①女というものは存在しない la femme n'existe pas
②性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel
③大他者の大他者はない。il n'y a pas d'Autre de l'Autre
①と②の起源はフロイトにある。
①【女というものは存在しない la femme n'existe pas】
男性性は存在するが、女性性は存在しない gibt es zwar ein männlich, aber kein weiblich。(⋯⋯)
両性にとって、ひとつの性器、すなわち男性性器 Genitale, das männliche のみが考慮される。したがってここに現れているのは、性器の優位 Genitalprimat ではなく、ファルスの優位 Primat des Phallus である。(フロイト『幼児期の性器的編成(性理論に関する追加)』1923年)
つまりは、《女はシニフィアン(表象)の水準では見いだせない》(ミレール、El Piropo)ということ。
ファルスのゲシュタルトは、その徴がなされているか、徴がなされていないかとしての両性を差異化する機能を果たすシニフィアンを人間社会に提供する。(Safouan , Lacaniana、2001)
男女の表象とは、ファルスプラス/ファルスマイナス(ファルスの現前 la présence ϕ/不在 l'absence -ϕ )でしかない。
②【性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel】
男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く。
Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.(フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」第33講『続・精神分析入門講義』1933年)
ラカン自身の発言のひとつは次の通り。
「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」の「〜のようなものはない il n'y a pas」という表現は、性関係を基礎づけることが不可能だということである。…l'énoncé qu'il n'y a pas, qu'il est impossible de poser le rapport sexuel (ラカン、S20、21 Novembre 1972)
つまり男女関係を支える共通の母体はない、ということ。’
③【大他者の大他者はない。il n'y a pas d'Autre de l'Autre】
これについてはフロイトによる直接の言明はない。
まずラカンの発言を掲げる。
大他者は存在しない。それを私はS(Ⱥ)と書く。l'Autre n'existe pas, ce que j'ai écrit comme ça : S(Ⱥ). (ラカン、S24, 08 Mars 1977)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である …« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。…彼女は« 非全体 pas toute »なのである。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、 大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。
…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)
ここでラカンは「大他者はない il n'y a pas d'Autre」と「女というものは存在しない La femme … qui n'existe pas 」をほとんど等価に扱っていることに注意しよう。
人間にとっての最初の大他者は母=女である。
大他者の最初の形象は、母である。したがって、「大他者はない there is no big Other」の最初の意味は、「母は去勢されている mother is castrated」である。(ジジェク 、LESS THAN NOTHING, 2012)
フロイトは母の去勢についてこう言っている。
人間の最初の不安体験は、出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
この考え方をここではそのままはとらないが、「大他者は存在しない」とは大他者は去勢されているという風にも捉えることができる。
さてすこし前に戻ろう。
Ⱥとは、 《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》(ミレール、2007)という意味である。そのシニフィアンがS(Ⱥ) =「大他者は存在しない」のシニフィアンである。
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)
ラカンは別に「象徴界は穴」と言っているが、これはS(Ⱥ)ーー大他者のなかの穴のシニフィアンーーと置ける。
現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence ]
象徴界 [ le symbolique ] は穴 [ trou ]
想像界[ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ]
ーーラカン、S22、18 Février 1975
要するに、「象徴界は穴」とは、「大他者は存在しない」と等価である。
そして象徴界は妄想である、というのが最晩年のラカンである。
妄想は象徴的なものである。⋯⋯私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…
ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)
ラカンは別に、われわれの現実は 「見せかけの世界 le monde du semblant」と要約できることを言っている。
なぜなら言語自体が見せかけだから。
見せかけ semblant、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! (Lacan,S18, 13 Janvier 1971)
この文は独訳では、《Dieser Schein ist der Signifikant an sich selbst》である。
すなわち見せかけ semblant=仮象 Scheinである。
こうしてニーチェを引用することができるようになる。
「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
初期ニーチェは次のように言っている。
言語はレトリックである。というのは、 言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである。Die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme übertragen“ (ニーチェ、講義録 Vorlesungsaufzeichnungen 1871/72 – 1874/75)
ラカンの思考とニーチェの思考の相同性を示すために次の文を掲げておこう。
わたしにとって今や「仮象 Schein」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)
真理は見せかけ semblant の対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)