2018年10月7日日曜日

家族なき社会はない

◆中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収



もし、現在の傾向をそのまま延ばしてゆけば、二一世紀の家族は、多様化あるいは解体の方向へ向かうということになるだろう。すでに、スウェーデンでは、婚外出産児が過半数を超えたといい、フランスでもそれに近づきつつある、いや超えたともいう。同性愛の家族を認める動きもあちこちで見られる。他方、児童虐待、家族内虐待が非常な問題になってきている。多重人格は児童期の虐待と密接な関係にあるという見解が多いが、その研究者で治療者のパトナムは、その主著『解離』の最後近くで「児童虐待をなんとかしなければ米国の将来は危ない」という意味のことを強調している。

しかし、外挿法ほど危ないものはない。一つの方向に向かう強い傾向は、必ずその反動を生むだろう。家族の歴史というものはあるけれども、その中にどうも一定の傾向はないようだ。地域によっていろいろあり、時代的にもいろいろあるとしか言いようがない。

人類は、おそらく十万年ぐらいは、生理的にほとんど変化していないと見られている。心理だって、そう変わっていまい。そして、生理と心理は予想以上に密接である。

だから、えいやっと、人類にまで立ち返って、うんと遠くから眺めてみよう。遠くから眺めると小さな誤差や揺れは消えてしまうので、かえって見やすい。そして、家族は、人類が原初から持っている矛盾の中から生まれたことが見えてくるだろう。

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生物としての人間の特殊性は、食物連鎖の頂点にある動物であって、しかも多数であるということである。これは生物界では大変なことである。連鎖ピラミッドの下のほうほど個体数が多くなくてはならない。食物連鎖の頂点にある動物は少数であり、ぶらぶらなまけているように見える。それは食う動物がおらず警戒する必要がないからである。だからライオンの寿命は長い。しかし、数は少ない。

生物の生き残り戦略は、数をたくさん産むか、少数を大事に育てるかのどちらかである。獣ではネズミ、鳥ではスズメ、魚ではイワシ、シシャモは、たくさんの子を産み、生き残る少数が次代を作る。獣ではライオン、鳥ではワシ、魚では胎生のタナゴは少数を大事に育てる。前者は食物連鎖の下のほうを選択した。しかし、下ほど不利というわけではない。連鎖の頂点の動物は長期的には滅ぶ率が大きい。食糧とする動物が適当量いてくれる必要があるのだが、さまざまな理由で増減し、時にはなくなってしまうからだ。



家族というものは、別に人間の発明ではない。少産育児系統の動物は、魚であろうとゾウであろうと家族を営む。多産運命任せ系統ならば家族を持たない。例外や中間例はいくらでもあるだろうが、だいたいそう言ってまちがいない。

人間はどうも両方の可能性を持っているのではないか。他のサル類を圧倒したのは、スズメ型戦略、すなわち数である。その戦術の第一が、三六五日、時を構わず性交できる点、第二は、妊娠期間が例外的に短く、しかも出産後、すぐまた妊娠できる点である。短期間にたくさんの子ができる。人間は頭脳よりも先ず下半身で他のサル類に勝ったのである。だから最古の美術が腹部のふくれた、おそらく妊娠した女性の堂々たる像を描き、また多数の女性器をいたるところに記しているのかもしれない。

ただ、母子家庭である他のサルたちと違って、父(夫)が家族の一員になった。頻繁に生まれる子の育児のためだという。父(夫)は専属の下働き、外働き要員である。それまでオスは群全体を守る外働きだった。だから軍隊のように上下関係があるわけだ。

スズメ型であったならば、食物連鎖の頂点にいなかったはずで、もともとは他の肉食獣に食われる存在だったにちがいない。〔・・・〕



私たちは生物界の大変な成り上がり、自然界のバブルだ。美術史家ギ―ディオンは石器時代の絵画を分析して、旧石器時代の人間は劣等感の塊だったと言っている。ライオンより弱く、カモシカより遅く、マンモスより力がなく、ワタリガラスのように空を飛べないなど、よいところがない。だから、動物は敬意を以て、ていねいに描かれている。氏族のトーテムが動物なのは、せめて祖先が優れた動物だったということにしたいからだろう。

ところが、新石器時代になると、美術は一見貧困になるが、狩りの線描など、人間の集団行動が多い。人間は動物を軽蔑するようになったのだ。しかし、自分より偉いものが何もないと、成り上がりは落ちつかず、頭の上がスース―して寒い。そこで神が生れてきたという説がある。

スズメ型なら育児はいい加減なのが大方の動物である。ところが、ヒトではそうはゆかなかった。他のサル類よりも格段に妊娠期間を短くするためには、赤ん坊を未熟児で産むほかなかった。だから、一歳までは、他の動物の胎児なみの保護が必要な状態であり、一歳までの成長があれほども急なのである。スイスの動物学者アドルフ・ポルトマンは、頭が大きいから参道通過のために生理的早産になったのだというが、それは結果論だと私は思う。小さく産んだから子宮の制限なしに脳が大きく育ったということではないか。それでもヒトの赤ん坊の知能はチンパンジーの赤ん坊に劣る。


