2025年10月23日木曜日

室生犀星をめぐるーー芥川龍之介、萩原朔太郎、堀辰雄、中野重治、三好達治、石川淳

 

室生犀星はちゃんと出来上った人である。僕は実は近頃まであの位室生犀星なりに出来上っていようとは思わなかった。出来上った人と云う意味はまあ簡単に埒を明ければ、一家を成した人と思えば好い。或は何も他に待たずに生きられる人と思えば好い。室生は大袈裟に形容すれば、日星河岳前にあり、室生犀星茲にありと傍若無人に尻を据えている。あの尻の据えかたは必しも容易に出来るものではない。ざっと周囲を見渡した所、僕の知っている連中でも大抵は何かを恐れている。勿論外見は恐れてはいない。内見も――内見と言う言葉はないかも知れない。では夫子自身にさえ己は無畏だぞと言い聞かせている。しかしやはり肚の底には多少は何かを恐れている。この恐怖の有無になると、室生犀星は頗る強い。世間に気も使わなければ、気を使われようとも思っていない。庭をいじって、話を書いて、芋がしらの水差しを玩んで――つまり前にも言ったように、日月星辰前にあり、室生犀星茲にありと魚眠洞の洞天に尻を据えている。僕は室生と親んだ後この点に最も感心したのみならずこの点に感心したことを少からず幸福に思っている。先頃「高麗の花」を評した時に詩人室生犀星には言い及んだから、今度は聊か友人――と言うよりも室生の人となりを記すことにした。或はこれも室生の為に「こりゃ」と叱られるものかも知れない。(芥川龍之介「出来上った人――室生犀星氏――」初出「日本詩人」1925(大正14)年)


その夜さらに、室生犀星君と連れだち、三人で田端の料理屋で鰻を食べた。その時芥川君が言つた。「室生君と僕との關係より、萩原君と僕との友誼の方が、遙かにずつと性格的に親しいのだ。」 


この芥川君の言は、いくらか犀星の感情を害したらしい。歸途に別れる時、室生は例のずばずばした調子で、私に向つて次のやうな皮肉を言つた。

「君のやうに、二人の友人に兩天かけて訪問する奴は、僕は大嫌ひぢや。」


その時芥川君の顏には、ある悲しげなものがちらと浮んだ。それでも彼は沈默し、無言の中に傘をさしかけて、夜の雨中を田端の停車場まで送つてくれた。ふり返つて背後をみると、彼は悄然と坂の上に一人で立つてゐる。自分は理由なく寂しくなり、雨の中で手を振つて彼に謝した。――そして實に、これが最後の別れであつたのである。(萩原朔太郎「芥川龍之介の死」1927(昭和2)年9月)


私はあなたくらゐ絶えず自分の外側において野蠻な不安を感じてゐる人を知りませんし、同時にまた、あなたくらゐ自分の内側においていささかの不安も持つてゐない人を知りません。その點、あなたは萩原朔太郎と非常に相違して居ります。萩原さんは自分の外側には割合に呑氣であるのに反し、自分の内側にはいつもはげしい不安を、天使ととり組んだヤコブのやうな格鬪を、感じてゐる人であります。その點、萩原さんはあなたよりもずつと近代的であるかも知れません。さうして萩原さんにはあなたの平靜な部分が氣に入らぬかも知れません。芥川さんもさういふ萩原さんと同じ位に、自分の内側に絶えずはげしい不安を抱いてゐた人ですが、しかし芥川さんはあなたの平靜さを十分に理解しそれを愛してゐたやうであります。いつか芥川さんが、「室生君は幸福だ」と言つたとき、あなたはその言葉に芥川さんの輕蔑しか感じなかつたやうですが、芥川さんはさういふ意味で言つたのではなく、自分が神から與へられたものだけではどうしても滿足できずに苦しんでゐるとき、あなたが神から與へられたものだけで滿足してゐる、いや諦め得てゐることを、痛切に羨望したのであらうと私は信じます。何故なら芥川さんの求めてやまなかつた平靜さは、あなたの生れながら少しも害はずに持つてゐたものでありますから、さういふあなたにとつては人生といふものが、芥川さんのやうに苦しむものではなく、ただ嘆くべきものであるのは、きはめて自然なことであります。私は、私の知つてゐる人々の中で、あなたこそ最も東洋的な精神の持主であると思ひます。(堀辰雄「室生さんへの手紙」初出:「新潮 第二十七巻第三号」1930(昭和5)年3月号)


