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2019年2月20日水曜日

ボロメオの環変奏

ラカンのボロメオの環の正式版は次の通りである。



ここでは、いくつかのヴァリエーションを示す。





ーーマテームを上のように置いた理由は、「le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性」を参照。ここでは簡易図表のみを示しておく。




まず、いくらかの用語注釈。

象徴界は言語である。Le Symbolique, c'est le langage(ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

想像界はなによりも先ず、文字通りのイマージュである(後詳述)。


■空集合∅について

∅とは、《穴としての空集合 le trou comme ensemble vide (Ø)》[参照であり、身体の出来事である。身体の出来事はサントーム(原症状)、フロイトの固着のことである(参照:フロイト・ラカン「固着」語彙群)。

ラカンはフロイトの固着を、骨象・文字対象aとも呼んだ。骨象aとは、身体に突き刺さった骨である。

私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、BEYOND GENDER 、2001年)


■ファルスΦについて

「ファルスの意味作用 Die Bedeutung des Phallus」とは実際は重複語 pléonasme である。言語には、ファルス以外の意味作用はない il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus。(ラカン、S18, 09 Juin 1971)

このファルスの意味作用によってモノの殺害が起こる。

シンボル le symbole は、「モノの殺害 meurtre de la chose」として現れる。そしてこの死 mort は、主体の欲望の終りなき永続性 éterrusation de son désir を生む。(ラカン、E319, 1953)

このモノの殺害が、ラカン派における「去勢」の最も基本的意味「象徴的去勢」である。

去勢は本質的に象徴的機能である la castration étant fonction essentiellement symbolique (Lacan, S17, 18 Mars 1970)
ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)


■フェティッシュφについて

ラカンがボロメオの環において「sens」と記すときの意味は、直接的には「意味の享楽 sens-joui (Js)」だが、事実上は「フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche」のことである。

対象a の二重の機能、「見せかけ semblantとしての対象a」と「骨象 osbjet としての対象a 」double fonction de l’objet (a) : comme semblant et comme le nomme Lacan« osbjet » dans la dernière leçon du Séminaire XXIII.(Samuel Basz、L'objet (a), semblant et « osbjet ».2018)
対象aは、現実界であると言いうるが、しかしまた見せかけでもある l'objet petit a, bien que l'on puisse dire qu'il est réel, est un semblant。対象aは、フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche でもある。(ジャック=アラン・ミレール 、la Logique de la cure 、1993年)



フェティッシュは、「欲望が自らを支えるための条件 la condition dont se soutient le désir」である(ラカン、S10、16 janvier 1963)
ラカンが不安セミネール10で詳述したのは、「欲望の条件 condition du désir」としての対象(フェティッシュ)である。…

倒錯としてのフェティシズムの叙述は、倒錯に限られるものではなく、「欲望自体の地位 statut du désir comme tel」を表している。(ジャック=アラン・ミレールJacques-Alain Miller、INTRODUCTION À LA LECTURE DU SÉMINAIRE DE L'ANGOISSE DE JACQUES LACAN 、2004)


以下、最も基本的なフェティッシュについての観点も付記しておく。

フェティッシュは、女性のファルス(母のファルス)の代理物である。der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) (フロイト『フェティシズム』1927年)
母のペニスの欠如は、ファルスの性質が現われる場所である。sur ce manque du pénis de la mère où se révèle la nature du phallus(ラカン、E877、1965)
(象徴的ファルスとは異なった)他のファルスは、母の想像的ファルスである。un autre phallus c'est le phallus imaginaire de la mère. (ラカン、S4、22 Mai 1957)
ラカンの定式において、フェティシストの対象は、−φ (去勢)の上の「a」である。すなわち去勢の裂け目を埋め合わせる対象a である(a/−φ)。(ジジェク『パララックス・ヴュ―』2006年)


■去勢(-φ)について

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…

フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

以上が、それぞれの用語の概ねの意味合いである。





■去勢の原像

出産外傷としての去勢の原像についても付記しておこう。

例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
出産過程 Geburtsvorgang は最初の危険状況 Gefahrsituationであって、それから生ずる経済的動揺 ökonomische Aufruhr は、不安反応のモデル Vorbild der Angstreaktion になる。

(……)あらゆる危険状況 Gefahrsituation と不安条件 Angstbedingung が、なんらかの形で母からの分離 Trennung von der Mutter を意味する点で、共通点をもっている。つまり、まず最初に生物学的biologischerな母からの分離、次に直接的な対象喪失direkten Objektverlustes、のちには間接的方法indirekte Wegeで起こる分離になる。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

⋯⋯⋯⋯

次に「イマージュ」についてもういくらか詳しく記す。

フロイトの「事物表象 Sachvorstellung」と「語表象 Wortvorstellung」は、ラカンの「イマーゴ imago」(イマージュ)と「シニフィアン signifiant」である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe、2009年)

ここでフロイト概念を、ラカンのボロメオの環のなかに置いてみよう。




ところでラカンは想像界の箇所を身体ともしているが、これは身体のイマージュということである。

( La troisième 、1-11-1974)

この身体のイマージュは、現実界→象徴界を経由した想像界の身体であり、言語によって殺害された身体である。

私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。

忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。

しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin)

つまりイマジネールな身体とは、本来の身体的なものではなく、心的なものに属する。これが前期ラカンの身体である。

だが後年、次のように言う。

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(ラカン、S20、15 mai 1973)
人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)

ラカンが「身体は穴」というときの穴とは、身体は想像界と現実界の重なり箇所を示している。

(S23, 13 Avril 1976)


ところで、想像界(イマーゴとしてのイマージュ)は、フロイトの自我 Ichでもある。

イマーゴとしてのイマージュimage comme imagoをフロイトは「自我 le moi」と呼んだ。(Jacques-Alain Miller, L'Être et l'Un, 18 mai 2011)

したがって、フロイト用語の「自我」と「エス」を想起しつつ再度、フロイト版のボロメオの環を別の形で示せば次のようになる。






フロイトはエスと自我の関係について次のように言っている。

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、正規の無意識としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』、1938年)
人の発達史 Entwicklungsgeschichte der Person と人の心的装置 ihres psychischen Apparatesにおいて、…原初はすべてがエスであった Ursprünglich war ja alles Esのであり、自我Ichは、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態 vorbewussten Zustand に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものはエスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核 dessen schwer zugänglicher Kern として置き残された 。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年)
エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、1940年)


ラカン版とフロイト版を横並びにしておこう。



ラカンはこうも言っていることを付け加えておこう。

欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

穴とはラカン用語においてトラウマのことである。

現実界は、⋯「穴-トラウマ troumatisme 」をつくる ラカン、S21、19 Février 1974 )
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。よ(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

⋯⋯⋯⋯

ところで若きニーチェはこう言っている。

言語の使用者は、人間に対するモノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩 Metaphern を援用している。すなわち、一つの神経刺戟 Nervenreiz がまずイメージ Bildに移される。(⋯⋯)

人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念 Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)

この考え方をボロメオの環で示せば、次のようになる。




ニーチェにおいては、ラカンの「身体の出来事」、フロイトの「リビドー固着」の箇所が、「神経刺激」となる。

ニーチェの記述にあるように、神経刺激とは、人間と動物とに共通なものである。では、ラカンの「身体の出来事」、フロイトの「リビドー固着」も同様に、人間と動物とに共通なものと言いうるだろうか? ーーおそらく(ほぼ)そう考えうると私は思う。

