人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である。
構造的トラウマと事故的トラウマのあいだの相違は、内的なものと外的なものとのあいだの相違として理解しうる。しかしながら、フロイトに従うなら、欲動自体は何か奇妙な・不気味な・外的なものとして、われわれ主体は経験する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)
我々の研究が示すのは、神経症の現象(症状)は或る経験と印象の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traume」と見なす。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
「神経症の現象(症状)Phänomene (Symptome) einer Neurose」とあるが、ここでの神経症は一般に流通する神経症(精神神経症)だけではなく、現勢神経症も包含している。
原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。
(……)現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。…外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosen という名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
要するに「神経症の現象(症状)」とは、フロイトにとって人間のすべての症状のことである。
バーハウの文に戻れば、事故的トラウマとは、もちろん一般に言われる心的外傷、事故によるトラウマにことである。
外傷性神経症 traumatischen Neurose を起こす体験にさいして、外側の刺激保護壁Reizschutzがこわれて過剰度の興奮 übergroße Erregungsmengeが心的装置に入り込む。(フロイト『制止、症状、想起』7章、1926年)
【量的要因としてのトラウマ】
・外部から来て、刺激保護壁Reizschutz を突破するほどの強力な興奮 ankommenden Erregungsgrößenを、われわれは外傷性のものと呼ぶ。外部にたいしては刺激保護壁があるので、外界からくる興奮量は小規模しか作用しないであろう。内部に対しては刺激保護は不可能である。
・刺激保護壁 Reizschutzes の防衛手段 Abwehrmittel を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれる。これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射Projektionである。
・通常の外傷性神経症 gemeine traumatische Neurose を、刺激保護のはなはだしい破綻の結果と解してみてもよいだろうと思う。(フロイト『快原理の彼岸』第4章)
次の文には量的要因という語が出現する。
経験が外傷的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである。das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt (フロイト『モーセと一神教』1939年)
ーー量的要因 quantitativen Faktors、すなわちQ要因である。
ここでもポール・バーハウの簡潔な解説を掲げる。
フロイトにおいて、欲動の問題は最初から見出される。欲動概念が導入される以前のはるか昔からである。その当時のフロイトの全ての試みは「エネルギーの量的要因 Energiequantitäten Faktor」とそれに伴った刺激を把握することである。出発点から彼を悩ました臨床的かつ概念的問題のひとつは、内的緊張の高まり、つまり(『科学的心理学草稿 ENTWURF EINER PSYCHOLOGIE』1895 における)名高いQ要因(quantitativen Faktor)である。すなわちそれは身体内部から湧き起こるエネルギーの流体であり、人はそのQ要因から逃れ得ないことである。Q要因は応答を要求するのである(注)。
このQ要因(quantitativen Faktor)は欲動Triebの中核的性質である。すなわち圧力(衝迫 Drang)と興奮 (Erregung) である(『欲動とその運命』1915)。これは欲動の本来の名をを想起すれば明瞭である。独語TriebはTreiben (圧する)である。不快な興奮の集積として、Q要因は解除されなければならない。そしてその過程で数多くの厄介事が発生する。現勢神経症から神経精神病の発生まで。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、ON BEING NORMAL AND OTHER DISORDERS、2004年)
上の文の注には、次のフロイト文が付されている。
心的機能において、なんらかの量 Quantität の性質を持っているもの(情動割当 Affektbetrag あるいは興奮量 Erregungs-summe)を識別しなければならないーーもっともそれを計量する手段はないがーー。その量とは、増加・減少・置換・放出 Vergrößerung, Verminderung, der Verschiebung und der Abfuhr が可能なものであり、電気的負荷が身体の表面に拡がるように記憶痕跡 Gedächtnisspuren の上に拡がるものである。(フロイト『防衛-神経精神病 DIE ABWEHR-NEUROPSYCHOSEN 』1894年)
フロイトは『ヒステリー研究 STUDIEN ÜBER HYSTERIE』1895年においても、「興奮の量 Quantität von Erregung」という表現を使いながら、トラウマ的要因を神経システムによっては十分には解消しえない「興奮増大 Erregungszuwachs」として定義している。この「興奮増大 Erregungszuwachs」を患者は意識から遠ざけようとする。そして、この「意識的になること不可能な表象 bewusstseinsunfähiger Vorstellungen」が病理コンプレクスの核である、と結論づけている。
「意識的になること不可能な表象」とはモノのことである(参照)。
《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『科学的心理学草案』に次のような形で現れる。
つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる。
「意識的になること不可能な表象」とはモノのことである(参照)。
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)
《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『科学的心理学草案』に次のような形で現れる。
同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)
つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる。
最晩年のフロイト文も付け加えておこう。
忘れられた経験を想起する vergessene Erlebnis zu erinnern こと、よりよく言えば、その経験を現実的なもににする real zu machenこと、忘れられたものをふたたび反復経験すること Wiederholung davon von neuem zu erleben…これは、トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma 、あるいは反復強迫 Wiederholungszwang の名の下に要約しうる。…そしてそれは不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge である。(フロイト『モーセと一神教』)
⋯⋯⋯⋯
ここで冒頭の文に戻ろう。《構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る、大他者の欲動から来る、「事故的トラウマ」である》。
これは、トラウマの階層構造を語っている。
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
簡潔に三層として記せば(実際はもっと重層でありうるが)次の通り。
被 災
ーーーー
いじめ
ーーーーー
原トラウマ
フロイトは次のように記している。
経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
すなわち、
現在の事故的トラウマ
ーーーーーーーーーー
過去の事故的トラウマ
ーーーーーーーーーー
構造的トラウマ