2024年10月25日金曜日

ケインズ「美人投票」と基軸通貨ドル危機(岩井克人)


◾️ケインズ「美人投票」

プロの投資は、新聞主催の美人投票合戦に比肩することができる。すなわち、投票者は 100 枚の女性写真の中から 6 人の美人を選ぶという投票合戦である。その時の御褒美はユニークなものであり、その一票が投票者全体の平均的選好に最も近いような人間に与えられる。その結果として、各投票者が一票を投じるのは、彼自身が最高の美人だと思う女性ではなくて、自分以外の投票者たちをして最高の美人だと幻想させるような女性である。そしてもちろん、これらの投票者たちはすべて同様な視点から投票合戦を行っているのだ。ここで関心事となっているのは、各自の判断で本当の意味で最高の美人だと思う女性を選ぶことではない。また、平均的意見が真の意味で最高の美人だと思う女性でもない。今や我々は、各自が脳みそを絞りだして、平均的意見なるものが平均的意見とは一体何だろうかと予見するような、三次元の世界に到達している。そして人によっては、四次元、五次元、さらにはもっと高い次元の世界に居る場合もあるように思える。

professional investment may be likened to those newspaper competitions in which the competitors have to pick out the six prettiest faces from a hundred photographs, the prize being awarded to the competitor whose choice most nearly corresponds to the average preferences of the competitors as a whole; so that each competitor has to pick, not those faces which he himself finds prettiest, but those which he thinks likeliest to catch the fancy of the other competitors, all of whom are looking at the problem from the same point of view. It is not a case of choosing those which, to the best of one’s judgment, are really the prettiest, nor even those which average opinion genuinely thinks the prettiest. We have reached the third degree where we devote our intelligences to anticipating what average opinion expects the average opinion to be. And there are some, I believe, who practise the fourth, fifth and higher degrees.

(ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』第12章 Keynes, General Theory of Employment, Interest and Money, 1936).




◾️岩井克人による注釈

ここで、書棚の奥にある経済学のもう一つの古典のほこりを払い落としてみよう。それは、「アダム・スミスの時代」のなかで、世間からすっかり忘れられてしまった感のあるジョン・メイナード・ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』(一九三六年)である。われわれが注目すべきは、そのなかで株式市場や債券市場のはたらきを分析している第一二章にあるひとつのパラグラフである。

このパラグラフでケインズが論じているのは、つい最近まで実際にイギリスでおこなわれていたある「美人コンテスト (beauty contest)」についてである。それは、新聞紙上に掲載された一〇〇人の女性の顔写真の中から読者が投票で六人の美人を選ぶという、一見するとなんの変哲もない美人コンテストである。だが、それが大変な好評を博していたのは、ヒナ壇に座った審査員が一定の基準のもとに選考をおこなう通常の美人コンテストとは異なり、読者からの得票がもっとも多く集まった六名の美人に投票をした読者に多額の賞金をあたえるという、読者参加の度合いを最大限にする趣向をこらしていたからであった。


さて、新聞の読者がこの美人コンテストに参加してほんとうに賞金をかせぎたいと思ったら、いったいどのように投票すべきだろうか。美のイデアを体現しているように見える顔に投票しても、じぶんにとってもっとも美しく見える顔に投票しても無駄である。 なぜならば、このコンテストには、じぶんと同じように賞金をかせごうと思い、じぶんと同じように一生懸命に投票の戦略を練っているひとが多数参加しているからである。ケインズ自身の言葉を借りれば、


《それぞれの投票者は、自分が美人だとおもう顔ではなく、自分とまったく同じ立場に立ってだれに投票しようかと考えている自分以外の投票者の好みに一番合うとおもわれる顔に票をいれなければならない。それは、自分が一番美人であると判断した顔を選ぶというのではなく、平均的な意見が本当に一番美人だと考えている顔を選ぶというのですらないのである。さらに第三段階にいたると、ひとは平均的意見が平均的意見をどのように予想するかを予想するために全知全能を投入することになる。そして、第四段階、第五段階、さらにはヨリ高次の段階の予想の予想をおこなっているひとまでいるにちがいない。》(『雇用・利子および貨幣の一般理論」第一二章)

