すべての愛の関係の原型
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小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。
Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)
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子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。
最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、後ののすべての愛の関係性の原型Vorbild aller späteren Liebesbeziehungenとしての母であり、男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、死後出版1940年)
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上に母の乳房が、原ナルシシズム的リビドー備給 の対象とあるが、究極の原ナルシシズムリビドーの対象は、乳房ではなく、出生とともに喪われた母胎である。
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出生とともに喪われた母胎回帰=原ナルシシズム運動
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人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
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自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
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以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
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人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』第5章、死後出版1940年)
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喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
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ラカンの考え方もフロイトと同様である。
わたくしの知る限りで、ラカンの最後の享楽の定義は次のものである。
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享楽は去勢である
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享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…
問いはーー私はあたかも曖昧さなしで「去勢」という語を使ったがーー、去勢には疑いもなく、色々な種類があることだ il y a incontestablement plusieurs sortes de castration。(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
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享楽の控除=リビドーの控除
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(- φ) [le moins-phi] は去勢 castration を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 une soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(J.-A. MILLER , Retour sur la psychose ordinaire, 2009)
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リビドー libido は、…人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)
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ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
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原初にある去勢とは出生に伴う母からの分離である。
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去勢の原像=母という自己身体の分離
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乳児はすでに母の乳房が毎回ひっこめられるのを去勢、つまり自己身体の一部分Körperteils の喪失Verlustと感じるにちがいないこと、規則的な糞便もやはり同様に考えざるをえないこと、そればかりか、出産行為 Geburtsakt がそれまで一体であった母からの分離 Trennung von der Mutter, mit der man bis dahin eins war として、すべての去勢の原像 Urbild jeder Kastration であるということが認められるようになった。(フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註)
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去勢ー出産 Kastration – Geburtとは、全身体から一部分の分離 die Ablösung eines Teiles vom Körperganzenである。(フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)
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ラカンはこの喪失を胎盤の喪失と言っている。
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例えば胎盤 placentaは、個人が出産時に喪なった individu perd à la naissance 己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象 l'objet perdu plus profondをシンボライズする。(ラカン, S11, 20 Mai 1964)
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ラカンの享楽とは、自己身体の享楽jouissance du corps propreのことであり、フロイトの自体性愛(自己身体エロスAutoerotismus)と等価であると、現在の主流臨床ラカン派において強調されている。
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
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だがこの自己身体エロスとしての自体性愛(自己身体の享楽)における「自己身体」とは、文字通りの自己身体ではなく、究極的には、母からの分離によって喪われた自己身体ーー胎児期や乳幼児期には自分の身体だと見なしていた自己身体ーーであり、「母なる自己身体」である。これを異者としての身体とも呼ぶ。
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われわれにとっての異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン, S23, 11 Mai 1976)
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自己身体の享楽はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)
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自己身体エロスとしての自体性愛とは、究極的には、母なる異者身体エロスなのである。
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自体性愛=自己身体エロス=母なる異者身体エロス
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フロイトは、幼児が自己身体 propre corps に見出す性的現実 réalité sexuelle において「自体性愛 autoérotisme」を強調した。…が、自らの身体の興奮との遭遇は、まったく自体性愛的ではない。身体の興奮は、ヘテロ的である。la rencontre avec leur propre érection n'est pas du tout autoérotique. Elle est tout ce qu'il y a de plus hétéro.
