◾️ケインズ「美人投票」 |
プロの投資は、新聞主催の美人投票合戦に比肩することができる。すなわち、投票者は 100 枚の女性写真の中から 6 人の美人を選ぶという投票合戦である。その時の御褒美はユニークなものであり、その一票が投票者全体の平均的選好に最も近いような人間に与えられる。その結果として、各投票者が一票を投じるのは、彼自身が最高の美人だと思う女性ではなくて、自分以外の投票者たちをして最高の美人だと幻想させるような女性である。そしてもちろん、これらの投票者たちはすべて同様な視点から投票合戦を行っているのだ。ここで関心事となっているのは、各自の判断で本当の意味で最高の美人だと思う女性を選ぶことではない。また、平均的意見が真の意味で最高の美人だと思う女性でもない。今や我々は、各自が脳みそを絞りだして、平均的意見なるものが平均的意見とは一体何だろうかと予見するような、三次元の世界に到達している。そして人によっては、四次元、五次元、さらにはもっと高い次元の世界に居る場合もあるように思える。 |
professional investment may be likened to those newspaper competitions in which the competitors have to pick out the six prettiest faces from a hundred photographs, the prize being awarded to the competitor whose choice most nearly corresponds to the average preferences of the competitors as a whole; so that each competitor has to pick, not those faces which he himself finds prettiest, but those which he thinks likeliest to catch the fancy of the other competitors, all of whom are looking at the problem from the same point of view. It is not a case of choosing those which, to the best of one’s judgment, are really the prettiest, nor even those which average opinion genuinely thinks the prettiest. We have reached the third degree where we devote our intelligences to anticipating what average opinion expects the average opinion to be. And there are some, I believe, who practise the fourth, fifth and higher degrees. |
(ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』第12章 Keynes, General Theory of Employment, Interest and Money, 1936). |
◾️岩井克人による注釈 |
ここで、書棚の奥にある経済学のもう一つの古典のほこりを払い落としてみよう。それは、「アダム・スミスの時代」のなかで、世間からすっかり忘れられてしまった感のあるジョン・メイナード・ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(一九三六年)である。われわれが注目すべきは、そのなかで株式市場や債券市場のはたらきを分析している第一二章にあるひとつのパラグラフである。 このパラグラフでケインズが論じているのは、つい最近まで実際にイギリスでおこなわれていたある「美人コンテスト (beauty contest)」についてである。それは、新聞紙上に掲載された一〇〇人の女性の顔写真の中から読者が投票で六人の美人を選ぶという、一見するとなんの変哲もない美人コンテストである。だが、それが大変な好評を博していたのは、ヒナ壇に座った審査員が一定の基準のもとに選考をおこなう通常の美人コンテストとは異なり、読者からの得票がもっとも多く集まった六名の美人に投票をした読者に多額の賞金をあたえるという、読者参加の度合いを最大限にする趣向をこらしていたからであった。 |
さて、新聞の読者がこの美人コンテストに参加してほんとうに賞金をかせぎたいと思ったら、いったいどのように投票すべきだろうか。美のイデアを体現しているように見える顔に投票しても、じぶんにとってもっとも美しく見える顔に投票しても無駄である。 なぜならば、このコンテストには、じぶんと同じように賞金をかせごうと思い、じぶんと同じように一生懸命に投票の戦略を練っているひとが多数参加しているからである。ケインズ自身の言葉を借りれば、 |