以下の図表は、フロイトとラカン概念の対照表である。どの語彙・表現もフロイトの「固着」、あるいは固着による症状に帰結する。


ーーより詳しくは、「フロイト・ラカン「固着」語彙群」を参照。




最後に動物の外傷神経症をめぐる中井久夫の記述を掲げておこう(参照:「動物の外傷神経症」)。

「我慢する」動物ゆえに、ヒトの外傷は動物よりも発見が困難である。外傷的原因が特定できる阪神・淡路大震災においても、精神科医たちは初めPTSDが非常に少ないという印象を持った。それは、一つは「PTSD(Rを含む)にかかっている精神科医はPTSD(R)を診断することが困難である」という点にある。これは災害時だけでなく、自身に傷口が開いたままの外傷を持っている治療者には平時においても起こることと考えなければならない。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・外傷・記憶』所収)
一般に神経症こそ生物に広く見られる事態である。その点は内因性精神障害と対照的であると私は思っている。(⋯⋯)

ヒトの五官は動物に比べて格段に鈍感である。それは大脳新皮質の相当部分が言語活動に転用されたためもあり、また、そもそも、言語がイメージの圧倒的な衝拍を減圧する働きを持っていることにもよるだろう。

しかし、ここで、心的外傷がヒトにおいても深く動物と共通の刻印を脳/マインドに与えるものであることは考えておかなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年『日時計の影』所収)



2018年12月28日金曜日

le plus-de-jouir(剰余享楽・享楽控除)の両義性

仏語の「 le plus-de-jouir」とは、「もはやどんな享楽もない not enjoying any more」と「もっと多くの享楽 more of the enjoyment」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by PAUL VERHAEGHE, 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の破片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, par Dominique Simonney, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)


le plus-de-jouir の両義性については、ラカンの次の発言が示している。

剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)
奇妙なのは、享楽はどれも、この図における対象というものを措定しており、したがって、le plus-de-jouir も、その場所が、ここにあるとわたしは信じてきたのだから、すべての享楽にとって条件となっている、ということである。

L'étrange est ce lien qui fait qu'une jouissance, quelle qu'elle soit, le suppose, cet objet, et qu'ainsi le plus-de-jouir - puisque c'est ainsi que j'ai cru pouvoir désigner sa place - soit au regard d'aucune jouissance, sa condition. (ラカン、三人目の女、LACAN La troisième, 1er Novembre 1974)

二番目の文は、le plus-de-jouir がすべての享楽の条件となっているのだから、ファルス享楽JΦ、意味の享楽Js、女性の享楽(大他者の享楽JA)の三つは、このle plus-de-jouir が条件だということである。したがって、たとえば「女性の享楽」の条件は、「le plus-de-jouir」なのである。



(ラカン、La troisième、1974


JAは、上の図が示された一年後のセミネール23にてに移行する。




この段階(S23、16 Décembre 1975)では、図においては「JA」となっているが、《大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である》とあるように、あきらかに「」と書かれるべき内容である。

事実、一月後(13 Janvier 1976) 、「」記されることになる。




上の文にボロメオの環の中心の「a」は、「欲望の原因 la cause du désir」となっているが、これは『三人目の女』にあった「le plus-de-jouir 」と等価である。

次の文でソレールが、欲望の原因は「原初に喪失した対象」としているが、これは享楽の控除(原去勢)の意味に他ならない。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 (manque à jouir)です。

欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 (objet originairement perdu)」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a(objet a, en tant qu’il manque)」と呼んだものです。

けれども、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如の享楽(jouir du manque à jouir) が可能です。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。

Quant au désir il est par définition insatisfait, manque à jouir, puisque sa cause c'est ce que Freud appelait l'objet originairement perdu, et Lacan l'objet a, en tant qu'il manque. Mais, complexité, on peut jouir du manque à jouir, c'est une des formules du masochisme donnée par Lacan. (コレット・ソレール、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »、2013)


今記した内容は、最晩年のラカンの次の言明によって裏付けられる。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


ミレールで補えば次の通り。

(- φ) は去勢 le moins phi を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

繰り返せば、le plus-de-jouir (a)とは、剰余享楽(残余の享楽)という意味以外に、《もはや享楽は全くない》(享楽の控除 le moins-de-jouir)という意味があるのである。

上に引用した剰余享楽 plus de jouir=享楽の欠片 lichettes de la jouissance は、ソレールが示しているように享楽欠如の享楽とも呼ばれる(「享楽欠如」はラカン自身の表現[参照])。

したがって先ずは次のように図示しうる。




そして、(- φ) とはȺ(穴)のことでもある(参照:「女性の享楽、あるいは身体の穴の自動享楽」)。

-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴 trou と穴埋め bouchon(コルク栓)を理解するための最も基本的方法である。petit a sur moins phi…c'est la façon la plus élémentaire de d'un trou et d'un bouchon(ジャック=アラン・ミレール 、L'Être et l'Un, 9/2/2011)
Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)

要するに、(a)を原対象aと捉えれば、(a)=(- φ) =(- J) =Ⱥである。

したがってボロメオの環のマテームもあわせて表示すれば、次のようになる。誰もこう示している人には行き当たらないが、すくなくともわたくしはそう考える。



Jsをφとしているのは、ミレールの定義「フェティッシュとしての見せかけ semblant comme le fétiche (a)」による(参照)。

JȺを∅(空集合)としているのは、次の文に由来する。

女というもの La femme は空集合 un ensemble videである (ラカン、S22、21 Janvier 1975)

JȺはまた、S(Ⱥ)と等置しうる。

私はS(Ⱥ) にて、「斜線を引かれた女性の享楽 la jouissance de Lⱥ femme」を示している。(ラカン、S20、13 Mars 1973)


女性の享楽が剰余享楽aのひとつであるだろうことは、ラカンの次の発言が示している。

女性の享楽 la jouissance de la femme は非全体 pastout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)女性の享楽は(a)というコルク栓 [bouchon de ce (a) ]を見いだす。(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

女性の享楽S(Ⱥ)自体、Ⱥの穴埋めなのである。

S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)

現在、若手ラカン派のリーダーとされる哲学的ラカン派のロレンゾも、《享楽とは対象a の享楽と等しい》(ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chies、Subjectivity and Otherness、:2007)としており、女性の享楽を「ロマンチック」に捉えてきた旧ラカン派的解釈を強く批判している。



2018年10月31日水曜日

リビドーのトラウマへの固着

【事故的トラウマへの固着】
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)


【病因的トラウマへの固着】
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自身の身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


……………


【母からの分離という原トラウマ】
経験された無力な状況(寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit )を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
オットー・ランクは『出産外傷 Das Trauma der Geburt』 (1924)にて、出生という行為は、一般に母への「原固着 Urfixierung」が克服されないまま、「原抑圧 Urverdrängung」を受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出産外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。

後になってランクは、この「原トラウマ Urtrauma」を分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。この仕事のためには、わずかに二、三ヵ月しか要しないはずである。ランクの見解が大胆で才気あるものであるという点には反対はあるまい。けれどもそれは、批判的な検討に耐えられるものではなかった。(……)

