2019年1月30日水曜日

貪り喰われる不安


フロイトの観点では、享楽と不安との関係は、ラカンが同調したように、不安の背後にあるものである。欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志[volonté de jouissance insistant sans trêve]としてある。


欲動強迫[insistance pulsionnelle ]が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快がある[il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse. ]。これをラカン は一度だけ言ったが、それで十分である。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. 》( Lacan, S17, 11 Février 1970)ーー、すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[l'angoisse est signal du réel et index de la Chose]。(J.-A. MILLER,  Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004)


ーー《モノは母である。das Ding, qui est la mère》(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)


不安の信号Angstsignalがある。つまり寄る辺なき状況が到来することを予感したり、現在の状況が過去に経験された寄る辺なき状況を思いださせることである。Dies will besagen: ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse.…


不安は一方でトラウマの予感であり、他方でトラウマの緩和された形での反復である。Die Angst ist also einerseits Erwartung des Traumas, anderseits eine gemilderte Wiederholung desselben. (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)


母への依存性[Mutterabhängigkeit]のなかに、 のちにパラノイアにかかる萌芽[Keim der späteren Paranoia] が見出される。というのは、驚くべきことのようにみえるが、母に殺されてしまうという(貪り喰われてしまう?)という規則的に遭遇する不安[ regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?)]があるからである。このような不安[Angst]は、小児の心に躾や身体の始末のことでいろいろと制約をうけることから、母に対して生じる憎悪[Feindseligkeit]に対応する。(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女というものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. (ラカン, S17, 11 Février 1970)


メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957)



ラカンは穴をS(Ⱥ)と記述した。un trou, qu'il a inscrit S de grand A barré (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001) 

あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ)の効果[an effect of S(Ⱥ) as a sucking vagina dentata, eventually as an astronomical black hole absorbing all energy ](ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?、1997)



ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir 2, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)


母なる去勢 [La castration maternelle]とは、幼児にとって貪り喰われること [dévoration]とパックリやられること[morsure]の可能性を意味する。この母なる去勢が先立っているのである [cette antériorité de la castration maternelle]。父なる去勢はその代替に過ぎない[la castration paternelle en est un substitut]。…父には対抗することが可能である。…だが母に対しては不可能だ。あの母に呑み込まれ [engloutissement]、貪り喰われこと[dévoration]に対しては。(ラカン, S4, 05 Juin 1957)



ラカンの母は、《quaerens quem devoret》(『聖ペテロの手紙』)という形式に相当する。すなわち母は「貪り喰うために誰かを探し回っている」。ゆえにラカンは母を、鰐・口を開いた主体として表現した。La mère lacanienne correspond à la formule quaerens quem devoret. elle cherche quelqu’un à dévorer, et Lacan la présente ensuite comme le crocodile, le sujet à la gueule ouverte.(J.-A. Miller, La logique de la cure, 1993)



真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)


(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊[la révélation de l'image terrifiante, angoissante]、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象[l'objet primitif]そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落[abîme de l'organe féminin]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[le gouffre et la béance de la bouche]、すべてが終焉する死のイマージュ[l'image de la mort, où tout vient se terminer ]…(ラカン、S2, 16 Mars 1955)


構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。(Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)

〈大文字の母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, [...] c’est le nom du premier trou (Colette Soler, Humanisation ? ,2014)

2019年1月23日水曜日

女性の享楽簡潔版

【享楽=女性の享楽】
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


【女性の享楽=自体性愛】 
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)

※参照:自体性愛と去勢の原像



【女性の享楽=性関係はない】 
女性の享楽(「他の享楽 autre jouissance」)、それは社会的結びつきから排除されたものである。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé 、2009)
・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール, L'être et l'un、2011)



【女性の享楽=サントーム】
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps …(Miller, L'Être et l'Un、2 mars 2011)
症状(サントーム・原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。…この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。…それは身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un、23/03/2011)


 【固着の対象としての女性の享楽】
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽は欲望の法 la loi du désirによって明示化されうるものではない。享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。 du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事としての享楽は欲望の法とは反対である。享楽は欲望の弁証法としては捉えられない。そうではなく、享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
《一のようなものがある Yad'lun 》とは《非二 pas deux》であり、それは即座に《性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel 》と解釈されうる。 (ラカン、S19、17 Mai 1972)