…ヘテロhétéro、すなわち「異物的(異者的 étrangère)」である。
(LACAN CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME、1975)
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ラカンは享楽の対象を、喪われた対象としてのモノだと言っている。
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享楽の対象=モノ=喪われた対象
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反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに! [« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]
…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)
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このモノの享楽としての大他者の享楽(享楽自体)とは、喪われた母を取り戻す運動であるが、この母は母のイマージュではなく、上に記してきたように去勢によって喪われた「母なる異者身体」であり、究極の享楽とは「母なる異者身体の享楽」である。
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去勢は享楽の名である。la castration est le nom de la jouissance 。 (J.-A. MILLER, - L'Être et l 'Un 25/05/2011)
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私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
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「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
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この永遠に喪われている母なる身体を取り戻す運動を、別名、享楽の漂流と呼ぶ。
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享楽の漂流=死の漂流(死の欲動)
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私は(フロイトの)欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)
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人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)
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なぜ死の漂流なのか。真に融合してしまえば、死しかありえないから。事実上、融合とは母なる大地への帰還である。
したがって、究極の享楽・究極のエロスは死である。
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大他者の享楽=エロス=死
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エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
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エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
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大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
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大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort. に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
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以上、原ナルシシズムリビドーとしての母胎回帰は、享楽回帰運動であり、死への道である。
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死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S.17、26 Novembre 1969)
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享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
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2020年2月24日月曜日
すべての愛の関係の原型
祀られた母(妣)
祀られた母(妣)
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すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)
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……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)
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偉大な母なる神
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偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)
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偉大なる母、神たちのあいだで最初の「白い神性」、父の諸宗教に先立つ神である。la Grande Mère, première parmi les dieux, la Déesse blanche, celle qui, nous dit-on, a précédé les religions du père (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME 2015)
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父の諸名に先立つ母の名 le nom de la Mère
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ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかにこうある。父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
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ラカンは言っている、最も根源的父の諸名 Les Noms du Père は、母なる神だと。母なる神は父の諸名に先立つ異教である。ユダヤ的父の諸名の異教は、母なる神の後釜に座った。おそらく最初期の父の諸名は、母の名である the earliest of the Names of the Father is the name of the Mother 。(ジャック=アラン・ミレールThe Non-existent Seminar 、1991)
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神は女である
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問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)(ラカン、S23、18 Novembre 1975)
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大他者はない。…この斜線を引かれた大他者のS(Ⱥ)…il n'y a pas d'Autre[…]ce grand S de grand A comme barré [S(Ⱥ)]…
「大他者の大他者はある」という人間にとってのすべての必要性。人はそれを一般的に神と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、神とは単に「女というもの」だということである。La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、S23、16 Mars 1976)
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神は母なる超自我 S(Ⱥ) である
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一般的に神と呼ばれる on appelle généralement Dieu もの……それは超自我と呼ばれるものの作用 fonctionnement qu'on appelle le surmoi である。(ラカン, S17, 18 Février 1970)
