2023年11月11日土曜日

快の獲得文献ーー快の獲得[Lustgewinn]と剰余享楽[plus-de jouir]

 


ラカンはフロイトの快の獲得と剰余享楽を等価としている。


フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ]〔・・・〕


剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ».  …jouir le moins possible  …ça jouit au minimum ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)


さて、快の獲得[Lustgewinn]とは何か。ここではフロイトのいくつかの記述を抜き出して、剰余享楽との結びつきを検証してみる。


…………………



①欲動断念に伴う快の獲得=代理満足=症状

欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4  Triebverzicht、1939年)


代理満足とは症状であり、不安を避けるものである。

症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)

すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)



フロイトにおける不安はトラウマ=不快=欲動であり、これが享楽である。


不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章)


ラカンにおける享楽は不快=穴(トラウマの穴)である。


不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


すなわちーー《享楽はトラウマの審級にある[la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


以上から、快の獲得=剰余享楽は、欲動=享楽を避けるための代理満足としての症状ということになる。これはラカンが次のように言っていることにも相当する。


剰余享楽は言説の効果の下での享楽の廃棄機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ](Lacan, S16, 13  Novembre  1968)



②快の獲得=欲動の昇華

われわれの心的装置が許容する範囲でリビドーの目標をずらせること、これによってわれわれの心的装置の柔軟性は非常に増大する。つまり、欲動の目標をずらせることによって、外界が拒否してもその目標の達成が妨げられないようにする。この目的のためには、欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]が役立つ。

Eine andere Technik der Leidabwehr bedient sich der Libidoverschiebungen, welche unser seelischer Apparat gestattet, durch die seine Funktion so viel an Geschmeidigkeit gewinnt. Die zu lösende Aufgabe ist, die Triebziele solcherart zu verlegen, daß sie von der Versagung der Außenwelt nicht getroffen werden können. Die Sublimierung der Triebe leiht dazu ihre Hilfe.

一番いいのは、心理的および知的作業から生まれる快の獲得[Lustgewinn]を充分に高めることに成功する場合である。そうなれば、運命といえども、ほとんど何の危害を加えることもできない。Am meisten erreicht man, wenn man den Lustgewinn aus den Quellen psychischer und intellektueller Arbeit genügend zu erhöhen versteht. 


芸術家が制作、すなわち自分の幻想の所産の具体化によって手に入れる喜び、研究者が問題を解決し真理を認識するときに感ずる喜びなど、この種の満足は特殊なもので、将来いつかわれわれはきっとこの特殊性をメタ心理学の立場から明らかにするととができるであろう。だが現在のわれわれには、この種の満足は「上品で高級」 なものに思えるという比喩的な説明しかできない。

Die Befriedigung solcher Art, wie die Freude des Künstlers am Schaffen, an der Verkörperung seiner Phantasiegebilde, die des Forschers an der Lösung von Problemen und am Erkennen der Wahrheit, haben eine besondere Qualität, die wir gewiß eines Tages werden metapsychologisch charakterisieren können. Derzeit können wir nur bildweise sagen, sie erscheinen uns »feiner und höher«

けれどもこの種の満足は、粗野な原初の欲動蠢動を堪能させた場合の満足に比べると強烈さの点で劣り、われわれの肉体までを突き動かすことがない。

aber ihre Intensität ist im Vergleich mit der aus der Sättigung grober, primärer Triebregungen gedämpft; sie erschüttern nicht unsere Leiblichkeit.

