2023年10月25日水曜日

パニックヒステリー[Schreckhysterie]をめぐって

 

ヒステリーの第一段階は、驚愕ヒステリーと呼ぶことができる。その主な症状は、心的裂目の下での驚愕の表現である。

Man kann dieses erste Stadium der Hysterie als Schreckhysterie bezeichnen; ihr Primärsymptom ist die Schreckäusserung bei psychischer Lücke.  (フロイト、フリース宛書簡 Freud, Manuskript K: DIE ABWEHRNEUROSEN, Beilage zum Brief vom 1. 1. 1896)



この初期フロイトの驚愕ヒステリー[Schreckhysterie]概念は、「パニックヒステリー」とも訳されうる語であり、現勢神経症の代表的な症状「不安神経症」に相当する。


不安神経症は、興奮の源泉、障害の原因が身体的領域にあり、ヒステリーや強迫神経症が心的領域にあるのとは異る。

die Angstneurose …daß die Erregungsquelle, der Anlaß zur Störung, auf somatischem Gebiete liegt, anstatt wie bei Hysterie und Zwangsneurose auf psychischem. 〔・・・〕


不安神経症は、抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析においてはそれ以上には削減不能であり、精神療法では対抗不能である。Angstneurose …stammt er nicht von einer verdrängten Vorstellung her, sondern erweist sich bei psychologischer Analyse als nicht weiter reduzierbar, wie er auch durch Psychotherapie nicht anfechtbar ist. (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年、摘要)



フロイトにはヒステリーに関して別に不安ヒステリー、転換ヒステリー用語がある。


現勢神経症の三つの純粋な形式は、神経衰弱、不安神経症、心気症である。daß wir drei reine Formen der Aktualneurosen unterscheiden: die Neurasthenie, die Angstneurose und die Hypochondrie. 〔・・・〕


現勢神経症の症状は、しばしば、精神神経症の症状の核であり、先駆けである。この種の関係は、神経衰弱 と「転換ヒステリー」として知られる転移神経症 、不安神経症と不安ヒステリーとのあいだで最も明瞭に観察される。しかしまた、心気症とパラフレニア(早期性痴呆とパラノイア) の名の下の障害形式のあいだにもある。das Symptom der Aktualneurose ist nämlich häufig der Kern und die Vorstufe des psychoneurotischen Symptoms. Man beobachtet ein solches Verhältnis am deutlichsten zwischen der Neurasthenie und der »Konversionshysterie« genannten Übertragungsneurose, zwischen der Angstneurose und der Angsthysterie, aber auch zwischen der Hypochondrie und den später als Paraphrenie (Dementia praecox und Paranoia) zu erwähnenden Formen. (フロイト『精神分析入門』第24章、1917年)



現勢神経症は原抑圧、つまり欲動の固着の病理とすることができる。


おそらく最初期の抑圧(原抑圧)が、現勢神経症の病理を為す[die wahrscheinlich frühesten Verdrängungen, …in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist]〔・・・〕精神神経症は、現勢神経症を基盤としてとくに容易に発達する[daß sich auf dem Boden dieser Aktualneurosen besonders leicht Psychoneurosen entwickeln](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。〔・・・〕

この欲動の固着 は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege](フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


この原抑圧の審級にある現勢神経症に対して、精神神経症は後期抑圧の審級にある。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


ここではヒステリー概念だけを取り上げれば、次のように区分できる。





そして不安神経症としてのパニックヒステリーが、現代臨床のパニック障害に相当する。


現勢神経症のカテゴリーにおいて、フロイトが最も強調するのは、不安神経症である。The category of actual neurosis Freud stresses most is anxiety neurosis(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER, 2007年)

実際のところ、DSM-IVのパニック障害の記述は、フロイトの不安神経症の記述とほとんど同じである。

the DSM–IV description of panic disorder is almost exactly the same as Freud's description of anxiety neurosis.(ポール・バーハウ他 Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule, ACTUAL NEUROSIS AND PTSD, 2005年)




以下、主にポール・バーハウの注釈である。


現勢病理、特に不安神経症/パニック障害の原因は、主体の内的欲動興奮が大他者によって応答されない、あるいは不十分であるという事実にある。

the causal factor of actualpathology, and of anxiety neurosis/panic disorder in particular, lies in the fact that the subject's internal drive excitation is not―or is insufficiently―answered by the Other. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)


ーー《我々はここでラカニアンの「大他者」概念を使っている。ラカンにとって大他者は具体的な他者(特に母と父)であると同時に言語である。

Here we are using the Lacanian concept of the “Other.” For Lacan, the Other is both the concrete other (particularly the mother and father) and language》.(Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule, ACTUAL NEUROSIS AND PTSD, 2005)


