2019年12月8日日曜日

穴の機能としての高所恐怖症


仮厦子はかなり重度の高所恐怖症である。高所恐怖症の起源は、究極的には穴の機能にかかわると最近考えるようになった。幼児期に(記憶は定かではないが)ちょっとした出来事があったのである。


スタンダール的出来事はたしかに記憶にある。


雌鹿体験

私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。 (……)


ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を飛び越えた。cette femme vive et légère comme une biche sauta par dessus mon matelas pour atteindre plus vite à son lit. (スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)


ひょとして雌鹿体験は高所の感覚につながるのだろうか。


高所の感覚[sentiment de l'altitude]

あなたにはわかるんじゃないかな、スタンダールのなかの、精神生活とむすびついた高所の感覚[sentiment de l'altitude]といったものを。ジュリアン・ソレルが囚えられている高い場所[le lieu élevé où Julien Sorel est prisonnier]、ファブリスがその頂上にとじこめられている高い塔[la tour au haut de laquelle est enfermé Fabrice]、ブラネス神父がそこで占星術に専念し、ファブリスがそこから美しいながめに一瞥を投げる鐘塔[l'abbé Barnès s'occupe d'astrologie et d'où Fabrice jette un si beau coup d'œil]。あなたはいつかぼくにいったことがあってけれど、フェルメールのいくつかの画面を見て、あなたによくわかったのは、それらがみんなおなじ一つの世界の断片だということであり、天才的な才能で再創造されてはいても、いつもおなじテーブル、おなじカーペット、おなじ女、おなじ新しくてユニークな美だということだった、つまりその美は当時には謎であって、その当時にもしもわれわれが主題の上でその美をほかにつなぐのではなく色彩が生みだす特殊の印象だけをひきだそうとしても、その美に似たものはほかに何もなく、その美を説明するものはほかに何もなかったということになるんですよ。(プルースト『囚われの女』)



とはいえそもそもこの経験だけでもないのである。 朧な記憶ではあるが、別の出来事もあったように思う。寝ている母の布団のなかに足のほうから潜って、何やらやっていたかすかな記憶がないではない・・・


風景あるいは土地の夢で、われわれが、ここへは一度きたことがある[Da war ich schon einmal.]とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャヴュ déjà vu〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母の性器[Genitale der Mutter] である。事実「すでに一度そこにいたことがある [dort schon einmal war]」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる[er besuche eine Wohnung, in der er schon zweimal gewesen sei.]という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母の陰部に指をつっこんだことがあった[Finger ins Genitale der Schlafenden einzuführen.](フロイト『夢解釈』1900年)


いかにもフロイト的になってしまうが、この程度のことは一定の割合の男児はやっているのではなかろうか?


なお仮厦子がしばしば襲われる原風景(原幻想)は鎮守の森である。





夢は反復的夢となる時その地位を変える。夢が反復的なら夢はトラウマである。le rêve change de statut quand il s'agit d'un rêve répétitif. Quand le rêve est répétitif on implique un trauma. (J.-A. Miller, Lire un symptôme, 2011)


十代は反復的夢であったが、性交を経験した十八歳からは徐々に収まり、かわりにの並木道に代替された。


初性交の場がなんとネット上に落ちている。




長年の憧憬の対象であった少女ーーとても豊かな腰をもった女ーーに故郷の町の陸軍墓地の墓石の台座にのっていただき、鬱蒼とした森の奥をじっくり眺めてコトがなされた。晩夏の昼下がり、蝉しぐれのなか、樟のざわめきのなかである。


われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


ところが二年ほど前からまた鎮守の森の白昼夢が復活し出した。いわゆるムージル感覚に何度も襲われる・・・、《内側に落ちこんだ渦巻のくぼみのように、たえず底へ底へ引き込む虚無の吸引力よ……。》(ムージル『特性のない男』)


理由はある程度わかっているのだがここでは記さないでおく。


真の女は常にメデューサである。une vraie femme, c'est toujours Médée. (J.-A. Miller, De la nature des semblants, 20 novembre 1991)

メドゥーサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。[Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.](ラカン、S4, 27 Février 1957)

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者との同一化がある。それは起源としての原母 [primal mother] であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽の本源的状態[original state of pure jouissance]を再創造しようとする。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年)



………………


さてここでの本題、高所恐怖症の記述を掲げる。



高所恐怖症 Höhenphobien

外部(現実)の危険[äußere (Real-) Gefahr] は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化[Verinnerlichung]されざるをえないのであって、この外部の危険は寄る辺なさ(無力さ[Hilflosigkeit])経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。

注)自我がひるむような満足を欲する欲動要求[Triebanspruch] は、自分自身にむけられた破壊欲動[Destruktionstrieb]としてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応[Angstreaktion]が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症[Höhenphobien](窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している[ ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe]。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)


欲動要求はリアルな何ものかである [Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

欲動のリアルがある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou..(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)


大他者の享楽の対象になることが、本来の享楽の意志である。[D'être l'objet d'une jouissance de l'Autre qui est sa propre volonté de jouissance]…


問題となっている大他者は何か?…この常なる倒錯的享楽…見たところ(母子)二者関係に見出しうる。その関係における不安…この不安がマゾヒストの盲目的目標である [Où est cet Autre dont il s'agit ?    […]toujours présent dans la jouissance perverse, […]situe une relation en apparence duelle. Car aussi bien cette angoisse…。cette angoisse qui est la visée aveugle du masochiste,](ラカン, S10, 6 Mars 1963)



この大他者はもちろん母なる大他者、あるいはモノの名である。


大文字の母は原リアルの名であり、原穴の名である。Mère,  …c’est le nom du premier réel, […]c’est le nom du premier trou(Colette Soler, Humanisation ? , 2014)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959)

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)