じってくる、職業として芸術家になって行って、芸術家にも職人にもなるのでなくて芸能人になる。部分的にか全面的にか、とにかく人間にたいして人間的に責任を取るものとしてのコースを進んで、しかし部分的にも全面的にも責任をおわぬものとなって行く。ここの、今の、芸術家に取っても職人にとっても共通の、しかし芸術家に取って特に大きい共通の危険がある、この危険ななかで、芸術家が職人とともに彼自身を見失う。》(「芸術家の立場」)

こうした「芸能人」のなかに、中野はむろん学者や知識人をいれている。中野がこの「芸能人」という言葉が「何かの程度で何かをいいあてている」と書いたとき、彼はたしかに何かをいいあてていたといってよい。というのは、まさにこの時期「大衆社会」という言葉があらわれ、且つその言葉が「いいあてている」ような現象が出現していたからだ。

中野がこれを書いた1960年以降、芸術家あるいは知識人は失墜した。かといって、職人あるいは大衆が自立したわけではない。そのかわり知識人でも大衆でもないような大衆があらわれた。それは中野がいう「芸能人」に対応しているといってよい。べつの言葉でいえば、ハイ・カルチャアでもなくロー・カルチャアでもない、サブ・カルチュアが中心になって行った。むろん、それがもっと顕著になるのは八〇年代である。この時期、中野のいう「芸能人」にあたるものは、ニューアカデミズムと呼ばれている。学者であり且つタレントである、というより、正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。

文学にかんしても同じことがいえる。もはや「純文学」などという者はいない。しかも、純文学を軽侮することがアイロニーとしてあった時代もとうに終っている。今や新人作家がその二冊目のあとがきにつぎのように書く始末なのだ。《良いもの、つまんないかもしれないものも、ちゃんと読んでくれる人がいて、ごまかしがきかないくらい丸ごと伝わってしまうことはプロの喜び、幸せ、大嬉しいことです。しっかり生きて、立派な職人になりたい。いい仕事をしよう》(『うたかた/サンクチュアリ』)。

「立派な職人になる」と言うのは、一昔前なら、「大問題」を相手にする戦後派的な作家に対して身構えた作家の反語的な台詞としてありえただろう。それは、実際はひそかに “芸術家” を意味していたのである。そういうアイロニーはまだ村上春樹まではある。しかし、吉本ばななは、これを自信満々でいっているのではないかと思われる。それは文字どおり芸能人のファン・クラブ会誌にふさわしい言葉である。そもそも「職人」や「芸人」がどこにもいなくなった時代に、こういう言葉が吐かれていることは、知識人や芸術家が死語にひとしいことを端的に示している。1960年に中野重治がいった事態はその極限に達したかのようにみえる。

しかし、中野のいう「芸能人」は、べつに1950年代後半以降の新しい現象ではない。むしろ、芸術家や知識人は、それがあらわれたときすでに中野のいう「芸能人」のような存在だったというべきなのである。べつに芸術を実現しているわけでもないのに、「芸術家」と名乗る人たち。「知識」を追求しているわけでもなく、そのことを指摘されれば、実践が大切であり大衆に向わねばならないという人たち。そして、大衆から孤立しているが、その理由が大衆の支持を最も必要とするからにすぎないような人たち。こういう種族がもともと知識人や芸術家なのである。(柄谷行人「死後をめぐって」初出1990『終焉をめぐって』所収)

2017年10月12日木曜日

政治とは巨獣を飼いならす術

◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より

「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。

そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。

ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。

もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。

イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。

ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。

「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」

ソクラテスは答える。

「いかのもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。
(……)お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。

ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。

政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。

2017年9月24日日曜日

ねえ、よかったら、もうしばらく……

【調理場、床の上、もつれあい、平然、無邪気】
ところが、ボーイは、調理場の半ば開いた扉とサイド・テーブルの間の、こちらからは良く見えない陰になっている床の上で、空色のスカート丈の短いユニフォームのウエイトレスと激しくもつれあっているのだった。スカートがまくれあがってしまっているので、ストッキングをつけていない長い脚が宙を泳ぐように動き、ボーイはウエイトレスの脚をすくいあげるようにして、抱え込もうとしていた。食堂には何組かの客が食事をしているのだが、客たちはボーイの振舞いには無関心で、というよりも、まるで気がついていないらしく、二組の夫婦の連れている小さな子供たちだけが、床の上の活劇めいた淫らな行為を熱心に見つめていた。

わたしはすっかりあきれてしまい、それに、はっきり言えば、それはかなり刺激的な光景だったので、どぎまぎして、平然としている彼女の顔を見た。彼女はボーイとウエイトレスの淫らな振る舞いに気づいているのだが、気にするでもなく、自分で食堂の調理場に近いバーのコーナーに足を運んで、カンパリ・ソーダを拵えて来て、椅子にすわりながら、意味もなくわたしの顔を見て無邪気な様子で微笑みかけるのだった。苛立たしい微笑だ。それから、わたしは唐突に、あのボーイの奴はいつもああなんですか、と批難がましい口調で彼女に質問し、彼女は首をかしげて考え込むような仕草をして、そうねえ、いつもというわけじゃあないけれど、と答える。……(金井美恵子『くずれる水』)

【カウンターの台の下、ころげまわる、たぶらかされる】
亭主がまだ部屋から出ていくかいかないうちに、フリーダは、はやくも電燈のスイッチを切るなり、カウンター台の下のKのそばに来ていた。

「好きな人! わたしの大好きな人!」と、彼女は、ささやいたが、Kのからだにはふれなかった。恋のために気が遠くなったみたいに仰向けに寝ころんで、両腕をのばしていた。これからはじまる愛の陶酔をまえにしては、時間も無限であるらしかった。(……)

ふたりは、抱きあった。Kの腕のなかで、小さなからだが燃えていた。彼らは、失神したような状態でころげまわった。Kは、この失神状態からたえず抜けだそうとこころみたが、どうにもならなかった。しばらくころげまわっているうちに、どすんとにぶい音をたててクラムの部屋のドアにぶつかった。それからは、こぼれたビールの水たまりや床一面にちらばったごみのなかに寝ころんでいた。そうして、ふたりの呼吸と心臓の鼓動がひとつになった何時間がすぎていった。そのあいだじゅうKは、自分は道に迷っているのかもしれない、あるいは、自分以前にはまだひとりの人間も足をふみ入れたことがないような遠い異郷の地に来てしまったのかもしれないという感じ、ここでは空気ですらも故郷の空気とは異質で、その異質な空気のために息がつまりそうでありながらも、その妖しい魅力にたぶらかされてこのまま歩きつづけ、道に迷いつづけることしかできないという感じをたえずもちつづけていた。(カフカ『城』前田敬作訳)


【台所、欲情、戦慄、身をよじる】
彼女は台所で汚れた食器を片づけて洗おうとしていたのだった。馬鹿げた幼稚な妄想のずきずきする痛みが、あっけなく溶けてしまったので、わたしは少し痴呆的になり、そんなことは明日の朝になったらやります、とぶつぶつ呟きながら、流しの前に立って水を使っている彼女を抱きしめ、うなじや首や顔に接吻を浴びせかけた。あなたがいなくなってしまったのかと思って驚いた、とわたしは言うが、唇は肌に押しつけられたままなので、それは声にならない。彼女の背筋に欲情した微かな戦慄が走るのを全身で感じ、宙に浮いている濡れた手の皮膚の表面に透明なイボのような水滴が光っているのを、わたしは見る。彼女はくすぐったがって身をよじるようにして笑うので、濡れた手の水滴がわたしの首筋のポツリとあたった。(金井美恵子『くずれる水』)



