2017年7月29日土曜日

不気味な仮面と反復強迫

ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは、精神分析が骨を折って得た成果と驚くほどよく合致する人であるが、いわばそれだからこそ、それまで、長い間避けていたのだった。(フロイト『自己を語る』1925)

…………

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

ところでルー・アンドレアス・サロメは1894年に、ニーチェの永遠回帰についてこう語っている。

私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面 unheimliche Maske であることを暗示している。(ルー・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)


フロイトの「快原理の彼岸」概念創出とはニーチェ=サロメに由来する、すくなくともこのふたりが多大な貢献をしている。

ルー・アンドレアス・サロメは、1915年1月10日、直前に発表された『ナルシシズム入門』への応答としてフロイト宛に書信を送っている。…

《これはセクシュアリティの主要な問題なのではないでしょうか。セクシュアリティは、渇望を癒やしたいというよりも、むしろ渇望自体を切望することから構成されているのですね? 身体的緊張の解放と満足に到った状態は、同時に失望ということですね? というのは、緊張と渇望が減ってしまうのですから。》 (Freud-L. A. Salome, Brie fwechsel)

……サロメは、フロイトの快原理の議論の欠陥を明示し、新しい解決法に向かうよう促している。セクシュアリティは 「Durstsehnsucht 渇きへの欲望」であり、欲望自体への欲望であって、欲望の満足ではない。緊張の蓄積は快感でありうる。緊張の放出は失望をもたらす。快原理はよろめき始めた。フロイトはこの単純な見解を彼の理論のなかに反映させるために、5年を要した(『快原理の彼岸』1920年)。それは彼の以前の考え方すべての修正を余儀なくさせた。(ポール・バーハウ、1999,DOES THE WOMAN EXIST?)


ここでは1920年の『快原理の彼岸』からではなく、その前年に書かれた『不気味なもの』から引用しよう。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。(フロイト『不気味なもの』1919)

…………

ニーチェは権力への意志は情動と等価としている。

権力への意志が原始的な情動 Affekte 形式であり、その他の情動 Affekte は単にその発現形態であること、――(……)「権力への意志」は、一種の意志であろうか、それとも「意志」という概念と同一なものであろうか?――私の命題はこうである。これまでの心理学の意志は、是認しがたい普遍化であるということ。こうした意志はまったく存在しないこと。(ニーチェ遺稿 1888年春)

クロソウスキーにとっては、情動は欲動と等価である。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retou rは権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprêmeのことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

クロソウスキーの『悪の循環』の前年に上梓されたドゥルーズからも抜き出そう。

権力への意志の直接的表現としての永遠回帰 éternel retour comme l'expression immédiate de la volonté de puissance(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)

ラカンにとっての永遠回帰=反復強迫とは何か?

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

※ララング=リトルネローー《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle 》(Lacan、1974)ーーと「永遠回帰」の関係については、「ララングとサントーム」を見よ。


…………

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(ジジェク2016, Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? , pdf)


サントームと固着

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、無意識のエスの反復強迫 der Wiederholungs­zwang des unbewussten Esに存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)


ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


「一」Unと「享楽」jouissanceとの関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)





抑圧と原抑圧

以下、基本的資料の列挙


◆フロイト、1911年
「抑圧」は三つの段階に分けられる。

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後の抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗・侵入・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 私訳)


◆1915年
われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(……)

抑圧の第二階段、つまり本来の抑圧 Verdrängung は、抑圧された代表の心理的な派生物に関連するか、さもなくば、起源は別だがその代表と結びついてしまうような関係にある思考傾向に関連している。