我々は今、これらの発見をフロイトの病因論、より具体的には、ヒステリーを主な例とする「防衛の神経精神病」の起源に関する彼の理論に結びつけることができる。「驚愕ヒステリー」、すなわち「パニックヒステリー」は、第一段階、出発点、すなわち、心的装置がその処理課題に失敗するたびに起こるパニック発作にとってのフロイトの名である。同じ文の中で、フロイトは、ヒステリー発作の間、ある表象が抑圧されていると考えるべきではないと付け加えている:「その主な症状は、心的裂目による驚愕の表出である」。このことは、ヒステリーでは何かが抑圧されるというよりも、むしろ何かが置き残され、以前の言語以前のレベルに固着されたままであることを示唆している。


We can now link these findings to Freud's views on etiology, more specifically to his theory of the origin of the “neuropsychoses of defense,” taking hysteria as the main example. “Schreck hysteria,” or “panic hysteria” is his name for the first phase, the departure point, that is, a panic attack that occurs whenever the psychological apparatus fails in its processing task:…. In the same text, Freud adds that we should not assume that a certain representation is repressed during hysterical attacks: “its primary symptom is the manifestation of fright accompanied by a gap in the psyche.” This implies that in hysteria it is not so much that something is repressed, but rather that something has been left behind and remains fixated at an earlier prelinguistic level. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)


フロイトはヒステリーの固有な欲動の固着として、ヒステリーにおける口唇要素を繰り返し強調した(フロイト 1978 [1905e])。フロイトにとって、これは気質的要因と関係があった。Freud repeatedly stressed hysteria's oral component as its characteristic drive fixation (Freud 1978 [1905e]). For Freud, this had to do with constitutional factors〔・・・〕


いずれの精神神経症に見られるように、それに先立つ現勢病理の場がある。フロイトは後者を「驚愕ヒステリー」、つまりパニック発作と表現した。それは心的裂目との遭遇におけるパニック発作である。このパニック発作と不安神経症との結びつきはきわめて明白である。ヒステリーはここから始まるが、シニフィアン化に進み、その古典的作用は恐怖症や転換ヒステリーである。このようにして、原初の欲動要素はファルス化される。

As in every psychoneurosis, there is a preceding actualpathological position. Freud described the latter as “Schreckhysteria,” that is, a panic attack in confrontation with a “psychic lack” . Its connection with the anxiety neurosis is quite clear. Hysteria starts out from this but proceeds onto a processing of the signifiers, whose classical effects are phobic and/or conversion hysteria. In this way, the original drive component becomes phallicized: (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)


ファルス化とは、言語化を意味する。

ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)


ファルスの意味作用[Die Bedeutung des Phallus]はフロイトの《象徴的意味作用[die symbolische Bedeutung]》(『制止、症状、不安』第1章、1926年)と等価であり言語化である、ーー《象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)


最後に不安神経症(パニック障害)と他の症状の転換順である。


出発点は不安神経症やパニック障害、身体化であり、不安ヒステリーや境界例がそれに続く。次の段階は恐怖症と転換ヒステリーで、最終点は強迫神経症である。

The starting point is anxiety neurosis or panic disorder and somatization followed by anxiety hysteria and borderline. The next step leads to phobic and conversion hysteria, and the final point is obsessional neurosis. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)


なおフロイトは《強迫神経症言語は、ヒステリー言語の方言である。die Sprache der Zwangsneurose ist gleichsam nur ein Dialekt der hysterischen Sprache》( 『強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕』 1909年)としている。



2023年10月20日金曜日

中井久夫のメタ私(未定稿)


◼️私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからない

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年『徴候・記憶・外傷』所収)


◼️メタ私の定義

「意識的私」の内容になりうるものであって現在はその内容になっていないものの総体を私は「メタ私」と呼んできた。これは「無意識」よりも悪くない概念であるとひそかに私は思っている。〔・・・〕「無意識」は「意識」でないものとして多種多様なものを含んでいて、それらを総称する言葉はないからである。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)

私には、私の現前する意識には収まりきれないものが非常に多くある。私の幼児体験を初めとして、私の中にあるのかないのか、何かの機会がなければためすことさえない記憶がある。私の意識する対象世界の辺縁には、さまざまの徴候が明滅していて、それは私の知らないそれぞれの世界を開くかのようである。これらは、私の現前世界とある関係にある。それらを「無意識」と呼ぶのはやさしいが、さまざまな無意識がある。フロイト的無意識があり、ユング的無意識もおそらくあるだろう。ふだんは意識されずに動いていて意識により大きな自由性をあたえている、ベルグソンの身体的無意識もある。あるいは、熟練したスポーツなどに没頭する時の特別な意識状態があるだろう。無意識というものを否定する人があるとしても、意識が開放系であり、また緻密ではなく、海綿のように有孔性であることは認めるだろう。そもそも記憶の想起という現象が謎めかしいものである。どういう形で、記憶が私の「無意識」の中に持続しているのかは、いうことができない。もし、私の中にあるものが同時に全部私の意識の中に出現し、私の現前に現れたならば、私は破滅するであろう。それは、四次元の箱を展開して三次元に無理に押し込むようなものだろう。(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」1990年『徴候・記憶・外傷』所収)





