永遠回帰・悦楽回帰
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ああ、どうして私は永遠を求める激しい渇望に燃えずにいられよう? 指輪のなかの指輪である婚姻の指輪を、ーーあの回帰の輪を求める激しい渇望に!
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Oh wie sollte ich nicht nach der Ewigkeit brünstig sein und nach dem hochzeitlichen Ring der Ringe, - dem Ring de Wiederkunft!
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私はまだ自分の子供を産ませたいと思う女に出会ったことがないーーだが、ただ一人私が愛し、その子供が欲しい女がここにいる。おお、永遠よ!私はおまえを愛している。
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Nie noch fand ich das Weib, von dem ich Kinder mochte, sei denn dieses Weib, das ich lieb: denn ich liebe dich, oh Ewigkeit!
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私はおまえを愛しているのだ、おお、永遠よ!
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Denn ich liebe dich, oh Ewigkeit!
(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「七つの封印 Die sieben Siegel 」第6節)
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おまえ、葡萄の木よ。なぜおまえはわたしを讃えるのか。わたしはおまえを切ったのに。わたしは残酷だ、おまえは血を噴いているーー。おまえがわたしの酔いしれた残酷さを褒めるのは、どういうつもりだ。
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Du Weinstock! Was preisest du mich? Ich schnitt dich doch! Ich bin grausam, du blutest -: was will dein Lob meiner trunkenen Grausamkeit?
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「完全になったもの、熟したものは、みなーー死ぬことをねがう!」そうおまえは語る。だから葡萄を摘む鋏はしあわせだ。それに反して、成熟に達しないものはみな、生きようとする。いたましいことだ。
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"Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!" so redest du. Gesegnet, gesegnet sei das Winzermesser! Aber alles Unreife will leben: wehe!
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苦痛は語る、「過ぎ行け、去れ、おまえ、苦痛よ」と。しかし、苦悩するいっさいのものは、生きようとずる。成熟して、悦楽を知り、あこがれるために。
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Weh spricht: "Vergeh! Weg, du Wehe!" Aber Alles, was leidet, will leben, dass es reif werde und lustig und sehnsüchtig,
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ーーすなわち、より遠いもの、より高いもの、より明るいものをあこがれるために。「わたしは相続者を欲する」苦悩するすべてのものは、そう語る。「わたしは子どもたちを欲する、わたしが欲するのはわたし自身ではない」と。ーー
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- sehnsüchtig nach Fernerem, Höherem, Hellerem. "Ich will Erben, so spricht Alles, was leidet, ich will Kinder, ich will nicht _mich_," -
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しかし、悦楽は相続者を欲しない、子どもたちを欲しない、ーー悦楽が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同ーだ。
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Lust aber will nicht Erben, nicht Kinder, - Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.
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苦痛は言う。「心臓よ、裂けよ、血を噴け。足よ、さすらえ。翼よ、飛べ。痛みよ、高みへ、上へ」と。おお、わたしの古いなじみの心臓よ、それもいい、そうするがいい。痛みはいうのだ、「去れよ」と。
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Weh spricht: "Brich, blute, Herz! Wandle, Bein! Flügel, flieg! Hinan! Hinauf! Schmerz!" Wohlan! Wohlauf! Oh mein altes Herz: Weh spricht: "vergeh!"
(第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第9節)
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おまえたちは、かつて悦楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。
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Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -
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……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――
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- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第10節、1885年)
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悦楽 Lustが欲しないものがあろうか。悦楽は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――
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_was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(「酔歌 Das Nachtwandler-Lied 」第11節)
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おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
悦楽 Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての悦楽 Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!」(『ツァラトゥストラ』「酔歌」第12節)
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Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«
(Friedrich Nietzsche , Also sprach Zarathustra , Das Nachtwandler-Lied )
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生の永遠回帰・創造の永遠の悦楽
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何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である 。総体としてに真の生である。生殖を通した生、セクシャリティの神秘を通した生である。
このゆえにギリシア人にとっては性的象徴は畏敬すべき象徴自体であり、全古代的敬虔心内での本来的な深遠さであった。生殖、受胎、出産のいとなみにおける一切の個々のものが、最も崇高で最も厳粛な感情を呼びおこした。密儀の教えのうちでは苦痛が神聖に語られている。すなわち、「産婦の陣痛 Wehen der Gebärerin」が苦痛一般を神聖化し――、一切の生成と生長、一切の未来を保証するものが苦痛の条件となっている・・・創造の永遠の悦楽 ewige Lust des Schaffens があるためには、生への意志 Wille zum Leben がおのれを永遠にみずから肯定するためには、永遠に「産婦の陣痛」もまたなければならない・・・これら一切をディオニュソスという言葉が意味する。すなわち、私は、ディオニュソス祭のそれというこのギリシア的象徴法以外に高次な象徴法を知らないのである。そのうちでは、生の最も深い本能tiefste Instinkt des Lebens が、生の未来への、生の永遠性 Ewigkeit des Lebens への本能が、宗教的に感じとられている、――生への道そのものが、生殖が、聖なる道として感じとられている・・・(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1888年)
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種こそすべて
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十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放 letzten Befreiung と非責任性Unverantwortlichkeit への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年)
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Jouissance = Libido = lust = Liebestriebe
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ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
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学問的に、リビドー Libido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「 Lust」という語がただ一つ適切なものである。(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)
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すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
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リビドーは情動理論 Affektivitätslehre から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギー Energie solcher Triebe をリビドーLibido と呼んでいるが、それは愛Liebeと総称されるすべてのものを含んでいる。
……哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。…
この愛の欲動 Liebestriebe を、精神分析ではその主要特徴と起源からみて、性欲動 Sexualtriebe と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
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出生によるリビドー(=不死の生)の控除
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このラメラlamelle、この器官organe、それは実在しない ne pas exister という特性を持ちながら、 それにもかかわらずひとつの器官なのだが ... 、 それはリビドー libidoである。
これはリビドー、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのリビドーである。 つまり、不死の生 vie immortelle、禁圧できない生 vie irrépressible、いかなる器官 organe も必要としない生、単純化されており破壊されえない生 vie simplifiée et indestructible、そういう生の本能である。それは、有性生殖のサイクル cycle de la reproduction sexuée に従うことによって生物l'être vivantから控除されたsoustraitものである。
対象 a[ l'objet(a)]について挙げることのできるすべての形態formes は、これの代理表象représentants、これと等価のもの équivalents である。諸対象 a [les objets a] はこれの代理表象、これの形象 figures に過ぎない。
乳房 Le seinは、両義的なもの équivoque として、哺乳類の有機組織に特徴的な要素として、例えば胎盤 le placentaという個体が誕生の際に喪うl'individu perd à la naissanceこの自らの一部分 cette part de lui-même を、即ち、最も深く喪われた対象 le plus profond objet perdu を象徴するsymboliser ことのできるものを、 代理表象représenter しているのである 。 (ラカン、S11, 20 Mai 1964)
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生命ある物質は、死ぬ部分と不死の部分とに分けられる。die Unterscheidung der lebenden Substanz in eine sterbliche und unsterbliche Hälfte her…だが胚細胞は潜在的に不死である。die Keimzellen aber sind potentia unsterblich (フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)
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フロイトは、胚芽germen、卵子と精子cet ovule et ce spermatozoïdeの二つの単位を語っている。…それはざっと次のように言い得る。この要素の融合において生じるものは何か?ーー新しい存在である。c'est de leur fusion que s'engendre - quoi ? - un nouvel être. だがこれは細胞分裂(減数分裂 méiose)なし、控除なしでは起こらない。la chose ne va pas sans une méiose, sans une soustraction…或る要素の控除la soustraction de certains élémentsがあるのである。(ラカン, S20, 20 Février 1973)
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享楽の去勢=享楽の控除
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われわれにとって享楽は去勢である。pour nous la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている。それはまったく明白ことだ。Tout le monde le sait, parce que c'est tout à fait évident(Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
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(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
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エロス=大他者の享楽
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エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
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エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
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大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]……それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
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大他者の享楽=死
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大他者の享楽 [jouissance de l'Autre] 、すなわちエロスありうるのは、…死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
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死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
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JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
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享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
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死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE, Enjoyment and Impossibility, 2006)
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永遠に喪われている対象の周りの循環運動=享楽回帰運動
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反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに! [« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]
…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (喪われた対象)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
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生の目標は死・母胎回帰運動
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生の目標は死である。Das Ziel alles Lebens ist der Tod.……
有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)
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以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
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人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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享楽の漂流=死の漂流(死の欲動)
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私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。[j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. ](ラカン、S20、08 Mai 1973)
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人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort …もっとましな訳語はないものだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
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古代ギリシア語には「生」を表現する二つの語、「ゾーエーZoë」(永遠の生)と「ビオス Bios」(個人の生)があった。アガンベンのはこのゾーエーを「剥き出しの生」としているが、ここで示すゾーエーは、アガンベンのそれではなく、カール・ケレーニイ解釈のゾーエーである。
ゾーエー Zoë はすべての個々のビオス Bios をビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根』1976年)
ゾーエー(永遠の生)は、タナトス(個別の生における死)の前提であり、この死もまたゾーエーと関係することによってのみ意味がある。死はその時々のビオス(個別の生)に含まれるゾーエーの産物なのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根 』1976年)
おまえたちは、かつて悦楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。
……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第10節、1885年)
わたしがケレーニイから学んだことは、ゾーエーというのはビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命だということです。ケレーニイは「ゾーエーは死を知らない」といいますが、そして確かにゾーエーは、有限な生の終わりとしての「死」は知らないわけですが、しかしゾーエー的な生ということをいう場合、わたしたちはそこではまだ生きていないわけですよね。ビオス的な、自己としての個別性を備えた生は、まだ生まれていない。そして私たちが自らのビオスを終えたとき、つまり死んだときには、わたしたちは再びそのゾーエーの状態に帰っていくわけでしょう。
だからわたしは、このゾーエーという、ビオスがそこから生まれてきて、そこに向かって死んでいくような何か、あるいは場所だったら、それを「生」と呼ぼうが「死」と呼ぼうが同じことではないかと思うわけです。ビオス的な個人的生命のほうを「生」と呼びたいのであれば、ゾーエーはむしろ「死」といったほうが正解かもしれない。(木村敏 『臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために』2008年)
個体の死(タナトス)による不死の生への回帰、これが永遠の生=ゾーエーである。