2020年8月1日土曜日

倒錯者の構造


窃視者は、常に-既に眼差しに見られている。事実、覗見行為の目眩く不安な興奮は、まさに眼差しに晒されることによって構成されている。最も深い水準では、窃視者のスリルは、他人の内密な振舞いの盗み見みされた光景の悦楽というより、この盗み行為自体が眼差しによって見られる仕方に由来する。窃視症において最も深く観察されることは、彼自身の窃視である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)

覗きSchaulustと露出Exhibitionは、能動性と受動性の関係にある。分析的観察が示すのは疑いもなく、マゾヒストは自らを恥ずかしめることを享楽する、露出症者が自らを晒すことに享楽するように[der Masochist das Wüten gegen seine Person, der Exhibitionist das Entblößen derselben mitgenießt]。(フロイト『欲動とその運命』1915年、摘要)


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◼️倒錯者の構造と神経症者の倒錯的特徴の相違
人は「倒錯者の構造」と「神経症者の倒錯的特徴」との差異を認知する必要がある。神経症的主体は倒錯的性のシナリオperverse sexual scenariosをたんに夢見る主体ではない。彼あるいは彼女は、倒錯者と同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認しているということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯者の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の哀れさを他者に向けて明示する。

再び強調するなら、倒錯的関係性へのこの焦点化は、構造的接近法と記述的-法医学的接近法とのあいだの主要な相違である。実際上の性的法侵犯は、それ自体では必ずしも倒錯ではない。倒錯的構造が意味するのは、倒錯的主体は最初の他者の全的満足の道具へと自ら転換し、他方同時に、二番目の他者は挑まれ受動的観察者のポジションへと無力化されることである。

マルキ・ド・サドの作品は、この状況の完璧な例証である。そこでは読者は観察者のポジションにある。このようなシナリオの創造は、実際上の性的行動化のどんな形式よりも重要である。というのは、倒錯者による性的行動化は神経症的構造内部でも同様に起こり得るから。

臨床データが示しているのは、倒錯的主体は、権力の明示的関係性のなかで、常にそのシナリオを他者に向けて指し示していることである。例えば、露出狂者は他者が衝撃を受けたときのみ成功する。マゾヒストは何をすべきかを他者に指令する。等々。 (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、PERVERSION II、2001年)

倒錯的主体について、子供の標準的発達から考えてみよう。

幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、幼児は母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外 mirroring alienation を通して、自己のアイデンティティの基盤を獲得する。いったんこの基盤のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を通して、安定した関係にまだしがみついている。このような方法で、母を喪うことについての不安は飼い馴らされうる。標準的には、エディプス的局面・父の機能が、子供のいっそうの発達が起こる状況を作り出す。ただしそれは、母の欲望が父に向かっているという事実があっての話である。

倒錯の心因においてはこれは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作るものに還元する。この鏡像化 mirroring のため、子供は母自身の一部として、母のコントロール下にいるままである。したがって子供は自己の欲動への表象的参入(欲動の象徴化能力)を獲得できない。もちろん、それに引き続く自身の欲望のどんな加工 elaborations もできない。

これは、構造的用語で言えば、ファルス化された対象aに還元されるということであり、母はファルス化された対象a を通して、彼女自身の欠如を埋める。だから分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる。…

このようにして、子供は自らを逆説的ポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルス(ファルス化された対象a)となり、それは子供にとっての勝利である。他方で、彼がこのために支払う犠牲は大きい。分離がないのだ。自身のアイデンティティへとのいっそうの発展はいずれも塞がれてしまう。代わりに、子供はその獲得物を保護しようと試みて特有の反転を演じる。彼は、自ら手綱を握って、受動ポジションを能動ポジションへ交代させようとする。同時に母の想像的ファルスという特権的ポジションを維持したままで、である。

臨床的用語では、これは明白なマゾヒズムである。マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。これは、他者の道具となる側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、はっきりと受動-能動反転を示している。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。…倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼また、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。(⋯⋯

倒錯者においては、後の人生においても原初の関係が繰り返される、最初の母なる大他者と第二の父なる大他者に対する成人後の生活における後継者たちに対して。もっとも受動-能動反転がある。倒錯的主体は、「最初の大他者の後継者」に向けて道具的ポジションに立つ。この大他者の享楽に仕えるためだ。

これは神経症者の観点からは、パラドクスである。倒錯者は、大他者の享楽のために熱心に奉仕していることを確信している。こうして倒錯者は、犠牲者は「それを求めたのだ」、「ほら、それをまさに楽しんだのだよ」等々という根強い考えを持つ。その考え方は、確かに原初の最初の母なる大他者にとっては本当だった。

この帰結は、還元されたヴァージョン、いわゆる「認知の歪み」においても、同様に見出される。何度も繰り返して証言されるのだ、犠牲者は「協力的だったよ」、あるいはさらに「犠牲者さ、率先してやったのは」と。(Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe、When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic、2010)


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ラカン自身の発言をいくら列挙しておこう。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン, E554, 1956年)
倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823、1960年)
他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier 1963)
倒錯者は、大他者のなかの穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)

大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance…

問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ二者関係に見出しうる。その関係における不安である…Où est cet Autre dont il s'agit ?    […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…

この不安がマゾヒストの盲目的目標なら、ーー盲目というのはマゾヒストの幻想はそれを隠蔽しているからだがーー、それにも拘らず、われわれはこれを神の不安と呼びうる。que si cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste, car son fantasme la lui masque, elle n'en est pas moins, réellement, ce que nous pourrions appeler l'angoisse de Dieu. (ラカン, S10, 6 Mars 1963)


※神の不安 ➡︎ 母なる超自我(原超自我)の不安

一般的に神と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)
「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。(Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン, S18, 16 Juin 1971
超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン, S20, 21 Novembre 1972)


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享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。[Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion.] (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

フロイトの観点では、享楽の不安との関係は、ラカンが同調したように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve.]としてある。

欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快ある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse.。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( S17, 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)

モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)
モノは享楽の名である。das Ding[…] est tout de même un nom de la jouissance(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)

(原母子関係には)母なる女の支配 dominance de la femme en tant que mère がある。…語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存 dépendance を担う母が。(ラカン、S17、11 Février 1970)
不安は原初に快の源泉であった何ものかに起源がある。この快はラカンの「大他者の享楽」用語にて理解されなければならない。すなわち大他者の享楽の受動的対象としての子供の不安である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)


なお、1974年以降の後期ラカンの倒錯の捉え方は、「人はみな穴埋めする」を参照のこと。