たくさんの読者が賞金ねらいのために投票するこの美人コンテストにおいて、読者に選ばれる美人とは、その顔が美人であると平均的な読者が予想すると平均的な読者が予想する……と平均的な読者が予想している美人なのである。そこでは、投票に参加するそれぞれの読者が、ほかの読者もみなじぶんとおなじように予想すると信じていればいるほど、すなわち、おたがいの合理性を信じていればいるほど、ある顔が美人であるということは、それぞれの読者の個人的な判断からも、読者全体の平均的な意見からも無限級数的に乖離していく。究極的には、たんにその顔が選ばれるという予想があるというだけで、その顔が美人であるということになってしまうのである。そこにあるのはもはや「予想の無限の連鎖」だけなのである。

ここでとつぜんにケインズの「美人コンテスト」の話をもちだしてきたのは、それがミルトン・フリードマン以前に提示されたものであるにもかかわらず、ミルトン・フリードマンのような投機理論にたいするもっとも根底的な批判の手がかりを提供してくれることになるからである。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』第4章、2000年)





グローバル資本主義ーーそれは、全世界を市場で覆い尽くす資本主義の純粋化は効率化も安定化も実現するという、新古典派経済学の壮大なる実験でもあった。そして、二〇〇八年米国のサブプライム問題に端を発した金融危機は、実験の破綻を告げるものとなった。現実が立証したのは、資本主義の純粋化は効率性を増す代わりに不安定性を増幅させるという「不都合な事実」であった。 


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資本主義において、効率性と安定性とは二律背反するのだろうか。 


それは、資本主義が本質的に「投機」によって成立しているシステムだからである。  すぐ反論があるだろう。投機こそ市場を安定化すると、ミルトン・フリードマンが言ったではないかと。市場を不安定化するのは、高い時に買って値をさらに上げ、安い時に売って値をさらに下げる愚かな投機家である。そのような投機家は結局損をして淘汰され、長期的に市場に残るのは、安い時に買って高い時に売る安定的な投機家だけだというのである。 


確かに、投機家が生産者と消費者の間に立って、一方からモノを買い他方に売るような牧歌的な市場では、投機は安定的であるかもしれない。だが、金融市場では、話は全く違ってくる。証券という形でリスクを売り買いしている金融市場がうまく機能するためには、通常の生産者や消費者が回避したいリスクを進んで引き受けてくれるプロの投機家の存在が必要である。そして、プロの投機家が多数参加して互いに売り買いを繰り返している市場を支配するのは、フリードマンの主張する経済淘汰の原理ではなく、ケインズの「美人投票」の原理なのである。 


ケインズの美人投票とは、最も多くの票を集めた「美人」に投票した人に賞金を与える観衆参加型の投票である。それに参加して賞金を稼ごうと思ったら、客観的な美の基準に従っても、主観的な好みに従っても無駄である。平均的な投票者が誰に投票するかを予想しなければならない。いや、他の投票者も賞金を狙っているならば、平均的投票者が平均的投票者をどう予想するかを予想しなければならず、さらに何段階も予想を重ねる必要さえある。その結果選ばれる「美人」とは、ひとが美人として扱うからひとが美人として扱うという「自己循環論法」の産物にすぎなくなるのである。 


プロの投機家同士がしのぎを削る金融市場を支配している原理は、まさにこの美人投票である。それは、需給の実体条件(ファンダメンタルズ)とは独立に、価格高騰の予想が実際に価格を高騰させるバブルや、価格急落の予想が実際に価格を急落させるパニックの危険を常に生み出すことになる。 〔・・・〕美人投票の原理は、さらに本質的な意味で、資本主義の動きを支配している。それは、「貨幣」がまさに「投機」の純粋形態であるからである。 


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人が貨幣を手にするのは、それをモノとして使うためではない。いつか他の人がそれを貨幣として受け取ってくれると予想しているからである。他の人が貨幣として受け取るのは、同じく他の人が貨幣として受け取ってくれると予想しているからである。ここに働いているのも、美人投票と同じ自己循環論法である。いや、モノとしては何の価値もない貨幣には、人が貨幣として受け取るから人が貨幣として受け取るという自己循環論法しか価値を支えるものはない。それは、究極の美人投票に他ならない。 


