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このところ「S2なきS1」を繰り返して示しているが、これは松本卓也くんの言っている「ひとつきりの一者」のことだからな。 以前、「偽日記」(古谷利裕のブログ)から拾ったことがあるがね。 |
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(…)逆方向の解釈によって取り出されるのは、他の誰とも異なる、それぞれの主体に固有の享楽のモード、すなわち、「ひとつきりの<一者>」と呼ばれる孤立した享楽のあり方である。精神病の術語をもちいれば、それは他のシニフィアンS₂から隔絶された、「ひとつきりのシニフィアンS₁」としての要素現象であり、自閉症の用語をもちいれば、それはララング(S₁)を他のシニフィアン(S₂)に連鎖させることなくララング(S₁)のまま中毒的に反復する事に相当するだろう。いずれの場合でも、そこで取り出されているのは無意味のシニフィアンであり、そこに刻まれている各主体の享楽のモードである。ミレールがいうように、現代ラカン派にとって、「症状を読む」こととは、症状の意味を聞き取る=理解することではなく、むしろ症状の無意味を読むことにほかならないのである。(松本卓也『人はみな妄想する』2015年) |
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ミレールはかつては「S2なきS1」を「ひとつきりの一者」( l’Un-tout-seul )等と呼んでいた。それを「S2なきS1 [S1 sans S2]」と呼ぶようになったのが2011年のセミネールだ。 |
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反復的享楽、これを中毒の享楽と言い得るが、まさにラカンがサントームと呼んだものは、中毒の水準にある。この反復的享楽は、一者のシニフィアン、S1とのみ関係をもつ。つまり、知を表象するS2とは一切関係をもたない。この反復的享楽は知の外部にあり、S2なきS1 [S1 sans S2]を通しての身体の自己享楽にほかならない。S2の機能を果たすもの、このS1にとっての大他者の機能を果たすものは、身体それ自体である。 La jouissance répétitive, la jouissance qu'on dit de l'addiction - et précisément, ce que Lacan appelle le sinthome est au niveau de l'addiction -, cette jouissance répétitive n'a de rapport qu'avec le signifiant Un, avec le S1. Ça veut dire qu'elle n'a pas de rapport avec le S2, qui représente le savoir. Cette jouissance répétitive est hors-savoir, elle n'est qu'auto-jouissance du corps par le biais du S1 sans S2. Et ce qui fait fonction de S2 en la matière, ce qui fait fonction d'Autre de ce S1, c'est le corps lui-même. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011) |
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で、これがフロイトの固着のこと。 |
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単独的な一者のシニフィアン、二者から独立した一者、S2に付着していないS1(=S2なきS1) … これが厳密にフロイトが固着と呼んだものである[le signifiant, et singulièrement le signifiant Un – le Un détaché du deux, non pas le S1 attaché au S2…précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ]〔・・・〕 フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与えうる[ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
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ーー《この常に同じ場処に回帰する》とは次のラカン発言からである、ーー《現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »]》 (Lacan, S16, 05 Mars 1969 )。そしてラカンにとって現実界は早い段階からフロイトの「固着」である[参照]。 さて先の松本くんの文には「症状を読む」(Lire un symptôme)ともあるが、これもミレールが2012年のニューラカニアンスクール(NLS)の会議のために2011年に記したこと(PDF)であり、症状を聞く臨床(S1-S2)の「幻想の横断」から、症状を読む臨床(S2なきS1 [S1 sans S2])の「サントームの臨床」(フロイトの固着)への移行の必要性を語っている。 S2なきS1 [S1 sans S2]の別名がトラウマのシニフィアンS(Ⱥ)であるのは、➤原抑圧は「現実界のなかに女なるものを置き残すこと」にて示した。 ーー《(自我とエスの)境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)]》(ポール・バーハウPAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997) 要するに、象徴界プラス想像界の臨床(赤い輪)から現実界(青い輪)と赤い輪の境界表象の臨床への移行ということだ。ま、これは言うは易く、やるは難しいらしいがね。 とはいえ旧来の幻想の横断の臨床を徹底的にすれば場合によっては分析主体(患者)にとって逆効果になる場合もありうる。というのは今まで幻想によって防衛されていた固着を赤裸々にするのだから。《精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする[A psychoanalytic cure removes repressions and lays bare drive-fixations](Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.2002) ➤参照 だいたい旧来の「分析治療を受けました」なんて誇示してるヤツらは、性格悪そうなのが多いよ、最近もラカン協会のイジメ事件があったらしいがね。
《症状は「身体の出来事」》とあるが、これが現実界の症状サントームである、《サントームは身体の出来事として定義される[ Le sinthome est défini comme un événement de corps]》(J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011) |
より詳しくは、➤ 「サントームは書かれることを止めない」
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われわれは症状からサントームへの道を取っている。それはまた、欲望から欲動への道、欠如から穴への道である[nous avons fait le chemin du symptôme au sinthome, qui est aussi un chemin du désir à la pulsion ou du manque au trou] (J.-A. MILLER, Conclusion des Leçons du sinthome, avril 2006) |
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欠如と穴の相違は、➤S(Ⱥ):「大他者のなかの欠如のシニフィアン」から「大他者のなかの穴のシニフィアン」へ なおジャック=アラン・ミレールは2005年のセミネールで次の対照表を示している。 ひとつだけ「真理」についてコメントしておくなら、症状は象徴界にあり、《象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.]》(J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)、つまり真理は嘘である。 なおこのミレールはラカンだけではなくフロイトの記述にも基づいており、フロイトは「心的装置は虚構」と言っている[参照]。事実上、フロイトにとって「欲動の身体」というリアルに対して「自我は嘘」なのである。 |
これはニーチェが既に言っていることでもある、ーー《「主体」は虚構に過ぎない。自我はまったく存在しない。エゴイズムが批判されるとき語られる自我はない[Das »Subjekt« ist nur eine Fiktion: es gibt das ego gar nicht, von dem geredet wird, wenn man den Egoismus tadelt.]》 (ニーチェ遺稿1882ー1887年)
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そしてニーチェにとって「ある」のは力への意志という欲動である。 |
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力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である[Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: ]… すべての欲動力(駆り立てる力)[ alle treibende Kraft]は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt](ニーチェ「力への意志」遺稿 Anfang 1888) |
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より詳しくは➤「力への意志文献ーーニーチェとフロイト」 |
ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう[Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.](フロイト、於ウィーン精神分析協会会議1908年 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung) |
ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている[Nietzsche, …dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken](フロイト『自己を語る Selbstdarstellung』1925年) |
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いや、スピノザにあると言ってもよいかもしれない。 |
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自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに欲動とは人間の本質に他ならない。Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(スピノザ『エチカ』第三部、定理9、1677年) |
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ーー手元の畠中尚志訳では「衝動」と訳されている"appetitus"は、現代スピノザ研究者では"Trieb"とされており、「欲動」に変えた。ーー《Appetitus ist Trieb 》(Willehad Lanwer & Wolfgang Jantzen, Jahrbuch der Luria-Gesellschaft 2014) |
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欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年) |