【金切り声、騒ぎ、抱きしめる】
そのとき、Kの熱弁はホールの向こう端から聞こえた金切り声によって中断された。何が起きたのかを見ようとして、かれは眼の上に手をかざした。部屋の湿気と鈍い日光のせいで、白い霧のようなものがたちこめていたのだ。騒ぎを起こしたのはあの洗濯女だった。Kは、彼女が部屋に入ってきたときから、なにか騒ぎを引き起こすかもしれないと予感していた。悪いのが彼女なのかどうかは、わからなかった。Kに見えたのは、ひとりの男が彼女を扉の近くの隅まで引きずっていき、抱きしめていることだけだった。ただし声をあげたのは彼女ではなく男のほうだった。彼は口をおおきくあけて、天井を見上げていた。(カフカ『審判』中野孝次訳)


【横たわる、欲情(放電、放心した凝視)、溶解、反復】
列車のなかは、ガラガラに空いていて、わたしたちの他に乗客はなく、それをいいことに、わたしはシートに彼女を横たわらせて抱いた。そんなことがあったはずがないのに(絶対になかったと、確信しているわけではないのだが)、以前にも同じように列車のなかで、こうしてシートに横たわった彼女のスカートをまくり上げ、欲情して緊張し、ぴりぴり放電している手で、薄い布地の小さなパンティを脱がし(片方の足首のところに小さな布切れがひっかかったままで)、手よりももっと鋭い欲情に放電しているもので、彼女の内部に深く触れはしなかっただろうか。

窓の外を、町並の上空で埃っぽい薔薇色の靄のように不透明な光でけぶっている夜空や、なだらかな黒い背を連ねている丘陵や、淫らな薄い水色の雲に半ば覆われた満月が流れるように遠ざかり、記憶の無重力のなかで、わたしは奇妙な反復を行っているような気持になる。行っている―――、いや、行うという意志的な行為ではなく、何かあるものによって、そうすることを決められているような気がするのだ。彼女は以前と同じように、下腹をくぼませ、息をつめ、歯を喰いしばり―――以前と同じように、あるいは、はじめてわたしを受け入れた時と同じように―――眼を見開いて放心した凝視を注ぎかけながら、ぴったりとわたしに腰を押しつけ、無言のうちに、熱っぽい溶解点に近づきあることを示す。そして、わたしは、撞着的な言いまわしになってしまうのだが、確信をもって、何度も何度も、これと同じことがあったような気がする。その度に彼女と、その度ごとにこの女と―――。(金井美恵子『くずれる水』)


【からみあい、漏らす、もっと……】
私たちはからみあって組みうちをするのだった。私は彼女をひきよせようとし、彼女はしきりに抵抗する。奮闘のために燃えた彼女の頬は、さくらんぼうのように赤くてまるかった。彼女は私がくすぐったかのように笑いつづけ、私は若木をよじのぼろうとするように、彼女を両脚のあいだにしめつけるのであった、そして、自分がやっている体操のさなかに、筋肉の運動と遊戯の熱度とで息ぎれが高まったと思うまもなく、奮闘のために流れおちる汗のしずくのように、私は快楽をもらした、私にはその快楽の味をゆっくり知ろうとするひまもなかった、たちまち私は手紙をうばった。するとジルベルトはきげんよくいった、

「ねえ、よかったら、もうしばらく組みうちをしてもいいのよ。」

おそらく彼女は私の遊戯には私がうちあけた目的以外にべつの目的があるのをおぼろげながら感じたのであろう、しかし私がその目的を達したことには気がつかなかったであろう。そして、その目的を達したのを彼女に気づかれることをおそれた私は(すぐあとで、彼女が侮辱されたはずかしさをこらえて、からだをぐっと縮めるような恰好をしたので、私は自分のおそれがまちがっていなかったのをたしかめることができた)、目的を達したあとの休息を静かに彼女のそばでとりたかったのだが、そんな目的こそほんとうの目的であったととられないために、なおしばらく組うちをつづけることを承諾した。(プルースト『花咲く乙女たちのかげに』井上究一郎訳)

…………

以下、『くずれる水』より

下水のにおい、反吐、べたつき】
地下鉄を乗りつぎ、地下鉄の汚れたタイル張りの通路の排水溝から硫黄くさい下水のにおいが立ちのぼるのをかぎ、終電で帰宅した 酔っぱらいたちの、さまざまな色彩の未消化の食品の混じった反吐が、まだ排水溝のあちこちにこびりついて残っているのを見ながら地上に出ると、雨が降って いた。大した降りではなく、細かく柔らかな霧雨で、それでも、事務所を出た時の晴れた青い空はすっかり色を失い、血がひいた肌のように白っぽくざらつき、 そこから、悪寒の震えがにじみ出させる冷たい汗のように霧雨が降りかかり、傘を持っていない頭や顔や肩を、濡れるというほどではなく、一種べたつきのある 微細な水滴でもって、じっとりと湿らせた。


【粘液性(まとわりつき)】
……トラクターが乱暴にとり壊し作業を行っている 建物の煉瓦の壁が崩れるたびに、ひどい量の灰色の粉状の埃が舞いあがり、頭から、そのなめらかな鉱物粉のような灰色の埃を浴びた。埃をはらい落とそうとし ても、妙になめらかで―――ちょうどタルカム・パウダーのように―――ぴったりと湿った肌に張りつき、雨の水滴が埃の微粉を洗い落とすどころか、毛穴の一 つ一つに埋め込まれているような具合だった。まるで<粉末状の憎悪>とでもいったように―――。


【体液、汗、手垢、痰、澱み】
どことなく薄汚れている、というよりも、もとは何色だったのか、にわかに判別しがたい外壁の装飾モルタルがところどころ剥げ落ちて、一見したところとり壊し 寸前の廃屋と見間違えそうなホテルの建物の、ぺこぺこする穴のあいたゴムの靴ぬぐいを踏んでいやな軋みの音のする重い回転扉を押して内部に入ると、有機質 の体液がくさったような妙に鼻につくにおいがして、人気のない狭いロビーのソファに腰をおろしていた中年の男が片手をあげて合図した。

何 もかも古びて、積年の埃と、泊客たちの汗や手垢を吸い込んで汚れている室内は眠気をもよおさせるような、重い半透明な湿った空気が沈んでいて、誰もいない フロントのカウンターの奥で、咽喉にからんだ痰を切る粘液的なしわぶきの音が二、三回聞え、体操家とおぼしき中年男はソファから立ちあがって、回転扉のほ うにむかって、背筋を伸ばして大股に脚を運んで歩いて来た。見るからに体力と健康に自信のある体操家的物腰に対して、不快さを感じたことは感じたのだが……


【濡れる、中身がはみだす(汚物)、体臭、醗酵、熱】
(この中年男の)機械的に熱中ぶりを操作しているといったふうな長広舌が続いている 間、わたしは濡れた身体を濡れた衣服に包んで、それが徐々に体温でかわくのをじっと待っていたが、部屋の空気は湿っていたし、それに、すり切れた絨毯や、 同じようにすり切れてやせた織糸の破れ目から詰め物とスプリングがはみ出ているソファが、古い車輌に乗ったりすると、時々同じようなにおいのすることのあ る、人々の体臭や汗のしみ込んで、それが蒸されて醗酵したような不快な汚物のようなにおいを発散させていたので、その鼻を刺激する醗酵性のにおいに息がつ まりそうになり、わたし自身の身体からも、同じにおいを発散させる粘り気をおびた汗がにじみだして来ては、体温の熱でにおいをあたりに蒸散させているような気がした。