室生の生活の羨ましさは、時間上にムダがないといふこと、一日の四六時間が、隅から隅まで有用に利用されてると言ふことである。物質上に於けると同じく、この點の生活法でも、彼は極めてエコノミカルである。しかもそのエコノミカルは、四六時中忙がしげに、コセコセ働らくといふ意味のエコノミイではない。物質上に於て、彼は極めて鷹揚であると同じく、時間上に於ても、彼は極めて餘裕綽々として呑氣である。つまり彼は、働らく時間と休む時間とを、タイムテーブルによつてはつきり區別し、頭腦の能率を最も經濟的によく利用するのである。庭をいぢる時間も、子供と遊ぶ時間も、珈琲店を夜歩きする時間も、彼にとつては皆「頭腦の營養」のためであり、仕事への心がけた準備なのである。だから彼の生活では、時間の隅々までが利用され、少しの浪費もないといふことになる。しかも彼の場合は、それを意識的に計畫してやるのでなく、先天的の體質や趣味性から、本能的行爲でやつてるのであるから、世にこれほど幸福な人間はないといふことになる。故芥川龍之介が、室生を羨んで文壇第一の「幸福人」と言つたのはこの故である。 

幸福人といふことは、室生の場合に於てはそれだけでなく、その性格と生活環境との、矛盾のない調和状態を指してるのである。一度室生犀星を訪ねた人は、彼の家庭が如何に和氣藹々たる春風にみち、理想の桃源境であるかをよく知つてゐる。そこの家では、妻と子供と主人とが、一家協力して或る特殊な樂しいアトモスフィアを、具體的に構成してゐるやうに思はれる。その渾然たる家庭的空氣の中で、室生は机を清め、硯を洗ひ、端然として靜かに物を書いてるのである。世の多くの文士たちは、概して宿命的に不幸な家庭人で、わざわざ家を離れてさへ仕事をするのに、反對にその家庭的空氣の中でなければ、落着いて仕事が出來ないといふ犀星こそ、まことに幸福人と言はねばならない。 


しかし室生自身に言はせれば、かうした幸福や家庭生活やは、決して偶然の所産でなく、彼自身の努力によつて、意志的に構成したものなのである。肉親の愛さへも知らないほど、不遇な逆境に育つた彼が、少年の時から夢に描いてこがれたものは、和氣藹々たる家庭生活の實現だつた。さうした彼の意志と熱情とが、不斷の努力によつて昔の夢を實現したのだ。それは決して偶然ではない。しかし世の多くの人々は、小さな夢の破片でさへも、果敢なく實現しないで死んで居るのだ。自分の理念する生活を、自分の意志で實現し得るところの人々は、それ自身で既に「英雄」であり、「成功者」たる素質を持つてる。そしてその素質を持つて生れたといふことが、何よりも天與の惠まれた幸運なのだ。 


室生の幸福は、單にまたそればかりではない。彼は自分の所有する才能を藝術上で百パーセントに殘りなく使用して居る。人生の運不運は、現在に於ける境遇の幸不幸でなく、その人の天賦された所有物(才能、財産、人徳など)を、どれだけ完全に利用したか、どれだけ無益に浪費したかといふ、最後の利合分數によつて計算される。例へば天質的に愚鈍であつたり、先天的に懶惰であつたりする男が、生涯不幸の境遇に終ることは、宿命的に止むを得ない事情である。これに反して天性惠まれた才能をもち、充分の活動力をもつてる人が、惡しき時代や環境に生れた爲、生涯その才能を發揮し得ないで死んだとすれば、これはあきらめがたく不運である。(徳川時代には、すぐれた獨創力や發明力をもつた多くの人々が、幕府の壓迫に虐げられ、何も出來ないで空しく浪費的に死んで行つた。) 


