2018年8月2日木曜日

モノと対象a

「モノは対象aの初期ヴァージョンである」(ブルース・フィンク、1995)。これはほぼ正しいだろう。とはいえラカンは晩年までフロイトのモノ(原初に「喪われた対象 verlorenen Objekt」)をめぐって問うている。

なによりも先ず、シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)
モノ La chose、それはもし美あるいは女とともにavec une belle ou avec une dame 現れないとしても、スクリーンの上の暗くされた部屋のなかのイマージュとともに dans la salle obscure avec une image qui est sur l'écran 現れる。(ラカン、S3, 31 Mai 1956)
(自我に対する)エスの優越性primauté du Esは、現在まったく忘れられている。…我々の経験におけるこの洞察の根源的特質、ーー私はこのエスの或る参照領域 une certaine zone référentielleをモノ la Chose と呼んでいる。(ラカン、S7, 03 Février 1960)
(フロイトによる)モノ、それは母である。モノは近親相姦の対象である。das Ding, qui est la mère, qui est l'objet de l'inceste, (ラカン、 S7 16 Décembre 1959)
現実界の中心にある空虚の存在 existence de ce vide au centre de ce réel をモノ la Choseと呼ぶ。この空虚は…無rienである。(ラカン、S7、27 Janvier 1960)
モノChoseは常にどういうわけか空虚 vide によって表象される。(S7. 03 Février 1960 )
親密な外部、この外密 extimitéが「モノ la Chose」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7、03 Février 1960)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)
享楽の空胞 vacuole de la jouissance…私は、それを中心にある禁止 interdit au centre として示す。…私たちにとって最も近くにあるもの le plus prochain が、私たちのまったくの外部 extérieur にあるだ。

ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を作り出す必要がある。Il faudrait faire le mot « extime » pour désigner ce dont il s'agit (⋯⋯)

フロイトは、「モノdas Ding」を、「隣人Nebenmensch」概念を通して導入した。隣人とは、最も近くにありながら、不透明なambigu存在である。というのは、人は彼をどう位置づけたらいいか分からないから。

隣人…この最も近くにあるものは、享楽の堪え難い内在性である。Le prochain, c'est l'imminence intolérable de la jouissance (ラカン、S16、12 Mars 1969)
欲望は大他者からやってくる、そして享楽はモノの側にある le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose(ラカン、E853、「フロイトの〈欲動〉と精神分析家の欲望について Du «Trieb» de Freud et du désir du psychanalyste」1964)
(対象aの形象化として)、乳首[mamelon]、糞便 [scybale]、ファルス(想像的対象)[phallus (objet imaginaire=想像的ファルス])、小便[尿流 flot urinaire]、ーーこれらに付け加えて、音素[le phonème]、眼差し[le regard]、声[la voix]、そして無[ le rien]がある。(ラカン、E817、1960)
・神経症者は不安に対して防衛する。まさに「まがいの対象a[(a) postiche]」によって。défendre contre l'angoisse justement dans la mesure où c'est un (a) postiche

・(神経症者の)幻想のなかで機能する対象aは、かれの不安に対する防衛として作用する。…かつまた彼らの対象aは、すべての外観に反して、大他者にしがみつく囮 appâtである。(ラカン、S10, 05 Décembre l962)
われわれは口唇欲動 pulsion oraleの満足と純粋な自体性愛 autoérotisme…を区別しなければならない。自体性愛の対象は実際は、空洞creux・空虚videの現前以外の何ものでもない。…そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a [l'objet perdu (a)) ]の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964, 摘要)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu (=モノ)の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
モノは無物とのみ書きうる  la  chose ne puisse s'écrire que « l'achose »(ラカン、S18、10 Mars 1971) 
フロイトのモノChose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

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我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール、1992, Des semblants dans la relation entre les sexes)
セミネール4において、ラカンは、この「無 rien」に最も近似している 対象a を以って、対象と無との組み合わせを書こうとした。ゆえに、彼は後年、対象aの中心には、− φ (去勢、母の去勢)がある au centre de l'objet petit a se trouve le − φ、と言うのである。そして、対象と無 l'objet et le rien があるだけではない。ヴェール le voile もある。したがって、対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュのような見せかけ semblant comme le fétiche である。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993)
対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(ジジェク, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , 2016)

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女は、見せかけ semblant に関して、とても偉大な自由をもっている!la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! (Lacan、S18, 20 Janvier 1971)
我々は、見せかけを無を覆う機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](ジャック=アラン・ミレール 、Des semblants dans la relation entre les sexes、1997)
イマージュは対象aを隠蔽している。l'image se cachait le petit (a).(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
イマージュは、見られ得ないものにとってのカーテン(スクリーン)である。l'image fait écran à ce qui ne peut pas se voir(ジャック=アラン・ミレール 『享楽の監獄 LES PRISONS DE LA JOUISSANCE』1994年)
人が見るもの(人が眼差すもの)は、見られ得ないものである。Ce qu’on regarde, c’est ce qui ne peut pas se voir(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

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※付記


ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名(モノの名)、フロイトのモノの名である。Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens,(Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)
モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

大他者は象徴秩序(言語秩序)であるとともに、己れの身体でもある。

大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)

かつまた、《原大他者 Autre primitif は母である。》(ラカン、S4、06 Février 1957)

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)の結合を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、Première séance du Cours 9/2/2011)

したがって、原去勢[-φ]=享楽の控除[- J]=穴[Ⱥ]=モノ[das Ding]