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我々は母なる超自我 surmoi mère を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。( ジャック=アラン・ミレール1988、THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)
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太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque(ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
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「エディプスなき神経症概念 notion de la névrose sans Œdipe」…ここにおける原超自我 surmoi primordial…私はそれを母なる超自我 le surmoi maternel と呼ぶ。
…問いがある。父なる超自我 Surmoi paternel の背後derrièreにこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
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母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
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私の観点では、乳房の取り入れは、超自我形成の始まりである。…したがって超自我の核は、母の乳房である。In my view[…]the introjection of the breast is the beginning of superego formation[…]The core of the superego is thus the mother's breast, (Melanie Klein, The Origins of Transference, 1951)
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宗教的観念の起源 寄る辺なさを保護してくれる母
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宗教的観念も、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれた。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』1927年)
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天災に直面した人類が、おたがいのあいだのさまざまな困難や敵意など、一切の文化経験をかなぐり捨て、自然の優位にたいしてわが身を守るという偉大な共同使命に目覚める時こそ、われわれが人類から喜ばしくまた心を高めてくれるような印象を受ける数少ない場合の一つである。(……)
このようにして、われわれの寄る辺ない Hilflosigkeit 状態を耐えうるものにしたいという要求を母胎とし、自分自身と人類の幼児時代の寄る辺ない Hilflosigkeit 状態への記憶を素材として作られた、一群の観念が生まれる。これらの観念が、自然および運命の脅威と、人間社会自体の側からの侵害という二つのものにたいしてわれわれを守ってくれるものであることははっきりと読みとれる。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』1927年ーー旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』)
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(症状発生条件の重要なひとつに生物学的要因があり)、その生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける寄る辺なさ Hilflosigkeit と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスから自我への分化 Differenzierung des Ichs vom Es が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、喪われた子宮内生活 verlorene Intrauterinleben をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
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子供の最初のエロス対象 erotische Objekt は、この乳幼児を滋養する母の乳房Mutterbrustである。愛は、満足されるべき滋養の必要性への愛着Anlehnungに起源がある。疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体 eigenen Körper とのあいだの区別をしていない。乳房が分離され「外部 aussen」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給 ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung の部分と見なす。
最初の対象は、のちに、母という人物 Person der Mutter のなかへ統合される。この母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者 ersten Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性の原型Vorbild aller späteren Liebesbeziehungenとしての母であり、男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、死後出版1940年)
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女は存在しないが、母はいる Il y a la mère
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ラカンは女は存在しないと言ったなら、はっきりしているのは、母は存在することである。母はいる。Si Lacan a dit La femme n'existe pas, c'était pour faire entendre que la mère, elle, existe. Il y a la mère. (Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME 2015)
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2020年2月18日火曜日
ダ・ヴインチ、フロイト、ラカン
自己破壊憧憬 desidera la sua disfazione
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我々の往時の状態回帰(原カオス回帰)への希望と憧憬は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi, (『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』)
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母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleib
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以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動 Triebe の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)
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人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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原ナルシシズムprimären Narzißmus
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自我の発達は原ナルシシズムから出発しており、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
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人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
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フロイト理論において、現実界は世界とは何の関係もない le Réel n'a rien à faire avec le monde。フロイトが説明していることは、自我にかかわる何か、つまり快自我 Lust-Ichである。そしてこれは原ナルシシズムの段階 étape de narcissisme primaireにある。この原ナルシシズムの特徴は、主体がないことではなく、内部と外部の関係がないことである。'il n'y a pas de rapport de l'intérieur à l'extérieur (Lacan, S23, 11 Mai 1976)