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他のサルたちと袂をわかってスズメ型となったが、そのためにはライオン型の家族が必要だという矛盾が生じた。さいわい、祖先からサル型の家族システムを引き継いでいた。そこに父(夫)を加えて人間家族が生まれた。スズメ型とライオン型という、普通は両立しないものが両立しているかにみえる。これがヒト独自の道であった。そのために、まず道具を使って、動物を殺した。それから家族より大きい集団行動で、大きな動物も圧倒する。カラスがトビを圧倒するのも集団行動ができるからだ。北アメリカまでマンモスを追いかけて、北アメリカのマンモスはそのせいで絶滅した。その勢いでとうとう南米まで行ったのだから凄い。ライオン型になってもネズミほど勤勉だった。集団行動のためには言語が必要だ。家族よりも大きな社会も必要だ。配分のためには法規も必要だ。ここで、イヌを味方につけた。

時間意識は未来に起こることの徴候把握を鋭敏にした。これが知性(徴候知)の起源である。また、徴候を読む能力は、メスの発情期がサルのようにはっきり見えなくなった人類にあっては、異性が自分を今受け入れるかどうかの微妙な表情を読む能力にもつながり、子どもが母親は今自分にやさしくしてくれるかどうかを読む能力にもつながった。

それから農業に手を出した。これは周到な集団行動と、リーダーシップと、年度計画を立てることが必要だ。会計や計算の能力がいる。これが総合知の起源である。ニューギニアの石器使用社会西ダニ族が四角の畑を作り、整然と等間隔にタロ芋を植える写真に私は驚嘆した。これは徴税のためでもあるのだろうか。穀物を種として貯蔵しなければならなくなり、敵であるネズミを追うためにネコを味方につけた。

それから、牧畜に進んだ。家畜は作物と同じで、人間がいないと自然界で生きてゆけない。野性動物に比べて肉が多く、知能が低いというか従順なものを選んだからだ。狩猟時代からの集団行動が家畜に適用されて成功した。その結果、狩猟犬が家畜の番犬になった。ここでウマを味方につける。こうなると、ますます勤勉になるだけではなく、戦争が大規模に起こる。農業社会同士が土地を争い、牧畜社会が越冬のために農業社会を襲う。

つまり、人間は、食物連鎖の頂点にいながら、多産を続け、これを維持するために、勤勉だという例外的動物である。



ヒトの千世紀ほどの長い歴史の中で家族に代わる発明はついに起こらなかった。ただ、家族と社会との軋轢が生じた。家族問題の大部分は家族と社会の接点で起こる。

家族内部のことは実際、個人内部以上にわかりにくい。これは精神科医としての実感である。一つ一つの固有の匂いがあり、クセがあり、習慣があり、当然とされていることと問題となることがある。家族を一種の「深淵」にたとえたことがある。

家族の形態は実に多種多様で、どんな形が現れても驚くに当たらない。しかし、家族なき社会は知られていない。ギリシャ、ローマ、あるいはアメリカの奴隷制でも奴隷に家族を認めている。でなければ奴隷は働かない。近代になっても、家族をやめて、共同体に換えようとした例はけっこうあるが、理想どおりに行ったことはなく皆短期間で崩壊した。最近の実験はカンボジアにおけるポルポトの家族性廃止である。ナチスの強制収容所でも家族を認めなかった。しかし、それ自身が処罰であった。



ただ、二〇世紀には今までになかったことが起こっている。〔・・・〕百年前のヒトの数は二〇億だった。こんなに急速に増えた動物の将来など予言できないが、危ういことだけは言える。

しかも、人類は、食物連鎖の頂点にありつづけている。食物連鎖の頂点から下りられない。ヒトを食う大型動物がヒトを圧倒する見込みはない。といっても、食料増産には限度がある。「ヒトの中の自然」は、個体を減らすような何ごとかをするはずだ。ボルポトの集団虐殺の時、あっ、ついにそれが始まったかと私は思った。

しかも、ヒトは依然スズメ型の力を潜在させている。生活が困難になればなるほど、産児数が増える。いや現に人類の八割は多産多死である。スズメ型である。ちょうど気候不順の年に花がよく咲いて実を稔らせるように私たちの中の自然が産児を増やしているのであろうか。逆に、快適な生活をした社会は産児数が減る。現在のフランスで二〇世紀初頭のフランス人だった人の子孫は何割もいない。過去のギリシャも、ローマもそうであったと推定されている。少産少死型の弱点は、ある程度以下になると、種の遺伝子の弱点が露呈することだ。また、個体が尊重されるあまり、規制力が弱り倫理が崩壊することだ。