人が貨幣を手に持つ時、人は知らずに、最も純粋な投機活動に参加しているのである。そしてそれは、貨幣にもバブルがあり、パニックがあることを意味することになる。 


貨幣のバブルーーそれは、人が実際のモノよりも貨幣を貨幣として欲しがることである。その結果、モノ全体に対する需要が減ると、生産や雇用が停滞する不況が始まり、それによって不安をかき立てられた人がさらに貨幣を手元に置き始めると、不況が一層進展し始める。その極限状態が、誰も何もモノを買おうとしなくなってしまう恐慌に他ならない。 


貨幣のパニックーーそれは、 貨幣が貨幣であることに人が不安を抱き、 それを早くモノに換えたいと思うことである。それによってモノの価格全体が上昇しはじめるとインフレになり、貨幣の価値を押し下げる。一層インフレが進展すると人びとが予想し始めると、貨幣をモノに換えようという動きが加速され、さらにインフレを促進してしまうという悪循環に陥ってしまう。その極限状態が、誰も貨幣を貨幣として受け取ろうとしなくなるハイパーインフレなのである。 


貨幣の発見は、物々交換の非効率性を解消し、経済交換の範囲を対人的にも時間的にも空間的にも飛躍的に拡大することになった。貨幣が存在しなければ、資本主義というこの壮大なシステムも存在しえなかったはずである。だが、まさにその貨幣が、恐慌やハイパーインフレといったマクロ的不安定性を必然化する。 


今回の金融危機には、実はこの「貨幣」をめぐる不安定性が二重に入り込んでいる。 


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今回の金融危機の火種となった米国のサブプライム・ローンとは、 信用力の低い個人向けの住宅融資のことである。


返済できるはずのない人まで借りたのは、住宅バブルが続くと予想して、購入住宅を高値で売り抜けようと考えたからである。金融機関がそのような人にまで貸し出したのは、多数のローンを束ねて住宅抵当証券にすれば焦げ付きリスクが平均化されると考えたからである。その住宅抵当証券から様々な形でリスクを加工した複雑な派生証券が多数作られ、無数の投資ファンドに組み込まれ、世界中にばらまかれていった。 


バブルを商品化したにすぎない危険きわまりない証券も、多くの人が信用ある証券として受け取ることによって、実際に高い信用を持ち、さらに多くの人が受け取るようになる。この自己循環論法によって、金融市場全体が、あたかも銀行であるかのように、一種の信用創造を行っていたのである。だが、住宅バブルに陰りがみえた途端、自己循環論法が崩壊しはじめた。金融市場全体に取り付け騒ぎが起きたのである。膨張した信用は急激に収縮してしまい、市場には焦げ付いた住宅ローンという現実しか残らなくなった。 


もちろん、金融市場は常に不安定であり、九七年のアジア通貨危機をはじめ、大きな金融危機は繰り返し繰り返し起こっている。だが、今回の危機には今までとは次元の違う深刻さがあるのは、その中に「貨幣」それ自体の本質的な不安定性が浮上し始めているからである。 

「ドル危機」の可能性である。 

現在のグローバル資本主義は、米国の貨幣でしかないドルを世界全体の基軸貨幣としているシステムである。それは、すべての貨幣と同様に、世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るから世界中の人びとがドルを基軸貨幣として受け取るという、あの究極の美人投票としての自己循環論法によって支えられている。 


今回の金融危機が、米国を震源地としたグローバルな危機であるという事実は、基軸貨幣としてのドルの信用を大きく揺るがせている。それがドル基軸貨幣体制の崩壊を引き起こし、三〇年代に匹敵する世界大恐慌につながる可能性はまだ小さいが、消えてしまったわけではない。だが、この最も根源的な「貨幣」問題を論ずる紙幅はもはやなくなった。 (岩井克人「自由放任主義の第二の終焉」2008年、pdf


※参照➡︎岩井克人「グローバル経済危機と 二つの資本主義論」2009年、PDF




◾️基軸通貨ドル危機とハイパーインフレーション

それでは、ここでいう二十一世紀のグローバル市場経済にとっての真の危機とは、いったい何のことなのだろうか?

