2019年1月20日日曜日

純化された症状(黒いフェティッシュ fétiche noir )

【黒いフェティッシュと骨象a(文字対象a)】
享楽が純化される jouissance s'y pétrifie とき、黒いフェティッシュ fétiche noir となる。(ラカン、E773、Kant avec Sade 1963年)

ーー《純粋対象、黒いフェティッシュpur objet, fétiche noir. 》(S10, 16 janvier 1963)

骨象、文字対象a [« osbjet », la lettre petit a]( Lacan, S23、11 Mai 1976)
対象a の二重の機能、「見せかけ semblantとしての対象a」と「骨象 osbjet としての対象a 」double fonction de l’objet (a) : comme semblant et comme le nomme Lacan« osbjet » dans la dernière leçon du Séminaire XXIII.(Samuel Basz、L'objet (a), semblant et « osbjet ».2018)


【純化された症状(サントーム)と文字固着a】
対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、《無意識は言語のように構造化されている L'inconscient est structuré comme un langage》という無意識とは異なり、その外に出る(外立する)もの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(Lacan, 1974-75, R.S.I., 1975, pp.106-107摘要)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の固有の享楽を示す。《私は症状を、皆が無意識を享楽する仕方として定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。

ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。「性関係はない」という彼のテーゼに則るために。(ポール・バーハウ他 Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)
「一」Unと「享楽」jouissanceとの結びつき connexion が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。…フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、L'être et l'un、IX. Direction de la cure、2011年)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字-固着 lettre-fixion、文字-非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である…

現実界の定義のすべては次の通り。常に同じ場 toujours à la même place かつ象徴界外 hors symbolique にあるものーーなぜならそれ自身と同一化しているため car identique à elle-mêm--であり、反復的 réitérable でありながら、差異化された他の構造の連鎖関係なし sans rapport de chaîne à d'autre Sa のものである。したがってラカンが現実界的無意識 l'inconscinet réel について注釈した二つの定式の結束としてある。すなわち「一のようなものがある y a de l'Un」と「性関係はない "y a pas" du RS」。(コレット・ソレール、"Avènements du réel" Colette Soler, 2017年)


【文字固着と身体の上への刻印】
・後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。

・ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍--「夢の臍 Nabel des Traums」「我々の存在の核 Kern unseres Wese」ーー、固着のために「置き残される」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『ジェンダーの彼岸 BEYOND GENDER 』、2001年)


【リビドー固着の置き残し】
実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917)
固着とは何かが固着されたままになる、心的領域外部に置き残されたままになるという意味である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST? 1999)


【S2なきS1と固着(サントーム)】
R.S.I. (1974-1975)のセミネール22にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字 lettre」の概念を通した対象a を明示した。この文字は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着している実体 substance である。

対照的に、シニフィアンは、言語的価値を獲得した或る文字である。シニフィアンの場合、欲動の現実界は、すでに象徴界に浸透されている。すなわち、記号化されている。この論拠内で、ラカンは「文字」、あるいは対象a を、主人のシニフィアンS1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、このS1 はS2 (他の諸シニフィアンの一群)から隔離されたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。(ポール・バーハウ他 , Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントーム sinthome と呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽は「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(L'être et l'un、notes du cours 2011 de jacques-alain miller)



【身体の出来事と対象a】
症状(原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
なぜラカンは、このセミネール10「不安」において、執拗なまでに、対象aを主体の側に、大他者ではない側に位置させたのであろうか。対象aは、いわば、己れ固有の身体の享楽 jouissance du corps(=女性の享楽)の表現 expression・変形 transformationであり、自閉症的 autistique、閉じた fermé 享楽だからである、--ラカンは、aを、フロイトのモノ das Ding とも呼べる次元まで閉じたferméeものにしたのである。(Introduction à la lecture du Séminaire L’angoisse de Jacques Lacan, Jacques-Alain Miller、2004)
サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps。 (Miller, L'Être et l'Un、30 mars 2011)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
純粋な身体の出来事としての女性の享楽 la jouissance féminine qui est un pur événement de corps (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)


【女性の享楽と反復強迫】
最後のラカンの「女性の享楽」は、セミネール18 、19、20とエトゥルディまでの女性の享楽ではない。第2期 deuxième temps がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle。

その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)
反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復(反復強迫)は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


【不気味な女性の享楽】
フロイトは言っている、「不気味なもの」は快原理の彼岸、つまりファルス快楽の彼岸 beyond the pleasure principle, beyond phallic pleasure に横たわるものに関係すると。それは「他の享楽」(女性の享楽)に結びつけられなければならない。すなわち、脅威をもたらす現実界のなかのシニフィアンの外部に横たわる享楽である。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 、DOES THE WOMAN EXIST? 1999)
心的無意識のうちには、欲動蠢動(欲動興奮 Triebregungen )から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)