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享楽回帰運動 retour de la jouissance
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「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a (=喪われたモノ)の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
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反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…マゾヒズムmasochismeについての明示。フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。…
享楽の対象は何か? [Objet de jouissance de qui ? ]…
大他者の享楽? 確かに! [« jouissance de l'Autre » ? Certes ! ]
…フロイトのモノ La Chose(das Ding)…モノは漠然としたものではない La chose n'est pas ambiguë。それは、快原理の彼岸の水準 au niveau de l'Au-delà du principe du plaisirにあり、…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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大他者の享楽=エロス =死
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大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]…私は強調するが、ここではまさに何ものかが位置づけられる。…それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
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大他者の享楽は不可能である。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。
…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味に繋がるときだけである。le sens de ce qui relève de la mort. (ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
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原マゾヒスム運動=死への道
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真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966)
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享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel。フロイトはこれを発見したのである。(ラカン、S23, 10 Février 1976)
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死への道 Le chemin vers la mort…それはマゾヒズムについての言説であるdiscours sur le masochisme 。死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
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原マゾヒスムリビドー=自己破壊欲動=死の欲動=エスの力能
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マゾヒズムはその目標 Ziel として自己破壊 Selbstzerstörung をもっている。…そしてマゾヒズムはサディズムより古い der Masochismus älter ist als der Sadismus。
他方、サディズムは外部に向けられた破壊欲動 der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstriebであり、攻撃性 Aggressionの特徴をもつ。或る量の原破壊欲動 ursprünglichen Destruktionstrieb は内部に居残ったままでありうる。…
我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!⋯⋯⋯⋯
我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
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エスの力能 Macht des Esは、個々の有機体的生の真の意図 eigentliche Lebensabsicht des Einzelwesensを表す。それは生得的欲求 Bedürfnisse の満足に基づいている。己を生きたままにすることsich am Leben zu erhalten 、不安の手段により危険から己を保護することsich durch die Angst vor Gefahren zu schützen、そのような目的はエスにはない。それは自我の仕事である。… エスの欲求によって引き起こされる緊張 Bedürfnisspannungen の背後にあると想定された力 Kräfte は、欲動 Triebe (リビドー)と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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ラカンマテームの読み方
たとえばこうある。
上の二つはポール・バーハウのもの。そして最後のはジャック=アラン・ミレールがおりおりに示してきたものをまとめたもの。
どう判断したらいいのだろうか、このマテームの散乱ぐらいは。通常はそう思うだろう。本来、縦軸は同じ意味内容のマテームでなければいけないのに。
右端はよいだろう、しばしば示されてきた内容である。直接に明言したのはセミネール17だが、セミネール6、1959年4月8日に「大他者の大他者はない」と宣言した当然の帰結の審級にあるエディプス幻想であり、フロイトのファミリーロマンスである。
ここでの問いは左端と中央である。
冒頭図の左端のȺ が去勢(-φ) であるのは確かである。Ⱥ は穴を意味する。そして、《-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めを理解するための最も基本的方法である》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)とあるように、-φ= Ⱥ。
上の二つはポール・バーハウのもの。そして最後のはジャック=アラン・ミレールがおりおりに示してきたものをまとめたもの。
どう判断したらいいのだろうか、このマテームの散乱ぐらいは。通常はそう思うだろう。本来、縦軸は同じ意味内容のマテームでなければいけないのに。
右端はよいだろう、しばしば示されてきた内容である。直接に明言したのはセミネール17だが、セミネール6、1959年4月8日に「大他者の大他者はない」と宣言した当然の帰結の審級にあるエディプス幻想であり、フロイトのファミリーロマンスである。
名高いエディプスコンプレクスは全く使いものにならない fameux complexe d'Œdipe[…] C'est strictement inutilisable ! (Lacan, S17, 18 Février 1970)
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エディプスコンプレクスの分析は、フロイトの夢に過ぎない。c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant un rêve de FREUD. ( Lacan, S17, 11 Mars 1970)
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ここでの問いは左端と中央である。
冒頭図の左端のȺ が去勢(-φ) であるのは確かである。Ⱥ は穴を意味する。そして、《-φ の上の対象a(a/-φ)は、穴と穴埋めを理解するための最も基本的方法である》 (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, - 9/2/2011)とあるように、-φ= Ⱥ。
そしてこれを「斜線を引かれた J」するのも、ラカン自身には直接的にはその提示がないが、出生とともに「享楽の喪失」(リビドーの控除)があるとするラメラ神話等のラカン発言を受け入れれば正当的である。
(- J) ≡ (-φ) (J.-A. MILLER, - Tout le monde est fou – 04/06/2008)
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そして (-φ) が対象aであるのはラカン自身が言っている。
私は常に、一義的な仕方façon univoqueで、この対象a [objet(a)]を(-φ)[去勢]にて示している。(ラカン、S11, 11 mars 1964)
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ーーもっとも対象aには何種類もの価値があることに注意しなくてはならないが。基本は、穴と穴埋めのどちらも対象aであるが、穴は出産外傷による原穴と固着による穴、穴埋めにも何種類かの対象a(フェティッシュ、囮の対象a等)がある。