【涙と唾液(なまあたたかい)、むずがゆい、触覚、唾液】
なまあたたかい涙が頬をつたい、顎から首を濡らし、顔を横にそむけると、涙は眼尻から溢れて耳殻にそって流れ、やがて耳の穴のなかに入って、なまあたたかくむずがゆいような感触に身体が少し震える。それから、もうずっと昔のことのように思えるのだが、ある女が、好んで示したしぐさを、だしぬけに思い出す。女の全体をではなく―――それはもう、すっかり忘れてしまっている―――肉体の一部分だけの触覚と、その触覚を形づくっているしぐさだけを思い出しているという奇妙さに軽く戸惑いながら、しかし、耳たぶをやわらかく咬む歯と唇、尖った舌の先が耳殻のなかで動くたびになまあたたかく溢れる唾液とを、唐突に思い出す。いわば、耳を濡らす唾液にまつわる物語―――わたしは彼女に会い、おそらくは恋をして、そして、別れる、いや、別れた―――を忘れたままで(というか、思い出しもせず、あるいは、思い出すことが出来ずに)、あるしぐさだけが、触覚としてよみがえることの奇妙さに、わたしの唇は少し開かれて―――いくうらか痴呆的に―――思わず笑いを浮かべる。


【熱、まとわりつく、淀んだ熱、病、死】
……町を歩いていると、いきなりその家の扉が内側から開いて女に招じ入れられ、 お父さまがお待ちかねです、と言われたのだ。微かに熱のにおいのする薄暗がりが、ぬるい風呂のなかに浸っている時の湯のように全身を包み込み、皮膚全体が 微かな熱のにおいにべったりとまとわりつかれたようにぞっとして、みるみるうちに皮膚が鳥肌立つのだった。

わたしを招じ入れた女に案内され、低い 天井と不規則に起伏するへこみのある長い廊下を通って、荒れ果てた雑草の生い繁っている中庭に面した部屋に入り、その間中、部屋のなかにも、消毒薬や甘苦 い刺激のある薬品と病人の身体から発しているらしい粘り気のある淀んだ熱のにおいが混じりあった重苦しい空気がたなびきつづけていた。

2017年9月17日日曜日

作家の手の爪の血

批評家は、作家のめざしてゐるものを見よ。最高の理想をめざして身悶えながら、汚辱にまみれ、醜怪な現実に足をぬき得ず苦悶悪闘の悲しさに一掬の涙をそゝぎ得ぬのか。然り。そゝぎ得ぬ筈だ。おん身らは、かゝる苦闘を知らないのだから。日本文学の伝統などといふものを表面の字づらの上で読みとり、綴り合せて、一文を草することしか知らないのだから。(坂口安吾「理想の女」)

この坂口安吾の文は、以下のドゥルーズ=プルーストとともに読むことができる。

《真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。》(ドゥルーズ)

哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。

プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。

思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.

『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。

(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)

 …………

ロゴスの中には、どんなに隠されていても、それによって理知が常に前に来るような、それによって全体がすでに存在しているようなひとつの側面がある。それは、それを適用するものを前にして、すでに知られている法則である。つまり、あらかじめ与えられてあったものを再発見するだけであり、あらかじめ置かれてあったものを取り出すだけの、弁証法的手品である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)

『失われた時を求めて』は、一連の対立の上に築かれている。プルーストは、観察には感受性を対立させ、哲学には思考を、反省には翻訳を対立させる。理知が先に立ち、《全体的な魂》というフィクションのなかに集中させるような、我々のすべて能力全体の、論理的な、あるいは連帯的な使用に対して、我々がすべての能力を決して一時には用いず、知性は常にあとからくることを示すような、非論理的で、分断された能力の使用がある。

また、友情には恋愛が、会話には沈黙した解釈が、ギリシャ的同性愛には、ユダヤ的なもの・呪われたものが、言葉には名が、明示的意味作用には、暗示的シーニュ・巻き込まれた意味が対立する。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「アンチロゴス」の章)

・感受性 sensibilité/観察 observation
・思考 pensée /哲学 philosophie
・翻訳 traduction/反省 réflexion
・愛 amour/友情 amitié
・沈黙した解釈 interprétation silencieuse/会話 conversation
・名 noms/言葉 mots
・暗示的シーニュ signes implicites/明示的意味作用 significations explicites


以下の《シーニュ・症状(徴候)の世界 /属性の世界》も同じことを言っている。

プルーストはいたるところで対立させる、「シーニュ・症状の世界/属性の世界」、「パトスの世界/ロゴスの世界」、「象形文字・表意文字の世界/分析的表現・表音文字・合理的思考の世界」を。

いつも拒絶されるのは、愛 philos・知 sophia・対話 dialogue・ロゴス logos・声 phoné といったギリシャ人から継承した大きなテーマである。(Gilles Deleuze, Proust et les signes, Antilogos)

・パトスの世界 monde du pathos/ ロゴスの世界 monde du Logos

・ 象形文字・表意文字の世界 monde des hiéroglyphes et des idéogrammes/分析的表現・表音文字・合理的思考の世界 monde de l'expression analytiquc, de l'écriture phonétique et de la pensée rationnelle


…………

・自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる

・唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。

・鴎外の作品は《現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引き……もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた(折口信夫「好惡の論」初出1927年)


ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。

 誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。

 だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。

 誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。

 我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。

 ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。

 だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。

 私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。

 だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。(坂口安吾「理想の女」)

…………

折口の《血みどろになつた處》という折口の表現、あるいは安吾の《作家の手の爪には血が滲んでゐる〉に反応してヘーゲルを引用しておこう。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

折口は《血まみれの頭 blutiger Kopf》の人であったと同時に《白い亡霊 weiße Gestalt》の人でもあった(たとえば『死者の書』)。

だれにでも自己の内部にあるはずのこの「血まみれの頭」と「白い亡霊」、--それを見て見ないふりをして人生を送るべきかどうかは、人の生き方によるだろう。

力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。

精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

このヘーゲルの二つの文を要約していえば、人は「世界の夜」 に留まり、「血まみれの頭」、「白い幽霊」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力が生まれる、ということになる。

フロイトはヘーゲルのこの「否定性」ーーゴダールの表現ならポジに対するネガーー、「世界の夜」「血まみれの頭」に相当するものを、「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」、あるいは「欲動の根 Triebwurzel」「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」等と呼んだ。



2017年9月14日木曜日

言葉と眼差しによる新しい拷問形式

我々は基本的に皆、邪悪でエゴイスティック、嫌悪をもたらす生き物である。拷問を例にとろう。私はリアリストだ。私に娘があり誰かが彼女を誘拐したとする。そして私は誘拐犯の友人を見出したなら、私はこの男を拷問しないだろうなどとは言い得ない。 (ジジェク、2016,12)

…………

表題を「言葉と眼差しによる新しい拷問形式」としたが、以下の記述においてより具体的にいえば、「インターネットの書き込みという言葉と眼差しによる新しい拷問形式」であり、ここではそれをめぐる。


人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」2003年初出『徴候・記憶・外傷』所収)

