フロイトの「抑圧」という語は、一般には誤解されている。例えば、「家父長制による抑圧」という形でしばしば使われるが、これはフロイトの抑圧ではまったくない。そもそもドイツ語の抑圧[Verdrängung]という語には、「抑えつける」や「圧する」の意味はなく事実上誤訳に近い[参照]。 初期フロイトは「抑圧は翻訳の失敗」だと言っている。 |
①抑圧=翻訳の失敗 |
翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」呼ばれるものである[Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch „Verdrängung“ heißt.](フロイト、フリース宛書簡 Brief an Fließ, 6.12.1896) |
この翻訳[Übersetzung]という語は最晩年の『モーセ』にも現れる。「翻訳の失敗」とは、エスの一部が自我あるいは前意識に翻訳されず、異者としての身体が本来の無意識としてエスに置き残されるという意味をもっている。 ②抑圧されたもの=異者としての身体=自我に翻訳されずにエスに置き残される |
抑圧されたものは「異者としての身体」として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper] 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben] 〔・・・〕 自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスに置き残されたままである[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要) |
異者としての身体[Fremdkörper]とあるのは、エスの欲動蠢動を意味する。 |
自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. ]〔・・・〕 エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
先の②に戻れば、エスの一部が自我に翻訳されず、異者としての身体がエスに置き残される[bleibt im Es zurück]における置き残し[Zurückbleiben]の別名は、残滓[Reste]、リビドー固着の残滓である。 |
③置き残し=リビドー固着の残滓 |
常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年) |
そもそもフロイトにとって抑圧の第一段階は固着である。 ④抑圧(原初に抑圧された欲動)=欲動の固着 |
「抑圧」は三つの段階に分けられる「das »Verdrängung«… den Vorgang in drei Phasen zu zerlegen]〔・・・〕 ①第一の段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕 この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する。そしてさらに、とくに三番目の抑圧の相を生み出す決定因となる[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege, und können hinzufügen, die Determinierung vor allem für den Ausgang der dritten Phase der Verdrängung. ] ②抑圧の第二段階は、正式の抑圧である。この段階は精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているが、これは自我のより高度に発達した意識システムから生じ、実際には「後期抑圧」と表現できる[Die zweite Phase der Verdrängung ist die eigentliche Verdrängung, die wir bisher vorzugsweise im Auge gehabt haben. Sie geht von den höher entwickelten bewußtseinsfähigen Systemen des Ichs aus und kann eigentlich als ein »Nachdrängen« beschrieben werden.]〔・・・〕 主に①の原初に抑圧された欲動がこの後期抑圧に貢献する[…Beitrag von Seiten der primär verdrängten Triebe unterscheiden. ] |
③第三段階は、病理現象として最も重要であり、抑圧の失敗、侵入、抑圧されたものの回帰[Wiederkehr des Verdrängten]である [Als dritte, für die pathologischen Phänomene bedeutsamste Phase ist die des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. ] この侵入は固着点から始まる[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。そしてその固着点へのリビドー的展開の退行[Regression der Libidoentwicklung]を意味する[und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー )1911年、摘要) |
上のフロイトは、正式の抑圧は実際は後期抑圧としているが、抑圧には原抑圧(一次抑圧)と後期抑圧(二次抑圧)があり、一次抑圧は固着なのである。 |
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年) |
抑圧されたものの回帰の原点にあるのは一次抑圧された欲動の回帰であり、別の言い方なら固着点への回帰である。
フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、「享楽の一者がある」ということであり、常に同じ場処に回帰する。この理由で固着点に現実界の資格を与える[ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est qu'il y a un Un de jouissance qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »] (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) |
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ラカンの対象aーー剰余享楽の対象aではなくリアルな対象aーーは、この原抑圧としての固着(固着点)であり、つまり残滓=エスに置き残された異者としての身体のことであり、これが享楽である。 |
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu. Ce reste, …c'est le petit(a). ](Lacan, S10, 21 Novembre 1962) |
フロイトの異者は、置き残し、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963) |
享楽は、残滓 (а) による[la jouissance…par ce reste : (а) ](Lacan, S10, 13 Mars 1963) |
対象aは現実界の審級にある[(a) est de l'ordre du réel.] (Lacan, S13, 05 Janvier 1966) |
二人の注釈者にて確認しておこう。 |
残滓…現実界のなかの異者概念(異者身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/1997) |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
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ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。 The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
原初の現実界の出発点は「異者としての身体[Fremdkörper]として居残って効果をもったままである。これは、身体的な何ものかがどの症状の核にも現前しているということである。より一般的なフロイト理論用語では、いわゆる欲動の根[Triebwurzel]あるいは固着点である。ラカンに従って、われわれはこの固着点のポジションに対象aを置くことができる。 the original real starting point remains effective as a “foreign body.”… the fact that something of the body is present in the kernel of every symptom. In the more general terms of his theory, this is the so-called “root” of the drive or the point of fixation . Following Lacan, we can place the object (a) in this position. (Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004) |
いわゆる享楽の残滓 [un reste de jouissance]がある。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だが基本的にそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって触発され、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。 C'est disons un reste de jouissance. Et Lacan ne dit qu'une seule fois mais au fond ça suffit, d'où il s'en inspire chez Freud quand il dit au fond que ce dont il fait ici une fonction, ce sont des points de fixation de la libido. 固着点はフロイトにとって、分離されて発達段階の弁証法に抵抗するものである[C'est-à-dire ce qui chez Freud précisément est isolé comme résistant à la dialectique du développement. ] 固着は、どの享楽の経済においても、象徴的止揚に抵抗し、ファルス化をもたらさないものである[La fixation désigne ce qui est rétif à l'Aufhebung signifiante, ce qui dans l'économie de la jouissance de chacun ne cède pas à la phallicisation.] (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III- 5/05/2004) |
ここでのミレールのいう「象徴的止揚・ファルス化に抵抗する」とは、簡単にいえば、「言語化されない」という意味である。 |
象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. ](ラカン, S18, 09 Juin 1971) |