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年)


見ての通り、フロイトはここで欲動の昇華と快の獲得を等置している。

すなわち剰余享楽は欲動の昇華=享楽の昇華である。


間違いなくラカン的な意味での昇華の対象は、厳密に剰余享楽の価値である[au sens proprement lacanien, des objets de la sublimation.… : ce qui est exactement la valeur du terme de plus-de-jouir] (J.-A. Miller,  L'Autre sans Autre May 2013)


ちなみにフロイトの思考の下では、この欲動の昇華は充分にはなされない。


人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。

抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。

Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer)

(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)




③子供の遊戯における快の獲得ーー欲動断念の埋め合わせ


次の『快原理の彼岸』における快の獲得は、名高い「いないないばあ」Fort-Da遊びにおける叙述のなかにあるが、①に示した「欲動断念に伴う快の獲得=代理満足」とともに読むことができる。


小児の遊戯に関する諸学説は、子供たちの遊戯の動機を推測しようとつとめているが、そのさい経済論的観点[ökonomische Gesichtspunkt]、つまり快の獲得[Lustgewinn]にたいする考慮に重きをおいていない。私は、これらの現象をことごとく究めようと考えたのではないが、あるめぐまれた機会を存分に利用して、生後一年六ヵ月の男児が最初に自分でみつけた遊戯を、明らかにしようと思った。それは一時的な観察以上のものであった。なぜならば、私は数週間にわたって、子供やその両親とひとつ屋根の下に暮らしたのであり、たえず繰りかえされている謎めいた行為の意味が私に分かるまで、かなりながく観察をつづけたからである。

その子供は、知的な発達の点ではけっして早熱ではなかった。生後一年半で、ようやく、ごくわずかの明瞭な言葉をしゃべり、そのほかは身近の者だけに理解される、いくつかの意味のある音声をあやつっていた。だが、その子は両親と一人っきりの女中になじんでいたし、「お行儀のよい」性質のせいでほめられていた。夜間、両親を困らせもせず、いいつけをよくまもっていろいろな道具をいじったりしないし、禁じられた部屋へ行ったりしなかった。とりわけ、母親が何時間も傍にいないことがあっても、けっして泣いたりはしなかった。といっても、この子は母親がじぶんの乳でそだてたうえに、他人の手をいっさい借りずに世話してきたので、心から母親になついていた。


この感心な子が、ときおり困った癖を現わしはじめた。つまり、何でも手に入るこまごましたものを、部屋のすみや寝台の下などに、遠くほうり投げるので、そのおもちゃを捜し集めるのがひと苦労になるしまつだったのである。そのさい、子供は興味と満足の表情を表わして、高い、長く引っぱった、オーオーオーオ[o-o-o-o ]という叫び声を立てた。母親と私の一致した判断によるとそれは間投詞ではなくて、「いない」fortの意味であった。私はついに、それは一種の遊戯であって、自分のおもちゃを、みな、ただ「いない、いない」fortsein 遊びにだけ利用していることに気づいた。


ある日、私はこの見解をたしかめる観察をした。子供は、ひもを巻きつけた木製の糸巻きをもっていた。子供には、糸巻きを床にころがして引っぱって歩くこと、つまり、車ごっこをすることなどは思いつかず、ひもの端をもちながら蔽いをかけた自分の小さな寝台のへりごしに、その糸巻きをたくみに投げこんだ。こうして糸巻きが姿を消すと、子供は例の意味ありげな、オーオーオーオをいい、それからひもを引っぱって糸巻きをふたたび度台から出し、それが出てくると、こんどは嬉しげな「いた」Daという言葉でむかえた。これは消滅と再来[Verschwinden und Wiederkommen]を現わす完全な遊戯だったわけである。そのうち、たいていは前者の行為しか見ることができなかった。第二の行為にいっそう大きな快[größere Lust ]がともなったのは疑いないのだが、第一の行為がそれだけでも倦むことなく繰りかえされたのである。


こうなれば遊戯の意味は、ほぼ解かれたもおなじである。それは子供のみごとな躾の効果と関係があった。つまり母が立ち去るのを、さからわずにゆるすという欲動断念(欲動満足に関する断念)を子供がなしとげたことと関係があった。子どもは自分の手のとどくもので、同じ消失と再来を上演してみて、それでいわば欲動断念を埋め合わせたのである。

Die Deutung des Spieles lag dann nahe. Es war im Zusammenhang mit der großen kulturellen Leistung des Kindes, mit dem von ihm zustande gebrachten Triebverzicht (Verzicht auf Triebbefriedigung), das Fortgehen der Mutter ohne Sträuben zu gestatten. Es entschädigte sich gleichsam dafür, indem es dasselbe Verschwinden und Wiederkommen mit den ihm erreichbaren Gegenständen selbst in Szene setzte.