【現実界のトラウマとしての反復強迫】
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復(反復強迫)は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)


【不気味な女性の享楽】
フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは「他の享楽」(女性の享楽)に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)



⋯⋯⋯⋯

※付記

【性別化の式のデフレ】
ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。

(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(ミレール 、JACQUES-ALAIN MILLER、「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年)


女性の享楽=身体の享楽=自閉症的享楽】
身体の享楽(女性の享楽)は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)
後期ラカンは自閉症の問題にとり憑かれていた hanté par le problème de l'autism。自閉症とは、後期ラカンにおいて、「他者」l'Autre ではなく「一者」l'Un が支配することである。…「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、「一者のリビドー的神秘 secret libidinal de l'Un」が。(ミレール、LE LIEU ET LE LIEN、2001)
自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007)
自閉症的享楽としての身体固有の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN 、2000)

→「女性の享楽とは死の欲動のこと




リビドー固着という人間の根

フロイトとラカン理論の核心は、Richard Boothbyが既に2001年に簡潔明瞭に言っている次の内容以外にない。

『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)


Boothbyのいう「欲動代理」とは表象代理であり、原抑圧である。

われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。……

欲動代理 Triebrepräsentanz は抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。

それはいわば暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者のようなもの fremd に思われるばかりか、異常で危険な欲動の強さTriebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)

そして表象代理とは、《穴としての対象a [En tant que trou, l'objet a]》(ミレール、L’image reine、2016)である。

表象代理 représentant de la représentationとは…対象aである。c'est cet objet(a) (ラカン、S13, 18 Mai 1966)
表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung とした。 (ラカン、S11、03 Juin 1964)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


そして欲動代理(表象代理)あるいは原抑圧とは、リビドー固着(欲動固着)である(参照:原抑圧・固着文献)。

精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)
・後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。

・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)


「リビドー固着 Libidofixierungen」には、必ず残存現象 Resterscheinungenあるいは残存物 Resteがある。フロイトの異物、ラカンの異者としての身体(あるいは対象a)。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまたファルス期 phallisch-genitalen Platz にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうる。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

フロイトは同じこの論で、「リビドー固着Libidofixierungen」に相当するものを「欲動の根Triebwurzel」ともしている。これらが、いまだ原抑圧概念のない時期の『夢判断』(1900)にて、フロイトが「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」「夢の臍 Nabel des Traums」「菌糸体 mycelium」と呼んだものである。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

2019年1月20日日曜日

純化された症状(黒いフェティッシュ fétiche noir )

【黒いフェティッシュと骨象a(文字対象a)】
享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年)

ーー《純粋対象、黒いフェティッシュpur objet, fétiche noir. 》(S10, 16 janvier 1963)

骨象、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]( Lacan, S23、11 Mai 1976)
対象a の二重の機能、「見せかけ semblantとしての対象a」と「骨象 osbjet としての対象a 」double fonction de l’objet (a) : comme semblant et comme le nomme Lacan« osbjet » dans la dernière leçon du Séminaire XXIII.(Samuel Basz、L'objet (a), semblant et « osbjet ».2018)


【純化された症状(サントーム)と文字固着a】
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》という無意識とは異なり、その外に出る(外立する)もの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., 1975, pp.106-107摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の固有の享楽を示す。《私は症状を、皆が無意識を享楽する仕方として定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。

ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。「性関係はない」という彼のテーゼに則るために。(ポール・バーハウ他 Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


【文字固着と身体の上への刻印】
・後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。

・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)


【リビドー固着の置き残し】
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)
固着とは何かが固着されたままになる、心的領域外部に置き残されたままになるという意味である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)


【S2なきS1と固着(サントーム)】
R.S.I. (1974-1975)のセミネール22にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字 lettre」の概念を通した対象a を明示した。この文字は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着している実体 substance である。

対照的に、シニフィアンは、言語的価値を獲得した或る文字である。シニフィアンの場合、欲動の現実界は、すでに象徴界に浸透されている。すなわち、記号化されている。この論拠内で、ラカンは「文字」、あるいは対象a を、主人のシニフィアンS1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、このS1 はS2 (他の諸シニフィアンの一群)から隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。(ポール・バーハウ他 , Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)