…………

《Twitter Japan本社前(東京都中央区)で9月8日、同社がTwitter上に投稿された「ヘイトスピーチ」を削除せずに放置していると訴える市民たちが、抗議活動をした。》(2017/09/9、伊吹早織 BuzzFeed News Reporter, Japan

以下、伊吹早織さんの記事より、画像を抽出。








 
おそらく次のような態度がーーすくなくとも当面はーー「まっとう」なのではないか(両ツイートとも、2017.9.13)

シュナムル@chounamoul

「ヘイト行為は禁止。見つけた方はご報告ください対処します」と言ってるツイッター社に「こんなに放置されてるから対処しろ」と抗議する当然の流れの横で、「嫌なら見るな」だの「紙を踏むなんて」だの「人には差別する自由が」だの言ってる人たち、控えめに言ってもズレ過ぎでしょ。

不良モダンガール@badmoderngirl

そもそもヘイトに行儀悪く抗議することが何故「憎悪の連鎖」になるの?そこが本当に分からない。「憎悪の連鎖」って学術的な言葉?論理的にどういう事なの?例えばテロに対して武力で報復する。その仕返しにまたテロが起きるってのなら分かるよ。でもヘイトに対して「止めろ」って抗議してるだけじゃん


【ネトウヨ生産装置としての左派やリベラル言説】

多くの人はあのような新しい拷問形態を見て見ぬふりをしているのだろう。

それにひどく苛立っているのが、たとえば野間易通である。

以下、2014年時点での、とても印象的だった、野間あるいはそれにかかわるツイートを二つだけ掲げる。

野間易通@kdxn: ネット上の左派やリベラルが、消化不良のポストモダンで相対主義の泥沼にはまりこみ、「おまえも本当は差別者だ」とお互いを指差し糾弾しあっている間に、難しいこと考えなくていいネトウヨが大増殖、現在に至る。これがこの15年に起きた出来事である。
Ikuo Gonoï‏ @gonoi: あれら先生方の言動で不思議なのは、カウンターの一挙手一投足にはダメ出しをしてくるのに、なぜかレイシストには直接対決しにいかないところ。あれでは避けているという印象を与えるし、何よりも説得力がない。RT @cracjpn なめてかかってんだろうね。学会ごと派手に批判してあげます。

最近では次のようなツイートがある。

野間易通@kdxn表現の自由を重視するリベラルが結果的にヘイト被害を軽視してしまうようなことが、リベラル・フェミニストの間にも起こってるんじゃないかなと、この間の論争を見ていて思います。(2017年01月19日)

…………

【正義という名の集団神経症の諫め】

他方次のような立場がある。ここではたまたまよくまとまった佐々木俊尚氏のツイートを掲げるが、もちろん彼だけではない。ほどよく聡明な心優しきインテリはおおむねこの立場をとっている筈である。





この考え方を言い換えれば、その核心は、《自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる》ときの危険性を説いているとしてよいだろう。

誰にも攻撃性はある。自分の攻撃性を自覚しない時、特に、自分は攻撃性の毒をもっていないと錯覚して、自分の行為は大義名分によるものだと自分に言い聞かせる時が危ない。医師や教師のような、人間をちょっと人間より高いところから扱うような職業には特にその危険がある。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」)

 ジャズ界の大御所の最近の振舞い(醜態)でさえ、この文脈で捉えうるかもしれない。

あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、密かにわれわれは知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。(……)

例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。(『ジジェク自身によるジジェク』2004)


 そしてにこの態度が集団神経症的に現われるとき最も危ない。

ファシズム的なものは受肉するんですよね、実際は。それは恐ろしいことなんですよ。軍隊の訓練も受肉しますけどね。もっとデリケートなところで、ファシズムというものも受肉するんですねえ。( ……)マイルドな場合では「三井人」、三井の人って言うのはみんな三井ふうな歩き方をするとか、教授の喋り方に教室員が似て来るとか。( ……)アメリカの友人から九月十一日以後来る手紙というのはね、何かこう文体が違うんですよね。同じ人だったとは思えないくらい、何かパトリオティックになっているんですね。愛国的に。正義というのは受肉すると恐ろしいですな。(中井久夫「「身体の多重性」をめぐる対談――鷲田精一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

社会運動・政治運動とはこの集団神経症的症状をまぬがれがたい、ということは言える。

「感情転移関係」とは、一種の偶像崇拝である。フロイトにとって、治療とは、それを人工的に再現することによってそこからひとを解放させることである。つまり感情転移関係を解消するために、別の種類の感情転移関係が必要なのだ。これは、ある意味で、モーゼにおいて、宗教(神経症)を解消するために、もう一つの宗教(一神教)が不可欠だったのと似ている。実際、世界宗教は「宗教批判」なのだが、それ自体やはり宗教なのだ。

一般に、世界宗教は、偉大な宗教的人格によって開示されたものだといわれている。しかし、そのような人格と弟子たちとの関係は、けっしてフロイトのいう「感情転移関係」をまぬかれるものではない。つまり、世界宗教も集団神経症によってのみ可能なのだ。だからまた、それが始祖の死後に、その死自体を儀礼的に意味づける共同体の宗教を作り出すことも避けられない。さもなければ、どんな偉大な人格も、世界宗教の始祖となりえなかっただろう。

フロイトの運動体においても、同じことが生じている。それは、フロイトへの完全な服従と敵対に二分されてしまう。いずれも「感情転移」なのだ。フロイトは、彼の描くモーゼに似ている。偶像崇拝を摘出しつづける彼は、彼を偶像化する集団を作り出すことになる。精神分析運動は、文字通り“宗教”となる。フロイトがこの危険に気づいていなかったはずはない。しかし、彼はその理論的な核心を放棄することはできない。そうすれば、精神分析が「偶像崇拝」の傾向に押し流されることは眼にみえているからである。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

…………

【自分の影をみつめることのできるユーモア精神】


ではどうすべきなのか。正義という名の神経症を怖れていてはなにもできなくなってしまうことはないか?

すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う。(浅田彰シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」2000年)


《政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく》という態度をとって、たとえばネトウヨと呼ばれる「拷問者」への対抗運動をしたとしよう。そのとき最低限必要なのは、おそらく「ユーモア精神」である。

ユーモアとは、笑いとは直接的には関係がなく、むしろ精神的姿勢であり、「同時に自己であり他者でありうる力」(ボードレール)である。あるいは「自分の影をみつめることのできる」のがユーモア精神である。

そして《恋する人とテロリストにはユーモア感覚が欠如している。》(アラン・ド・ボトン『恋愛をめぐる24の省察』)

ついでながらいいうと、人間誰しもがヒューモア的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見いだされない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたヒューモア的快感を味わう能力をすら欠いているのである。(フロイト『ユーモア』)

フロイトのいうようにこのユーモア精神とは容易に獲得できるものではない。

……日本文化に内在するいじめのパターンがあるのではないか。戦時中のいじめーー新兵いじめをさらに遡れば、御殿女中いじめがある。現在でも新人いじめがあり、小役人の市民いじめがあり、孤立した個人にたいする庶民大衆のいじめがある。医師の社会にもあり、教師の社会にもあるだろう。ねちねちと意地悪く、しつこく、些細なことをとらえ、それを拡大して本質的に悪い(ダメな)者ときめつけ、徒党をくんでいっそうの孤立を図る。完全に無力化すれば、限度のないなぶり、いたぶりに至る。連合赤軍の物語で私を最もうんざりさせたのは、戦時中の新兵いじめ、疎開学童いじめと全く同じパターンだったことである。(……)

