2018年12月28日金曜日

le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)


le plus-de-jouir の両義性については、ラカンの次の発言が示している。

剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)
奇妙なのは、享楽はどれも、この図における対象というものを措定しており、したがって、le plus-de-jouir も、その場所が、ここにあるとわたしは信じてきたのだから、すべての享楽にとって条件となっている、ということである。

L'étrange est ce lien qui fait qu'une jouissance, quelle qu'elle soit, le suppose, cet objet, et qu'ainsi le plus-de-jouir - puisque c'est ainsi que j'ai cru pouvoir désigner sa place - soit au regard d'aucune jouissance, sa condition. (ラカン、三人目の女、LACAN La troisième, 1er Novembre 1974)

二番目の文は、le plus-de-jouir がすべての享楽の条件となっているのだから、ファルス享楽JΦ、意味の享楽Js、女性の享楽(大他者の享楽JA)の三つは、このle plus-de-jouir が条件だということである。したがって、たとえば「女性の享楽」の条件は、「le plus-de-jouir」なのである。



(ラカン、La troisième、1974


JAは、上の図が示された一年後のセミネール23にてに移行する。




この段階(S23、16 Décembre 1975)では、図においては「JA」となっているが、《大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である》とあるように、あきらかに「」と書かれるべき内容である。

事実、一月後(13 Janvier 1976) 、「」記されることになる。




上の文にボロメオの環の中心の「a」は、「欲望の原因 la cause du désir」となっているが、これは『三人目の女』にあった「le plus-de-jouir 」と等価である。

次の文でソレールが、欲望の原因は「原初に喪失した対象」としているが、これは享楽の控除(原去勢)の意味に他ならない。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 (manque à jouir)です。

欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 (objet originairement perdu)」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a(objet a, en tant qu’il manque)」と呼んだものです。

けれども、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如の享楽(jouir du manque à jouir) が可能です。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。

Quant au désir il est par définition insatisfait, manque à jouir, puisque sa cause c'est ce que Freud appelait l'objet originairement perdu, et Lacan l'objet a, en tant qu'il manque. Mais, complexité, on peut jouir du manque à jouir, c'est une des formules du masochisme donnée par Lacan. (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »、2013)


今記した内容は、最晩年のラカンの次の言明によって裏付けられる。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


ミレールで補えば次の通り。

(- φ) は去勢 le moins phi を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

繰り返せば、le plus-de-jouir (a)とは、剰余享楽(残余の享楽)という意味以外に、《もはや享楽は全くない》(享楽の控除 le moins-de-jouir)という意味があるのである。

上に引用した剰余享楽 plus de jouir=享楽の欠片 lichettes de la jouissance は、ソレールが示しているように享楽欠如の享楽とも呼ばれる(「享楽欠如」はラカン自身の表現[参照])。

したがって先ずは次のように図示しうる。




そして、(- φ) とはȺ(穴)のことでもある(参照:「女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」)。

-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

要するに、(a)を原対象aと捉えれば、(a)=(- φ) =(- J) =Ⱥである。

したがってボロメオの環のマテームもあわせて表示すれば、次のようになる。誰もこう示している人には行き当たらないが、すくなくともわたくしはそう考える。



Jsをφとしているのは、ミレールの定義「フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche (a)」による(参照)。

JȺを∅(空集合)としているのは、次の文に由来する。

女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)

JȺはまた、S(Ⱥ)と等置しうる。

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)


女性の享楽が剰余享楽aのひとつであるだろうことは、ラカンの次の発言が示している。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

女性の享楽S(Ⱥ)自体、Ⱥの穴埋めなのである。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

現在、若手ラカン派のリーダーとされる哲学的ラカン派のロレンゾも、《享楽とは対象a の享楽と等しい》(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chies、Subjectivity and Otherness、:2007)としており、女性の享楽を「ロマンチック」に捉えてきた旧ラカン派的解釈を強く批判している。



2018年12月17日月曜日

倒錯者と神経症者における「倒錯行為」の相違

ラカンにおける倒錯の代表的な定義は次のものである。

倒錯のすべての問題は、子供が母との関係ーー子供の生物学的依存ではなく、母の愛への依存 dépendance、すなわち母の欲望への欲望によって構成される関係--において、母の欲望の想像的対象 (想像的ファルス)と同一化 s'identifie à l'objet imaginaire することにある。(ラカン、エクリ、E554、摘要訳、1956年)