【身体の出来事と対象a】
症状(原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
なぜラカンは、このセミネール10「不安」において、執拗なまでに、対象aを主体の側に、大他者ではない側に位置させたのであろうか。対象aは、いわば、己れ固有の身体の享楽 jouissance du corps(=女性の享楽)の表現 expression・変形 transformationであり、自閉症的 autistique、閉じた fermé 享楽だからである、--ラカンは、aを、フロイトのモノ das Ding とも呼べる次元まで閉じたferméeものにしたのである。(Introduction à la lecture du Séminaire L’angoisse de Jacques Lacan, Jacques-Alain Miller、2004)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps。 (Miller, L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


【女性の享楽と反復強迫】
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復(反復強迫)は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


【不気味な女性の享楽】
フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは「他の享楽」(女性の享楽)に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)





2019年1月17日木曜日

フロイトの「自動反復 Automatismus」とラカンの「現実界」

 【欲動要求の飼い馴らしの不可能性】
「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。

しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイである。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)

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【自動反復(反復強迫)】
私は昨年言ったことを繰り返そう、フロイトの『制止、症状、不安』は、後期ラカンの教えの鍵 la clef du dernier enseignement de Lacan である。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, Le PartenaireSymptôme  19/11/97)
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
…フロイトの『終りある分析と終りなき分析』(1937年)の第8章とともに、われわれは、『制止、症状、不安』(1926年)の究極の章である第10章を読まなければならない。…そこには欲動が囚われる反復強迫 Wiederholungszwangの作用、その自動反復 automatisme de répétition( Automatismus)の記述がある。

そして『制止、症状、不安』11章「補足 Addendum B 」には、本源的な文 phrase essentielle がある。フロイトはこう書いている。《欲動要求は現実界的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist(exigence pulsionnelle est quelque chose de réel)》。J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011

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自我が、抑圧(放逐)の過程によって危険な欲動興奮 Triebregungへの防衛に成功したなら、エスのこの部分は、確かに制止され損なわれる。だが同時に、エス自身にある程度の独立性Unabhängigkeitが与えられ、自我は本来の主権 Souveränitätをある程度放棄する。

これは、抑圧(放逐 Verdrängung)の性質からくる不可避なことである。抑圧は、根本的には逃避の試み Fluchtversuch である。抑圧されたものは今、いわば無法(vogelfrei 暴れ馬)である。抑圧されたものは、自我の大きな組織から放り出され ausgeschlossen、無意識の領野を支配する法にのみ従う。

危険状況が変化すると、自我は抑圧されていたものと類似の新たな欲動興奮Triebregungに対して、防衛の動因をもたなくなり、自我束縛 Icheinschränkung の効果がはっきりしてくる。

この新しい欲動の息吹き Triebablauf は、「自動反復 Automatismus」の影響下の軌道にある、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」というのを好むーーー。それは、あたかも克服した危険がまだ存在するかのように、以前に抑圧されたものと同じ道を辿るのである。

したがって抑圧において固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es であり、このエスは、通常の環境においては、自由に動く自我の働きfrei bewegliche Funktion des Ichsによって取り消されているだけなのである。

自我は自分で作った抑圧の防壁 Schranken der Verdrängung を破って、欲動興奮Triebregung に対してその影響力をまた獲得し、新たな欲動の息吹き Triebablauf の軌道を、変化した危険状況におうじて左右することもできる筈である。

だが実際は、自我はこれにめったに成功せず、その抑圧を取り消せない。おそらく、この闘争は量的な関係に依存する。

ある場合には、この成り行きは避け難いという印象をもつ。抑圧された欲動興奮 verdrängten Regung の退行的引力 regressive Anziehung と抑圧の強さが非常に大きいため、新たな欲動興奮 neuerliche Regung は反復強迫に従うほかにない。

他の場合は、別の力の働きの寄与をわれわれは感知する。抑圧された原型 verdrängten Vorbilds (原抑圧)によって行使される引力 Anziehung は、現実の生活における困難から来る斥力 Abstoßung によって強化されるが、これは新たな欲動興奮 Triebregung が、ほかのあらゆる異なった進路を取ることに逆らう。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
我々は現実的不安 Realangst と神経症的不安 neurotische Angstとの区別を次のように理解している。すなわち現実的危険 Realgefahr は外部の対象 äußeren Objekt からやって来るが、神経症的不安は欲動要求 Triebanspruch によって人を脅かす。この欲動要求が現実的な何ものかである Triebanspruch etwas Reales ist とするなら、神経症的不安も現実的なものに根ざしていると認めうる。