こういうものは何によって生まれるのか。私には急に答えられないが、思い合わせるのは、実験神経症である。些細な差にたいする反応のいかんによって賞か罰かが決まるような状況におけば、無差別的な攻撃行為や自分を傷つける行為が起こる。新兵いじめでは些細な規律違反が問題になった。御殿女中では些細な行動が礼儀作法にかなっているかどうかが問題になった。連合赤軍では些細な服装や言葉づかいが、かくれた「ブルジョア性」のあらわれではないかと問題になった。いずれも、閉鎖社会であり、その掲げる目的を誰もほんとうには信じていない状況であった。

戦時中の教師はよく殴ったが、それで日本精神を注入して戦争に勝てるとはほんとうに思っていなかったにちがいない。人間は、自分が信じていないということを自覚しないで、信じているぞと自他に示そうとするとかなり危険な動物になる。

もちろん、信じていないことをしなければならないことはしばしば起こる。誰もが英雄ではないし、英雄には英雄の問題がある。最低、必要なのは、自分の影をみつめることのできるユーモア精神だと私は思う。(中井久夫「精神科医からみた子どもの問題」1986年初出『記憶の肖像』所収)  

…………

※付記

ここまではラカン派的な「享楽」という語を可能なかぎり使用せずにーージジェクの引用以外はーー記した。以下、参考としてラカン派のLevi Bryant の近著から付記する(参照:他者の享楽への嫉妬)。

あまりにも的確に、現代日本における在特会やネトウヨ言説の核心的あり方をついているように、わたくしは思う。

◆Levi R. Bryant The Democracy of Objects 2011(私訳)より

例えば、レイシストはしばしば他の集団の想像上の享楽に注視する。レイシストたちは、これらの集団が彼ら自身より格別の享楽を持っていると信じ込み、かつまたこの集団は彼ら自身から享楽を盗み取っているのではないかと信じるのだ。

レイシストは絶え間なく話し続ける、他の集団が、いかに怠け者で、いかに政府からタダ乗りを得て、いかに無分別で、いかに道徳観が欠けているか等々を。

このような幻想を基礎として、レイシストは、彼らの盗まれた享楽を取り戻すために、他の集団に対してあらゆる行動を取る。このメカニズムを、ミゾジニーやホモフォビアに、同じように見出すのは難しくない。

この種の享楽の悲劇は二重化されている。一方で、これらの暗澹とした幻想は、他の人びとや集団の迫害に導く。その迫害は想像上の享楽に基づいており、人は他の集団が享楽を盗んでいると信じ込むのだ。このようにして、喪われ盗まれた享楽の追求は、社会領域の難題となる。

他方、完全な享楽が存在するという信念は…利用可能な享楽を楽しむすることをいっそう難しくする。というのは想像上の享楽による不足感に取り憑かれているからだ。

結果として、主体は完全な享楽に幻想に苦しみ、人生は冷たい灰に変換されてしまう。他の集団が楽しんでいると信じ込む享楽への羨望に満たされ、かつ己れの生の享楽の不在への苦渋に押し潰され、主体はなにも楽しめなくなる。

2017年9月12日火曜日

ポストモダンをめぐって

ポスト・モダニズムについては、僕もさまざまな、かつ相互に矛盾しあうような考えをもっています。ある者たちに対して、僕は、自分はポストモダンだと宣言するでしょう。しかし、それは、ポスト・モダンがモダンのあとにくる「状態」や「段階」でなのではなく、モダンなものに対してその自明性をくつがえすという“超越論的”な「姿勢」であるかぎりにおいてです。だから、それは「状態」としてのポスト・モダンに対しても向けられなければならない。(柄谷行人『闘争のエチカ』1988年)

カントの哲学は超越論的――超越的と区別されるーーと呼ばれている。超越論的態度とは、わかりやすくいえば、われわれが意識しないような、経験に先行する形式を明るみにだすことである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

 …………

フーコーにとって「ポストモダン」という問題は存在しない。(……)現在のエピステーメーの領域にはいかなる断絶の兆候もない。いわゆる「大理論」の成立は何の変化ももたらさず、またそれらの死と呼ばれるものも、全く効力がない。考古学者フーコーにとって、「ポストモダン」とは、いわば誤まった問題なのである。(蓮實重彦『フーコーと《19世紀》』)

僕自身としては、真実をめぐる言説が「大いなる物語」の中に錨をおろしていた時代をモダンと呼び、その「大いなる物語」の機能失調が明らかになって以後の時代をポスト・モダンとよぶことには反対であり、かりに「大いなる物語」が近代=モダンの言説だと呼ぶなら、その成立は、真実とは無縁の「小さな物語」の発生と同時代的であり、あるいはその「小さな物語」こそが「大いなる物語」の伝播に役立っていたという視点をとっているので、ポスト・モダンをモダンに続く時代ととることにも反対です……(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

…………

カントがいう「批判」は、ふつうにわれわれがいう批判とはちがっている。つまり、ある立場に立って他人を批判することではない。それは、われわれが自明であると思っていることを、そういう認識を可能にしている前提そのものにさかのぼって吟味することである。「批判」の特徴は、それが自分自身の関係するということにある。それは、自らをメタ(超越的)レベルにおくのではない。逆に、それは、いかなる積極的な立場をも、それが二律背反に陥ることを示すことによって斥ける、つまり、「批判」は超越論的なのである。

しかし、カントの「批判」を、べつに「批判哲学」のように限定して考える必要はない。たとえば、今日デリダやド・マンのいうディコンストラクションは、「批判」以外の何であろうか。それは、一義的な意味(真理)を、決定不能性(二律背反)に追いこむことによって無効化するものだし、批判(解体)ではなく、「批判」(脱構築)なのである。「超越論的」という言葉も同様である。それをとくにフッサールのいう意味に限定する必要はない。

したがって、私は、超越論的ということを、自己意識の構造や自我の統一などといった問題に限定しないで、われわれが経験的に自明且つ自然であると思っていることをカッコにいれ、そのような思いこみを可能にしている諸条件を吟味(批判)することだという意味で考える。

すると、これは狭義の認識論に領域にとどまりえないことがわかる。たとえば、近代の思考が、デカルト的な二元論の機制の下にあると言うことは、それ自体超越論的なのだ。なぜなら、それは、われわれにとって自明且つ自然にみえていることがらをカッコにいれ、それをそのように受けとめさせている認識論的枠組そのものを吟味するということだからである。

しかし、これはいわゆる歴史的に考えるということと似て非なるものだ。ふつうの歴史的思考は、現代の認識論的枠組で過去を構成し解釈することでしかないからである。ニーチェがこのような「歴史主義」を攻撃する一方で、「歴史的に考える」ことを説いたことは矛盾しない。後者は、前者を超越論的に考察することにほかならない。

混乱を避けるために、後者を「系譜学的」と呼ぶことにしよう。系譜学的であることは、結果であるものを原因とみなす「認識の遠近法的倒錯」をえぐり出すことである。ニーチェがいう「歴史性」は、歴史的に規定されているということではなくて、この遠近法的な倒錯性ということなのだ。