こういう関係からこの表象は原抑圧をうけたものと同じ運命をたどる。したがって本来の抑圧とは後の抑圧 Nachdrängung である。それはともかく、意識から抑圧されたものに作用する反撥だけを取り上げるのは正しくない。同じように原抑圧を受けたものが、それと関連する可能性のあるすべてのものにおよぼす引力をも考慮しなければならない。かりにこの力が協働しなかったり、意識によって反撥されたものを受け入れる用意のある前もって抑圧されたものが存在しなかったなら、抑圧傾向はおそらくその意図をはたさないであろう。(フロイト『抑圧』1915年、既存訳修正、以下同様)



◆1923年
無意識的なもの(大文字の無意識 Ubw)は、抑圧されたものと一致しないことをみとめなければならない。あらゆる抑圧されたものは無意識的(小文字の無意識 ubw)であるが、無意識的なもの(大文字の無意識 Ubw)はすべてが抑圧されているとはかぎらない。これはあくまで正しいのである。

Wir erkennen, daß das Ubw nicht mit dem Verdrängten zusammenfällt; es bleibt richtig, daß alles Verdrängte ubw ist, aber nicht alles Ubw ist auch verdrängt.

自我の一部分もまたーーそれが自我のどんな重要な部分であるかは神のみが知る--無意識的(小文字の無意識 ubw)であるかもしれない。いや、たしかに無意識的(小文字の無意識 ubw)である。

Auch ein Teil des Ichs, ein Gott weiß wie wichtiger Teil des Ichs, kann ubw sein, ist sicherlich ubw.

そして、この自我の無意識的(大文字の無意識 Ubw)な部分は、前意識的なもの Vbwという意味で潜在的なのではない。そうでなければそれは、意識的となることなしに活動するわけにはゆかないだろう。そしてそれを意識的にすることが、それほど大きな困難をひきおこすことはありえないだろう。

Und dies Ubw des Ichs ist nicht latent im Sinne des Vbw, sonst dürfte es nicht aktiviert werden, ohne bw zu werden, und seine Bewußtmachung dürfte nicht so große Schwierigkeiten bereiten.

ところで、ここに抑圧されない無意識的なもの nicht verdrängtes Ubw は、第三のものを推定する必要にせまられるとすれば、そのときには無意識というもの Unbewußtseins の特性がその意義を失うことになるのをみとめなければならない。

Wenn wir uns so vor der Nötigung sehen, ein drittes, nicht verdrängtes Ubw aufzustellen, so müssen wir zugestehen, daß der Charakter des Unbewußtseins für uns an Bedeutung verliert.(フロイト『自我とエス』1923年)


◆1926年
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後の抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧 Urverdrängungと後期抑圧 Nachdrängen との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーーもっとも強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧 Urverdrängungen の手近な誘引として、もっとも思われることは、興奮の過剰な強さ übergroße Stärke der Erregung により刺激保護 Reizschutzesが破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926 年)


◆1937年
抑圧 Verdrängungen はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段 primitive Abwehrmaßregeln である。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も欲動制御 Triebbeherrschung のためにそれを利用しようとする。

新しい葛藤は、われわれの言い表し方をもってすれば「後の抑圧 Nachverdrängung」によって解決される。…分析は、一定の成熟に達して強化されている自我に、かつて未成熟で弱い自我が行った古い抑圧 alten Verdrängungen の訂正 Revision を試みさせる。…幼児期に成立した根源的抑圧過程 ursprünglichen Verdrängungsvorganges を成人後に訂正し、欲動強度 Triebsteigerung という量的要素がもつ巨大な力の脅威に終止符を打つという仕事が、分析療法の本来の作業であるといえよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

2017年7月27日木曜日

人は自分に似ているものをいやがるのがならわし

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

…………

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」)

2017年7月23日日曜日

ララングとサントーム

まず、仏女流ラカン派の第一人者コレット・ソレールのとても明晰な「ララング」の定義文を拾ったので、ここに訳出する。

最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声の媒体から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のおしゃべり」(母のララング lalangue maternelle)はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素である。母のおしゃべりの谺(言霊)である子供の片言ーーあるいは喃語 lallationーーは、音声と満足とのあいだのつながりを証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 pré-verbal 段階のようなものはない、だが前論弁的 pré-discursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングは、幼児を音声・リズム・沈黙の隠蝕等々で包む。ララングが、母の舌語(lalangue maternelle) と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化の結び目に錨をおろしたままである。(Colette Soler, Lacanian Affects, 2016)