このランクの意図を実際の症例に実施してみてどんな成果があげられたか、それについてわれわれは多くを耳にしていない。おそらくそれは、石油ランプを倒したために家が火事になったという場合、消防が、火の出た部屋からそのランプを外に運び出すだけで満足する、といったことになってしまうのではなかあろうか。もちろん、そのようにしたために、消化活動が著しく短縮化される場合もことによったらあるかもしれないが。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年)


⋯⋯⋯⋯

【異物としてのトラウマ】
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

異物とは、リビドーの固着(欲動の固着)の置き残し(居残り)のことである。

・リビドーは、固着Fixierung によって、退行Regressionの道に誘い込まれる。リビドーは、固着を発達段階の或る点に置き残す(居残るzurückgelassen)のである。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)
・どの固有の欲動志向(性的志向 Sexualstrebung)においても、その或る部分は発達の、よ り初期の段階に置き残される(居残るzurückgeblieben)。他の部分が目的地に到達することがあってさえ。

・より初期の段階のある部分傾向 Partialstrebung の置き残し(滞留 Verbleiben)が、固着 Fixierung、欲動の固着 Fixierung (des Triebes nämlich)と呼ばれるものである。(フロイト『精神分析入門』第22 講、私訳)
・生において重要なリビドーの特徴は、その可動性である。すなわち、ひとつの対象から別の対象へと容易に移動する。これは、特定の対象へのリビドーの固着Fixierung der Libido an bestimmte Objekteと対照的である。リビドーの固着は生涯を通して、しつこく持続する。

・母へのエロス的固着の残余は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への従属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)


【残存現象、あるいはリビドーの固着の残存物】
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまたファルス期 phallisch-genitalen Platz にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残存物 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残滓 Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)


【身体的なものの残滓】

リビドーの固着(欲動の固着)とは、「身体的なもの」が「心的なもの」に全的には移し替えられないこと(原抑圧)である。

ラカンの現実界 Réel は、フロイトの無意識の臍(夢の臍 Nabel des Traums)であり、固着Fixierung のために「置き残される zurückgeblieben(居残るVerbleiben)」原抑圧 Urverdrängungである。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの Somatischem」が「心的なもの Seelischem」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)

したがって、この身体的なものの残滓が不気味な異物のように作用して、人を反復強迫に陥れる。

欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)


【対象aと異物】

異物とは、ラカンの対象aの最も基本的な意味である(対象aの三相については「対象aの三義性」を参照のこと)。

対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16、26 Mars 1969)
外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」である。(Jacques-Alain Miller、Extimité、13 novembre 1985)



【サントームΣと固着】

ラカンのサントーム(原症状)とはフロイトの「リビドーの固着」、あるいは「異物」のことである。

我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan,」 、6 juin 2001」 )
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつきが分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつきとは、一のシニフィアンと身体との結びつきということである。

ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un - Année 2011, 25/05/2011)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」(コレット・ソレール2017,"Avènements du réel" )


《シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状》には、上に見てきたように、残滓が必ずある。

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

別の言い方をすれば、身体の上への刻印「一」のあるところには常に、《「一」と身体がある Il y a le Un et le corps(Hélène Bonnaud、Percussion du signifiant dans le corps à l'entrée et à la fin de l'analyse、2013)

この残存物をラカンは《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 11 Mai 1976)と呼んだ。すなわちフロイトの《異物 Fremdkörper》である。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


2018年9月24日月曜日

原抑圧とは現実界のなかに女を置き残すことである

【女・表象代理・原抑圧・対象a】
「女というもの La Femme」 は、その本質において dans son essence、女 la femme にとっても抑圧(追放)されている。男にとって女が抑圧(追放)されているのと同じように aussi refoulée pour la femme que pour l'homme。

なによりもまず、女の表象代理は喪われている le représentant de sa représentation est perdu。人はそれが何かわからない。それが「女というもの La Femme」である。(ラカン、S16, 12 Mars 1969)

 ーーここでラカンは「抑圧」と言っているが、これは通常の抑圧ではない。原抑圧である。

表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、この原抑圧を他のすべての抑圧が可能となる引力の核 (le point d'Anziehung, le point d'attrait)とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)
表象代理とは、対象aである。ce représentant de la représentation ⋯⋯, c'est cet objet(a) (ラカンS13, 18 Mai l966)

《女の問題とは……空虚な理想ー象徴的機能―を形作ることができないことにある。これがラカンが「女というものは存在しない」と主張したときの意図である。この不可能な女というものは、象徴的フィクションではなく、幻想的幽霊 fantasmatic specter であり、それは S1 ではなく対象a である。》(ジジェク、LESS THAN NOTHING、 2012) 


以下は2018年の主流ラカン派会議の中心議題である。

すべての話す存在 être parlant にとっての、「女性 Lⱥ femme」のシニフィアンの排除(原抑圧)。精神病にとっての「父の名」のシニフィアンの限定された排除(に対して)。

forclusion du signifiant de La/ femme pour tout être parlant, forclusion restreinte du signifiant du Nom-du-Père pour la psychose(LES PSYCHOSES ORDINAIRES ET LES AUTRES sous transfert、2018

⋯⋯⋯⋯

さて以下、1999年に上梓されてから20年ほどたつにもかかわらず、実に明瞭な原抑圧の注釈をしているポール・バーハウの文を掲げる。この『女というものは存在するのか DOES THE WOMAN EXIST?』について、当時のジジェクは書評で「奇跡の書」と呼んでいる。


◆ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999


【受動性と女性性】
1897年5月25日、フロイトはフリース宛の手紙にこう書いている、《本源的に抑圧されているものは常に女性的なものではないかと疑われる》。

…この言明のすこし前の「トラウマ」期、フロイトは見出している。何かがある、我々の存在の核(Kern unseres Wesen) 、臍(navel)、菌糸体(mycelium)があることを。心的に加工されえず、唯一可能な反応としての不安を引き起こす何かである。これが、シニフィアンの彼岸(表象の彼岸)に位置づけられるラカンの現実界である。

フロイトは見出したこの何かは、常に受動的で不快なトラウマ的性質を持っている。受動性、そしてそれゆえに女性性である。より正確に言えば、受動性は女性性にとっての代替シニフィアンになる。というのは、フロイトは他に正しい語を見出せなかったから。言い換えれば、トラウマ的現実界ーー象徴界のなかにはこのトラウマ的現実界を言い表すシニフィアンはないーー、これが女性性である。フロイトは象徴システムにおける欠如を見出した。すなわち女というもののシニフィアンはない。半世紀後、ラカンはこのトラウマ的現実界に相当するものをȺ と記した。その意味は、シニフィアンの全体は決して完全ではなく大他者には欠如がある、ということである。

《Ⱥという穴 le trou de A barré …Ⱥの意味は、Aは存在しない A n'existe pas、Aは非一貫的 n'est pas consistant、Aは完全ではない A n'est pas complet 、すなわちAは欠如を含んでいる comporte un manque、ゆえにAは欲望の場処である A est le lieu d'un désir ということである。》(Une lecture du Séminaire D’un Autre à l’autre par Jacques-Alain Miller, 2007)


【フロイトの境界表象とラカンのS(Ⱥ)】
このトラウマ的現実界は抑圧され払い除けられる。この過程は特有の形式をとる。実際上、トラウマ的核・現実界的核は、それ自体としては抑圧されえない。それは単純な理由からである。すなわち現実界には抑圧するための何ものもない。抑圧のためのどんなシニフィアン(表象 Vorstellung)もない。