けれども、こういう考え方はニーチェに固有のものではない。たとえば、マルクスもいっている。

《歴史とは、個々の世代の連続的交代にほかならない。それらのどの世代も、それ以前の全世代が贈った諸材料、諸資本、生産諸力を利用する。したがって各世代は、一面ではまったく変化した状況で、継承した活動を続行するのであり、他面ではまったく変化した活動によって、これまでのふるい状況の姿を変更するのである。ところが、思弁的にゆがめられたかたちでこれがとらえられると、後代の歴史が、前代の歴史の目的にされてしまう。たとえば、アメリカの発見の根底には、フランス革命の勃発を助けるという目的があったというように。こうなると、歴史は、自分だけの特殊な目的をかかえており(《自己意識》、《批評》、《唯一者》などといった)、《他の諸登場人物にならぶ登場人物》の一人となるのであるが、しかし、前代の歴史の《使命》、《目的》、《萌芽》、《理念》といった言葉でしめされているものは、実際は、後代の歴史からの抽象物、前代の歴史が後代におよぼす能動的な影響の抽象物にすぎない。》(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)

つまり、マルクスはすでに系譜学的なのである。歴史が倒錯的に構成されていること、発生論的記述が「自然成長的」な生成を結果から逆投射的に構成したにすぎないことを指摘する、そのときにのみ、彼は「歴史性」を見出すのである。それは一切の目的論に対する「批判」である。それは、俗にマルクス主義といわれる目的論的な歴史観とは正反対なのであるから、そんなものを批判したところで、マルクスをこえたことにはならない。

そもそも、このような系譜学はこえること(超越的)ではなく、超越論的なのである。たとえば、マルクスやニーチェが何といおうと、ひとは(彼ら自身も)“目的論的”に生きている。それを否定することはできない。だが、それをカッコにいれることはできる。たとえば、日常的にもの(客観)が私(主観)の前にあるという考え方を否定するならば、ひとはまず生きていけない。その自明性をとりあえず還元(カッコ入れ)しようとするのが超越論的ということであって、本当にその通りに生きてしまえば、分裂病者になるだろう。(柄谷行人『探求Ⅱ』p187-189)

2017年9月11日月曜日

公理指向性と範例指向性

誰かが辞書を不変の権威として援用するなら、辞書は主人のシニフィアン、去勢されていない権威として機能する。(Levi R. Bryant,Žižek's New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist、2008,pdf

言葉に明確な定義を求めるのは、権威主義的態度である。「父なき時代」の現在、たとえば「差別」、「ヘイトスピーチ」の定義とは、あくまで範例指向性としての定義でしかありえない。

…………

【「公理指向性」と「範例指向性」】
分類には、共通項による分類のほかに、1930年代に論理哲学者ヴィトゲンシュタインが抽出した「家族類似性」という、共通項のない分類がある。(……)分類についての、個々人の基本的な構えも、各自異なる。究極には「世界を一つの宇宙方程式に還元する」ことをよしとする人と「世界は多様であること」をよしとする人があるのであろう。(……)前者を「公理指向性」、後者を「範例〔パラダイム〕指向性」と呼んだことがある。「単一精神病」論者と多数の「下位群」を抽出する人との間には心理的因子の相違がある。おそらく気質的因子もあるだろう。(中井久夫『治療文化論』)

もとより ”統合指向性” による解決に適した問題も存在する。しかしすべての問題をこの解決法に委ねるならば事態は急速に悪夢化する。とくに、自我同一性を決定すべき思春期から青年期にかけては、個物をつねに全体との関係において多少とも一般的・抽象的に位置づける”統合指向性” が、世界の中を実践的に動きまわって実例を探り、枚挙・比較・考量する ”範例指向性paradigmatotropism” によって補完されなければ、現実原則の枠内では解決しえない問題が続々と生起し、自我同一性を危殆に瀕せしめるであろう。ここで悪夢化とは、いうまでもなく、心的事態が深淵にのぞむような不安と激越な自律神経症状を伴い、しかも三者が相互誘発的に破局的な強度にむかって一意的に進行することである。 (中井久夫「精神分裂病状態からの寛解過程」『分裂病』所収 )


【家族的類似性】
・私たちが見ているのは、多くの類似性――大きなものから小さなものまで――が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである。

・私は、この類似性を特徴付けるのに「家族的類似性Familienähnlichkeit」という言葉以上に適切なものを知らない。なぜなら家族の構成員の間に成り立つ様々な類似性――体格、顔つき、眼の色、歩き方、気性、等々――は、まさにそのように重なり合い、交差しているからである。そこで私はこう言いたい、「ゲーム」もまた一つの家族を構成しているのだ、と。(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』66ー67節)

ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106) 



【ラカンの非全体≒ウィトゲンシュタインの家族的類似性】
ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性 family resemblance」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)




2017年9月8日金曜日

同質社会における宿命的「ルサンチマン」

 まずフロイト文を掲げる。

社会的公正の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等の要求こそ社会的良心と義務感の根元である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)

この考え方のラカン派的変奏は次の通り。

ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを享楽している人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に享楽している人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である(ジジェク『ラカンはこう読め』原著2006年)

一言でいえば、平等としての正義は「他者の享楽への嫉妬」の基盤をもっている(参照)。

ジャン=ピエール・デュピュイは『聖なるものの刻印 La marque du sacré、2008)にてヒエラルキーを四つに分けている (四つの「象徴的制度 symbolic dispositifs」)。その分析において「身分社会」では、下位者が上位者に怨恨を抱くのは稀である、としているが、これは歴史的・文化的にみて誰もが頷く指摘だろう。

そしてデュピュイは「平等社会」でこそ、怨恨が渦巻くと主張している(このあり方のフロイト・ラカン派的分析は「二者関係先進国日本」を参照のこと)。

日本において、「他者の享楽への嫉妬」の典型的発露である政治家の不倫報道がひどく活発なのは、「同質化社会」であるからである。「身分社会」ではそんなことは起こらない。

これは柄谷行人が1980年代にすでに指摘している。

柄谷行人) ……欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。

文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(『闘争のエチカ』1988年)

政治家がことさら「いじめ」の餌食になるのは、彼らが「建て前」をいう職業であり、彼等の「本音」が露顕したときそのコントラストが際立つからだろう。

もっとも、そんなコントラストはないはずの「芸能人」にたいする「いじめ」、あるいは「他者の享楽への嫉妬」もいままで繰り返し起こって来た。

ここでは北野武と伊丹十三の事例を掲げる。

注目されたわたしが落ちていく姿、それを誰もが見たいんだから……。自分は事故のとき痛切に感じたですね……。マスコミから一般の人たちの憶測に秘められた嬉しさ……、ちょっとゾッとしますね……(北野武)

◆北野武 with 蓮見重彦(TAKESHI KITANO WITH SHIGEHIKO HASUMI)




以下、大江の小説からだが、吾良のモデルは伊丹十三である。

吾良の死以後の短い間に古義人がテレヴィ局や新聞社、また週刊誌の人間から受けとった印象は特殊なものだった。それは、かれらに自殺者への侮蔑の感情が共有されている、ということだ。

侮蔑の感情は、マスコミの世界で王のひとりに祭り上げられていた吾良が引っくり返り、もう金輪際、王に戻って反撃することはないという、かれらの確信から来ていた。

吾良の死体に向けて集中した侮蔑はあまりに大量だったので、ついにはみ出すようにして、マスコミのいう吾良の関係者にも及んだ。書評委員会の集まりなどでは親身にあつかってくれた女性記者から、取材申し込みが留守番電話に入っていたが、そこに浮びあがるのは、やはり権威が揺らいだにせの王への、無邪気に偽装された侮蔑だった。(大江健三郎『取り替え子』)