基軸通貨としての「ドルの危機」が、それである。


ドルが「基軸通貨」であることは、だれもが知っている。だが、それがほんとうはどういう意味であるかは、経済学者ですら誤解していることが多い。

たとえば、世界中のひとびとがアメリカの製品を買うためやアメリカの債券や株式を買うためにドルを保有しているというだけでは、それがいくら大量であっても、ドルのことを基軸通貨とはよばない。それは、たんにドルが国際性をもった通貨であるというにすぎない。その意味でならば、円もユーロも、程度の差はあれ、国際性をもっている。


ドルが基軸通貨であるとは、タイの商社がロシアの企業からキャビアやウオッカを買うとき、その支払いが、バーツでもなくルーブルでもなく、ドル建てでおこなわれるということであり、ブラジルの企業やブラジルの政府が韓国の銀行から借り入れをするとき、借入金も返済金もともに、ウォンでもレアルでもなく、ドル建てでおこなわれるということなのである。すなわち、それは、世界中の貿易取り引き(通常の商品の売買)や金融取り引き(金融商品の売買)が、直接アメリカが介在していない場合においても、アメリカの通貨であるドルを使っておこなわれているということなのである。

基軸通貨とは〈key currency 〉の日本語訳である。それは、どのような国の扉でも開けられる鍵 (key) となる通貨 (currency)、 という意味である。

だが、この基軸通貨について論ずるためには、ここで「貨幣」なるもの一般にかんして論じておく必要がある。なぜならば、どのような国のどのような商品とも交換しうる基軸通貨とは、まさに「グローバル市場経済の貨幣」にほかならないからである。〔・・・〕


わたしたちがいまそのなかに生きているグローバル市場経済とは、おどろくべきほど「非対称的」な構造をもった世界である。一方には、世界中で自国の通貨ドルを使うことができる唯一の基軸通貨国アメリカがあり、他方には、そのアメリカの通貨ドルを使っておたがい同士で取り引きをするほかのすべての非基軸通貨国がある。


たとえば、タイ人がロシアで買い付けをしたとき、自国通貨バーツをドルに換え、そのドルで代金を支払わなければならない。 ブラジル人が韓国から借り入れをしたとき、自国通貨レアルをドルに換え、そのドルで利子や元本の支払いをしなければならない。だが、アメリカ人の場合は、ロシアで買い付けをするときでも、韓国で借り入れをするときでもその支払いはすべて自国通貨であるドルで済ますことができる。アメリカ人にとって、自国と世界とを区別する必要はないのである。


ソビエト連邦が崩壊したとき、冷戦時代の思考にいまだにしばられていた多くの評論家は、まさにこのような非対称性をみて、アメリカが唯一の覇権国として世界を一元的に支配する構図を一生懸命に描きつづけていた。しかしながら、ここで重要なことは、基軸通貨国アメリカとそれ以外の非基軸通貨国との関係を古典的な支配と従属という関係になぞらえてしまうことは、事の本質を見誤ることになるということである。

たしかにドルが基軸通貨となった契機は、第二次大戦直後の世界におけるアメリカ経済の圧倒的な支配力であった。たとえば一九五〇年の時点で、アメリカの生産性は西ヨーロッパの二倍、日本の六倍であり、一国だけで全世界の財サービスの三〇パーセントを生産していた。戦争によって生産能力を大きく失った西ヨーロッパも日本も、経済復興に必要な資材や技術を得るためには、資本主義世界の唯一の工場であったアメリカとの貿易に依存するよりほかに道はなく、それによって生じた大幅な貿易の赤字も、西ヨーロッパの場合はマーシャル・プラン、日本の場合はガリオアやエロアといったアメリカからの援助によって埋め合わせなければならなかったのである。だが、じきにアメリカの凋落が語られはじめる。五〇年代の後半にはアメリカの貿易収支が赤字に転じ、七〇年代から八〇年代にかけてアメリカの生産性は西ヨーロッパや日本に並ばれ、さらに東アジアの四小龍にも急追される。九〇年代におけるアメリカ経済の繁栄は著しいが、それでも二十世紀の世紀末におけるアメリカの国内総生産は全世界の二〇パーセント、アメリカの輸出は全世界の一四パーセントにまで低下している。いま、世界中のひとびとがドルを保有しているのは、かならずしもアメリカ製品を輸入するためではないのである。


