2019年12月24日火曜日

症状の二重構造


享楽の穴の穴埋めとしての倒錯
倒錯とは、「父に向かうヴァージョン version vers le père」以外の何ものでもない。要するに、父とは症状である le père est un symptôme。…私はこれを「père-version」(父の版の倒錯)と書こう。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
倒錯は、欲望に起こる偶然の出来事ではない。すべての欲望は倒錯的である Tout désir est pervers。享楽が、象徴秩序が望むような場には決してないという意味で。(MILLER, L'Autre sans Autre 、2013)
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.( ラカン、E825、1960年)
倒錯者は、大他者のなかの穴を穴埋めすることに自ら奉仕する le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre, (ラカン、S16、26 Mars 1969)
享楽自体、穴を為すものである jouissance même qui fait trou。(ジャック・アラン=ミレール 、Passion du nouveau、2003)
身体は穴である。corps…C'est un trou(Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)
大他者は身体である。L'Autre c'est le corps! (ラカン、S14, 10 Mai 1967)
大他者の享楽…問題となっている他者は、身体である。la jouissance de l'Autre.[…] l'autre en question, c'est le corps . (J.-A. MILLER, 9/2/2011)
ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (ラカン、S23, 10 Février 1976)
現実界は …穴=トラウマ troumatisme を為す。(Lacan, S21, 19 Février 1974)




倒錯は人間の本質である
フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である toute sexualité humaine est perverse。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明する inventer une nouvelle perversion ことさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme 。我々の実践は何と不毛なことか!(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
身体側からの反応 somatisches Entgegenkommen
私の見るかぎり、ヒステリー症状には、どれも心身両面の関与が必要である。それはある身体器官 Organe des Körpers の、正常ないし病因的現象によってなされるある種の「身体側からの反応 somatisches Entgegenkommen」がなければ、成立しない。……
いわゆる性倒錯のなかで、比較的嫌悪を与えない倒錯は、著述家をのぞき世人が皆知っているように、我が国民中に広く存在している。というよりも、むしろ著者たちもそのことを知っている、というべきかもしれない。ただ彼らは、それについて書こうと筆をとる瞬間に、そのことを忘れようと努めるだけなのである。それゆえ、このような性行為の表出(性器の吸啜)[Sexualverkehrs (des Saugens am Gliede)]が起こることを耳にしていたやがて十九歳になるヒステリー嬢が、無意識の幻想を展開させ、喉の刺激感覚と咳[Sensation von Reiz im Halse und durch Husten]によって表現したことはなんら不思議ではない。

そして私が他の女性患者について確定しえたと同じように、彼女が外から教えられなくて、このような幻想に到達できたとしても、これまた驚くにはあたらない。というのは、ドラの例では、倒錯の実際行為とやがて重なりあるこのような幻想を、独力でつくりかげるための身体的前提条件 somatische Vorbedingungが、注目すべき事実であたえられたのである。
彼女は自分が子供のころ、「指啜りっ子」Lutscherinであったことをよく憶えていた。父もまた、彼女にその習慣をやめさせるのに、四歳か五歳になるまでかかったことを思いだした。ドラ自身も、彼女が左の親指をしゃぶりながら、片隅の床に坐り、右手で、そこに静かに座っている兄の耳たぶをむしっていた幼年時代の光景をはっきり記憶している。これこそ指しゃぶりによる自慰の完全な例であって、それについては他の患者もーー後には感覚麻痺の患者やヒステリーの患者もーー報告してくれたのである。私はそのなかのひとりから、この特異な習慣の由来を明らかにする報告をうることができた。この少女は、指しゃぶりの悪習をどうしてもやめられなかったのであったが、子供のころを回想したさいーー彼女のいうところでは、二歳の前半のことーー乳母の乳房を吸いつつ、乳母の耳たぶをリズミカルにひっぱっている自分の姿を思いだした。唇と口腔粘膜が一次的な性感帯[Lippen- und Mundschleimhaut für eine primäre erogene Zone ]と見なしうることには、誰も異論を差しはさまぬだろう。なぜなら、この意味の一部分は、正常なものとされている接吻にも温存されているのであるから。
この性感帯の早期における十分な活動が、後日、唇からはじまる粘膜道の「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen」の条件となるのである。そして本来の性的対象、つまりペニス [eigentliche Sexualobjekt, das männliche Glied]をすでに知っている時期に、温存されていた口腔性感帯の興奮がふたたび高進するような事情が生れると、すべての源である乳首、それからその代理をつとめていた手指のかわりとして、現実の性的対象、すなわちペニスのイメージを自慰のさいに用いることには、創造力をたいして使う必要もない。こうして、…フェラチオ(ペニスを吸うSaugen am Penis)という倒錯的幻想も、もっとも無邪気な源から発している。それは母または乳母の乳房を吸う[Saugen an der Mutter- oder Ammenbrust」という、先史的ともいえる幻想の改変されたものなのであり、普通、それは乳をのんでいる乳幼児との出会いでふたたび活発化したものなのである。その場合、たいていは乳牛の乳首が、母の乳首とペニスのあいだの中間表象Mittelvorstellung zwischen Brustwarze und Penis として使用される。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)
症状の二重構造
ここで、咳 Husten や嗄れ声 Heiserkeit の発作に対して見出したさまざまな決定因を総括してみたい。地階Zuunterst in der Schichtung には「器官的な誘引としてのリアルな咳の条件 realer, organisch bedingter Hustenreiz」 があることが推定され、それは「真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」のようなものである。