この点においてフロイトが「抑圧(追放・放逐)」という語を使用するとき、彼は特殊な事例を言い表わそうとしている。《抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud, 1 January 1896, 書簡K)

現実界の代わりに、われわれは「境界表象 Grenzvorstellung」を見い出す。これがラカンのS(Ⱥ)である(《大他者のなかの穴 trou dans l'Autre》のシニフィアン)。後に幻想のなかで、二次的防衛がこの境界表象に対して向けられる。この二次的防衛は正式の抑圧(後期抑圧 Nachdrängung)であり、Nachdrängungとは文字通りには、「後の(再)押しやりafter(re-) pression」である。

《S(Ⱥ)の存在のおかげで、あなたは穴を持たず vous n'avez pas de trou、あなたは「斜線を引かれた大他者という穴 trou de A barré 」を支配する maîtrisez。》(UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)


 【原防衛過程と翻訳の失敗】
われわれはここでしばらくの間、この原防衛過程に集中しよう。より充実した解説は、フリース宛の二つの手紙(書簡46と書簡52)に見出される。

要約すれば次の内容である:心的素材は、特別の印 schrift のなかに整理されて書き込まれる。それは生のそれぞれの時期によって変容する。各々に継起する時期の境界において、心的素材の、次の時期の言語への翻訳としての転写(書き換えUmschrift)がある。書信46にて、フロイトはトラウマ的核は「転写されない」言っている。その意味は「語表象 Wortvorstellung」に書き換えられないということである。…

書簡52は、より概括的な仕方で転写(書き換えUmschrift)概念を取り上げている。《心的装置は重層化 Aufeinanderschichtung により発生する》と。「重層化 Aufeinanderschichtung」とはレイヤーの上のレイヤーを伴う過程であり、その過程のあいだに既に獲得された素材は、折々に新しい形式へと転写/翻訳される。

引き続く時期の言語への翻訳は、生の継起する時期の境界に起こる。例外はこの素材のいくつかは翻訳されないことである。《翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.》  (フロイト、フリース書簡52、1896)

最晩年のフロイトはこう言っている。

抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

この抑圧が原抑圧であるのは、次の文が証する(参照)。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ふたたびポール・バーハウ1999に戻る。


【原抑圧と原固着】
われわれは、フロイトの主張によって別の歩みをさらに進めることができる。心的でないもの(身体的なもの)から心的なものへの転換の次には、心的なものへの書き直し working-over が引き続くのである。この加工 elaboration のフロイトの議論は、『ヒステリー 研究』にて三層構造として取り上げられている。そこでは、ヒステリー の基盤にある「トラウマ」、受動的で不快な「光景」、つまり「女性性」は、心的書き直し working-over の全形式の外部あるいは彼岸に位置づけられる。

最初の段階は境界表象(Grenzvorstellung)の勃立 erectionである。その後に防衛的書き直し working-over が起りうる。われわれの見解では、境界シニフィアンによるこの原防衛は、フロイトがのちに「原抑圧」として概念化したものの下に容易に包含しうる。原抑圧とは何よりもまず「原固着」として現れる。

《フロイトは固着、リビドーの固着、欲動の固着を抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. 》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、30/03/2011 )


 【原抑圧=現実界のなかに女を置き残すこと】
原固着とは何かが固着されたままになる、心的領域外部に置かれたままになるという意味である。これに対する唯一の可能な反応は、固着の代役としての境界素材による書き直しである。それは後に後期抑圧にとっての妥当な標的となる。こうして、原抑圧とは現実界のなかに女というものを置き残すものとして理解することができる。

《抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido》(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)


【トラウマ的現実界の穴埋め】
原防衛は穴(トラウマ的現実界Ⱥ)を覆い隠すこと、裂開を埋め合わせることを目指す。この原防衛、原抑圧は、欠如のエッジに位置づけられる代表象、つまり境界構造の勃立によって最初は実現化される。この代表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(フロイト書簡K ,pp. 228-229)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。「最初」とは、その後の展開はここで立ち止まることはないから。

防衛を意図するこの「境界表象 Grenzvorstellung」は、いっそう錯綜とした心的構造へと展開する。だがそれらは全て同じ機能をもつ。すなわちトラウマ的現実界の心的書き直しworking-over である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)

(PAUL VERHAEGHE, 1999)


ーーこの図でバーハウは、受動性とS (Ⱥ)を並置しているが、この受動性とは、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ論の記述にかかわる。

受動的立場あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937)

この文のほぼ直後、次の記述が現れる。

私は、「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」は人間の精神生活の非常に注目すべき要素を正しく記述するものではなかったろうかと最初から考えている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

これこそ原抑圧の別の表現の仕方である。「女性性の拒否 Ablehnung der Weiblichkeit」、すなわち女は原抑圧されている、である。

そして原抑圧としてのS (Ⱥ)は、トラウマ的現実界Ⱥに対する防衛の最初の歯止めの刻印(境界表象)である。

S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Jacques-Alain Miller 、Première séance du Cours 2011)

そのS (Ⱥ)を基盤にして人はみな妄想する。

「人はみな妄想する」(ラカン)の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2011)

⋯⋯⋯⋯

※付記

ラカンのサントームΣ(原症状)概念とS(Ⱥ) は等価である(参照:S(Ⱥ)と「S2なきS1」)。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER』2001)

かつまたS(Ⱥ) とは、文字対象aと等価である。

私は強調する、女というものは存在しないと。それはまさに「文字」である。女というものは、 大他者はないというシニフィアンS(Ⱥ)である限りでの「文字」である。

…La femme … j'insiste : qui n'existe pas …c'est justement la lettre, la lettre en tant qu'elle est le signifiant qu'il n'y a pas d'Autre. [S(Ⱥ)]. (ラカン、S18, 17 Mars 1971)

ラカンはのちにこの文字を「文字対象a[la lettre petit a]」(S23、11 Mai 1976)とも言うようになる。
結局、原症状としてのサントームΣ = S(Ⱥ)=「文字対象a[la lettre petit a]」=「S2なきS1」(「一のようなものがある Y a de l’Un」)=「欲動の固着」である(参照)。

後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「原固着」あるいは「身体の上への刻印」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ『ジェンダーの彼岸』2001年)

※参照:女性の享楽と自閉症的享楽

2017年4月30日日曜日

最も基本的なところから始めよう



ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性 family resemblance」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

(ジジェク2012版、性別化の式と四つの言説統合)

 …………

ジジェクが2012年にようやく提示した前期ウィトゲンシュタイン/後期ウィトゲンシュタインを、柄谷行人は1986年に既に提示している。

「すべての概念は、等しからざるものを等置するところに発生する」と、ニーチェはいっている。しかし、ウィトゲンシュタインにとっては、事物の多様性が問題なのではない。むしろ、「等置する」ということの実践的な盲目性・無根拠性が忘れさられることが問題なのだ。

理解を助けるために、マルクスの価値形態論を引例しよう。価値形態は、ある商品がべつのものと「等置された」がゆえに付与される形態である。そこに根拠も「共通の本質」もない。そのような商品関係の連鎖を、マルクスは「拡大された価値形態」とよんでいる。これはファミリー・リゼンブランス(家族的類似性)と同じである。そのような関係の連鎖(交錯)が、一つの商品を排他的に中心とするように組織されると、「一般的価値形態」(貨幣形態)が生じる。貨幣形態の下では、すべての商品は何か「共通の本質」があるゆえに等置されるのだと考えられてしまうだろう。