我々は、不安と神経症とのあいだの特別な密接関係の理由は、次の事実のためだと考えた。つまり、自我は不安反応 Angstreaktion の助けをかりて外的危険 äußeren Realgefahrと同じように欲動危険 Triebgefahr から身をまもるが、この防衛作用 Abwehrtätigkeit の動きは、心的装置 seelischen Apparats の不完全性Unvollkommenheitのせいで、神経症をもたらす。(フロイト『制止、症状、不安』第11章)


【自動反復と現実界】

ジャック=アラン・ミレールは、上のフロイトの二つの文を後期ラカンの「現実界」の核だとしているのである。たとえば上のフロイト文にある「自動反復 Automatismus=反復強迫 Wiederholungszwanges」とは、ラカンの次の二つの言明にあたる。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

※参照:女性の享楽は享楽自体のこと



【トラウマ化された享楽と固着】
・分析経験において、われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。dans l'expérience analytique. Nous avons affaire à une jouissance traumatisée

・分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る。Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation. (L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、Jacques-Alain Miller 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽は欲望の法 la loi du désirによって明示化されうるものではない。享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。これは欲望の法とは反対である。享楽は欲望の弁証法としては捉えられない。そうではなく、享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


【享楽と自体性愛】 
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

享楽=自体性愛とする以外に、享楽自体が、《自閉症的享楽 jouissance autiste》(ラカン、S10)ーー自己状態の享楽ーーともされるが、その理由は、フロイトの次の文が示している。

自体性愛Autoerotismus。…性的活動の最も著しい特徴は、この欲動は他の人andere Personen に向けられたものではなく、自らの身体 eigenen Körper から満足を得ることである。それは自体性愛的 autoerotischである。(フロイト『性欲論三篇』1905年)


【自体性愛の底にある去勢】 

上の自体性愛Autoerotismusこそ身体の自動反復Automatismusである。そしてこの自体性愛の底には去勢がある。

ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

※参照:自体性愛と去勢の原像



【反復とトラウマ】
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『心理学草案 』に次のような形で現れる。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる。

フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)


【モノ、穴、トラウマ】

モノとは穴のことである。

モノ la Chose とは大他者の大他者 l'Autre de l'Autreである。…モノとしての享楽 jouissance comme la Chose とは、l'Autre barré [Ⱥ]と等価である。(ジャック=アラン・ミレール 、Les six paradigmes de la jouissance Jacques-Alain Miller 1999)
大他者のなかの穴は Ⱥと書かれる trou dans l'Autre, qui s'écrit Ⱥ (UNE LECTURE DU SÉMINAIRE D'UN AUTRE À L'AUTRE Jacques-Alain Miller、2007)
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ーー繰り返し強調しておけば、ラカンにとって、穴とはトラウマのことである。「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」(S21、19 Février 1974)



【穴と引力】

上に引用した『制止、症状、不安』第10章には、《抑圧された原型 verdrängten Vorbilds (原抑圧)によって行使される引力 Anziehung 》という文があった。

さらにもう一文引用すれば、

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第2章1926年)


この引力をもたらす原抑圧(リビドー固着)が、穴でありトラウマである(参照:原抑圧・固着文献)。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている (ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


【去勢=享楽控除】

原抑圧(固着)、穴(トラウマ)、モノ(原初に喪われた対象)、この三語ーープラス「去勢」ーーこれらが後期ラカンの現実界の核心である。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っている。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)


【快原理の彼岸にある不気味な反復強迫】 
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)
心的無意識のうちには、欲動興奮 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)




2019年1月14日月曜日

自体性愛と去勢の原像

フロイトは、幼児が己れの身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…私は、これに不賛成 n'être pas d'accordである。…

自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro. (LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)

ーーこの発言後、ラカンは症例ハンスをめぐって語り、「自体性愛 autoérotisme」に反対する理由を、「異物 (異者étrangère)」という語によって説明している。要するに、上の文に現れる「ヘテロ的 hétéro」とは、「異性の」という意味ではなく、「異物の」という意味である。

フロイトは性的現実を自体性愛的と呼んだ。だがラカンはこの命題に反対した。性的現実は興奮・小さな刺し傷との遭遇に関係する。「遭遇」が意味するのは、自体性愛的ではなく、ヘテロ的、異物的である。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
一般的に、幼児のセクシャリティは厳密に自体性愛的だと言われる。だが、私の観点からは、これはフロイトとその幼児性愛の誤った読解である。