そしてこうも言っている。

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的である⋯⋯que se reconnaître comme objet de son désir, …c'est toujours masochiste. (ラカン、S10, 16 janvier l963)

原母子関係における幼児はみなマゾヒスト的倒錯者なのである。この幼児期の母へのエロス的固着ーーマゾヒスト的な《受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung》(フロイト、1937)ーーは、終生エスのなかに居残る。したがって晩年のラカンはこう言うことになる、《倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme》(Lacan, S23, 11 Mai 1976)


他者の欲望の対象として振る舞う=マゾヒストという定義に則れば、女性の仮装性とはマゾヒズムである。

女性が自分を見せびらかし s'exhibe、自分を欲望の対象 objet du désir として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルス ϕαλλός [ phallos ] と同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス ϕαλλός désiré、他者の欲望のシニフィアン signifiant du désir de l'autre として位置づける。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装性 mascarade féminine と呼ぶことのできるものの彼方 au-delà に位置づけるが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからである。この同一化は、女性性 féminité ともっとも密接に結びついている。(ラカン、S5、23 Avril 1958)

マゾヒズムとは、ドゥルーズが分析したマゾッホの小説に典型的に見られるように、支配されるふりをしつつ、他者を支配することである。

女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていた。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』)

ーー現代女性においては、この傾向はいくらか少なくなっている筈ではあるが。

ラカン派において倒錯とは倒錯行為の問題ではない。倒錯の構造の有無の問題である。

私が 「倒錯の構造 structure de la perversion」と呼ぶもの。それは厳密にいって、幻想( $ ◊ a )の裏返しの効果 effet inverse du fantasme である。主体性の分割に出会ったとき、自分を対象として定めるのが倒錯の主体である。(ラカン、S11、13 Mai 1964 )

したがって通常は倒錯の式は、「a ◊ $」と書かれる。

だがラカンはこうも言っている。

倒錯 perversion とは…大他者の享楽の道具 instrument de la jouissance de l'Autre になることである。(ラカン、E823、1960年)
倒錯者は、大他者の中の穴をコルク栓で埋めることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16, 26 Mars 1969)
例えば、アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius 。彼は自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同している confondre son œil contemplatif avec l'œil dont Dieu le regarde。そこには、倒錯的享楽 la jouissance perverse があるといわざるをえない。(ラカン S.20, 20 Février 1973)


この定義に則って、ポール・バーハウ(2004)は「a ◊ $」ではなく、次のように記すべきだとしている。



Ⱥとは、 「大他者のなかの穴 trou dans l'Autre」である。…Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


以下にバーハウの倒錯論を二つ抜き出すが、彼の記述はあきらかに「a ◊ Ⱥ」である。

人は「倒錯者の構造」と「神経症者の倒錯的特徴」との差異を認知する必要がある。神経症的主体は倒錯的性のシナリオをたんに夢見る主体ではない。彼あるいは彼女は、倒錯者と同様に、自分の倒錯的特徴を完全に上演しうる。しかしながらこの上演中、神経症者は大他者の眼差しを避ける。というのはこの眼差しは、エディプスの定義によって、ヴェールを剥ぎ取る眼差し、非難する眼差しでさえあるから。神経症者は父の権威をはぐらかし・迂回せねばならない。その意味はもちろん、彼はこの権威を大々的に承認しているということである。

逆に倒錯的主体は、この眼差しを誘発・挑発する。目撃者としての第三の審級の眼差しが必要なのである。このようにして父と去勢を施す権威は無力な観察者に格下げされる…。この状況をエディプス用語に翻訳するなら次のようになる。すなわち、倒錯的主体は、父の眼差しの下で母の想像的ファルスとして機能する。父はこうして無力な共謀者に格下げされる。

この第三の審級は、倒錯的振舞いと同じ程大きく、倒錯者の目標・対象である。第三の審級の不能は実演されなければならない。数多くの事例において、倒錯者は、倒錯者自身の享楽と比較して第三の審級の哀れさを他者に向けて明示的に説教する。

再び強調するなら、倒錯的関係性へのこの焦点化は、構造的接近法と記述的-法医学的接近法とのあいだの主要な相違である。実際上の性的法侵犯は、それ自体では必ずしも倒錯ではない。倒錯的構造が意味するのは、倒錯的主体は最初の他者の全的満足の道具へと自ら転換し、他方同時に、二番目の他者は挑まれ受動的観察者のポジションへと無力化されることである。

