【女・表象代理・原抑圧・対象a】
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。
なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というもの La Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)
ーーここでラカンは「抑圧」と言っているが、これは通常の抑圧ではない。原抑圧である。
表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、この原抑圧を他のすべての抑圧が可能となる引力の核 (le point d'Anziehung, le point d'attrait)とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)
表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation ⋯⋯, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)
《女の問題とは……空虚な理想ー象徴的機能―を形作ることができないことにある。これがラカンが「女というものは存在しない」と主張したときの意図である。この不可能な女というものは、象徴的フィクションではなく、幻想的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1 ではなく対象a である。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING、 2012)
以下は2018年の主流ラカン派会議の中心議題である。
すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除(原抑圧)。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。
forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018)
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さて以下、1999年に上梓されてから20年ほどたつにもかかわらず、実に明瞭な原抑圧の注釈をしているポール・バーハウの文を掲げる。この『女というものは存在するのか DOES THE WOMAN EXIST?』について、当時のジジェクは書評で「奇跡の書」と呼んでいる。
◆ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999
【受動性と女性性】
1897年5月25日、フロイトはフリース宛の手紙にこう書いている、《本源的に抑圧されているものは常に女性的なものではないかと疑われる》。
…この言明のすこし前の「トラウマ」期、フロイトは見出している。何かがある、我々の存在の核(Kern unseres Wesen) 、臍(navel)、菌糸体(mycelium)があることを。心的に加工されえず、唯一可能な反応としての不安を引き起こす何かである。これが、シニフィアンの彼岸(表象の彼岸)に位置づけられるラカンの現実界である。
フロイトは見出したこの何かは、常に受動的で不快なトラウマ的性質を持っている。受動性、そしてそれゆえに女性性である。より正確に言えば、受動性は女性性にとっての代替シニフィアンになる。というのは、フロイトは他に正しい語を見出せなかったから。言い換えれば、トラウマ的現実界ーー象徴界のなかにはこのトラウマ的現実界を言い表すシニフィアンはないーー、これが女性性である。フロイトは象徴システムにおける欠如を見出した。すなわち女というもののシニフィアンはない。半世紀後、ラカンはこのトラウマ的現実界に相当するものをȺ と記した。その意味は、シニフィアンの全体は決して完全ではなく大他者には欠如がある、ということである。
【フロイトの境界表象とラカンのS(Ⱥ)】
このトラウマ的現実界は抑圧され払い除けられる。この過程は特有の形式をとる。実際上、トラウマ的核・現実界的核は、それ自体としては抑圧されえない。それは単純な理由からである。すなわち現実界には抑圧するための何ものもない。抑圧のためのどんなシニフィアン(表象 Vorstellung)もない。
この点においてフロイトが「抑圧(追放・放逐)」という語を使用するとき、彼は特殊な事例を言い表わそうとしている。《抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud, 1 January 1896, 書簡K)
現実界の代わりに、われわれは「境界表象 Grenzvorstellung」を見い出す。これがラカンのS(Ⱥ)である(《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》のシニフィアン)。後に幻想のなかで、二次的防衛がこの境界表象に対して向けられる。この二次的防衛は正式の抑圧(後期抑圧 Nachdrängung)であり、Nachdrängungとは文字通りには、「後の(再)押しやりafter(re-) pression」である。
《S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。》(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
【原防衛過程と翻訳の失敗】
われわれはここでしばらくの間、この原防衛過程に集中しよう。より充実した解説は、フリース宛の二つの手紙(書簡46と書簡52)に見出される。
要約すれば次の内容である:心的素材は、特別の印 schrift のなかに整理されて書き込まれる。それは生のそれぞれの時期によって変容する。各々に継起する時期の境界において、心的素材の、次の時期の言語への翻訳としての転写(書き換えUmschrift)がある。書信46にて、フロイトはトラウマ的核は「転写されない」言っている。その意味は「語表象 Wortvorstellung」に書き換えられないということである。…
書簡52は、より概括的な仕方で転写(書き換えUmschrift)概念を取り上げている。《心的装置は重層化 Aufeinanderschichtung により発生する》と。「重層化 Aufeinanderschichtung」とはレイヤーの上のレイヤーを伴う過程であり、その過程のあいだに既に獲得された素材は、折々に新しい形式へと転写/翻訳される。