《それぞれの投票者は、自分が美人だとおもう顔ではなく、自分とまったく同じ立場に立ってだれに投票しようかと考えている自分以外の投票者の好みに一番合うとおもわれる顔に票をいれなければならない。それは、自分が一番美人であると判断した顔を選ぶというのではなく、平均的な意見が本当に一番美人だと考えている顔を選ぶというのですらないのである。さらに第三段階にいたると、ひとは平均的意見が平均的意見をどのように予想するかを予想するために全知全能を投入することになる。そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっているひとまでいるにちがいない。》(『雇用・利子および貨幣の一般理論」第一二章) |
たくさんの読者が賞金ねらいのために投票するこの美人コンテストにおいて、読者に選ばれる美人とは、その顔が美人であると平均的な読者が予想すると平均的な読者が予想する……と平均的な読者が予想している美人なのである。そこでは、投票に参加するそれぞれの読者が、ほかの読者もみなじぶんとおなじように予想すると信じていればいるほど、すなわち、おたがいの合理性を信じていればいるほど、ある顔が美人であるということは、それぞれの読者の個人的な判断からも、読者全体の平均的な意見からも無限級数的に乖離していく。究極的には、たんにその顔が選ばれるという予想があるというだけで、その顔が美人であるということになってしまうのである。そこにあるのはもはや「予想の無限の連鎖」だけなのである。 ここでとつぜんにケインズの「美人コンテスト」の話をもちだしてきたのは、それがミルトン・フリードマン以前に提示されたものであるにもかかわらず、ミルトン・フリードマンのような投機理論にたいするもっとも根底的な批判の手がかりを提供してくれることになるからである。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』第4章、2000年) |
グローバル資本主義ーーそれは、全世界を市場で覆い尽くす資本主義の純粋化は効率化も安定化も実現するという、新古典派経済学の壮大なる実験でもあった。そして、二〇〇八年米国のサブプライム問題に端を発した金融危機は、実験の破綻を告げるものとなった。現実が立証したのは、資本主義の純粋化は効率性を増す代わりに不安定性を増幅させるという「不都合な事実」であった。 * 資本主義において、効率性と安定性とは二律背反するのだろうか。 それは、資本主義が本質的に「投機」によって成立しているシステムだからである。 すぐ反論があるだろう。投機こそ市場を安定化すると、ミルトン・フリードマンが言ったではないかと。市場を不安定化するのは、高い時に買って値をさらに上げ、安い時に売って値をさらに下げる愚かな投機家である。そのような投機家は結局損をして淘汰され、長期的に市場に残るのは、安い時に買って高い時に売る安定的な投機家だけだというのである。 |
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確かに、投機家が生産者と消費者の間に立って、一方からモノを買い他方に売るような牧歌的な市場では、投機は安定的であるかもしれない。だが、金融市場では、話は全く違ってくる。証券という形でリスクを売り買いしている金融市場がうまく機能するためには、通常の生産者や消費者が回避したいリスクを進んで引き受けてくれるプロの投機家の存在が必要である。そして、プロの投機家が多数参加して互いに売り買いを繰り返している市場を支配するのは、フリードマンの主張する経済淘汰の原理ではなく、ケインズの「美人投票」の原理なのである。 |
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ケインズの美人投票とは、最も多くの票を集めた「美人」に投票した人に賞金を与える観衆参加型の投票である。それに参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従っても、主観的な好みに従っても無駄である。平均的な投票者が誰に投票するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も賞金を狙っているならば、平均的投票者が平均的投票者をどう予想するかを予想しなければならず、さらに何段階も予想を重ねる必要さえある。その結果選ばれる「美人」とは、ひとが美人として扱うからひとが美人として扱うという「自己循環論法」の産物にすぎなくなるのである。 プロの投機家同士がしのぎを削る金融市場を支配している原理は、まさにこの美人投票である。それは、需給の実体条件(ファンダメンタルズ)とは独立に、価格高騰の予想が実際に価格を高騰させるバブルや、価格急落の予想が実際に価格を急落させるパニックの危険を常に生み出すことになる。 〔・・・〕美人投票の原理は、さらに本質的な意味で、資本主義の動きを支配している。それは、「貨幣」がまさに「投機」の純粋形態であるからである。 |