2017年9月7日木曜日

他者の享楽への嫉妬

千葉雅也 @masayachiba ・ 2017/7/25 松本卓也が、ネトウヨは何に苛立っているかというと、他者が享楽しているように見えることに苛立っているのだというレイシズム分析をしている。それと同じことが、ネットでのくだらない「論争」の原因。「こいつ、なに享楽してやがんだ」という他者の享楽への嫉妬が原因。

この「他者の享楽への嫉妬」をめぐってブルース・フィンクは次のように説明している。

我々は動物がけっしてしないことをするように見える。我々は、我々がそうあるべきだと思っている標準、絶対的な標準、規範、水準に照らし合わせて、享楽を判断している。標準や基準は、動物界にはない。標準などは言語によってのみ可能となる。言い換えれば、言語は、我々が得ている享楽が標準には達していない、基準に達していない、そうあるべきものではない、と思わせるのだ。

言語は、我々に「言う」ことを可能にする、我々が種々の方法で得ている満足は取るに足りないもので、別の満足、より良い満足、決して我々を裏切らない満足、決して期待外れに終わらず、失望させない満足があると。我々はかつて一度でもそのような期待通りの満足を経験することができただろうか? 大抵の人にとっては、おそらく「否」だろう。だが、そのことは信じることを止めはしない、きっとそのような満足があるに違いない、何かより良いものがあるに違いない、と。たぶん我々は、ある他の集団ーーユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ゲイ、女性ーーにその徴を見ると考えるかもしれない。そして憎悪したり羨望したりする。たぶん、我々はある集団にそれを投影するのだ。というのは、我々はそれが存在すると信じていたいのだから(私はここでレイシズムやセクシズムなどの全ての局面を、このひどく単純化した形式で説明するつもりは毛頭ないことを断っておく)。

いずれにせよ、我々は、何かより良いものがあるに違いないと思い、何かより良いものがあるに違いないと言い、何かより良いものがあるに違いないと信じる。そのように何度もくり返しして言うのだ、我々自身に、あるいは友人に、さらには分析家に。そうすることによって、我々はこの他の満足、この〈他者〉の享楽に一貫性を与える。結局、それにとても大きな一貫性を与えることそのものが、我々が実際に得ている享楽はひどく不十分なものに見えてしまうことに導く。そのため、我々のもつ僅かな享楽は、更に先細りになってしまう、我々がひどく重要だと思い込んでいる享楽の理想との比較によって、いっそう色褪せてしまうのだ。そして我々はその享楽を決して諦め切れない。(ブルース・フィンク2002, Bruce Fink“Knowledge and Jouissance”、私訳)

Levi Bryant の近著からも付け加えておこう。

◆Levi R. Bryant The Democracy of Objects 2011(私訳)より
例えば、レイシストはしばしば他の集団の想像上の享楽に注視する。レイシストたちは、これらの集団が彼ら自身より格別の享楽を持っていると信じ込み、かつまたこの集団は彼ら自身から享楽を盗み取っているのではないかと信じるのだ。

レイシストは絶え間なく話し続ける、他の集団が、いかに怠け者で、いかに政府からタダ乗りを得て、いかに無分別で、いかに道徳観が欠けているか等々を。

このような幻想を基礎として、レイシストは、彼らの盗まれた享楽を取り戻すために、他の集団に対してあらゆる行動を取る。このメカニズムを、ミゾジニーやホモフォビアに、同じように見出すのは難しくない。

この種の享楽の悲劇は二重化されている。一方で、これらの暗澹とした幻想は、他の人びとや集団の迫害に導く。その迫害は想像上の享楽に基づいており、人は他の集団が享楽を盗んでいると信じ込むのだ。このようにして、喪われ盗まれた享楽の追求は、社会領域の難題となる。

他方、完全な享楽が存在するという信念は…利用可能な享楽を楽しむすることをいっそう難しくする。というのは想像上の享楽による不足感に取り憑かれているからだ。

結果として、主体は完全な享楽に幻想に苦しみ、人生は冷たい灰に変換されてしまう。他の集団が楽しんでいると信じ込む享楽への羨望に満たされ、かつ己れの生の享楽の不在への苦渋に押し潰され、主体はなにも楽しめなくなる。

「小さな大他者たち little big Others」としての「倫理委員会」

「大他者の不在」という新しい状態の、もしかすると最も目を引く面は、技術的発達がますますわれわれの生活世界に影響力をもつときに顔を出す、いわゆる倫理的な問題について決断を迫られる「委員会」の発生かもしれない。(……)

例えばある言明が、実際にセクシュアル・ハラスメントを構成したり、人種差別的な憎悪による発話を構成したりするかどうかを決定することには、構造的な困難がある。そのようなはっきりしない言明を前にすると、「ポリティカルコレクトネス的」急進派は、まずもって、非をならす被害者の方を信じる傾向にある(被害者がそれをいやがらせとして経験したのなら、それはいやがらせなのだ……)のに対して、強硬な正統派リベラルは、告発される加害者の方を信じる(本気でいやがらせのつもりでやったことでないのなら、それは免罪されるべきだ……)傾向にある。もちろん肝心なところは、この非決定性は、構造的なもので避けようがないということだ。最終的に意味を「決する」のは、「大他者」(被害者と加害者がともに組み込まれている象徴界のネットワーク)なのであり、「大他者」の命令は、そもそも結果が決まっているものではなく、誰もその結果を支配し、規制することはできない。だから、行き詰まりを打破するには、結局は恣意的なかたちで正確な行動規則を定めるために、委員会を招集することになる……。

(……)まるで「大他者」の欠如が、主体が自分の責任を転移し、自分の行き詰まりを打破してくれるような公式を提供してくれるものと思われる、数々の「小さな大他者たち little big Others」としての「倫理委員会」で埋められているかのようである。(……)

この大他者の後退の第一の逆説は、いわゆる「苦情の文化」に見ることができる。その根底にある論理はルサンチマンである。主体は、大他者が存在しないことを喜んで引き受けるのではなく、その失敗かつ/あるいは無力を大他者のせいにする。大他者が存在しないということが、大他者の罪であるかのようだ。つまり、無力は言い訳にはならないかのようだーー大他者はまさにそれが何もできなかったということに責任があるのだ。主体の構造が「ナルシシスティック」になればなるほど、主体は大他者に責めを負わせ、そうして自分がそれに依存していることを確める。「苦情の文化」の基本的な特徴は、大他者に向けられた、介入して事態を正してくれ(損害を受けた性的少数派あるいは少数民族などに報いてくれ)という要求であるーーまさにそれをどうするかが、さまざまな倫理的=法的「委員会」の問題になる。(ジジェク「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」2001)

 ジジェクは最近次のように言っていることを付け加えておこう。

・大文字の他者の不在が示すのは、どんな倫理的/道徳的体系も、想像しうる最も根源的な意味で、「政治的」な深淵に立脚していることである。政治とは、まさにどんな外的保証もなしに倫理的決断をし協議することである。

・真の「非全体pas-tout」は、有限・分散・偶然・雑種・マルチチュード等における「否定弁証法」プロジェクトに付きものの体系性の放棄を探し求めることではない。そうではなく、外的限界の不在のなかで、外的基準にかんする諸要素の構築/有効化を可能にしてくれるだろうことである。(ジジェク、 LESS THAN NOTHING、2012 )