冷戦の終わりは近代の終わりであった。その向こうには何があったか。私にはアメリカがローマ帝国と重なって見える。民族紛争は、ローマ時代のローマから見ての辺境の民族の盛衰と重なって見える。もし国家というタガがはまっていなかったら、民族紛争が起こり、あっという間に滅ぶ民族が出ただろう。二十数個の軍団を東西南北に派遣して、国境紛争を鎮めるのに懸命だったローマと、空母や海兵隊を世界のどこにもで送る勢いのアメリカとが重なる。市場経済などは当時からあった。グローバル・スタンダードもあった。ローマが基準だった。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。そして、今リアル・タイムの取引で儲ける奴がいれば、ローマ時代には情報の遅れと混線を利用して儲ける奴がいた(ペトロニウスの『サチュリコン』にあるとおりだ)。

もっとも、ローマ帝国は世界唯一の帝国ではなかった。その外の人類社会がひそかに支えていた機微があるだろう。

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今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。

現在のロシアでは、広い大地の家庭菜園と人脈と友情とが家計を支えている。そして、すでにソ連時代に始まることだが、平均寿命はあっという間に一〇歳以上低下した。高齢社会はそういう形で消滅するかもしれない。

それは不幸な消滅の仕方であり、アルミニウムの有害性がはっきりして調理器から追放されてアルツハイマーが減少すれば、それは幸福な形である。運動は重要だが、スポーツをしつづけなければ維持できにような身体を作るべきではない。すでに、日本では動脈硬化は非常に改善しており、私が二〇歳代に見た眼底血管の高度な硬化は跡を絶った。これは、長期的には老人性痴呆の減少につながるはずである。もっとも、長寿社会は、二〇年間で済んだカップルの維持を五〇年間に延長した。離婚率の増大はある程度それに連動しているはずだ。

むしろ、一九一〇年代に始まる初潮の前進が問題であるかもしれない、これは新奇な現象である。そのために、性の発現の前に社会性と個人的親密性を経験する前思春期が消滅しそうである。この一見目立たない事態が、今後、社会的・家族的動物としてのヒトの運命に大きな影響をもたらすかもしれない。それは過去の早婚時代とは違う。過去には性の交わりは夫婦としての同居後何年か後に始められたのである。

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問題はまだまだある。近親姦はアメリカでは家庭の大問題で、日本でもけっこうある。わたしは、その一部は、幼年時代からの体臭の共有が弱まったからではないかと思う。父親は娘には女性の匂いを性的に感受しないのが普通であった。娘だけは「無臭」なのであり、近親姦のタブーは生理的基礎があってのことだと私は思う。胎内で接した蛋白質を異物と感じない「免疫学的寛容」と同じことが嗅覚にも起っていると考える。この歯止めが過度の清潔習慣と別居など共有時間の減少とによって弱体化したのではないか。

児童虐待も、一部は、出産が不自然で長くかかり、喜びがなくなったからかもしれない。トレンデレンブルクの体位と言われる病院でのお産の体位は、医療側の都合にはよいが、出産には不都合である。私はあれがいかにいきみにくい姿勢かを知ったのは、手術後にオマルをあてがわれた時であった。そして、赤ん坊は、出産後数分、はっきりと眼が見え、それから深い眠りに入る。眠りは記憶のために最良の定着液である。しかし、今、最初に見るものは母親の顔ではない。母親から愛情を引き出す、子ども側の「リリーサー」(引き金)が損なわれている疑いを私は持っている。いちど虐待が始まると、ある確率で「虐待のスパイラル」に進む。それは虐待された子どもは虐待する親に対して無表情になり眼だけは敏感に相手を読みとろうとする。「フローズン・ウオッチフルネス」すなわち凍りついた「金属的無表情」「不信警戒の眼つき」である。これは「不敵」な印象を与えてしまい、いかに恭順の意を表しても「本心は違うだろう、面の皮をひんむいてやりたい」と次の虐待を誘い出す。いじめの時にも同じことが起る。被虐待者の「本心」が恐怖であり、ただもう逃れたいだけであっても、虐待者は相手の表情に不敵な反抗心を秘めていると読み取ってしまう。虐待者に被虐待体験があればそのような読み取りとなりやすいだろう。

私は、これだけで近親姦、児童虐待、配偶者殴打のすべてを説明するつもりはない。それらはフランスの古い犯罪学書にも記載がある。学級崩壊だってフランスでは一九世紀から大問題だった。だから最近だけのことではない。辿れば意外な根っこがみつかるだろう。

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難しさは、犯罪という概念が社会的概念であることである。それは家庭になじみにくい。実際、近親姦と児童虐待とに関して、法は、家庭の戸口で戸惑い、ためらい、反撃さえ受けている。個人は家庭にだけ属するのではないが、最後は家庭だという矛盾がここにある。私は、よくないと思われることを、社会が崩壊する前に、できることから変えてゆくしかないと思っている。

人類が家族に代わるものを発明していないとすれば、その病理を何とかするために、私の中の医者があれこれと考えていることを、一度人類まで問題を広げて考えていた。これは大風呂敷にすぎるかもしれない。しかし、私はこの一世紀かそこらの傾向から外挿するのは危険で、たぶん間違うと思っている。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」より(2000年初出)『時のしずく』所収)