この刺激は固着しうる Reiz ist fixierbar が、それはその刺激がある身体領域と関係するからであり、ドラの場合、その身体領域 Körperregionが性感帯 erogenen Zone としての意味をもっているからなのである。したがってこの領域は興奮したリビドー erregten Libidoを表現するのに適しており、(このカタル Katarrhs)はおそらく、最初の心的外被psychische Umkleidungである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片 Bruchstück einer Hysterie-Analyse(症例ドラ)』1905年)
フロイトはその理論の最初から、症状には二重の構造があることを識別していた。一方には「欲動」、他方には「心的なもの」である。ラカン用語なら、現実界と象徴界である。

これはフロイトの最初の事例研究「症例ドラ」に明瞭に現れている。この事例において、フロイトは防衛理論については何も言い添えていない。防衛の「精神神経症」については、既に先行する二論文(1894, 1896)にて詳述されている。逆に「症例ドラ」の核心は、症状の二重構造だと言い得る。フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動に関する要素である。彼はその要素を「身体側からの反応 Somatisches Entgegenkommen」という用語で示している。この語は、『性欲論三篇』にて、「リビドーの固着 Fixierung der Libido(欲動の固着 fixierten Trieben)」と呼ばれるようになったものである。(⋯⋯

この二重構造の光の下では、どの症状も二様の方法で研究されなければならない。ラカンにとって、恐怖症と転換症状は《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)に帰着する。つまり欲動の現実界へ象徴的形式を与えるものである。したがって症状とは、享楽の現実界的核のまわりに設置された構築物である。フロイトの表現なら、《真珠貝が真珠を造りだすその周囲の砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 》(『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905)。享楽の現実界は症状の地階あるいは根なのであり、象徴界は上部構造なのである。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way 、2002)
現勢神経症と精神神経症という二重構造
現勢神経症Aktualneuroseは(…)精神神経症psychoneuroseに、必要不可欠な「身体側からの反応 somatische Entgegenkommen」を提供する。現勢神経症は刺激性の(興奮を与える)素材を提供する。そしてその素材は「心的に選択され、心的外被 psychisch ausgewählt und umkleidet」を与えられる。従って一般的に言えば、精神神経症の症状の核ーー真珠の核にある砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perleーーは身体-性的な発露から成り立っている。(フロイト『自慰論』Zur Onanie-Diskussion、1912年)
現勢神経症 Aktualneurose の症状は、しばしば、精神神経症 psychoneurose の症状の核Kernであり、先駆け Vorstufe である。この種の関係は、神経衰弱 neurasthenia と「転換ヒステリー Konversionshysterie」として知られる転移神経症 Übertragungsneurose、不安神経症 Angstneurose と不安ヒステリー Angsthysterie とのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症 Hypochondrie とパラフレニア Paraphrenie (早期性痴呆 dementia praecox と パラノイア paranoia) の名の下の障害形式のあいだにもある。