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中央のマテームはどうか。ミレールはシグマΣは、S(Ⱥ) だと言っている。
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントーム sinthome の Σ である。S(Ⱥ) を Σ として grand S de grand A barré comme sigma 記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。(ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , 6 juin 2001)
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とすれば後は、シグマΣ =S1=aを問えばよい。そうすれば、諸マテームは整合性をもつ。
まずPaul Verhaeghe &DeclercqのLacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002から引こう。
まずPaul Verhaeghe &DeclercqのLacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002から引こう。
固着=原症状(純化された症状)=純粋な対象a=性関係はない
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対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。
固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な性質をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち「症状のない主体はない」。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは「純化された症状」の問題である。すなわち、象徴的な構成物を削ぎ落としたもの、言語によって構成された無意識の外部に外立ex-sistするもの、純粋な形態での対象a、もしくは欲動である。
症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の固有の享楽を明示する。《私は、皆が無意識を楽しむ方法にて症状を定義する。彼らが無意識によって決定される限りに於て。Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine》(S22, 18 Février 1975)。ラカンは対象aよりも症状概念のほうを好んだ。性関係はないという彼のテーゼに則るために。通常の性関係自体がないなら、性的パートナーとのどの関係も症状的関係である。(Paul Verhaeghe and Declercq, Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way, 2002)
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文字=享楽の固着=純対象a=S1(S2なきS1)
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R.S.I. (1974-1975)のセミネール22(21-01-75)にて、ラカンは症状の現実界部分、あるいは「文字 lettre」概念を通した対象a を明示した。この「文字」は、欲動に関連したシニフィアンの核、現実界の享楽を固着する実体[the substance fixating the Real jouissance]である。
対照的に、シニフィアンは、言語的価値を獲得した文字である。シニフィアンの場合、欲動の現実界は、すでに象徴界に吸収されている。すなわち、記号化されている。この論拠内で、ラカンは「文字」、あるいは対象a を、主人のシニフィアンS1 と等価とする。それは次の条件においてである。すなわち、このS1 はS2 (他の諸シニフィアンの一群)から接続の切れたものとして理解されるという条件において。「文字」S1 は、S2 とつながった時にのみ、ひとつのシニフィアンに変換される。
この「文字」の考え方を以て、ラカンは、現実界と象徴界とのあいだの境界は、弱い境界だという事実を強調しようとしている。すなわち、現実界が象徴界によって植民地化されるということは、常に可能である。たとえば、諸シニフィアンの連鎖は、ドラの口唇享楽に侵入した。つまり、欲動の現実界は、神経性の咳と嗄れ声の症状を通して、記号化された。フロイトによって分析された症状の全ては、象徴界の代理部分であり、欲動の現実界は、ほとんど変わらぬままの姿で後に患者のもとに回帰した。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, 2002)
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原症状はもちろんサントームΣである。これがフロイトの固着に相当する。
いくらか補おう。
①まず最初の「固着=原症状(純化された症状)=純粋な対象a」の対象aについて。
ラカンはこれを骨象と表現している。
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骨象=文字対象a
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私が « 骨象 osbjet »と呼ぶもの、それは文字対象a[la lettre petit a]として特徴づけられる。そして骨象はこの対象a[ petit a]に還元しうる…最初にこの骨概念を提出したのは、フロイトの唯一の徴 trait unaire 、つまりeinziger Zugについて話した時からである。(ラカン、S23、11 Mai 1976)
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この骨象=文字対象aが固着であるのは、次のコレット・ソレールの注釈が示している。
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リアルな症状=固着としての症状=文字固着
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精神分析における主要な現実界の到来 l'avènement du réel majeur は、固着としての症状 Le symptôme, comme fixion・シニフィアンと享楽の結合 coalescence de signifant et de jouissance としての症状である。…現実界の到来は、文字固着 lettre-fixion、文字非意味の享楽 lettre a-sémantique, jouie である。(コレット・ソレール Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)
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バーハウで補えば、次の通り。
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後年のラカンは「文字理論」を展開させた。この文字 lettre とは、「固着 Fixierung」、あるいは「身体の上への刻印 inscription」を理解するラカンなりの方法である。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
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ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)
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骨象とは、事実上、身体の上への刻印のことである(あるいは身体に突き刺さった骨)。
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症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel, (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN, 30 nov 1974)
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症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
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そしてこの固着(享楽の固着)は、トラウマへの固着のこと。
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トラウマへの固着
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身体の出来事は、トラウマの審級にある。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard …この身体の出来事は、固着の対象 l'objet d'une fixation である。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un 、2 février 2011)
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自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。それは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1938年)