…幼児は部分欲動から来る興奮を外的から来る何か、ラカンが文字「a」にて示したものとして経験する。幼児はこの欲動を統御できない。この欲動を、全体としての身体自体に帰するものとして経験することさえできない。唯一、母(母なる大他者)の反応を通してのみ、子供は、心理的には、自分の身体にアクセス可能なのである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、Sexuality in the Formation of the Subject、2005年)

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《自体性愛 auto-érotisme》という語の最も深い意味は、自身の欠如 manque de soiである。欠如しているのは、外部の世界 monde extérieur ではない。…欠如しているのは、自分自身 soi-même である。(ラカン、S10, 23 Janvier 1963)
原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

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享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…

問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)

※より詳しくは「四種類の去勢」参照。


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【フロイトによる去勢の原像】
人間の最初の不安体験 Angsterlebnis は出産であり、これは客観的にみると、母からの分離 Trennung von der Mutter を意味し、母の去勢 Kastration der Mutter (子供=ペニス Kind = Penis の等式により)に比較しうる。(フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)
(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自分自身の身体の重要な一部の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、あらゆる去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)



【ラカンによる去勢の原像】
何かが原初に起こったのである。それがトラウマの神秘の全て tout le mystère du trauma である。すなわち、かつて「A」の形態 la forme Aを取った何か。そしてその内部で、ひどく複合的な反復の振舞いが起こる…その記号「A」をひたすら復活させよう faire ressurgir ce signe A として。(ラカン、S9、20 Décembre 1961)
例えば胎盤 placenta は…個体が出産時に喪う individu perd à la naissance 己の部分、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴する symboliser が、乳房 sein は、この自らの一部分を代表象 représente している。(ラカン、S11、20 Mai 1964)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている。…それは喪われた対象 l'objet perdu (=モノ)の機能かかわる…享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.…
フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse 」への探求の相 dimension de la rechercheがある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
(フロイトの)モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象objet perduである。(ラカン、S17, 14 Janvier 1970)

ーー《(フロイトによる)モノ、それは母である。das Ding, qui est la mère 》(ラカン、 S7 16 Décembre 1959)

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。

・人は臍の緒 cordon ombilical によって、何らかの形で宙吊りになっている。瞭然としているは、宙吊りにされているのは母によってではなく、胎盤 placenta によってである。(ラカン、1975, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

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自体性愛とは原ナルシシズムと等価な概念として捉えうる。




(鏡像段階図の)丸括弧のなかの (-φ) という記号は、リビドーの貯蔵 réserve libidinale と関係がある。この(-φ) は、鏡のイマージュの水準では投影されず ne se projette pas、心的エレルギーのなかに充当されない ne s'investit pas 何ものかである。

この理由で(-φ)とは、これ以上削減されない irréductible 形で、次の水準において深く充当(カセクシス=リビドー化)されたまま reste investi profondément である。

ーー自身の身体の水準において au niveau du corps proper

ーー原ナルシシズム(一次ナルシズム)の水準において au niveau du narcissisme primaire

ーー自体性愛の水準において au niveau de ce qu'on appelle auto-érotisme

ーー自閉症的享楽の水準において au niveau d'une jouissance autiste
(ラカン、S10、05 Décembre 1962)

したがって、表題の「自体性愛と去勢の原像」とは、「原ナルシシズムと去勢の原像」と言い換えうる。

これは、上に引用したジャック=アラン・ミレールが言っている内容にかかわる。

原ナルシシズムの深淵な真理である自体性愛…。享楽自体は、自体性愛 auto-érotisme・己れ自身のエロス érotique de soi-mêmeに取り憑かれている。そしてこの根源的な自体性愛的享楽 jouissance foncièrement auto-érotiqueは、障害物によって徴づけられている。…去勢 castrationと呼ばれるものが障害物の名 le nom de l'obstacle である。この去勢が、己れの身体の享楽の徴 marque la jouissance du corps propre である。(Jacques-Alain Miller Introduction à l'érotique du temps、2004)

したがって「去勢の原像」の項を参照すれば、「原ナルシシズム」とは「原マザーコンプレクス」と呼びうる。