次に上のコレット・ソレールが指摘している、母の身体的接触が後の生にとっての要(かなめ)になることにかかわるフロイトの代表的叙述を掲げる。

母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutterの根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版、1940、私訳)

ララングの重要性は、ラカン派ではない日本の精神科医においても「喃語」や言語の「もの」性という語彙を使って次のような形で語られている。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」1996年『家族の肖像』所収)

 …………

現代ラカン派の臨床家は、この身体の出来事としてのララングが核心概念とすることが多い。例えば「21世紀におけるリアルLE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」と名付けられた2012年の会議にて、ラカン主流派のジャック=アラン・ミレールは、 《身体における、ララングとその享楽の効果の純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps》あるいは《欲動の純粋衝撃 Un pur choc pulsionnel》と口に出している。

この表現はラカンの次の文とともに読まなければならない。

サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

サントームがララングと大いに関わるのは、Geneviève Morelが簡潔に示している。

サントーム(原症状)は、母の舌語(ララング)に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、このララングと母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel, 2005, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)

ミレールなら次のように言う。

ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)

忘れがちなのは、サントームとはフロイトの固着(原抑圧)のことでもあることだ。

「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

Geneviève Morel の叙述に、人はサントームから《分離しなければならない》とあったがなぜか? Morelは《母の法 loi de la mère》、《非全体 pas-toute」としての女性の享楽 jouissance féminine》等々の表現も使っている。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)

次のコレット・ソレールとジャック=アラン・ミレールの記述もこの勝手気ままな「母の法」にかかわる。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
「父の名 Nom-du-Père」は「母の欲望 Désir de la Mère」の上に課されなければならない。その条件においてのみ、身体の享楽 jouissance du corps は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる。(JACQUES-ALAIN MILLER L’Autre sans Autre,2013)

ここで冒頭のコレット・ソレールの叙述に戻ろう。《ララングの痕跡が、最もリアル、かつ意味の最も外部にある無意識の核を構成している》とあった。そしてこの痕跡はわれわれの全人生を支配しているという含みをもつ表現がなされている。

どういうことだろうか? --ララングは永遠回帰するのである。

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
・リフレインは、円あるいは円環としての永遠回帰である。La rengaine, c'est l'éternel retour comme cycle ou circulation, (Différence et répétition、1968)

・小さなリフレイン、リトルネロとしての永遠回帰 l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle(MILLE PLATEAUX, 1980)

・リトルネロはプリズムであり、時空の結晶である La ritournelle est un prisme, un cristal d'espace-temps. (Deleuze et Guattari 1980)

もちろん永遠回帰はニーチェ用語である。《迷宮は永遠回帰を示す le labyrinthe désigne l'éternel retour 》(Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)

フロイトはニーチェの永遠回帰を反復強迫と等価なものとして扱っている(『快原理の彼岸』)。だが今はニーチェの次の文のみを引用するだけにしておこう。

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

さらにまた「原穴の名 le nom du premier trou」とあったが、これはブラックホールにかかわる表現である。

欠如とは空間的で、空間内部の空虚を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

※欠如と穴にかかわるいくらか詳細な文献としては、「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ。

次のドゥルーズ&ガタリのリトルネロをめぐる叙述からも、ララングはーーラカンの《リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle》という表現に依拠すればーー、カオス、ブラックホール(非全体)にかかわるとすることができそうである。

リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混合することもある。さまざまな場合が考えられる。あるときは、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点 point fragile を設けようとする。あるときは、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。これによって、ブラックホールはわが家に変化したのである。またあるときは、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)