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* 人が貨幣を手にするのは、それをモノとして使うためではない。いつか他の人がそれを貨幣として受け取ってくれると予想しているからである。他の人が貨幣として受け取るのは、同じく他の人が貨幣として受け取ってくれると予想しているからである。ここに働いているのも、美人投票と同じ自己循環論法である。いや、モノとしては何の価値もない貨幣には、人が貨幣として受け取るから人が貨幣として受け取るという自己循環論法しか価値を支えるものはない。それは、究極の美人投票に他ならない。 |
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人が貨幣を手に持つ時、人は知らずに、最も純粋な投機活動に参加しているのである。そしてそれは、貨幣にもバブルがあり、パニックがあることを意味することになる。 貨幣のバブルーーそれは、人が実際のモノよりも貨幣を貨幣として欲しがることである。その結果、モノ全体に対する需要が減ると、生産や雇用が停滞する不況が始まり、それによって不安をかき立てられた人がさらに貨幣を手元に置き始めると、不況が一層進展し始める。その極限状態が、誰も何もモノを買おうとしなくなってしまう恐慌に他ならない。 貨幣のパニックーーそれは、 貨幣が貨幣であることに人が不安を抱き、 それを早くモノに換えたいと思うことである。それによってモノの価格全体が上昇しはじめるとインフレになり、貨幣の価値を押し下げる。一層インフレが進展すると人びとが予想し始めると、貨幣をモノに換えようという動きが加速され、さらにインフレを促進してしまうという悪循環に陥ってしまう。その極限状態が、誰も貨幣を貨幣として受け取ろうとしなくなるハイパーインフレなのである。 貨幣の発見は、物々交換の非効率性を解消し、経済交換の範囲を対人的にも時間的にも空間的にも飛躍的に拡大することになった。貨幣が存在しなければ、資本主義というこの壮大なシステムも存在しえなかったはずである。だが、まさにその貨幣が、恐慌やハイパーインフレといったマクロ的不安定性を必然化する。 今回の金融危機には、実はこの「貨幣」をめぐる不安定性が二重に入り込んでいる。 |
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* 今回の金融危機の火種となった米国のサブプライム・ローンとは、 信用力の低い個人向けの住宅融資のことである。 返済できるはずのない人まで借りたのは、住宅バブルが続くと予想して、購入住宅を高値で売り抜けようと考えたからである。金融機関がそのような人にまで貸し出したのは、多数のローンを束ねて住宅抵当証券にすれば焦げ付きリスクが平均化されると考えたからである。その住宅抵当証券から様々な形でリスクを加工した複雑な派生証券が多数作られ、無数の投資ファンドに組み込まれ、世界中にばらまかれていった。 バブルを商品化したにすぎない危険きわまりない証券も、多くの人が信用ある証券として受け取ることによって、実際に高い信用を持ち、さらに多くの人が受け取るようになる。この自己循環論法によって、金融市場全体が、あたかも銀行であるかのように、一種の信用創造を行っていたのである。だが、住宅バブルに陰りがみえた途端、自己循環論法が崩壊しはじめた。金融市場全体に取り付け騒ぎが起きたのである。膨張した信用は急激に収縮してしまい、市場には焦げ付いた住宅ローンという現実しか残らなくなった。 |
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もちろん、金融市場は常に不安定であり、九七年のアジア通貨危機をはじめ、大きな金融危機は繰り返し繰り返し起こっている。だが、今回の危機には今までとは次元の違う深刻さがあるのは、その中に「貨幣」それ自体の本質的な不安定性が浮上し始めているからである。 「ドル危機」の可能性である。 現在のグローバル資本主義は、米国の貨幣でしかないドルを世界全体の基軸貨幣としているシステムである。それは、すべての貨幣と同様に、世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るから世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るという、あの究極の美人投票としての自己循環論法によって支えられている。 今回の金融危機が、米国を震源地としたグローバルな危機であるという事実は、基軸貨幣としてのドルの信用を大きく揺るがせている。それがドル基軸貨幣体制の崩壊を引き起こし、三〇年代に匹敵する世界大恐慌につながる可能性はまだ小さいが、消えてしまったわけではない。だが、この最も根源的な「貨幣」問題を論ずる紙幅はもはやなくなった。 (岩井克人「自由放任主義の第二の終焉」2008年、pdf) |
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※参照➡︎岩井克人「グローバル経済危機と 二つの資本主義論」2009年、PDF
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