マルクスの考えでは、「ひとは意識しないが、そう行う(等置する)」のであって、この無根拠性・盲目性こそが「社会的」とよばれている。かくして、社会的関係が、貨幣形態の下では、あるいはわれわれの「意識」のもとでは隠蔽されてしまう。この意味で、ファミリー・リゼンブランスは、「社会的」関係性にほかならない。(柄谷行人『探求Ⅰ』第四章「世界の境界」PP.69-70, 1986年)
現代数学は、集合論と記号論理学によって、全数学領域を統一的に基礎づけることができるというたてまえに立っている。実際には、集合論のパラドックスからはじまり、ゲーデルの証明によってとどめをさされたように、それは不可能なのだ。むろん、このような“基礎論”は、実践的な数学者=発明家にとっては無関係である。ある数学者はいっている。《われわれは、ウィークデーはプラトニストであり、日曜日に形式主義者となる》(デイヴィス、ハーシュ共著「数学的経験」)。

ウィトゲンシュタインは、そのようなあいまいさを批判したりはしないだろう。新手を生みだす模士が、碁盤のなかに“真理”が隠れていると信じていたとしても構わないように。ウィトゲンシュタインが批判するのは、現にある数学のさまざまな証明体系の“背後”に基礎的なものがあるという考えである。これは、日常言語の“背後”に、より基礎的な言語があるという考えと同じなのだが。

数学をさまざまなゲーム(規則体系)とみなしたとき、それらに通底するものはないのだろうか? この問いは、言語をさまざまな言語ゲームとしてみるとき、「言語ゲームにとって本質的なものは何か、したがって言語の本質は何か」という問いにいいかえられる。それに対して、ウィトゲンシュタインは、次のようにいっている。

《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)

この類似性は、「家族的類似性」とよばれている。それは、「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」である。

わたくしは、このような類似性を「家族的類似性」ということばによる以外に、うまく特徴づけるとこができない。なぜなら、一つの家族の構成員の間に成り立っているさまざまな類似性、たとえば体つき、顔の特徴、眼の色、歩きかた、気質、等々も、同じような重なり合い、交差し合っているからである。----だから、わたくしは、「ゲーム」が一つの家族を形成している、と言おう。

同様にして、たとえば数の種類も一家族を形成している。なぜわれわれはあるものを「数」と呼ぶのか。おそらくそれが、これまで数と呼ばれてきた多くのものと一つのーー直接的なーー連関をもっているからである。そして、そのことによって、それはわれわれもまたそのように呼ぶ他のものとの間接的な連関をもつようになる、と言うことができる。そして、われわれは、ちょうど一本の糸をつむぐのに繊維と繊維をよりあわせていくように、数というわれわれの概念を拡張していくのである。しかも、糸の強さは、ある一本の繊維が糸全体の長さをつらぬいているという点にあるのではなく、たくさんの繊維が互いに重なり合っているという点にあるのである。(ウィトゲンシュタイン「哲学探究」)

この「家族的類似性」は、右の例では、数学が多数体系的であること、したがって、たとえば「数とは何か」を本質的に定義することはでいないということを意味している。むろん、このことは、言語ゲーム一般についてもいえる(数学も言語ゲームの一部である)。言語ゲームは、むしろ「言語とは何か」という本質的な問いをしりぞけるものなのである。なぜなら、その問いは、言語ゲームの多様性を切りすててしまおうとするからだ。

すでに第四章で示唆したように、「家族的類似」の問題は、社会的な過程(共同体と共同体の間の交換)のなかで、けっして、共通の本質、あるいは、通約不可能性が見出されないこととつながっている。マルクスは、商品の相対的価値表現の連鎖体系を「拡大された価値形態」とよんでいる。そこには、家族的類似と同様に、ついに中心あるいは本質が見当たらない。マルクスは、その「欠陥」について次のようにいう。

《第一に、商品の相対的な価値表現は未完成である。というのは、その表示序列がいつになっても終わらないからである。一つの価値方程式が他のそれを、それからそれへとつないでいく連鎖は、ひきつづいてつねに新しい価値表現の材料を与えるあらゆる新たな商品種にひきのばされる。》(「資本論」)

したがって、マルクスは、一般的価値形態または貨幣形態、すなわち中心としての一商品が等価形態の位置を排他的に独占する形態の不可避性を説く。だが、この「欠陥」は、実はそんことによって解消されはしない。なぜなら、それこそが「社会的過程」だからである。逆に、貨幣形態は、すべての商品に共通の本質があるかのような仮象を与え、また無制限に連鎖して交叉するものを閉じられた一体系のように考えさせる。

ウィトゲンシュタインが家族的類似を強調するのは、事物の本質あるいは原理を問う哲学が、貨幣形態と同様に、われわれのコミュニケーション(交換)の、“社会性”を隠蔽してしまうからである。「言葉の意味はその用法である」というウィトゲンシュタインの言葉は、プラグマティックな意味で理解されてはならない。それは、内的な意味(私的言語)から出発するかわりに、《他者》との交換というレベルに立ちまどるべきことを主張しているのである。日常言語学派とちがって、彼の認識は“倫理的”である。(柄谷行人『探求Ⅰ』「家族的類似性」pp.144-148)

この記述がより簡明に『トランスクリティーク』2001にて現れる。

ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。《われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ》(『哲学研究』)――(柄谷行人『トランスクリティーク』P106)
前期ウィトゲンシュタインは、「語りえないものについては沈黙しなければならない」と書いている(『論理哲学論考』)。その場合、「語りえないもの」とは、宗教と芸術である。この点で、ウィトゲンシュタインがカント的であることは容易に指摘しうる。(……)

しかし、後期ウィトゲンシュタインはどうか。『哲学探究』における言語ゲーム論では、科学・道徳・芸術といった領域的区分が廃棄されている。それは彼がカント的なものから遠ざかったように見えさせる。しかし、すでに述べてきたように、カントの「批判」の核心がそのような区分に関係なく、他者を持ち込むことにあったとすれば、むしろ後期ウィトゲンシュタインのほうがはるかにカント的なのだ。その「他者」は、経験的にありふれているにもかかわらず、超越論的に見いだされたものである。(同トランスクリティーク P112)

…………

次に柄谷行人の1978年の論から。

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』p.26、1978年)
根源にあるのは、使用価値(シニフィアン)と使用価値(シニフィアン)の任意の関係にほかならない。価値形態とは、いわば形象的な言語である。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』p.35)

ここで言われていることは、ラカンの次の文と相同的である。

シニフィアンは、対象を指示しない記号である le signifiant est un signe qui ne renvoie pas à un objet …シニフィアンはまた不在の記号である Il est lui aussi signe d'une absence…

シニフィアンは、他の記号と関係する記号である c'est un signe qui renvoie à un autre signe。 言い換えれば、二つ組で己れに対立する pour s'opposer à lui dans un couple (ラカン、S3、 14 Mars 1956)
すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

この柄谷=ラカンは、次の文を読めばいっそう鮮明になる。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異 的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

ラカンの次の文とともに読んでみよう。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(意味=徴示)することができないこ とである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

また柄谷の言う《自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない》と は、次のジュパンチッチの文の「非全体」にかかわる説明と等価である。

