2019年9月10日火曜日

「財政的幼児虐待」の犠牲者から加害者へ

財政的幼児虐待 Fiscal Child Abuse」とは、ボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff の造りだした表現で、 日本でも一部で流通しているが、現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いることを言う。

つまり「財政的幼児虐待」の内実は次のような意味である。

公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである(ジャック・アタリ『国家債務危機』2011年 )
 簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(池尾和人「経済再生 の鍵は不確実性の解消」2011)

 「財政的幼児虐待」とは本来、いまここにいない「未来の他者への虐待」を言わんとしたことだが、日本の場合はそれだけではない。いまここに生きている若者たちがすでに、すくなくとも30年まえから引き続く「財政的幼児虐待の犠牲者」である。


たとえば「これからの日本のために 財政を考える」(財務省、令和元年6月、PDF)に示されている図をいくつか抜き出してみよう。





1990年から2019年の30年のあいだに公共事業、教育、防衛などの歳出はなにも増えてない。増えたのは社会保障費と、それにほとんどその社会保障費を補填するのみの国債費だけである。

歳入のほうはこうだ。





ーー歳出は増え続けているのに、税収はほとんど増えていない。これが1990年以降の財政的幼児虐待、つまり負担の未来世代への先送りを示す最も簡潔な二図である。


ようするに少子高齢化社会で高齢者一人あたりの労働人口が減るなか、消費税をはじめとする国民負担率を上げなくてはならない必然性があったにもかかわらず、政治がその役割から逃げてきたせいで財政赤字が雪だるま式に巨額な数値となってしまったのである。








一般に虐待された者が虐待し返すのは精神分析においては「常識」である。

過去の性的虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010)

これはレイプ被害者が加害者になりやすい機微を指摘しているのだが、この天秤の左右の皿関係は性的なものには限らない。より一般化すれば、受動的立場におかれた者たちは能動的にやりかえすというメカニズムが人間にはある。

容易に観察されるのは、性愛の領域ばかりではなく、心的経験の領域においてはすべて、受動的に受け取られた印象[passiv empfangener Eindruck]が小児には能動的な反応を起こす傾向[Tendenz zu einer aktiven Reaktion]を生みだすということである。以前に自分がされたりさせられたりしたことを自分でやってみようとするのである。

それは、小児に課された外界に対処する仕事[Bewältigungsarbeit an der Außenwelt]の一部であって、…厄介な内容のために起こった印象の反復の試み[Wiederholung solcher Eindrücke bemüht]というところまでも導いてゆくかもしれない。

小児の遊戯もまた、受動的な体験を能動的な行為によって補い[passives Erlebnis durch eine aktive Handlung zu ergänzen] 、いわばそれをこのような仕方で解消しようとする意図に役立つようになっている。

医者がいやがる子供の口をあけて咽喉をみたとすると、家に帰ってから子供は医者の役割を演じ、自分が医者に対してそうだったように自分に無力な幼い兄弟をつかまえて、暴力的な処置を反復wiederholenするのである。受動性への反抗と能動的役割の選択 [Eine Auflehnung gegen die Passivität und eine Bevorzugung der aktiven Rolle]は疑いない。(フロイト『女性の性愛』1931年)

今の若者たちが財政的受動性に置かれているのは周知の事実であろう。





したがって現在、財政的虐待を如実に感じているにちがいない若者たちが、たとえば能動的に未来の他者に対して暴力をふるうという傾向が生じるのはやむえない。彼らは、たとえば20年後の未来の若者たちに「財政的幼児虐待」を実践しているのである。

その最も具体的な例としては、「消費税をなくせ!」という要請である。





消費税をなくしたらほかの税や社会保険料を本来あげなくてはならない。ほかの税とは基本的にすべて労働人口への負担に偏った税である。消費税のみが全人口への負担税である。





なお日本の法人税率は他国比べとこんな具合らしい。




おそらく財性的知識の不備もあるだろうから、やむえないこととはいえ、今の若い人たちは、消費税増反対とは、むしろ勤労世代である若者たちにいっそう負担を増すことに帰結するのではないかとまず疑ったほうがいい。

日本の財政は、世界一の超高齢社会の運営をしていくにあたり、極めて低い国民負担率と潤沢な引退層向け社会保障給付という点で最大の問題を抱えてしまっている。つまり、困窮した現役層への移転支出や将来への投資ではなく、引退層への資金移転のために財政赤字が大きいという特徴を有している(「DIR30年プロジェクト「超高齢日本の30年展望」」大和総研2013、武藤敏郎監修)

※なお行政側の直近の説明はここにある→「消費税増税の使い道をわかりやすく解説」(2019年9月5日)。

さらにもっとはっきりしているのは、現在負担増に反対することは、未来の若者にたいする財政的幼児虐待の「加害者」であることである。歴史はくり返される、マルクスがいったように「笑劇としてくり返される」とは言わないでおこう。

いずれにせよーー消費税を下げたならば、消費が活性化して経済成長が起こりうるかもなどという一部の左翼ポピュリスト政治家(大衆迎合主義者)の夢を信用する前にーー、未来の若者にたいする財政的虐待の実践者であることは自覚しておいたほうがよいのではないだろうか。

経済成長については、わたくしは今のところ次のような見解をとっている。


アメリカの潜在成長率は 2.5%弱であると言われているが、アメリカは移民が入っていることと出生率が高いことがあり、生産年齢人口は年率1%伸びている。日本では、今後、年率1%弱で生産年齢人口が減っていくので、女性や高齢者の雇用を促進するとしても、潜在成長率は実質1 %程度に引き上げるのがやっとであろう。

丸めた数字で説明すれば,、アメリカの人口成長率が+1%、日本は-1%、生産性の伸びを日米で同じ 1.5%と置いても日本の潜在成長率は 0.5%であり、これをさらに引き上げることは難しい。なお過去 20年間の1人当たり実質GDP 成長率は、アメリカで 1.55%、日本は 0.78%でアメリカより低いが、これは日本においては失われた 10 年といった不況期があったからである。

潜在成長率の引上げには人口減少に対する強力な政策が必要だが、出生率を今すぐ引き上げることが出来たとしても、成人して労働力になるのは20年先であり、即効性はない。今すべき政策のポイントは、人口政策として移民政策を位置づけることである。現在は一時的に労働力を導入しようという攻策に止まっているが、むしろ移民として日本に定住してもらえる人材を積極的に受け入れる必要がある。(『財政赤字・社会保障制度の維持可能性と金融政策の財政コスト』深尾光洋、2015年)