2023年10月16日月曜日

フロイトとパレスチナ

 

◼️1920年にシオニスト会議によって設立されたケレン・ハイェソッド移民基金(Keren Hayesod)代表のChaim Koffler 宛のフロイト書簡より

……しかし他方で私は、パレスチナがユダヤ人の国家になることはあり得ないと思うし、キリスト教世界やイスラム教世界が、自分たちの聖地をユダヤ人の管理下に置く用意があるとは思えません。私には、歴史的な負担の少ない土地にユダヤ人の祖国を建設する方が賢明だと思えます。しかし、そのような合理的な視点が、大衆の熱狂や富裕層の経済的支援を獲得し得ないことを承知しています。また、同志たちの非現実的な狂信主義が、アラブ人の不信を招いた責任の一端を担っていることも、遺憾ながら認めています。ヘロデの城壁の一部を国の遺物とし、そのために地元の人々の感情を逆なでするような、間違った(!)解釈による崇敬の念にはまったく同情できないのです。

Aber andererseits glaube ich nicht, dass Palästina jemals ein jüdischer Staat werden kann und dass die christliche wie die islamitische Welt je bereit sein werden, ihre Heiligtümer jüdischer Obhut zu überlassen. Mir wäre es verständiger erschienen, ein jüdisches Vaterland auf einem historisch unbelasteten Boden zu gründen; ich weiß zwar, dass man für eine so rationelle Absicht nie die Begeisterung der Massen und die Mittat der Reichen gewonnen hätte. Auch gebe ich mit Bedauern zu, dass der wirklichkeitsfremde Fanatismus unserer Volksgenossen sein Stück Schuld trägt an der Erweckung des Misstrauens der Araber. Gar keine Sympathie kann ich für die miss(!)gedeutete Pietät aufbringen, die aus einem Stück der Mauer von Herodes eine nationale Reliquie macht und ihretwegen die Gefühle der Einheimischen herausfordert. Freud, An Chaim Koffler, 1930年)


◼️小説家アルノルト・ツヴァイク宛より

パレスチナは宗教、聖なる愚行、内なる希望的観測によって外なる幻想世界に対処しようとする僭越な試みにほかなりません。

Palästina hat nichts gebildet als Religionen, heiligen Wahnwitz, vermessene Versuche, die äußere Scheinwelt durch innere Wunschwelt zu bewältigen, Freud, An Arnold Zweig, Hochroterd, 8. Mai 1932)



参照:人間の文化は集団妄想(フロイト)


……………


※附記


ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。Weil ich Jude war, fand ich mich frei von vielen Vorurteilen, die andere im Gebrauch ihres Intellekts beschränkten, als Jude war ich dafür vorbereitet, in die Opposition zu gehen und auf das Einvernehmen mit der »kompakten Majorität« zu verzichten.(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶(Ansprache an die Mitglieder des Vereins B'nai B'rith)』1926年)


十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしてこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな![Jud, herunter vom Trottoir!] 』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」

これはどうも少年の手をひいて歩いてゆくこの頑丈な父親にふさわしくなかった。私はこの不満な一状況に、ハンニバルの父、ハミルカル・バルカスが少年ハンニバルをして、家の中の祭壇の前でローマ人への復讐を誓わせた一場、私の気持にぴったりする一情景を対置せしめた。爾来ハンニバルは私の幻想の中に不動の位置を占めてきたのである。(フロイト『夢解釈』第5章、1900年)



『人間モーゼと一神教』におけるフロイトは、すべての宗教を集団神経症とみるだけでなく、さらに、そのようにみる彼自身の、あるいは精神分析の立場そのものがどこからきたかを問うている。いいかえれば、「ユダヤ的であること」がどこからきたかを問うている。フロイトの考えでは、いうまでもなく、それは偶像崇拝を禁止した人間モーゼからきたのだ。〔・・・〕


フロイトはいう。《ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりました。固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです》(「ブナイ・ブリース協会会員への挨拶」)。

この「ユダヤ人」は、フロイトにとって、ユダヤ教やユダヤ人の共同体を意味していない。それは、いかなる共同体の偏見(偶像)をも拒否し、したがってそこから排斥されざるをえない在り方のことである。つまり、「ユダヤ的であること」は、いかなる共同体にも帰属せずその「間」に立つことである。むろん、それを「ユダヤ的」という固有名詞で呼ばねばならないわけではない。しかし、そのような在り方が、たとえばモーゼの「偶像崇拝の禁止」において典型的に開示されたことは疑いがない。なぜなら、それはいかなる共同体の神々に即くことをも禁じているからである。フロイトが固執するモーゼは、そのようなモーゼであって、ユダヤ人に儀礼や戒律を与えたモーゼではない。あるいは、外国人(他者)としてのモーゼであって、「民族の英雄」としてのモーゼではない。フロイトはユダヤ民族のアイデンティティ(選民としての)を否定するが、ただ「ユダヤ的であること」のアイデンティティは確保しようとするのである。

しかし、フロイトがモーゼに異様にこだわったのは、「精神分析」そのものがそのような在り方であり運動だったからである。事実フロイトは、精神分析をたんに治療法としてではなく世界的な思想運動とみなしている。ある意味で、彼はモーゼのように運動を創始しモーゼのようにふるまったのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』「ユダヤ的なもの」1989年)


参照;些細な差異のナルシシズム