……ラカンの公式、《シニフィアンは他のシニフィアンに対して主体を表象する Le signifiant, c'est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant 》。これは現代思想の偉大なブレイク スルーだった。…この概念化にとって、再現前(表象 representation)は、「現前の現前 presentation of presentation」、あるいは「ある状況の状態 the state of a situation」ではない。 そうではなく、むしろ「現前内部の現前 presentation within presentation」、あるいは「ある状況内部の状態 state within a situation 」である。

この考え方において、「表象」はそれ自体無限であり、構成的に非全体 pastoutである(あるいは非決定的である)。それはどんな対象も代表象しない。それ自身における絶え間ない「非関係 non-rapport」を妨げない。…ここでは表象そのものが、それ自身を覆う「彷徨える過剰 excès errant」である。すなわち表象は、「過剰なものへの無限の滞留」である。それは、代表象された対象、あるいは代表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂目」、「非一貫性」から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ Alenka Zupancic、The Fifth Condition、2004)

ラカン自身の叙述を掲げよう。

主体は、他のシニフィアンに対する一つのシニフィアンによって表象(代理)されうるものである Un sujet c'est ce qui peut être représenté par un signifiant pour un autre signifiant。しかしこれは次の事実を探り当てる何ものかではないか。すなわち交換価値 valeur d'échange として、マルクスが解読したもの、つまり経済的現実において、問題の主体、交換価値の主体 le sujet de la valeur d'échange は何に対して表象されるのか? ーー使用価値 valeur d'usage である。

そしてこの裂け目のなかに既に生み出されたもの・落とされたものが、剰余価値 plus-valueと呼ばれるものである。この喪失 perte は、我々のレヴェルにおける重要性の核心である。

主体は己自身と同一化しえず、もはやたしかに享楽しえないne jouit plus 。何かが喪われているだ。それが剰余享楽plus de jouir (対象a)と呼ばれるものである。(ラカン、セミネ ールⅩⅥ、D'un Autre à l'autre, 13 Novembre 1968)

シンプルに言おう。主体 $ は、ネガティヴなマグニチュード、あるいはネガティヴな数 negative magnitude or negative number としての裂け目である。それが、ラカンによるシニフ ィアンの定義におけるまさに正確な意味である。シニフィアンとは、主体に代わって対象を表 象する何かではなく、他のシニフィアンに代わって主体を表象するものである。すなわち主体とはシニフィアンの内的な裂け目なのである。そしてそれがその参照の動き referential movement を支えているのだ。他方、対象a は、この動きによってもたらされたポジティヴな 残滓である。そしてそれがラカンが剰余享楽 plus-de-jouir と呼んだものである。剰余享楽 のほかには享楽 jouissance はない。すなわち享楽はそれ自体として本質的にエントロピー として現われる。 (ジュパンチッチ2006、Alenka Zupancic, When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value)

主体 $ とはマルクスの使用価値と等価である。

最も基本的なところから始めよう。何がシニフィアンの「差異的 differential」性質を構成して いるのかと。S1 とS2 、シニフィアンの二個一組の用語(男-女、天-地、明-暗、陰-陽、等々) は、単純には同じレヴェルで現れるわけではない。…「差異性 differentiality」はもっと精密な関係性を示している。

その関係性のなかでは、一つの用語、その現前の対立物は、すぐさま他の用語ではなく、 最初の用語の不在・それが記銘された場における空虚である(記名の場と合致する空虚)。 そして、他の対立的用語の現前が、最初の用語の不在の空虚を埋め合わせる。これが、典 型的二項対立おける、よく知られた「構造主義者」の命題ーー《一つの用語の現前は対立 した用語の不在と等価である》--をいかに読まなければならないかのあり方である。 ………シニフィアンの二個一組内部において、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在 の背景に対して現れる。この不在は、その対立物の現前のなかで、物質化されたものーーポジティヴな存在として想定された不在である。ラカンによるこの不在のマテームは、もちろん、斜線を引かれたシニフィアン $ である。

すなわち、一つのシニフィアンはその対立物の不在を埋め合わせる。それは、その対立物 の場を「表象」し所有する。…こうして、我々は既にシニフィアンの定式を生み出した。《一つ のシニフィアンが他のシニフィアンに対して主体を表象する[un signifiant représente un sujet pour un autre signifiant.]》。

ゆえに我々は理解できるだろう、ラカンにとってなぜ主体のマテーム $ が必要なのかを。す なわち、一つのシニフィアン S1 は、他のシニフィアン S2 に対して、その不在・その欠如 $ を 表象する。

ここでの決定的な要点は、シニフィアンの二個一組において、一つのシニフィアンはその反 対のシニフィアンの直の片割れでは決してなく、一つのシニフィアンは常にその潜在的不在 を表象(具現)するということだ。二つのシニフィアンは、三番目の用語である「空虚」を通し てのみ「差異的 differential」関係性に入る。シニフィアンが差異的であるという意味は、主 体を表象するどんなシニフィアンもない、ということである。 (ジジェク『為すところを知らざれ ばなり』(Slavoj Žižek For They Know Not What They Do、1991年、私訳)

…………

※付記

上に引用した次の文を再掲する。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。あ るいはニーチェがいうように多中心(多主観)的であり、ソシュールがいうように混沌かつ過 剰である。ラング(形式体系)は、自己言及性の禁止においてある。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)

これと相同的な表現は、『隠喩としての建築』(木村敏を引用しつつ)にも現れる。

……さらに厳密に言うならば、自己がそれ自体差異化の構造であるといい、自己と自己ならざるものとの分離が単純に自己の場で遂行されるというのは十分に正確ではない。というのは、自己とは決してこの分離に先立ってあらかじめ与えられているものではないからである。……(木村敏『自己・あいだ・分裂病』)
――木村敏のいっている「差異化」は、われわれの考えでは、ある差異的なシステムそれ自体への差異化、つまり自己言及・自己関係化にほかならない。そして、それが自己言及的なシステムであるからには、いわば地と図をはっきりと決定することはできない。(柄谷行人『隠喩としての建築』pp.73-74)


2017年4月28日金曜日

柄谷行人の誤謬

以下の柄谷行人の文に、《「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」である。つまり、自己投射にほかならない》とあるが、これは明らかに誤謬である。

ウィトゲンシュタインは私的言語あるいは独我論に対して、社会的な言語の先行性を主張したといわれる。だが、そのようにいうことは、彼の「懐疑」をほとんど無効にしてしまうだろう。彼が否定したのは、「証明」というかたちをとる共同主観性あるいは対話それ自体の独我論性なのだ。私は、ここで、独我論とは、自分一人しかいないという思考ではなく、自分にあてはまることが万人にあてはまるという考えのことであるといおう。なぜなら、後者においては、結局他者は自己の中に内面化されてしまうのだから。同時に、私は、対話とは、規則を共有しない他者との対話、あるいは非対称的な関係にとどまるような対話であると定義したい。そして、他者とはそのような者である、と。といっても、他者は、人類学者がいうような異者(不気味なもの)ではない。フロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」である。つまり、自己投射にほかならない。また、われわれがいう他者は絶対的な他者ではない。それもまた自己投射にすぎない。われわれが考えるのは、むしろありふれた相対的な他者の他者性である。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