人生の幸福人とは、自己の所有權に屬する全財産を、自由に完全に利用し盡して、心殘りなく死んで行く人を言ふのである。ところで室生犀星は、單に經濟と時間の上で、人生をエコノミカルに生活して居るばかりでなく、藝術上の仕事の上でも、自己の天與された全財産の才能を、最も能率的にあます所なく、百パーセント以上にさへも利用して居る。 


人間の欲深さは、自分に無いものを他人に見て、他人の幸福ばかりを羨望する。僕が室生を幸福人と呼ぶ時、逆に室生は僕を幸福人と言ひ返す。これはどつちが本當であるか、おそらく神樣の外には解らない。しかしながらとにかく、人生を一分一厘のムダもなく、隅々まで完全に利用し盡し、しかも完全に享樂して生きる人は、萬人の批判から見て眞の「幸福人」にちがひない。況んやこの世の中には僕の如く、物質上にも精神上にも、無益な浪費ばかりをして、何一つ所得するところもなく、人生を悔恨に終る人々がすくなくないのだ。芥川龍之介や生田春月の自殺でさへ、或る意味で「浪費した人生への悔恨」だつた。もしその悔恨のない人生があるとしたら、それは室生君の場合の如く、浪費を知らない人の人生である。僕が彼を羨望して、人生の「所得人」と言ふのはこの爲である。(萩原朔太郎『所得人 室生犀星』初出:「文藝 第四卷第六號」1936(昭和11)年6月号)


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平静な、「晩年」という言葉に伴いやすい沈静したもの、安らかなもの、生活の流れて行く日々といったものは、衝突を避けて行く老年の知恵といったもののないのとともにそこにはなかつた。むしろ犀星において、それらと反対のところに彼の老年の知恵はあったといつていい。それはもう一度、『打情小曲集』、『愛の詩集』、『性に眼覚める頃』、『結婚者の手記』を通して五十年生きてきた命の中心のものを、七十になんなんとしてもう一度最後に生き返すことであつた。世俗の場合しばしば文学者について見てさえ、老年の知恵とか老熟とかいうことは繰り返しにつながつてくる。あるもの、ある然るべきものの繰り返し、人生上また芸術上の金利生活者ということがそこに出てきがちであるのに対して、この作家は、無一文の一人もの青年さながらの姿で、創造的一回的なものとしてこの生き返しにすすんで行った。上辺の形では、それは老年の知恵の逆だつたとさえいつていい。〔・・・〕


くり返して、生き返しは繰りかえしではない。むろん蓄積はある。それは大きい。しかし創造は、現在にいたる蓄積を一擲してでなくて、全蓄積をそのまま踏み台にしての一歩前進である。『杏つ子』において犀星はほとんどデスペレートにそれを試みた。〔・・・〕

(『結婚者の手記』と比較して)『杏つ子』で問題はここからずつと進んでいる。家庭をまもるなとも破壊しろともいうのではない。ただ作者は、わが家庭と家族とをしらべ、新しい条件下で人間の間題をとらえようとした。『復讐の文学』、『巷の文学』、『あにいもうと』、『神々のへど』の時期を経たものとしてそれをしたのである。作者はもはや小説、虚構ということにかまつていない。ほとんど自伝の体を取り、芥川龍之介、菊池寛などを本名で出し、物語りの展開から道草を食つて、あるいは食いすぎて、さまざまに感慨と意見とを存分に書きこんでいる。子を育てようとする人の親の、特に父親でもあるものの誠意と愚かさとを極限まで描き切ろうと作者はしている。何がこの間に経過して、それが何を残したかを、学者のようにしらべようと作者はしている。粗雑にいえば、作品よりも人生がさきというのがこれを書いている作者の姿である。それだから、大部分の家庭小説のいわゆる大団円はついに現れない。愚かな父親は千々に心を砕いてそれなりである。砕けつ放しである。あたつて砕けろという言い方は必ずしも誠実、計画を予想していない。この場合の平山平四郎は、あらゆる彼の誠実と計画とにおいてあたつて砕けている。そこが創造的一回的である。