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このトラウマへの固着により身体的なものが、エス=現実界に置き残される(リビドー固着の残滓)。この意味での対象a=去勢が、文字固着である。 これはフロイトの次の文に相当する。
②次に「文字=享楽の固着=純対象a=S1(S2なきS1)」について。
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サントーム(原症状)=S1=S2なきS1
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ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。この反復的享楽 La jouissance répétitiveは「一のシニフィアン le signifiant Un」・S1とのみ関係がある。その意味は、知を代表象するS2とは関係がないということだ。この反復的享楽は知の外部 hors-savoir にある。それはただ、S2なきS1(S1 sans S2)を通した身体の自己享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(MILLER, L'Être et l'Un, 23/03/2011)
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S2なきS1=現実界的シニフィアン
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シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる le signifiant devient réel quand il est hors chaîne。(コレット・ソレールColette Soler、L'inconscient Réinventé, 2009)
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リアルな対象a=享楽の固着=S1(S2なきS1)
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ラカンは、対象aの水準における現実界を位置付けようとした [tenté de situer le réel au niveau de l'objet petit a]。シニフィアンの固着の場においてである [à la place d'une fixation de signifiant]。もしそう言えるなら、それは享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 11/12/96)
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現実界のなかのこのS1[Ce S1 dans le réel] が、おそらく、フロイトが固着と呼んだものである。私はこの用語をまさにこの今、想起する。無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
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これは上の注釈以外、何もつけ加える必要はない。
簡単なまとめをしておこう。
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サントーム=一般化症状=享楽の固着=リビドーの固着
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ラカンのサントームとは、たんに症状のことである。だが一般化された症状(誰もがもっている症状)である。Le sinthome de Lacan, c'est simplement le symptôme, mais généralisé, (J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)
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症状のない主体はない il n'y a pas de sujet sans symptôme(コレット・ソレールColette Soler, Les affects lacaniens , 2011)
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疑いもなく、症状(サントーム)は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)
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フロイトは幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)
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幼児期の純粋な偶然的出来事 rein zufällige Erlebnisse は、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道」1916年)
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上に見られるようにリビドー =享楽である。《ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽である。》(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)
固着=性関係はない
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ラカンが導入した身体は…フロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)
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ここからーーとくに「S2なきS1」ーー、次のような話になる。
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父の名の排除=S2の排除
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父の名の排除から来る排除以外の別の排除がある。il y avait d'autres forclusions que celle qui résulte de la forclusion du Nom-du-Père. (Lacan, S23、16 Mars 1976)
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「父の名の排除 」を「S2の排除 」と翻訳してどうしていけないわけがあろう?…Pourquoi ne pas traduire sous cette forme la forclusion du Nom-du-Père, la forclusion de ce S2 (Jacques-Alain Miller、L'INVENTION DU DÉLIRE、1995)
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精神病においては、ふつうの精神病であろうと旧来の精神病であろうと、我々は一つきりのS1[le S1 tout seul]を見出す。それは留め金が外され décroché、 力動的無意識のなかに登録されていない désabonné。他方、神経症においては、S1は徴示化ペアS1-S2[la paire signifiante S1-S2]による無意識によって秩序付けられている。ジャック=アラン・ミレールは強調している、父の名の排除[la forclusion du Nom-du-Père]とは、実際はこのS2の排除[la forclusion de ce S2]のことだと。(De la clinique œdipienne à la clinique borroméenne, Paloma Blanco Díaz, 2018)
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今でも日本ラカン派のなかには、父の名の排除が精神病の原因だと「バカのひとつ覚え」のように言っている人がいる。ーーいや、それではシツレイである。仏臨床主流ラカン派でもようやくごく最近認知されてきた話だから。
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精神病の主因は父の名の排除ではなく、父の名の過剰現前
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精神病の主因 le ressort de la psychose は、「父の名の排除 la forclusion du Nom-du-Père」ではない。そうではなく逆に、「父の名の過剰現前 le trop de présence du Nom-du-Père」である。この父は、法の大他者と混同してはならない Le père ne doit pas se confondre avec l'Autre de la loi 。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre, 2013)
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以上、こういった話はほんの一握りのラカン派が語ってきただけで、いまだ十分には認知されていないが、現在のわたくしは上にあげた注釈を取っているということであり、日本で一般的に流通しているらしいーー実際はよく知らないがーー注釈とは異なるのであれば、このためである。
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