こういったことを書いてしまっているのは、フロイトが『快原理の彼岸』1920年の前年に書いた『不気味なもの』をまともに読み込めていない証拠である。

……同種のものの繰返しの不気味さがいかにして幼児の心的生活から演繹されうるかを、ここではただ示唆するにとどめて、そのかわりこれについてはすでに、これを別の関連において詳細に論じた仕事のあることをお知らせしておく。つまり心の無意識のうちには、欲動生活から発する反復強迫の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原理を超越してしまうほどに強いもので、心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ不気味なものとして感ぜられると見ていいように思う。(フロイト『不気味なもの』1919年)

《別の関連において詳細に論じた仕事》とは、もちろん1920年に発表された『快原理の彼岸』である。

……分析される者にとっては、その幼児期の出来事を転移の中で反復する強迫が、あらゆる点で、快原理の埒外に出ることは明らかである。患者はそのさい完全に幼児のようにふるまい、その原始期の体験の抑圧された記憶痕跡が、拘束された状態で存在しないこと、それどころか、ある意味では二次過程が不可能であることを示すのである。この非拘束性のおかげで記憶痕跡は、昼の残滓にピン留めされて、夢に描かれる願望空想を形成するという能力をも備えているわけである。

おなじ反復強迫が、治療の終りに完全に医師からはなれようとするとき、実にしばしば治療上の障害として現われるのである。分析に慣れていない人は、眠ったままにしておく方がよいと自分にとって思われるものを目覚めさせるのをおそれるものだが、この漠とした不安は、畢竟このデモーニッシュな強迫の登場をおそれるからであると推測される。

しかし、欲動的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか? ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されていなかったーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーー欲動の特性、おそらくはすべての有機的な生Leben一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。要するに、欲動とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を再確立wiederherstellenしようとするものであろう。以前の状態とは、生命体Belebteが外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。また欲動とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機的な生における鎮静傾向Traeglichkeitの表出であるとも言えよう。(フロイト『快原理の彼岸』)

この反復強迫≒不気味なものは、或る意味で、マルクスのフェティシュ概念にかかわる柄谷理論の核心であるはずなのに。

『不気味なもの』には次の叙述がある。

……もっとも興味深いのは、heimlichという語が、その意味の幾様ものニュアンスのうちに、その反対語 unheimlich と一致する一つのニュアンスを示していることである。すなわち親しいもの、気持のいいもの des Heimliche が、気味の悪いもの、秘密のものdes Unheimliche となることがそれである。(フロイト『不気味なもの』1919)

これはラカンの対象a概念のことを言っている。《あなたの中にはなにかあなた以上のもの、すなわち〈対象a〉quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a)》(ラカン、S11)。

対象aとはまた外密でもある。

ーー「不気味なもの」は、仏語ではそれに相応しい言葉がない。フロイトの『不気味なもの (Das Unheimliche)』は、L'inquiétante étrangeté.と訳されている。すなわち「不穏をもたらす奇妙なもの」。ラカンはこの訳語の代りに、《外密 extimité という語を発明》(ムラデン・ドラ―、Mladen Dolar, Lacan and the Uncanny,1991)のである。

外密とは何か?

親密な外部、この外密が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16)
要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にある。ここで問題となっていることを示すために「外密 extime」という語を使うべきだろう。(ラカン、セミネール16)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)

柄谷は何を誤ったのか。それは不気味なもの=対象aの両義性を読めなかったことだ。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

究極の外密=対象aとは、象徴空間の「内に向かう湾曲」形態自体である。

ラカンが、象徴空間の内部と外部の重なり合い(外密 Extimité)によって、象徴空間の湾曲・歪曲を叙述するとき、彼はたんに、対象a の構造的場を叙述しているのではない。剰余享楽は、この構造自体、象徴空間のこの「内に向かう湾曲」以外の何ものでもない。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

すなわち最近の柄谷理論の核心であるフェティシュ=対象a(不気味なもの)の両義性を、すくなくとも『トランスクリティーク』では取り逃がしてしまっている。

資本の蓄積運動は、人間の意志や欲望から来るのではない。それはフェティシズム、すなわち商品に付着した「精神」によって駆り立てられている (driven) 。資本主義社会は、最も発達したフェティシズムの形態によって組織されている。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

剰余価値というフェティシズムは、形態が核心である。

…労働生産物が商品形態を身に纏うと直ちに発生する労働生産物の謎めいた性格は、それではどこから生ずるのか? 明らかにこの形態 Form そのものからである。(マルクス 『資本論』第1篇第四節「商品の物神的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)

つまり、もの(対象)ではなく、形態がマルクスのフェティシズムの核心である。

株式資本にて、フェティシズムはその至高の形態をとる。…ヘーゲルの「絶対精神」と同様に…株式とは「絶対フェティッシュ absolute fetish」である。(Capital as Spirit, Kojin Karatani、2016, PDF)

この「絶対フェティシュ」(絶対的フェティシュ)は、絶対的剰余価値の「絶対」とは全く意味が異なる。

では絶対フェティシュとは何か?

われわれは、 標準的なマルクス主義者の「物象化 Versachlichung」と「商品フェティッシュWarenfetischs」の題目の、徹底した再形式化が必要である。(……)

逆説的なことに、フェティシズムは、フェティッシュが「脱物象化」されたときに頂点に達する。(ジジェク、LESS THAN NOTHIHNG,2012)

以上は一例だが、柄谷行人のフロイト読解はかなり甘い箇所がある。最近の憲法=超自我論も同様。

だが柄谷行人はそれにもかかわらず、現代日本において最もまともな批評家、思想家であることは間違いない。誰にでも弱い箇所はあるのである。

…………

※付記

基本的に絶対フェティシュとは、フロイト概念の「快の獲得」にかかわる。

フロイトの「快の獲得 Lustgewinn」、それはシンプルに、私の「剰余享楽 plus-de jouir」のことである。 …oder unmittelbaren Lustgewinn… à savoir tout simplement mon « plus-de jouir ».(Lacan,S.21)

ーーフロイトの著作においては1900 年代に既に Lustgewinn という語が現われるが、ここでは最晩年(死後出版)の草稿においての簡潔な叙述。

まずはじめに口 der Mund が、性感帯 die erogene Zone としてリビドー的要求 der Anspruch を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求 das Bedürfnis の充足 die Befriedigung をもたらすよう設定される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり Lutschen には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得 Lustgewinn をめざしたものである。ゆえにそれは‘性的 sexuell'と名づけることができるし、またそうすべきものである。(Freud,S.1940 "Abriss der Psychoanalyse" 「精神分析学概説」)

以下、ジジェク、2016の明晰な叙述を段落分けして掲げる(Slavoj Žižek – Marx and Lacan: Surplus-Enjoyment, Surplus-Value, Surplus-Knowledge、2016、私訳より)。

【快原理を蝕む倒錯性】
リビドー的経済において、反復強迫の倒錯性に乱されない「純粋な」快原理はない。この倒錯性は快原理の用語では説明しえない。商品交換の領野において、別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換の、直かの閉じた円環はない。商品売買の倒錯的論理ーーより多くの貨幣を得るための論理--によって蝕まれていない円環はない。この論理において、貨幣はもはや、商品交換における単なる媒体ではなく、それ自体が目的となる。