非全体とは大他者の大他者はない・大他者の不在・大他者は非一貫的であるという意味である。








2017年9月4日月曜日

記号の記号

………大衆化現象は、まさに、そうした階層的な秩序から文化を解放したのである。そしてそのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。(……)読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。したがって、まだ発表されてさえいない作品の作者たる人物が、そこで交換されているものの特権的な発信者とは呼べないだろう。

(……)聴衆が競いあってオッフェンバックの喜歌劇の切符を買い求め、読者が先を争ってポンソン・デュ・デラーユの連載小説の載る『ラ・プチット・プレス』紙の予約購読を申し込むのは、ぜひともその作品に接したいという欲望とはまったく別の理由からである。それは、みずからも、記号の記号としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。

この意志は、隣人の模倣に端を発する群集心理といったことで説明しうるものではない。そこに、流行という現象が介在していることはいうまでもないが、実は流行現象そのものでもない。問題は、欠落を埋める記号を受けとめ、その中継点となることなのではなく、もはや特定の個人が起源であるとは断定しがたい知を共有しつつあることが求められているのである。新たな何かを知るのではなく、知られている何かのイメージと戯れること、それが大衆化現象を支えている意志にほかならない。それは、知っていることの確認がもたらまがりなす安心感の連帯と呼ぶべきものだが、マクシムが苛立っているのも、まさにそれなのだ。そこにおいて、まがりなりにも芸術的とみなされる記号は、読まれ、聴かれ、見られる対象としてあるのではない、ともにその名を目にしてうなずきあえる記号であれば充分なのである。だから、それを解読の対象なのだと思ってはならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

蓮實重彦がこう書いたのは、1980年代である。いまではこういったことさえ全く念頭にない読み手がーーみずからをインテリと勘違いしつつーーそこらじゅうを大手を振るって歩き回り頷き合っている。


ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

2017年9月3日日曜日

愛の迷宮

愛だけである、享楽が欲望に恵みを与えてくれることを許したもうのは。

Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir (Lacan,S10, l3 Mars l963)



愛について
愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった。 L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.(ラカン、S9、21 Février 1962)
フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質 substance humideでもって他者を愛しているということである。…つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。…

愛の形而上学の倫理……フロイトの云う「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
愛自体は見せかけに宛てられる L'amour lui-même s'adresse du semblant。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(ミレール 、Première séance du Cours 2011)

愛の迷宮
精神分析における愛は転移 transfert である。…愛はたんなる置き換え déplacement、誤謬 erreur にすぎないように見える。私がある人物を愛するのは、常に別の人物を愛しているためである。Toujours, j'aime quelqu' un parce que j'aime quelqu'un d'outre.

この理由で精神分析において、愛は模造品の刻印を押されている。精神分析は愛のデフレdévalorise l'amour を促しているようにさえ見える。すなわち愛の生の降格 dégradation de la vie amoureuseを。

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的であるl'amour est labyrinthique 。愛の道のなかで、人は途方に暮れ自らを喪う。

それにもかかわらず精神分析は愛の道を歩む。転移なき分析はない Il n'y a pas d'analyse sans transfert。…

分析家の実践は、愛の自動的性格 caractère automatique de l'amour を是認し利用する。…愛されるためには、分析家でありさえすれば十分である Pour être aimé, il suffit d'être analyste.。

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動性 l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。

Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちに食事を与えている場に遭遇した瞬間だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…(ミレール『愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour』1992)
我々はフロイトの仮説から始める。

・主体にとっての根源的な愛の対象 l'objet aimable fondamental がある。
・愛は転移である l'amour est transfert。
・後のいずれの愛も根源的対象の置き換え déplacement である。

我々は根源的愛の対象を「a」と書く。…主体が「a」と類似した対象x に出会ったなら、対象xは愛を引き起こす。

精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらない。しかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度の個別的な徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。

そして象徴秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。

類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体が、かつて根源的対象と経験した同じ関係の状況のもとにある対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が自我自身と同じ関係にある状況。

フロイトは見出したのである。「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。…
例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択choix d'objet narcissique である。あるいは母が主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(ミレール「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992)

愛することは女性化することである
私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢 castration」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジション position féminin からのみ真に愛する。愛することは女性化することである Aimer féminise。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽 un peu comiqueである。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller 、 2010)
愛の結びつき
愛の結びつき liens d'amour を維持するための唯一のものは、固有の症状 symptômes particuliers である。………

われわれの「文化のなかの居心地の悪さ」には二つの要素がある。一つは「享楽は関係性を構築しない la jouissance ne se prête pas à faire rapport」という事実である。これは現実界的条件であり、われわれの時代の言説とは関係がない。…

次の前提を見失わないようにしよう。ラカンが構築した四つの言説の各々は、主人と奴隷、教師と生徒、ヒステリーと主人、分析家と分析主体(被分析者)である。これは歴史において証明されている。いかに多くの男女のカップルが、この四つの関係を元に結びついてきたかを。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
言説discoursとは何か? それは、言語の存在 existence du langageによって生み出されうるものの配置のなかに、社会的結びつき lien social の機能を作り上げるものである。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)
ラカンが四つの言説と呼んだものの各々は、変動する愛がある。それは、諸言説のダイナミズムにおけるエージェントの変動のように機能している。そして、ラカン以後、われわれが「社会的結びつき lien social」と呼ぶものは、フロイトが『集団心理学と自我の分析』にて教示した「愛の結びつき Liebesbeziehungen」のことである。(A New Kind of Love Jacques-Alain Miller)
愛のビジネスの時代
危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている。(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)
資本の言説 discours du capitalisme を識別するものは、Verwerfung、すなわち象徴界の全領野からの「排除 rejet」である。…何の排除か? 去勢の排除である Le rejet de quoi ? De la castration。資本主義に歩調を合わせるどの秩序・どの言説も、平明に「愛の事柄 les choses de l'amour」と呼ばれるものを脇に遣る。(Lacan, Le savoir du psychanalyste » conférence à Sainte-Anne- séance du 6 janvier 1972)
欲望の搾取 exploitation du désir、これが資本の言説 discours capitalisteの大いなる発明である。(ラカン、Excursus, 1972)
聖人となればなるほど、ひとはよく笑う Plus on est de saints, plus on rit。これが私の原則であり、ひいては資本の言説からの脱却なのだが、-それが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。(ラカン、テレビジョンTÉLÉVISION、1973年)
資本の言説はカップルを創造しない。ラカンは…とても確信的にこれを示そうとした、資本家と労働者によって構成されるペアは、主人と奴隷の近代的ヴァージョンではないことを。

資本の言説によって創造される唯一の結びつきは、社会的な結びつきでは殆どない。…英語圏のひとびとが使用するan affair"という表現は、実に症候的である。affairとは、何よりも先ず、ビジネスのことである(すなわちラブアフェアーとは、愛のビジネスである)。…

資本の言説は、愛の事柄 choses de l'amour について何も語らない。人々が《アフェアーles affaires》と呼ぶもの、つまり生産と消費のみについてのみ語る。以前の言説(主人の言説内部の四つの言説)とは異なり、現実界的非関係 non-rapport réel を補填しないのである。…この意味は(われわれの時代は)「性関係はない」という事実にいっそうの光を照射するということだ。以前の時代に比べ、性的非関係 non-rapport sexuel の孤独 solitudeと気紛れ précarité の帰結がさらにいっそう暴露されたままになっている。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens , 2011)


…………

私の愛するもの、愛さないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌い des goûts et des dégoûts を集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、自由主義的に寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)