◼️シニフィアンの主体と享楽の主体 ジャック=アラン・ミレールは比較的早い段階で、既に次のように示している。 |
主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987) |
例えば、ラカンは次のように言っている。 |
①シニフィアンの主体 |
一つのシニフィアン(S1)は他のシニフィアン(S2)に対して主体($)を表象する[ un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant ](ラカン「主体の転覆」E819, 1960年) |
この主体は四つの言説理論の文脈において示される主体でもある。 ーーこの図の右下に示されている(a)は後に示す現実界の享楽の(a)とは異なる剰余享楽(a)なので注意。ーー《剰余享楽は言説の効果の下での享楽の廃棄の機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ]》(Lacan, S16, 13 Novembre 1968) ②享楽の主体 |
原主体[sujet primitif]…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぼう[nous l'appellerons aujourd'hui « sujet de la jouissance »]〔・・・〕この享楽の主体はシニフィアン化によってによって欲望の主体としての基礎を構築する[« le sujet de la jouissance »…la significantisation qui vient à se trouver constituer le fondement comme tel du « sujet désirant » ](ラカン, S10, 13 Mars 1963) |
この①と②の二つの主体は異なる。 |
享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999) |
つまりシニフィアンの主体とは欲望の主体のことであり、欲望の主体とは享楽の主体に対する防衛の主体である。 |
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance].( ラカン、E825、1960) |
防衛の別名は抑圧である。 |
私は(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念のかわりに、後年、「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926 年) |
さらにラカンにとって欲望の主体とは幻想の主体のことである。 |
(実際は)欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme](Lacan, AE207, 1966) |
この意味で主体の起源はシニフィアンの主体ではなく享楽の主体である。 |
ラカンは強調した、疑いもなく享楽は主体の起源に位置付けられると[Lacan souligne que la jouissance est sans doute ce qui se place à l'origine du sujet](J.-A. Miller, Une lecture du Séminaire D'un Autre à l'autre, 2007) |
ラカンの享楽とはフロイトの欲動のことでありーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.]》(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)ーー、享楽の主体=欲動の主体である。 |
◼️二段階の分裂した主体 ここでポール・バーハウの注釈にて補おう。 |
……最終的に、このようにして成立した主体が、常に分裂された主体であり、しかも単に一度だけでなく二度にわたって分裂される理由が明らかになる。第一に、それは有機体のリアルと、象徴化の第一の試みである(a)→$→S1との間で分裂される。第二に、異なったシニフィアンの間で分裂される。それぞれのシニフィアンは、決して完了することのない象徴化のさらなる試みをなす。S1 → $ → S2。 ……Finally, this clarifies why the subject established in this way is always a divided subject, and divided not merely once but twice. Firstly, it is divided between the Real of the organism and the primary attempt at symbolization: (a) → $ → S1. Secondly, it is divided between the different signifiers, each one carrying its own further attempt at a symbolization that will never be complete: S1 → $ → S2. (Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004) |
バーハウは二段階、あるいは二種類の分裂した主体を示している。第一に[(a)→$→S1]における分裂した主体$、第二に[S1 → $ → S2]における分裂した主体$である。前者が享楽の主体であり、後者がシニフィアンの主体である。 有機体のリアル[the Real of the organism]を(a)にて示しているが、これは「異者としての身体」を意味し、エスの欲動である。 |
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
◼️大他者の享楽=自己身体の享楽=異者身体の享楽 有機体のリアル[the Real of the organism]についても確認しておこう。 |
享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、その意味は変化したにもかかわらず、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽》を使用し続けていることだ。新しい意味は、自己身体を示している。それは最も根源的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は最も親密な異者[our real organism as the most intimate stranger.]である。 where does this jouissance come from? From the Other, says Lacan. The "Other" now has a different meaning. The trouble is that Lacan continues to use his standard expression-"the jouissance of the Other"-although its meaning has changed. Here, it indicates one's own body as the most fundamental Other, in fact our real organism as the most intimate stranger.(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villainsーーA Radical Reconsideration of the Oedipus Complex, 2009) |
これはラカン研究者においても、いまだほんのひと握りの者しか把握していないが、後年のラカンの「大他者の享楽」とは「自己身体の享楽=異者身体の享楽」のことなのである。 |
大他者の享楽は、自己身体の享楽以外の何ものでもない。La jouissance de l'Autre, […] il n'y a que la jouissance du corps propre.〔・・・〕 自己身体の享楽はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre ] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 8 avril 2009) |
セミネール23のラカンは、《われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger]》(Lacan, S23, 11 Mai 1976)と言っているが、これが大他者の享楽=自己身体の享楽に関わる「異者としての身体」であり、エスの欲動の身体、つまり享楽の身体である。 |
現実界のなかの異者概念(異者身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
◼️ラカンの主体とフロイトの自我分裂 |
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そもそもラカンの主体$はフロイトの自我分裂に起源がある。 |
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ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne. ](Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012) |
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自我分裂とは自我と欲動、つまり自我とエスの分裂をいう。 |
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欲動要求と現実の抗議のあいだに葛藤があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている[Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. ](フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年) |
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自我分裂…一方は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている[Ichspaltung…die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. ](フロイト『精神分析概説』第8章、1939年) |
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「エスへと抑圧されている」とあるが、晩年のフロイトにとっての「抑圧」はほとんど常に原抑圧であり[参照]、つまり「エスへと原抑圧されている」である。 原抑圧とは「原初に抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe ]=原初に置き残された欲動[primär zurückgebliebenen Triebe](フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)を意味し、この置き残されるものが異者としての身体である。
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ラカンの現実界とはこの原抑圧に関わり、つまり現実界とは事実上、エスである。 |
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私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975) |
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現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
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原抑圧→トラウマの穴であり、ここに「原主体=享楽の主体」の場がある。 |
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ラカンの穴=トラウマによる言葉遊び[le jeu de mots de Lacan sur le troumatisme]。トラウマの穴はそこにある。そしてこの穴の唯一の定義は、主体をその場に置くことである[Le trou du traumatisme est là, et ce trou est la seule définition qu'on puisse donner du sujet à cette place] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 10/05/2006) |
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人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである。[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 ) |
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この穴がラカンの現実界の身体、フロイトの異者としての身体であり、享楽の主体とは実際は享楽の身体と等置しうる。 |
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身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
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トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。 das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz … leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要) |
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「異者身体のトラウマはレミニサンスする」とは、「現実界のトラウマはレミニサンスする」と等価である。 |
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私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。…これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence. …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要) |
ラカンのリアルな対象aはこのトラウマの穴を示している。 |
対象aは現実界の審級にある[(a) est de l'ordre du réel.](Lacan, S13, 05 Janvier 1966) |
対象aは穴である[l'objet(a), c'est le trou] (Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている[ ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté], (Lacan, S16, 14 Mai 1969) |