2020年2月17日月曜日

集団神経症としてのカトリック教徒


宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、なやめるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆のアヘンである。(マルクス「ヘーゲル法哲学批判・序説」)

宗教的観念の起源:自然の圧倒的な優位への防衛
宗教的観念も、文化の他のあらゆる所産と同一の要求――つまり、自然の圧倒的な優位にたいして身を守る必要――から生まれた。(フロイト『あるイリュージョンの未来 Die Zukunft einer Illusion』旧訳邦題『ある幻想の未来』、新訳邦題『ある錯覚の未来』1927年)

集団神経症としてのカトリック教徒
教会ではーー便宜上、カトリック教会を見本にとってみようーー軍隊の場合とひとしくーー両者は、それ以外では大いに異なっているけれどもーー集団のすべての個人を一様に愛する首長がいる、というおなじ眩惑(イリュージョン)Vorspiegelung (Illusion)が通用している。その首長とは、カトリック教会ではキリストであり、軍隊では司令官である。万事は、このイリュージョンにかかっていて、これが消えるならば、外面的な強制がそれをゆるすかぎりは教会も軍隊も崩壊するであろう。
この平等の愛は、キリストによって明言されている。すなわち、「汝ら予のもっとも賤しき同胞の一人になせしこと、そは汝ら予になせるなり」と。キリストは信心ぶかい集団の個人個人にたいして、よき兄の関係に立っている。彼は彼らにとっては父のかわりVaterersatzである。個人にむけられるあらゆる要求は、キリストのこの愛から生まれる。民主的な様相が教会をつらぬいているのは、キリストの前では万人が平等であり、万人はひとしく愛をうけているからこそである。キリスト教団と家族との類似が強調されたり、信者たちがキリストにおける兄弟、つまり、キリストのめぐむ愛による兄弟とよび合うのには深い根拠がある。個人のキリストへの結びつきが、彼ら相互の結びつきの原因でもあることは疑うべくもない。Es ist nicht zu bezweifeln, daß die Bindung jedes Einzelnen an Christus auch die Ursache ihrer Bindung untereinander ist. 
同様のことが軍隊にもいえる。司令官は彼の兵士をとくに愛する父親であり、それゆえに兵士はたがいに戦友である。軍隊が構造のうえで教会と区別されるのは、軍隊が集団の階層構成から成り立っている点である。中隊長は彼の中隊の、いわば司令官であるし、父親であり、各下士官は彼の分隊の司令官であり、父親である。もちろんおなじ階層制度は、教会でもつくり上げられてはいるものの、それは軍隊とおなじような実質的な役割を演じない。というのは人間である司令官よりもキリストの方が、個人の事情に通じ、それを配慮することを要求されるからである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)
信者の集団の他人に対する容赦ない敵意の衝動
教会、つまり信者の共同体…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personenである。…宗教は、たとえそれが愛の宗教Religion der Liebe と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情なものである。もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で偏狭になりがちである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)

ただ一人の者への愛は一種の野蛮である。それはすべての他の者を犠牲にして行なわれるからである。神への愛もまた然りである。(ニーチェ『善悪の彼岸』)
愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、幻想の力がそこでは絶頂に達する。(ニーチェ『反キリスト者』)
愛しているときのわたしはいたって排他的になる。(フロイト『書簡集』)





ヒトラー大躍進の序文

フロイトの集団心理学は、ヒトラー大躍進の序文である。人はみなこの種の虜になり、群衆[foule]と呼ばれるものが集団になっての捕獲[la prise en masse]、ゼリー状の捕獲になるのではないか?

FREUD …la psychologie collective…préfaçant la grande explosion hitlérienne…pour que chacun entre dans cette sorte de fascination qui permet la prise en masse, la prise en gelée de ce qu'on appelle une foule ?(ラカン, S8, 28 Juin 1961)

集団は衝動的 impulsiv で、変わりやすく刺激されやすい。集団は、もっぱら無意識によって導かれている。集団を支配する衝動は、事情によれば崇高にも、残酷にも、勇敢にも、臆病にもなりうるが、いずれにせよ、その衝動はきわめて専横的 gebieterisch であるから、個人的な関心、いや自己保存の関心さえみ問題にならないくらいである。集団のもとでは何ものもあらかじめ熟慮されていない。激情的に何ものかを欲求するにしても、決して永続きはしない。集団は持続の意志を欠いている。それは、自らの欲望と、欲望したものの実現にあいだに一刻も猶予もゆるさない。それは、全能感 Allmacht をいだいている。集団の中の個人にとって、不可能という概念は消えうせてしまう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団にはたらきかけようと思う者は、自分の論拠を論理的に組みたてる必要は毛頭ない。きわめて強烈なイメージをつかって描写し、誇張し、そしていつも同じことを繰り返せばよい。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団は異常に影響をうけやすく、また容易に信じやすく、批判力を欠いている。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章)
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる。彼の情動 Affektivität は異常にたかまり、彼の知的活動 intellektuelle Leistung はいちじるしく制限される。そして情動と知的活動は両方とも、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な欲動制止 Triebhemmungen が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。

この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原初的集団 primitiven Masse における情動興奮 Affektsteigerungと思考の制止 Denkhemmung という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章)
(自我が同一化の際の或る場合)この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の「たった一つの徴 einzigen Zug 」(唯一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。…そして同情は同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。

…同一化は対象への最も原初的感情結合である Identifizierung die ursprünglichste Form der Gefühlsbindung an ein Objekt ist。…同一化は退行の道 regressivem Wege を辿り、自我に対象に取り入れ Introjektion des Objektsをすることにより、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代理物になる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章)
原初的な集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)
理念 führende Ideeがいわゆる消極的な場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存 positive Anhänglichkeit と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結つき Gefühlsbindungen を呼び起こすであろう。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)



ラカン派的観点からのいくらかの詳細は、「神との同一化」を見よ。