この遊戯を情動の面から評価[affektive Einschätzung]するさい、子供がみずから案出したのか、それとも何かに誘発[Anregung]されてわがものにしたのかは、むろん問題ではない。われわれの関心は、他の一点にむけられるであろう。母が立ち去ってしまうこと[Fortgehen der Mutter ]は、子供にとって好ましかったはずはなく、またどうでもよかったこととも考えられない以上、子供が苦痛な体験を遊戯として反復することは、どうして快原理に一致するのであろうか[Wie stimmt es also zum Lustprinzip, daß es dieses ihm peinliche Erlebnis als Spiel wiederholt?]。消滅はよろこばしい再出現の前提条件として演じられるのに相違なく、再出現にこそ本来の遊戯の目的があったはずだ、と答えたくなるかもしれない。しかし、最初の行為、つまり出発が単独で遊戯になって演出され、しかもそれが、快い結果にみちびく完全形よりも、比較にならないほどたびたび演じられたという観察は、その答に矛盾することになるだろう。


このようなただ一つだけの場合の分析から、確実な結論はみちびけない。しかし、偏見なしに観察すれば、子供は別な動機から自分の体験を遊戯にしたてたのだという印象をうける。子供はこの場合、受動的だったのであって、いわば体験に襲われたのであるが、いまや能動的な役割に身を置いて、体験が不快であったにもかかわらず、これを遊戯として反復しているのである[Es war dabei passiv, wurde vom Erlebnis betroffen und bringt sich nun in eine aktive Rolle, indem es dasselbe, trotzdem es unlustvoll war, als Spiel wiederholt. ]。


この志向は、記憶そのものが快に充ちていたかどうかには関わりのない、支配欲動[Bemächtigungstrieb]に帰することもできるかもしれない。しかしまた、別の解釈を試みることもできる。見えなくなるように、物を投げすてることは、子供のもとから立ち去った母親にたいする、日ごろは禁圧された復讐欲動[Racheimpulses]の満足でもありうる。さあ、立ち去れよ、お母さんなんかいらない、ぼくがお母さんをあっちへやっちゃうんだ、という反抗的な意味をもっているのかも知れないのだ[ Das Wegwerfen des Gegenstandes, so daß er fort ist, könnte die Befriedigung eines im Leben unterdrückten Racheimpulses gegen die Mutter sein, weil sie vom Kinde fortgegangen ist, und dann die trotzige Bedeutung haben: »Ja, geh' nur fort, ich brauch' dich nicht, ich schick' dich selber weg.]。


私が最初の遊戯を観察したときは、生後一年半だったその子は、一年ののちに、しゃくにさわっていた玩具をいつも床に投げつけては「ちぇんちょう(戦争)に行っちゃえ!」»Geh' in K(r)ieg!« といっていた。そのころ子供は、家にいない父親が戦争に行っているのを聞かされていた。そして、父親がいないのを少しもさびしがらず、かえって母親の独り占め[Alleinbesitz der Mutter]を邪魔されたくないらしい明白な徴候を示した。われわれは、他の子供たちについても、彼らが同様の敵意にみちた興奮[ähnliche feindselige Regungen ]を、人間のかわりに物を投げだすことによって、表現することができるのを知っている。

すると、何か印象的なものを心理的に加工して、完全にわがものにする衝動が、一次的に、快原理から独立して発現しうるものかどうかという疑いが湧いてくる。しかし、ここで論議された例では、この衝動が不快な印象を遊戯の中に反復したのは、この反復に、種類がちがってはいるが、ある直接的な快の獲得[direkter Lustgewinn ]が結びついているからこそであろう。

Man gerät so in Zweifel, ob der Drang, etwas Eindrucksvolles psychisch zu verarbeiten, sich seiner voll zu bemächtigen, sich primär und unabhängig vom Lustprinzip äußern kann. Im hier diskutierten Falle könnte er einen unangenehmen Eindruck doch nur darum im Spiel wiederholen, weil mit dieser Wiederholung ein andersartiger, aber direkter Lustgewinn verbunden ist. 