ヒステリー 的頭痛あるいは腰痛を例にとろう。分析が示すのは、これは、圧縮Verdichtungと置換 Verschiebung を通しての、一連の全リビドー 的幻想 libidinösen Phantasien あるいは記憶 Erinnerungen にとっての代理満足 Befriedigungsersatz だということである。

しかしこの苦痛はかつてはリアルなものだった Schmerz war auch einmal real。当時、この苦痛は直接の性的中毒症状 sexualtoxisches Symptom だった。すべてのヒステリー症状は、このような核 Kern をもっていると主張するどんな手段もわれわれは持たないが、これはきわめてしばしば起こっており、リビドー 興奮 libidinöse Erregung による身体の上への影響 Beeinflussungen des Körpers の全標準的あるいは病因的なものは、ヒステリー症状形成 Symptombildung der Hysterie の殆どの支柱である。

したがってリビドー興奮は、「母なる真珠の実体 Perlmuttersubstanz の層もった真珠貝を包む砂粒 Sandkorns, welches das Muscheltier mit den Schichten von Perlmuttersubstanz 」の役割を果たす。同様に、性行為 Geschlechtsakt をともなう性的興奮 sexuellen Erregung の一時的徴 vorübergehenden Zeichenは、精神神経症によって、症状形成にとっての最も便利で適当な素材としてつかわれる。(フロイト『精神分析入門』第24章、1916年)
「現勢神経症/精神神経症」=「原抑圧/抑圧」
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。……

原抑圧 Verdrängungen は現勢神経症 Aktualneurose の原因として現れ、抑圧Verdrängungenは精神神経症 Psychoneurose に特徴的である。(……)

現勢神経症 Aktualneurosen の基礎のうえに、精神神経症 Psychoneurosen が発達する。(……)

外傷性戦争神経症 traumatischen Kriegsneurosenという名称はいろいろな障害をふくんでいるが、それを分析してみれば、おそらくその一部分は現勢神経症 Aktualneurosen の性質をわけもっているだろう。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)
DSMにおける「パニック障害 panic disorder」、「身体化障害 Somatization disorder」 、「分類困難な身体表現性障害 Undifferentiated somatoform disorder 」には、底に横たわる共通の心的構造がある、とわれわれは考えている。この構造は、フロイトの「現勢神経症 Aktualneurose」概念を基礎にすると最も理解しやすい。(ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER: BY PAUL VERHAEGHE, STIJN VANHEULE, AND ANN DE RICK 、2007)
原抑圧と欲動の現実界・サントーム
欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。…原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン、 Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)
四番目の用語(Σ:サントームsinthome)にはどんな根源的還元もない Il n'y a aucune réduction radicale、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。…そして私が目指すこの穴trou、それを原抑圧自体のなかに認知する。(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍(夢の臍)であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に翻訳されないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
異物としての症状=固着としての症状
フロイトには「真珠貝が真珠を造りだすその周りの砂粒 Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet 」という名高い隠喩がある。砂粒とは現実界の審級にあり、この砂粒に対して防衛されなければならない。真珠は砂粒への防衛反応であり、封筒あるいは容器、ーー《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66、1966)ーーすなわち原症状の可視的な外部である。内側には、元来のリアルな出発点が、「異物 Fremdkörper」として影響をもったまま居残っている。

フロイトはヒステリーの事例にて、「身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「身体からに反応」とは、いわゆる「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着 Fixierung」点である。ラカンに従って、我々はこの固着点のなかに、対象a を位置づけることができる。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics,、2004)
自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…

われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。

自我は、二次的な防衛闘争 sekundäre Abwehrkampf において、原症状の異郷性 Fremdheitと孤立性 Isolierung を取り除こうとするものと考えられる。…この二次的症状によって代理されるのは、内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)
原抑圧=リビドーの固着(享楽の固着)
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心的(表象-)代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
疑いもなく、症状(原症状=サントーム)は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 – 12/03/2008)
フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)
幼児期の純粋な偶然的出来事 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)




結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient.

このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)





※付記


現勢神経症(現実神経症)と外傷神経症の近似性
戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
今日の講演を「外傷性神経症」という題にしたわけは、私はPTSDという言葉ですべてを括ろうとは思っていないからです。外傷性の障害はもっと広い。外傷性神経症はフロイトの言葉です。

医療人類学者のヤングによれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。

もっともフロイトもこの二つはあんまり論じていないのですね。私はとりあえずこの言葉(外傷性神経症)を使う。時には外傷症候群とか外傷性障害とか、こういう形でとらえていきたいと思っています。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
現実神経症と外傷神経症との相違は、何によって規定されるのであろうか。DSM体系は外傷の原因となった事件の重大性と症状の重大性によって限界線を引いている。しかし、これは人工的なのか、そこに真の飛躍があるのだろうか。

目にみえない一線があって、その下では自然治癒あるいはそれと気づかない精神科医の対症的治療によって治癒するのに対し、その線の上ではそういうことが起こらないうことがあるのだろう。心的外傷にも身体的外傷と同じく、かすり傷から致命的な重傷までの幅があって不思議ではないからである。しかし、DSM体系がこの一線を確実に引いたと見ることができるだろうか。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
分裂病の底にありうる外傷神経症
統合失調症と外傷との関係は今も悩ましい問題である。そもそもPTSD概念はヴェトナム復員兵症候群の発見から始まり、カーディナーの研究をもとにして作られ、そして統合失調症と診断されていた多くの復員兵が20年以上たってからPTSDと再診断された。後追い的にレイプ後症候群との同一性がとりあげられたにすぎない。われわれは長期間虐待一般の受傷者に対する治療についてはなお手さぐりの状態である。複雑性PTSDの概念が保留になっているのは現状を端的に示す。いちおう2012年に予定されているDSM-Ⅴのためのアジェンダでも、PTSDについての論述は短く、主に文化的相違に触れているにすぎない。

しかし統合失調症の幼少期には外傷的体験が報告されていることが少なくない。それはPTSDの外傷の定義に合わないかもしれないが、小さなひびも、ある時ガラスを大きく割る原因とならないとも限らない。幼児心理において何が重大かはまたまだ探求しなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
治療はいつも成功するとは限らない。古い外傷を一見さらにと語る場合には、防衛の弱さを考える必要がある。⋯⋯⋯統合失調症患者の場合には、原外傷を語ることが治療に繋がるという勇気を私は持たない。

統合失調症患者だけではなく、私たちは、多くの場合に、二次的外傷の治療を行うことでよしとしなければならない。いや、二次的外傷の治療にはもう少し積極的な意義があって、玉突きのように原外傷の治療にもなっている可能性がある。そうでなければ、再演であるはずの二次的外傷が反復を脱して回復することはなかろう。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年初出『徴候・記憶・外傷』所収)
外傷神経症の治癒方法
私は外傷患者とわかった際には、①症状は精神病や神経症の症状が消えるようには消えないこと、②外傷以前に戻るということが外傷神経症の治癒ではないこと、それは過去の歴史を消せないのと同じことであり、かりに記憶を機械的に消去する方法が生じればファシズムなどに悪用される可能性があること、③しかし、症状の間隔が間遠になり、その衝撃力が減り、内容が恐ろしいものから退屈、矮小、滑稽なものになってきて、事件の人生における比重が減って、不愉快な一つのエピソードになってゆくなら、それは成功である。これが外傷神経症の治り方である。④今後の人生をいかに生きるかが、回復のために重要である。⑤薬物は多少の助けにはなるかもしれない。以上が、外傷としての初診の際に告げることである。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー一つの方針」初出2003年)
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)




■症状展開図









原抑圧
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(フロイト『抑圧』Die Verdrangung、1915年)
翻訳の失敗、これが臨床的に「(原)抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ  6,12, 1896)

エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
(原)抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧Verdrängungenは、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえる。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)