2021年8月14日土曜日

ラカンの現実界はエスなのか固着なのか

 


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976


フロイトのモノ概念の基本については「モノ簡潔版」を参照されたし。ここではその基本を前提にしての記述である。


まずジャック=アラン・ミレールは「モノ=享楽=エス」だと言っている。


フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。〔・・・〕フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose(J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009


他方、「モノ=サントーム(原症状)=固着=享楽=現実界」だと言っている。


ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens(J.-A.MILLER,, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)

サントームは固着である[Le sinthome est la fixation. (J L'Être et l'Un, 30/03/2011摘要

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


フロイトにとって固着とは原抑圧のことである。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。この欲動の固着[Fixierungen der Triebe は、以後に継起する病いの基盤を構成する。(フロイト『症例シュレーバー 1911年、摘要)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)


フロイトの図においては、エスと原抑圧は異なる。





Verdrängtとあるが、原抑圧のことである。


晩年のフロイト、とくに1926年以降のフロイトは、抑圧という語を多くの場合、原抑圧の意味で使っていることに注意せねばならない。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


さてラカンの現実界は原抑圧なのかエスなのか?

ーーどちらもラカンの現実界である。ラカンの現実界は原抑圧(固着)でもありエスでもある。


フロイトのモノとは異者(異物=異者としての身体[Fremdkörper」)のことである。この異者は原抑圧によって分離される。


このモノは分離されており、異者の特性がある[ce Ding …isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)


分離されるとは、エスに置き残されるということである。


(原)抑圧されたものは異物(異者としての身体)として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper] 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben]。〔・・・〕


自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、原無意識としてエスのなかに置き残さる。das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


原抑圧=固着によってエスに置き残された「モノ=異者」がラカンの現実界なのである。


ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


確認しておこう、モノ=異者=現実界=享楽であることを。


フロイトはモノを異者と呼んだ[das Ding…ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)

現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004




ところで超自我も固着(原抑圧)である。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


したがって《超自我と原抑圧との一致がある[il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire]》(J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)ということになり、ラカンの現実界は超自我でもある。


上のフロイト1939の《超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する》の「自己破壊」とは死の欲動である。


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben1933年)


したがって死の欲動は、超自我の欲動だということになる。


死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000

タナトスとは超自我の別の名である[Thanatos, which is another name for the superego (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one, 2016

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)


実際のところは直接的にエスに死の欲動があるわけではない。エスには潜在的に死の欲動があるだけである。潜在的な死の欲動は、「原抑圧=固着=超自我」によって遡及的に現勢化される。これがフロイトが次のように言っている内実である。


遡及性によって引き起こされるリビドー[daß die durch Nachträglichkeit erwachende Libido ](フロイト、フリース宛書簡 Freud, Briefe an Wilhelm Fließ, 14. 11. 97


遡及性についてもういくらか詳しくは、「水力発電所による遡及性」を参照されたし。


以上、一見矛盾した「現実界=エス=固着」の内実を簡潔に示したつもりである。