自己愛 Selbstliebeと理想自我 Idealich
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理想自我 Idealich は幼児期にリアルな自我 wirkliche Ich が享楽 genoßしていた自己愛 Selbstliebeに適用される(自己愛のターゲットになる)。ナルシシズムはこの新しい理想的な自我 neue ideale Ich に変位した外観を現す。それは幼児期の自我と同様にあらゆる完全性を所有する。
ここで人間は、リビドーの分野においていつでもそうであったように、ひとたび享楽した満足 genossene Befriedigungを断念するのは不可能であることを示している。彼は幼児期のナルシシズム的完全性narzißtische Vollkommenheit なしではすませないのであって、成長期にいろいろな警告によって妨げられたり、自らの判断に目覚めたりした結果、このような完全性を確保することができなくなると、彼はこれを自我理想 Ichidealいう新しい形式のなかにもう一度獲得しようとする。彼が自己の理想としてその眼前に投射projiziertするものは、彼自身が自己の理想sein eigenes Ideal であった幼児期の、 喪われたナルシシズムverlorenen Narzißmusの代理物なのである。(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
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理想自我 i’(a) と自我理想 I(A)
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・理想自我との同一化はイマジネールな同一化(想像的同一化)である。
l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire.
・自我理想は象徴的項である。le terme symbolique de l'Idéal du moi
・「自我理想との同一化」と「理想自我との同一化」の相違は、「構成する同一化」と「構成された同一化」の相違である。Cette distinction de l'Idéal du moi et du moi idéal, en tant qu'elle distingue l'identification constituante et l'identification constituée,
・象徴的自我理想は想像界の限界の一種として現れる。C'est en quoi l'Idéal du moi symbolique apparaît alors comme une sorte de limite de l'imaginaire,(JACQUES-ALAIN MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 1986 - 1987)
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想像的同一化と象徴的同一化とのあいだの関係ーー理想自我Idealichと自我理想Ich-Idealとのあいだの関係ーーは、ジャック=アラン・ミレール によって「構成された同一化」と「構成する同一化」の差異とされる。
簡単に言えば、想像的同一化とは、われわれが自身にとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。
象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、「愛するに値するように見える」ような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』1989年)
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理想自我と自我理想の関係
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一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投射 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)
注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投射を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方で理想自我は避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「新しい形式」nouvelle forme de son idéal du moiを提供すると(セミネール1)。 (ロレンゾ・チーサ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2007)
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ナルシシズムという想像的自我の享楽
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自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)
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想像界 imaginaireから来る対象、自己のイマージュimage de soi によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが i(a) と呼ばれるものである。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 09/03/2011)
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二次ナルシシズム
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われわれはナルシシズム理論について一つの重要な展開をなしうる。そもそもの始まりには、リビドーはエスのなかに蓄積され Libido im Es angehäuft、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給 erotische Objektbesetzungen に送り、次に強化された自我はこの対象備給をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象 Liebesobjekt にしようとする。このように自我のナルシシズムNarzißmus des Ichs は二次的なもの sekundärerである。(フロイト『自我とエス』第4章、1923年)
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「自我のナルシシズムは二次的なもの」=「二次ナルシシズム sekundärer Narzißmus 」(フロイト『精神分析入門』1916年)
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想像的なパッションとしての愛
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パッションとしての愛は、本質的にイマジネールな平面にあり、…対象としての自分自身の中に他者を捕獲する試みである。l'amour en tant que passion ce quelque chose qui est essentiellement du plan imaginaire[…]est essentiellement tentative de capture de l'autre dans soi-même, objet pris en tant qu'objet. (Lacan, S1, 07 Juillet 1954)
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愛とは、つまりあのイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる、そしてあなたを装う自己イマージュであり、またそれがはぎ取られるときあなたを見捨てる自己イマージュである。l'amour ; soit de cette image, image de soi dont l'autre vous revêt et qui vous habille, et qui vous laisse quand vous en êtes dérobée,(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)
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イマジネールな愛の嘘
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愛自体は見せかけに宛てられる L'amour lui-même s'adresse du semblant。…イマジネールな見せかけとは、欲望の原因としての対象a[ (a) cause du désir」を包み隠す envelopper 自己イマージュの覆い habillement de l'image de soiの基礎の上にある。(ラカン、S20, 20 Mars 1973)
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ラカン曰く、《愛を語ること自体が享楽である Parler d'amour est en soi une jouissance》(S20, 13 Mars 1973)。しかし、愛の言葉 la parole d'amour はけっして真理の言葉ではない。パートナーについて語っているという思い込みは、実は、主体が己れの享楽との関係に満足を与えているにすぎない。ラカンはあれやこれやと言う…。結論。《愛は不可能である L'amour est impossible》。 いくつものセリエが重なってゆく。ナルシシズム、嘘吐き、錯誤、喜劇、不可能。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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理想自我 i(a) 、自我理想 I(A) 、超自我 S(Ⱥ)
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フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal)」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。
〈理想自我〉は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。
〈自我理想〉は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる〈大文字の他者〉であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。
〈超自我〉はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。(ジジェク『ラカンはこう読め』2005年)
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我々は I(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、象徴的同一化 identification symbolique におけるI(A)、つまり自我理想 idéal du moi は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能 fonction essentiellement pacifiante がある。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 fonction beaucoup plus inquiétante、全く平和的でない機能 pas du tout pacifique がある。そしてこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 transcription du surmoi freudienを見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96) |
要するに自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 …それは超自我だ。 l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (ラカン、S24, 08 Février 1977) |