これ以上小児の遊戯を追求しても、二つの見解の取捨選択をきめるには役立たない。子供たちは、生活のうちにあって強い印象をあたえたものを、すべて遊戯の中で反復すること、それによって印象の強さをしずめて、いわば、その場面の支配者になることは、明らかである[daß die Kinder alles im Spiele wiederholen, was ihnen im Leben großen Eindruck gemacht hat, daß sie dabei die Stärke des Eindruckes abreagieren und sich sozusagen zu Herren der Situation machen. ]。


しかしこの反面、彼らの遊戯のすべてが、この彼らの年代を支配している願望、つまり大きくなりたい、大人のようにふるまいたいという願望の影響下にあることも充分に明白である。また、体験が不快だからといって、その不快という性格のせいで、体験を遊戯に利用できなくなるとはかぎらないことも観察されている。たとえば医者が子供の喉の中をのぞきこんだり、ちょっとした手術を加えたりすると、この恐ろしい体験は確実にすぐあとの遊戯の内容になるであろうが、そのさい他の理由からの快の獲得[Lustgewinn]も見落とすわけにはいかない。子供は体験の受動性から遊戯の能動性に移行することによって、遊び仲間に自分の体験した不快を加え、そして、この代理のものに復讐するのである[Indem das Kind aus der Passivität des Erlebens in die Aktivität des Spielens übergeht, fügt es einem Spielgefährten das Unangenehme zu, das ihm selbst widerfahren war, und rächt sich so an der Person dieses Stellvertreters. ](フロイト『快原理の彼岸』第2章、1920年)



④直接的な栄養補給ではなく、おしゃぶりによる快の獲得


ーー以下の快の獲得は③とともに読むことができる。


まずはじめに口が、性感帯としてリビドー的要求を精神にさしむける。精神の活動はさしあたり、その欲求の充足をもたらすよう調整される。これは当然、第一に栄養による自己保存にやくだつ。しかし生理学を心理学ととりちがえてはならない。早期において子どもが頑固にこだわるおしゃぶり[Lutschen]には欲求充足が示されている。これは――栄養摂取に由来し、それに刺激されたものではあるが――栄養とは無関係に快の獲得[Lustgewinn ]をめざしたものである。


Das erste Organ, das als erogene Zone auftritt und einen libidinösen Anspruch an die Seele stellt, ist von der Geburt an der Mund. Alle psychische Tätigkeit ist zunächst darauf eingestellt, dem Bedürfnis dieser Zone Befriedigung zu schaffen. Diese dient natürlich in erster Linie der Selbsterhaltung durch Ernährung, aber man darf Physiologie nicht mit Psychologie verwechseln. Frühzeitig zeigt sich im hartnäckig festgehaltenen Lutschen des Kindes ein Befriedigungsbedürfnis, das ― obwohl von der Nahrungsaufnahme ausgehend und von ihr angeregt ― doch unabhängig von Ernährung nach Lustgewinn strebt (フロイト『精神分析概説』第3章、1939年)



⑤ジョークにおける快の獲得

ーーこれも③の攻撃性に関わる快の獲得の記述とともに読むことが可能。

ユーモアは品性が備わっている。それは、例えばジョークに於いてはまったく欠けているものである。なぜならジョークはたんに快の獲得を得ること、あるいは攻撃性の利用として得られる快の獲得を得るだけのものだから。