こういう晩年は生活力に満ちた晩年といわなければならない。激烈な晩年、奮闘と斬り死との晩年といわなければならない。そこから無限の教えを汲み取ることができるとしても、一般的な規範、教条は、ひとかけらも引き出せぬというのが彼の晩年でありこれらの作品である。(中野重治「晩年と最後」『室生犀星全集』第十巻 後記 新潮社 昭和39年)




私には今後これ以上のしごとは出来ないと言ってよい。〔・・・〕

作家はその晩年に及んで書いた物語や自分自身の生涯の作品を、どのように整理してゆく者であるか、あらためて自分がどのように生きて来たかを、つねにはるかにしらべ上げる必要に迫られている者である。〔・・・〕

私といふ作家はその全作品を通じて、自分をあばくことで他をもほじくり返し、その生涯のあいだ、わき見もしないで自分をしらべ、もっとも身近かな一人の人間を見つづけてきたのである。(室生犀星「杏っ子」後書、1957年)


「僕は正直にいっているんだがね、君に嘘を吐いて騙かす気はない、男というなまぐさいものを先ず君の前であらかた料理して、そして君をお膳の前につれてゆく、嘘の料理を食わせる父親がいたら、それが間違いのもとなんだ、僕は君への最後の友情というものがあったとしたら、僕は男だから僕の悪いところをみんな話したいくらいだよ、黙っている時ではないんだよ。」(室生犀星『杏っ子』第八章「苦い蜜」ー「みなれた顔」)

「わたくしきょう、つくづく女というものが厭になって来たんです、たった一人の男にかしずいて、何でもはいはい聞いているなんて何で引きずられているのかと思うと、それを断ち切りたい気がするわ。鎖みたいな物につながれているんですもの。」〔・・・〕


「抜け道はどこも此処も、男の側からいえば女の肉体で行き詰っているし、女の方も同様に男のそれで行き停まりだ。要は肉体を拒絶することにある。柔しいものも沢山要るが、対手方にうっかり乗らないことも必要だ。」〔・・・〕「いやはや、大へんな悪い親父になった気がするが、親切な親父というものはこのくらいの事は話さなければならないものだ、或る意味で凡ゆる親父というものは、娘の一生を採みくちゃにされない前に、知慧をしぼって教えることは教えて置いた方がよい、だがおれの説得はもうだいぶ遅れている。」(室生犀星『杏っ子』第九章「男ーーくさり」)

平四郎はもはや娘としてではなく、市井の女としての彼女をじろりと見た。そこに思慮分別を超越した人間としての、一個の物質に見入った。そしてこれは皆がこうなるのではなく女がそのために、いつもその生涯の大半を失っているからだ。どれだけ多くの女の人が此処で叫び声をあげられないで、荒縄でぐるぐる巻きにされて、おっぼり出されている事か、そのあたりに見よ、一個のきんたまを持った男が控えているだけである。この恐るべき約束事はふだんの行いに算えられている。(室生犀星『杏っ子』第十二章「唾」ー「荒縄」)


われわれの終生たづね廻つてゐるただ一人のために、人間はいかに多くの詩と小説をむだ書きにしたことだらう、たとへば私なぞも、あがいてつひに何もたづねられなくて、多くの書物にもならない詩と小説のむだ書きを、生涯をこめて書きちらしてゐた、それは食ふためばかりではない、何とか自分にも他人にもすくひになるやうな一人がほしかつたのである。これは馬鹿の戯言であらうか、人間は死ぬまで愛情に飢ゑてある動物ではなかつたか(室生犀星『随筆 女ひと』1955年)