マルキ・ド・サドの作品は、この状況の完璧な例証である。そこでは読者は観察者のポジションにある。このようなシナリオの創造は、実際上の性的行動化のどんな形式よりも重要である。というのは、倒錯者による性的行動化は神経症的構造内部でも同様に起こり得るから。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、PERVERSION II、2001年)

そしてもう一つは、Jochem Willemsen との共著論文(2010)だが、この箇所はあきらかにバーハウの記述である。

臨床的叙述が示しているのは、倒錯的主体は、権力の明示的関係性ーーすなわち「倒錯者の権力」ーーにおいて、常に倒錯的シナリオを他者に向けていることである。例えば、露出狂者は他者が衝撃を受けたときのみ成功する。マゾヒストは何をすべきかを他者に指令する。等々。 ………
ここで子供の標準的発達に戻ろう。

幼児の避けられない出発点は、受動ポジションである。すなわち、母の欲望の受動的対象に還元される。そして母なる大他者 (m)Other から来る鏡像的疎外 mirroring alienation を通して、自己のアイデンティティの基盤を獲得する。いったんこの基盤のアイデンティティが充分に安定化したら、次の段階において観察されるのは、子供は能動ポジションを取ろうとすることである。

中間期は過渡的段階であり、子供は「過渡的対象」(古典的には「おしゃぶり」)の使用を通して、安定した関係にまだしがみついている。このような方法で、母を喪うことについての不安は飼い馴らされうる。標準的には、エディプス局面・父の機能が、子供のいっそうの発達が起こる状況を作り出す。ただしそれは、母の欲望が父に向かっているという事実があっての話である。

倒錯の心因においてはこれは起こらない。母は子供を受動的対象、彼女の全体を作る物に還元する。この鏡像化 mirroring のため、子供は母自身の一部として、母のコントロール下にいるままである。したがって子供は自己の欲動への表象的参入(欲動の象徴化能力)を獲得できない。もちろん、それに引き続く自身の欲望のどんな加工 elaborations もできない。

これは、構造的用語で言えば、ファルス化された対象aに還元されるということであり、母はファルス化された対象a を通して、彼女自身の欠如を埋める。だから分離の過程は決して起こらない。第三の形象としての父は、母によって、取るに足らない無能な観察者に格下げされる。…

このようにして、子供は自らを逆説的ポジションのなかに見出す。一方で、母の想像的ファルス(ファルス化された対象a)となり、それは子供にとっての勝利である。他方で、彼ががこのために支払う犠牲は大きい。分離がないのだ。自身のアイデンティティへとのいっそうの発展はいずれも塞がれてしまう。代わりに、子供はその獲得物を保護しようと試みて特有の反転を演じる。彼は、自ら手綱を握って、受動ポジションを能動ポジションへ交代させようとする。同時に母の想像的ファルスという特権的ポジションを維持したままで、である。

臨床的用語では、これは明白なマゾヒズムである。マゾヒストは自らを他者にとっての享楽の対象として差しだす。全シナリオを作り指揮しながら、である。これは、他者の道具となる側面であり、「能動的」とは「指導的」として解釈される条件の下で、はっきりと受動-能動反転を示している。倒錯者は受動的に見えるかもしれないが、そうではない。…倒錯者は自らを大他者の享楽の道具に転じるだけではない。彼また、この他者を自身の享楽に都合のよい規則システムに従わせるのだ。(⋯⋯)
倒錯者においては、後の人生においても原初の関係が繰り返される、最初の母なる大他者と第二の父なる大他者に対する成人後の生活における後継者たちに対して。もっとも受動-能動反転がある。倒錯的主体は、「最初の大他者の後継者に向けて道具的ポジションに立つ。この大他者の享楽に仕えるためだ。

これは神経症者の観点からは、パラドックスである。倒錯者は、大他者の享楽のために熱心に奉仕していることを確信している。こうして倒錯者は、犠牲者は「それを求めたのだ」、「ほら、それをまさに楽しんだのだよ」等々という根強い考えを持つ。その考え方は、確かに原初の最初の母なる大他者にとっては本当だった。

この帰結は、還元されたヴァージョン、いわゆる「認知の歪み」においても、同様に見出される。何度も繰り返して証言されるのだ、犠牲者は「協力的だったよ」、あるいはさらに「犠牲者さ、率先してやったのは」と。(Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe、When psychoanalysis meets Law and Evil: perversion and psychopathy in the forensic clinic、2010)