引き続く時期の言語への翻訳は、生の継起する時期の境界に起こる。例外はこの素材のいくつかは翻訳されないことである。《翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.》 (フロイト、フリース書簡52、1896)
最晩年のフロイトはこう言っている。
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
この抑圧が原抑圧であるのは、次の文が証する(参照)。
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
ふたたびポール・バーハウ1999に戻る。
【原抑圧と原固着】
われわれは、フロイトの主張によって別の歩みをさらに進めることができる。心的でないもの(身体的なもの)から心的なものへの転換の次には、心的なものへの書き直し working-over が引き続くのである。この加工 elaboration のフロイトの議論は、『ヒステリー 研究』にて三層構造として取り上げられている。そこでは、ヒステリー の基盤にある「トラウマ」、受動的で不快な「光景」、つまり「女性性」は、心的書き直し working-over の全形式の外部あるいは彼岸に位置づけられる。
最初の段階は境界表象(Grenzvorstellung)の勃立 erectionである。その後に防衛的書き直し working-over が起りうる。われわれの見解では、境界シニフィアンによるこの原防衛は、フロイトがのちに「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは何よりもまず「原固着」として現れる。
《フロイトは固着、リビドーの固着、欲動の固着を抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. 》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 )
【原抑圧=現実界のなかに女を置き残すこと】
原固着とは何かが固着されたままになる、心的領域外部に置かれたままになるという意味である。これに対する唯一の可能な反応は、固着の代役としての境界素材による書き直しである。それは後に後期抑圧にとっての妥当な標的となる。こうして、原抑圧とは現実界のなかに女というものを置き残すものとして理解することができる。
《抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido》(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)
【トラウマ的現実界の穴埋め】
原防衛は穴(トラウマ的現実界Ⱥ)を覆い隠すこと、裂開を埋め合わせることを目指す。この原防衛、原抑圧は、欠如のエッジに位置づけられる代表象、つまり境界構造の勃立によって最初は実現化される。この代表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(フロイト書簡K ,pp. 228-229)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。「最初」とは、その後の展開はここで立ち止まることはないから。
防衛を意図するこの「境界表象 Grenzvorstellung」は、いっそう錯綜とした心的構造へと展開する。だがそれらは全て同じ機能をもつ。すなわちトラウマ的現実界の心的書き直しworking-over である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
(PAUL VERHAEGHE, 1999) |
ーーこの図でバーハウは、受動性とS (Ⱥ)を並置しているが、この受動性とは、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ論の記述にかかわる。
受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)
この文のほぼ直後、次の記述が現れる。
私は、「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)
これこそ原抑圧の別の表現の仕方である。「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」、すなわち女は原抑圧されている、である。
そして原抑圧としてのS (Ⱥ)は、トラウマ的現実界Ⱥに対する防衛の最初の歯止めの刻印(境界表象)である。
S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)
そのS (Ⱥ)を基盤にして人はみな妄想する。
「人はみな妄想する」(ラカン)の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)
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※付記
ラカンのサントームΣ(原症状)概念とS(Ⱥ) は等価である(参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)。
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)
かつまたS(Ⱥ) とは、文字対象aと等価である。
私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、 大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。
…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)
ラカンはのちにこの文字を「文字対象a[la lettre petit a]」(S23、11 Mai 1976)とも言うようになる。
結局、原症状としてのサントームΣ = S(Ⱥ)=「文字対象a[la lettre petit a]」=「S2なきS1」(「一のようなものがある Y a de l’Un」)=「欲動の固着」である(参照)。
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)
※参照:女性の享楽と自閉症的享楽