千葉雅也 @masayachiba ・ 2017/7/25 松本卓也が、ネトウヨは何に苛立っているかというと、他者が享楽しているように見えることに苛立っているのだというレイシズム分析をしている。それと同じことが、ネットでのくだらない「論争」の原因。「こいつ、なに享楽してやがんだ」という他者の享楽への嫉妬が原因。
この「他者の享楽への嫉妬」をめぐってブルース・フィンクは次のように説明している。
我々は動物がけっしてしないことをするように見える。我々は、我々がそうあるべきだと思っている標準、絶対的な標準、規範、水準に照らし合わせて、享楽を判断している。標準や基準は、動物界にはない。標準などは言語によってのみ可能となる。言い換えれば、言語は、我々が得ている享楽が標準には達していない、基準に達していない、そうあるべきものではない、と思わせるのだ。
言語は、我々に「言う」ことを可能にする、我々が種々の方法で得ている満足は取るに足りないもので、別の満足、より良い満足、決して我々を裏切らない満足、決して期待外れに終わらず、失望させない満足があると。我々はかつて一度でもそのような期待通りの満足を経験することができただろうか? 大抵の人にとっては、おそらく「否」だろう。だが、そのことは信じることを止めはしない、きっとそのような満足があるに違いない、何かより良いものがあるに違いない、と。たぶん我々は、ある他の集団ーーユダヤ人、アフリカ系アメリカ人、ゲイ、女性ーーにその徴を見ると考えるかもしれない。そして憎悪したり羨望したりする。たぶん、我々はある集団にそれを投影するのだ。というのは、我々はそれが存在すると信じていたいのだから(私はここでレイシズムやセクシズムなどの全ての局面を、このひどく単純化した形式で説明するつもりは毛頭ないことを断っておく)。
いずれにせよ、我々は、何かより良いものがあるに違いないと思い、何かより良いものがあるに違いないと言い、何かより良いものがあるに違いないと信じる。そのように何度もくり返しして言うのだ、我々自身に、あるいは友人に、さらには分析家に。そうすることによって、我々はこの他の満足、この〈他者〉の享楽に一貫性を与える。結局、それにとても大きな一貫性を与えることそのものが、我々が実際に得ている享楽はひどく不十分なものに見えてしまうことに導く。そのため、我々のもつ僅かな享楽は、更に先細りになってしまう、我々がひどく重要だと思い込んでいる享楽の理想との比較によって、いっそう色褪せてしまうのだ。そして我々はその享楽を決して諦め切れない。(ブルース・フィンク2002, Bruce Fink“Knowledge and Jouissance”、私訳)
Levi Bryant の近著からも付け加えておこう。
◆Levi R. Bryant The Democracy of Objects 2011(私訳)より
例えば、レイシストはしばしば他の集団の想像上の享楽に注視する。レイシストたちは、これらの集団が彼ら自身より格別の享楽を持っていると信じ込み、かつまたこの集団は彼ら自身から享楽を盗み取っているのではないかと信じるのだ。
レイシストは絶え間なく話し続ける、他の集団が、いかに怠け者で、いかに政府からタダ乗りを得て、いかに無分別で、いかに道徳観が欠けているか等々を。
このような幻想を基礎として、レイシストは、彼らの盗まれた享楽を取り戻すために、他の集団に対してあらゆる行動を取る。このメカニズムを、ミゾジニーやホモフォビアに、同じように見出すのは難しくない。
この種の享楽の悲劇は二重化されている。一方で、これらの暗澹とした幻想は、他の人びとや集団の迫害に導く。その迫害は想像上の享楽に基づいており、人は他の集団が享楽を盗んでいると信じ込むのだ。このようにして、喪われ盗まれた享楽の追求は、社会領域の難題となる。
他方、完全な享楽が存在するという信念は…利用可能な享楽を楽しむすることをいっそう難しくする。というのは想像上の享楽による不足感に取り憑かれているからだ。
結果として、主体は完全な享楽に幻想に苦しみ、人生は冷たい灰に変換されてしまう。他の集団が楽しんでいると信じ込む享楽への羨望に満たされ、かつ己れの生の享楽の不在への苦渋に押し潰され、主体はなにも楽しめなくなる。