Der Humor dankt diesem Zusammenhange eine Würde, die z. B. dem Witze völlig abgeht, denn dieser dient entweder nur dem Lustgewinn, oder er stellt den Lustgewinn in den Dienst der Aggression(フロイト『ユーモア』1927年)



………………




※附記


なお、コレット・ソレールは、《剰余享楽は…可能な限り少なく享楽すること…最小限をエンジョイすることだ。[« plus-de jouir ».  …jouir le moins possible  …ça jouit au minimum ]》(Lacan, S21, 20 Novembre 1973)に準拠しつつ、次のように言っている。


ラカンは剰余享楽という語を使用するとき明瞭に示した。欲望はより少なく享楽することである[Lacan l'indique bien quand il utilise le terme de plus-de-jouir. Le désir est un moins-de-jouir] (Colette Soler , LE DÉSIR, PAS SANS LA JOUISSANCE Auteur :30 novembre 2017)


これは事実上、欲望は剰余享楽である[Le Désir, c’est le plus-de-jouir]と言っているのに等しい。


ラカンの欲望は享楽に対する防衛である。

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.]( Lacan, E825, 1960)



ジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。

剰余享楽は既に享楽の亡霊である。シニフィアンの形式の上での享楽のモデル化である[c’est un plus-de-jouir qui est déjà un dégradé de la jouissance, un modelage de la jouissance sur le modèle du signifiant.](J.-A. MILLER「ヘイビアス・コーパス(Habeas corpus)」2016)

享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


ーーこの二文を組み合わせれば、やはり欲望は剰余享楽だという風に捉えうる。


いずれにせよ、ラカン自身の定義からも、剰余享楽は享楽の見せかけ化=シニフィアン化である。

剰余享楽は言説の効果の下での享楽の廃棄機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ](Lacan, S16, 13  Novembre  1968)

言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972)

見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971)


そして享楽のシニフィアン化は欲望である。

原主体[sujet primitif]…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぼう[nous l'appellerons aujourd'hui  « sujet de la jouissance »]〔・・・〕この享楽の主体はシニフィアン化によってによって欲望の主体としての基礎を構築する[« le sujet de la jouissance »…la significantisation qui vient à se trouver constituer le fondement comme tel du « sujet désirant » ](ラカン, S10, 13 Mars 1963)


もうひとつの剰余享楽の定義は享楽の穴の穴埋めである。


装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

ラカンは享楽と剰余享楽を区別した。…空胞化された、穴としての享楽と、剰余享楽としての享楽[la jouissance comme évacuée, comme trou, et la jouissance du plus-de-jouir]である。つまり穴と穴埋めである[le trou et le bouchon ]。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)



そして父の名というシニフィアンは穴埋めである。


父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

父の名は、シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである[Nom-du-Père  - c'est-à-dire du signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »](Lacan, É583, 1958年)


つまり享楽の穴の穴埋めとはシニフィアン化であり、欲望である。


さらに穴埋めとしての父の名は症状、すなわち見せかけである。

父は症状である[le père est un symptôme]〔・・・〕エディプスコンプレクス自体、症状である[Le complexe d'Œdipe, comme tel, est un symptôme.](ラカン, S23, 18 Novembre 1975)

ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」自体、見せかけに位置づけられる。Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien est lui-même situé comme semblant(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)


「剰余享楽=穴埋め=父の名=症状」とするなら、フロイトの快の獲得①で示した「欲動断念に伴う快の獲得=代理満足=症状」と等置しうる。



なおラカンの欲望はフロイトの願望に相当する。


フロイト用語の願望[Wunsch]をわれわれは欲望と翻訳する[Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.](Jacques-Alain Miller, MÈREFEMME, 2016)


フロイトにおいて願望とは幻想のことであり、これはラカンの欲望も同様である。


幻想生活と満たされぬ願望で支えられているイリュージョン[Diese Vorherrschaft des Phantasielebens und der vom unerfüllten Wunsch getragenen Illusion](フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章、1921年)

(実際は)欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme](Lacan, AE207, 1966)