【フロイトの快の獲得 Lustgewinn とマルクスの M– C–M】
唯一の現実は、貨幣を消費してより多くの貨幣を獲得することである。そしてマルクスが C-M-C(商品-貨幣-商品)と呼んだもの・別の商品を購買するために商品を貨幣に代える交換は、究極的には虚構である。もっともこの虚構は、交換過程の「自然な」基盤を提供している(たんに金、もっと金じゃないよ、交換のすべての核心は、具体的な人間欲求を満たすことさ!)。ーーここにある基本のリビドー的機制は、フロイトが Lustgewinn(快の獲得)と呼んだものである。サモ・トムシック Samo Tomšič の『資本家の無意識』はこの概念を巧みに説明している。

《「快の獲得 Lustgewinn」は、快原理の恒常性 homeostasis が単なる虚構であることの最初の徴である。しかしながらそれが証明しているのは、欲求のどんな満足もいっそうの快を生みだしえないことである。それはちょうど、どんな剰余価値も C–M–C(商品–貨幣–商品)の循環からは論理的に生じないように。

剰余享楽・快と営利 profit making との連携は、快原理の想定された恒常的特性を掘り崩すわけでは単純にはない。それが示しているのは、恒常性は欠くべからざる虚構であり、無意識的生産を構造化し・支えていることである。それはちょうど、世界観的機制のイマジネールな獲得が閉じられた全体ーーその総体的構築において亀裂のない全体--を提供することで成り立っているように。

「快の獲得 Lustgewinn」はフロイトの最初の概念的遭遇である、後に快原理の彼岸・反復強迫に位置づけられたものとの。それは精神分析に、M– C–M(貨幣– 商品–貨幣)と等価なものを導入することになる。》(サモ・トムシック2015, Samo Tomšič, The Capitalist Unconscious)


【反復運動自体による快の獲得】
「快の獲得 Lustgewinn」の過程は、反復を通して作働する。人はその目的を見失い、人はその運動を反復する。何度も何度も試みる。したがって真の目標は、もはや意図された目的ではなく、目的に到ろうとする反復運動自体である。

これは、形式と内容の用語に置き換えうる。「形式」とは、欲望された内容に接近する形式・様式を表わす。一方で欲望された内容(対象)は、快を提供することを請け合う。他方で剰余享楽は、目的追求のまさに形式(手続き)によって獲得される。

いかに口唇欲動が機能するかの古典的事例がある。一方で乳房吸啜の目的は、乳で満腹になることである。他方でリビドー的獲得は、吸啜の反復運動によって提供され、したがってそれ自体が目的となる。(……)

「快の獲得」の別の形象は、ヒステリーを特徴づける反転である。快への断念は、断念の快・断念のなかの快へと反転する。欲望の抑圧は抑圧の欲望へ反転する、等々。これらすべての事例において快の獲得は、「パフォーマティヴ」の水準で起こる。目的に到達することではなく、目的に向かって作働する「パフォーマンス」自体がその獲得を産出する。


【快の獲得 Lustgewinn と剰余価値 Mehrwert 】
…我々は「快の獲得 Lustgewinn」 と「剰余価値 Mehrwert」とのあいだに歴然とした繋がりを観察しうる。快の獲得過程の目標は、公式的目的(欲求の満足)ではなく、過程自体の拡張された再生産である。たとえば、母の乳房を吸啜する目標は乳で満腹になることではなく、吸啜行為自体によってもたらされる快である。そして正確に相同的のあり方で、剰余価値の交換過程の目標は、自身の欲求の満足ではなく、資本自体の拡張された再生産である。

ここで決定的なのは C-M-C から M-C-M' への反転である。C-M-C(諸個人は商品をその欲求よりも過剰に生産する。彼らはその商品を交換する。そして貨幣とは、生産者が必要とする生産物を求めて彼の過剰生産物と交換するための、単なる仲介要素である)、ここから M-C-M' (私が所有する貨幣を以て、私は商品を購買する。そしてより多くの貨幣を獲得するために商品を販売する)への反転。もちろん二番目の作用が働くのは、私が購買した商品がその価値よりももっと多くの価値を産出するために使用された場合に限る。そしてこの商品とは労働力である。

要するに、M-C-M' の条件は、自己言及的捻りのなかで、商品自体を産出する労働力が商品となることである(ここで別の捻りを付加しよう。遺伝子工学の爆発的な発展、すなわち諸商品を産出する一つの商品を科学的に産出することの行く末…)。

【人間の生産活動の倒錯性】
ここで耐えねばならない誘惑は、C-M-C から M-C-M' への移行を、より基本的過程の疎外・脱自然化として捉えてしまうことである。一見自然で妥当に見える、人が生産しうるが自らにとっては実際の必要でない品を、他者によって生産された必要品と交換するのは。この全過程は私の欲求によって統制されている。だが事態は奇妙な転回を起す。それは仲介要素(貨幣)にすぎなかった筈のものが、目的自体になるときである。そのとき全運動の目的は、私の実際の欲求における拠り所を失い、二次的手段化であるべき筈のものの終わりなき自己増殖へと転じる…。

C-M-C を自然で妥当と見なしてしまう誘惑に対抗して、人は強調しなければならない。C-M-C から M-C-M' への反転(すなわち自己を駆り動かす貨幣の妖怪の出現)は、既にマルクスにとって、自己駆動化された人間の生産活動の倒錯的表現である。マルクス的観点からは、人間の生産活動の真の目標は、人間の欲求の満足ではない。むしろ欲求の満足は、ある種の理性の狡知のなかで、人間の生産活動の拡張を動機づけるために使われる。


そもそもマルクスの『資本論』の価値形態をめぐる記述にあらわれる「自動的主体 automatisches Subjekt 」とは、ラカンの「無頭の主体 sujet acéphale」と等価である。

欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。

la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)
諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。

これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。

価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。

自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。

しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値 Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。

なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』)

 そしてマルクスの「剰余価値」とは「症状」のことである。

症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、…マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めうる。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)

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※付記

柄谷行人は‟Capital as Spirit“ 2016, PDFにて、資本論三巻から次の文を引用している。

“The fetish character of capital and the representation of this capital fetish is complete. In M-M' we have the irrational form of capital, in which it is taken as logically anterior to its own reproduction process; the ability of money or a commodity to valorize its own value independent of reproduction—the capital mystification in the most flagrant form”.

ここではその前後を含めて抜き出してみよう。

利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert、貨幣を生む貨幣 Geld heckendes Geld が完成されている。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld,……(マルクス『資本論』第三巻)
ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物象化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。

Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.(同『資本論』第三巻)

ーー「中身なき形態 begriffslose Form」は、柄谷行人が引用する英訳では「irrational form」となっている。邦訳では「無概念的形態」等と訳されている。だがここでは、この文の前段に「inhaltlose Form」(内容なき形式・形態)という表現があり、これと相同的なものとして捉え、敢えてこう訳した。

いずれにせよ「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」が、柄谷行人の言う「絶対フェティッシュ absolute fetish」にほかならない。

柄谷行人は上に掲げたマルクスの文を引用した直後、次のように記している。

株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級不均衡を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗に伴って起こっていることである。(‟Capital as Spirit“ 2016, PDF

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ドゥルーズが偉大な哲学者、思想家だったかは、評価の分かれるところがあるだろう。だがなにはともあれ、現在、ドゥルーズの遺言をまともに受け継いでいる者たちは、ドゥルーズ派ではなく、マルクス派、ラカン派であるに相違ない。

マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)

次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。(ドゥルーズ「思い出すこと」死二年前のインタヴュー(死後1995年に発表))