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つち澄みうるほひ

石蕗の花咲き

あはれ知るわが育ちに

鐘の鳴る寺の庭


ーー室生犀星「寺の庭」 大正7年


後年庭作りに丹念であった室生さんででもなければ、最初の一行「土澄みうるほひ」などと歌ひ起す詩人が、凡そ天地のひらけて以来他にはゐなかつだであらうと思ふ。その「「土澄みうるほひ」で「石蕗の花咲き」が、詩中でたいへん美しい。……「土澄みーー」といふのは、まことに異な表現であつたのを思ふと、そもそもこの際その美の發端は、この「土澄み」にあつた、その發見といつてもいい一種の呼吸に、私はいつでも變らず惚れ惚れとしてものを覺える。(三好達治「土澄みうるほひ」1963.1「週刊読書人」初出)


…三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収、1971年)




うすねむきひるのゆめ遠く

杏なる庭のあなたに

なにびとのわれを愛でむとするや

なにびとかわが母なりや

あはれいまひとたび逢はしてよ


ーー室生犀星「杏なる庭」より 昭和十八年






青空文庫


室生犀星「日本の庭」1943(昭和18)年

室生犀星「生涯の垣根」1953(昭和28)年




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泌尿科は一階にあったから其処の待合室の大勢の外来患者の前を、私の手押車はしずしず通っていった。人々はこの患者にちょいと眼をくれただけで、何の反応もなく皆自分自身のことで一杯なのが、私にすぐ判って気安い思いであった。外来患者は丁度記念撮影でもするように一室の方向にむいて、順位を待っていたが私は急速に眼を走らせ、何物かを見出した。私が始終見ていたものでもっとも婉曲な形態を持ち、いままでにすっかりわすれていた物であった。それらは幾十人となく強くどっしりと眼にうけとられる物ばかりであって、私は一種のにわかに生ずる喘ぎさえおぼえたくらいだ。それは若い婦人達がうまく男性患者の間にはさまって、盛りあがるような勢でくみ合せた膝から下の裸の足だった。私はそれを暫く見ないでいて今突然に眼にいれるとそれがどんなにも、あつかましい程うつくしい物であることが判った。

相子や奥テル子の足は病室でも毎日見かけているが、他人行儀のよそさんの足を見たのは久しぶりであった。見られていることを知らないでいること、その無関心さであちこちに伸ばされ、くみ合されていて無限な優しいものがあった。常識のゆたかな紳士といわれるような人びとは決して私の表現するようなぐあいには言わないが、あの長いものをすらりと組み合せ、それに何の値をももとめないで在るがままに在らしめていることに、私はむねに痞えているものが一度に下りた気がした。(室生犀星「われはうたえども やぶれかぶれ」初出:「新潮」1962(昭和37)年2月1日号)


私は寝台の上にあがると例によっておんなのことを考えようとする、時間の消える方法に没しようとしたが、この日どういうわけか、おんなという感覚がちっとも頭に来なくて、茫漠と捉えどころのないおんなのいないおんなの考えに出会した。これはこの日に初めて起ったものではなく、おんながうまく考えあてられたのはほんの二三日しかなくて、あとは今日のようにおんなはさっぱり現われて来ない日ばかりが続いていた。これは私にはもはや毎日おんなを考えようとしても、慾情が枯れかかっていることに原因があること、もはやおんなですら私のたすけになることが稀薄になっていることがわかり、無理にこの思いに突きこんでもむだであることを知った。(室生犀星「われはうたえども やぶれかぶれ」初出:「新潮」1962(昭和37)年2月1日号)


ーーこう書いて室生犀星は1962年3月26日に死んでいった。


Wikipediaには「3月1日虎の門病院入院」とあって注がついている。

見舞客のうち、福永武彦は面談して、辞去する際次にどこにいくつもりなのか、室生が気にしている有様だったが、中村真一郎は、「男なんかに会ってもしようがない。」と室生が娘に言ったため、ついに入室できなかった。(福永武彦「室生犀星伝」『現代日本文学館21 佐藤春夫・室生犀星』文藝春秋、1968年 pp.237-252、中村真一郎「詩人の肖像」『日本の詩歌15 室生犀星』中公文庫、1975年 pp.396-411)