一九七一年までは、専門の経済学者もふくめた多くのひとびとは、このようなアメリカの経済支配力の低下にもかかわらずドルが基軸通貨であり続けているのは、アメリカ政府が外国政府の保有するドルにたいして三五ドル=一オンスの固定比率で金との兌換を保証していたからだと信じていることができた。それ自体が実体的な価値をもつ金との交換可能性に支えられて、ドルが基軸通貨として流通しているのだというのである。だが、一九七一年の八月、アメリカのニクソン大統領はドルと金との兌換の保証を放棄するという演説をおこない、この素朴な信心を一気にうち破ってしまうことになる。(このときを境に、多くの国々が伸縮為替レート制を採用しはじめるようになった。)以来、ドルは金とのつながりをまったく失ってしまった。しかし、それにもかかわらず、世界中のひとびとはそのドルを基軸通貨としてあいかわらず使い続けたのである。いや、いくたの紆余曲折はあったが、ドルは最近、基軸通貨としての地位を逆に強めてさえいるのである。


そして、もちろん、ドルを基軸通貨として使うという申し合わせがひとびとのあいだにあるわけでも、アメリカ政府の強制があるわけでも、国際的な法令があるわけでもない。基軸通貨にかんしても、貨幣商品説と貨幣法制説はともに成立しないのである。


それでは、いったいなぜ、いま世界中のひとびとはアメリカのドルを基軸通貨として保有し続けているのだろうか?


この問いにたいする答えは、すでにあきらかであろう。それは、世界中どこでも将来ひとびとがドルを基軸通貨として受け入れてくれると予想しているからなのである。そして、将来世界中のひとびとがドルを基軸通貨として受け入れてくれると予想できるのは、さらに将来世界中のひとびとがドルを基軸通貨として受け入れてくれると予想しているからである。そして、・・・・・・。 この予想の連鎖は将来に向かって無限に続いていくことになる。


すなわち、ドルが基軸通貨であるのは、そのドルが基軸通貨として使われ続けていくという「予想の無限の連鎖」があるからなのである。そして、まさにこの「予想の無限の連鎖」の支えによって、本来はアメリカの通貨でしかないドルが、アメリカ経済の浮き沈みとは独立に、世界中のひとびとに基軸通貨として保有されているのである。


ここに、グローバル市場経済の本質的な脆弱性がある。


基軸通貨とは、すべての国のすべての商品と交換しうるまさに「グローバル市場経済の貨幣」である。それゆえ、もしグローバル市場経済において「恐慌」が起こるとしたら、それは、世界中のひとびとが具体的な商品よりも基軸通貨ドルを欲してしまうことによって引き起こされるはずである。事実、二十世紀の世紀末をおそったあの金融危機は、まさにその可能性をわれわれにかいま見させてくれたのである。すでに見たように、そこでは、世界中のひとびとが、外国為替市場でバーツやリンギットやルピアやウォンやルーブルやレアルを投げ売り、タイやマレーシアやインドネシアや韓国やロシアやブラジルの実体経済におおきな打撃をあたえることとなった。さらに、大規模な「日本売り」も起こり、EU統一通貨として生まれたばかりのユーロまで軟調になり、世界経済全体は総需要不足から累積的なデフレーションを経験しはじめたのである。世界経済は、一時はほんとうに恐慌の瀬戸際に立たされた。


だが、ここで注意すべきなのは、東アジアやロシアや中南米、さらには日本やEUから引き上げられた資金は、どこかに消えてしまったわけではないということである。また、金などの貴金属の購入に向かったわけでもない。(世紀末の金融危機のあいだに金の価格は逆に大幅に低下してしまい、それが世界貨幣としての機能をまったく失ってしまったことをあらためて証拠立てることになった。)その多くは、ほかならぬ基軸通貨ドルのかたちで保有されるようになったのである。もちろん、その一部は株式や債券の購入に向かうことになり、その結果として、LTCMが事実上の倒産をした九八年の九月以降の数ヵ月をのぞけば、アメリカの株式市場は大ブームを続け、アメリカの債券市場も低金利を維持することができたのである。


たしかにこの世紀末の金融危機は、東アジアの新興国や旧ソ連や中南米諸国、さらには日本やEUといった非基軸通貨国の経済にたいする不満や不信の表明、しかも「美人コンテスト」の原理によって実体から大きく乖離させられた表明ではあった。だが、それは、すくなくとも基軸通貨ドルにたいする不満や不信の表明ではなかった。いや、逆にそれは、ドルにたいするひとびとの需要を高めたという意味で、そのドルを基軸通貨としたグローバル市場経済にたいする信頼の表明にほかならなかったのである。


もはやあきらかだろう。グローバル市場経済にとっての真の危機とは、金融危機でもなければ、それにつづく恐慌でもない。ハイパー・インフレーションである。そして、グローバル市場経済におけるハイパー・インフレーションとは、もちろん、基軸通貨ドルの価値が暴落してしまう「ドル危機」のことである。それは、基軸通貨としてのドルを支えているあの「予想の無限の連鎖」の崩壊過程にほかならないのである。


さて、このドル危機がグローバル市場経済のなかでおこるとしたら、それは何らかの理由で、世界中のひとびとが基軸通貨として保有しているドルを過剰に感じることから出発するはずである。世界各地の外国為替市場でドルがほかのすべての通貨にたいして売られ、ドル価値の下落がはじまるのである。もちろん、このようなドル価値の下落が一時的でしかないという予想が支配しているかぎり、ドル危機にはいたらない。だが、もしどこかの時点で、ドル価値がさらに下落するという予想のほうが支配的になってしまうと、事態は後戻りできなくなる。ほかのひとびとがもはや将来ドルを基軸通貨として受け入れてはくれないのではないかという恐れが広がり、 その恐れによって、実際にひとびとはドルを基軸通貨として受け入れることを拒否するようになるのである。恐れが自己実現し、世界中のひとびとはドルから遁走しはじめる。それは、たんにドルが世界各地の外国為替市場で売り浴びせられるというだけではない。それまで基軸通貨として、タイからロシア、ロシアから韓国、韓国からブラジルへとアメリカの国外を回遊しつづけていた膨大な量のドルが、アメリカ国内に大挙して押し寄せ、アメリカ製品との交換を要求することになるはずである。ドル紙幣をたんなる紙くずにしてしまうよりは、なんでもよいからモノのかたちにしておいたほうがはるかにましだからである。アメリカ国内もたちまちハイパー・インフレーションに突入してしまうだろう。(その結果、ドルがほんとうにたんなる紙くずになってしまうかもしれない。)ドルを基軸通貨として支えていたあの「予想の無限の連鎖」が崩壊し、ドルはほかの通貨と同様の、たんなるアメリカの通貨、しかも大幅に価値を失った一国通貨になり下がってしまうのである。


もしこのような「ドル危機」が実際におこることになれば、そのとき、基軸通貨ドルの媒介によって可能となっていた貿易取り引きも金融取り引きも、その大部分が不可能となってしまうはずである。世界は細かく国ごとに分断されるか、いくつかのブロックに分割され、貿易も金融も各国同士のバーター取り引きかブロック内の取り引きに制限されてしまうことになる。ドル危機の行き着く先は、グローバル市場経済そのものの解体にほかならないのである。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)





◾️米国におけるシニョレッジ濫用によるドル危機

貨幣が貨幣であるかぎり、その貨幣としての価値はモノとしての価値を大きく上回っている。ましてや、その生産費をはるかに上回っている。そしてそれは、100円硬貨や一万円札を発行している日本政府も、100万円の電子マネーを発行している民間企業も、それぞれ硬貨や紙幣や電子マネーを発行するたびに、その生産費を上回る貨幣の貨幣としての価値がそのままじぶんの利益となることを意味することになる。これは、なんの労力もなく手に入るまさにボロ儲けである。


貨幣の発行者が貨幣の発行によって手に入れるこの利益のことを、一般に「シニョレッジ(seigniorage)」という。それは、貨幣が貨幣であるかぎり、その発行に必然的にともなう利益である。


もちろん、グローバル市場経済の貨幣であるドルを発行しているアメリカも、このシニョレッジを多いに享受しているはずである。たとえば日本の円がなんらかの理由で海外にもちだされても、それは日本の製品しか買うことができず、いつかはかならず日本にもどってくることになる。非基軸通貨国は、自国の生産に見合った額の自国通貨しか流通させることはできないのである。(それ以上流通させても、インフレーションになるだけである。)これにたいして、アメリカ政府の発行するドル紙幣やアメリカの銀行が創造するドル預金は、そのまま外国製品の購入に使うことができ、しかもそのようにして外国に支払われたドルの一部は、それがまさに基軸通貨であることによって、タイからロシア、ロシアから韓国、韓国からブラジルへと回遊し続け、アメリカ製品の購入のために戻ってくることはない。アメリカはその分だけ、なんの労力もかけずに、自国で生産されている以上の商品を外国から手に入れたことになるのである。すなわち、基軸通貨として国外で保有されているドルの価値分が、基軸通貨国アメリカがうけとる「シニョレッジ」にほかならない。


註)上の議論は、基軸通貨として保有されているドルにはまったく利子率が支払われていないと仮定してある。もし外国によって保有されているドル預金にたいしてアメリカの銀行が利子を支払っているならば、その利子率とほかの通貨の預金に支払われる利子率との差異を現在価値化してものが、シニョレッジとなる。


……ドルを基軸通貨とするグローバル市場経済のもとでは、アメリカは自国通貨ドルを多く供給すればするほど、多くのシニョレッジが手に入る仕組みになっているのである。こんなにうまい話はほかにない。


 しかし、もしこのシニョレッジの誘惑に負けて、アメリカが実際にドルを過剰に供給しはじめたらどうなるだろうか。そのとき、ドルは暴落をはじめてしまうだろう。〔・・・〕


近年では、国内産業の保護のために意図的にドルの価値を低めに誘導する、危険なゲームを試みたりするまでになっている。皮肉なことに、まさに社会主義という大きな「敵」の消滅が、アメリカからグローベル市場経済の基軸国としての自覚を奪いつつあるのである。そして、アメリカが純債務国に転落した1986年以降は、ドルの過剰発行はたんにシニョレッジを増やすだけではない。それがもたらすドル価値の下落は、対外債務の実質的な負担を軽減するという一石二鳥の効果までもつようになっている。ドル切り下げの誘惑はますます強まっているのである。〔・・・〕


いまヨーロッパや日本を中心として、ドルが基軸通貨を独占している体制から、ドルとユーロと円という複数の基軸通貨が共存する体制への移行をめざす動きがある。そしてそれは、1999年にユーロがEUの共通通貨として現実化してから、さらに強くなっている。だが、もしそのような動きが、複数の基軸通貨のあいだの勢力均衡をもとめているのならば、それはもっとも危険な筋書きである。


 基軸通貨の問題にたいして、政治における覇権(hegemony)理論や勢力均衡(balance of power)理論を応用することほど愚かなことはない。ドルが基軸通貨であるのは、それが世界中の多くのひとびとに受け入れられているから世界中の多くのひとびとに受け入れられているという、一種の自己循環論法の結果にすぎない。それは、そのドルを発行しているアメリカという国の経済支配力とはかならずしも一対一対応していないのである。もしドル以外の通貨がドルより多くのひとに基軸通貨として受け入れられはじめるならば、さらに多くのひとびとがそれを基軸通貨として使いはじめ、その通貨がただちに基軸通貨という位置を独占してしまうだろう。基軸通貨体制とは、どの通貨であれ、ひとつの通貨が基軸通貨の地位を独占しはじめて安定(balance)するのである。複数の基軸通貨が競合している状態とは、言葉の真の意味での不安定(unbalanced)な状態であり、複数の基軸通貨の勢力均衡などありえない。事実、歴史は、複数の基軸通貨が競合していた時代がいかに不安定な時代であったかを教えている。(註:金と銀とが基軸通貨として共存するいわゆる二重金属本位制(Bimetalism)時代)


それだけではない、仮に大混乱のうちに基軸通貨がドルから別の通貨に移行するようなことがあったとしても、それは「ドル危機」を「ユーロ危機」や「円危機」におきかえるだけにすぎない。基軸通貨体制がつづく限り、基軸通貨をめぐる本質的な矛盾はそのままつづくことにならざるをえないのである。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)