◼️メタ私と解離

敢えて私自身の言葉を用いれば、〔『失われた時を求めて』の〕マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(拙論「世界における徴候と索引」一九九〇年、『徴候・記憶・外傷』みすず書房、二〇〇四年版所収)。もちろん、記憶の総体が一挙に意識に現前しようとすれば、われわれは潰滅する。プルーストは自らが翻訳した『胡麻と百合』の注釈において、「胡麻」という言葉の含みを「扉を開く読書、アリババの呪文、魔法の種」と解説したといっているが〔・・・〕、この言葉は、読書内容をも含めて一般に記憶の索引 ‐鍵をよく言い表している。フラッシュバックほどには強制的硬直的で頑固に不動でなく、通常の記憶ほどにはイマージュにも言語にも依存しない「鍵 ‐ことば‐ イマージュ mot- image-clef」は、呪文、魔法、鍵言葉となって、一見些細な感覚が一挙に全体を開示する。〔・・・〕それは痛みはあっても、ある高揚感を伴っている。敢えていえば、解離スペクトルの中位に位置する「心の間歇」は、解離のうち、もっとも生のさわやかな味わい saveurをももたらしうるものである。


「心の間歇」を頂点として左右を眺めれば、日常茶飯事的解離は「生活に必要な技術」である。同時に二つ以上のことを混乱なく行うのに不可欠なのが日常的解離である。家事は日常茶飯事的小解離に満ち満ちている。これに対して、極端な病的解離には危機的状況を保護する生命的な働きがある。ライオンに食べられかかった男が助かって語ったところによれば、恍惚としてひとごとのようであり、また、ライオンに食べられている自分の姿が見えたそうである(アフリカで共に狩猟をした友人の談)。後者は自己像幻視であって解離現象の一つであるが、能役者は「離見の見」といって自覚的にできるそうである。ヒトが食べられて死ぬのが普通だった時代に、この世から立ち去るのをやさしくする装置として解離があったといえそうである。それが今ならば治療を必要とする異常になっているとしても、それは免疫が自己免疫にもなりうるのと同じである。


ここで私の「メタ私」「メタ世界」概念に少し言及しておきたい。「メタ私」は無意識に近い。しかし、フロイトのコンプレックスやユングのアーキタイプが支配するところではない。ベルクソンは「心臓をはじめとする内臓器官の無意識活動があって、もしこれらを意識的に動かしていたら意識に余力はないだろう」と考えていた。この「ベルクソンの無意識」をも含むものであり、内分泌系や自律神経系の活動をも含み、さらにたとえばテニス中に起こる小脳と前頭前野との間の神経信号の猛烈な往復をも含むものである(これは京大の生理学者・佐々木和夫教授の名をいただいて「佐々木の無意識」というべきであろうか)。さらに運動のみならず大脳の記憶や思考の活動をも沈黙のうちにモニターしている小脳の活動をも知るべきであろう。外界の刺激を直接受けない小脳は脳/マインドのジャイロスコープというべく、刺激に翻弄される大脳活動を安定化し、エネルギーを経済的にし、能率を向上させる。小脳の役割について大きな進歩と転換を示した理化学研究所所長の名をいただいて「伊藤正男の無意識」というのがよかろう。


「メタ私」は同時に意識に現前したならば、意識は潰乱し、おそらく脳/精神は無傷で済まないであろう。八十歳を越える高齢になってから最近にわかに脚光を浴びているベンジャミン・リベットの仕事によれば、意識はせいぜい二〇~四〇ビットの情報で理性的・倫理的判断を行うのであり、これが「エゴ」であって、エゴはそれに〇・五秒先行する一〇の七乗ビットの「セルフ(私のいう〈メタ私〉か)の判断を受けて、あたかもおのれが今リアルタイムで行っているかのように判断するという。

科学報告はしばしば断りなしに変わる。そのリスクがつねに存在するが、二〇年以上の風雪に耐えてようやく陽の目をみたリベットの仕事は、「心の間歇」と関連させても一考に値すると私は思う。「メタ私」から「私」への経路は多少とも鍵と鍵穴によって守られているのである。

「メタ私」に対応して「メタ世界」がある。私は可能性としてはあらゆる世界を体験できるが、それを同時にすることはできない。おそらく、メタ私もメタ世界も私あるいは世界よりも次元が高いのであろう。


この「メタ私」の一挙現前を制止しているシステムがあるはずである。言語はいっときには一つの音しか発声できないシステムを用いることによって、この制御にほぼ成功した。もっとも、統合失調症の初期にはこのシステムが怪しくなるときがあるらしい。解離していたものの意識への一挙奔入である。


これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。

われわれに解離すなわち意識内容の制限と統御がなければ、われわれはただちに潰滅する。われわれは解離に支えられてようやく存在しているということができる。サリヴァンの解離の意味は現行と少し違うが、「意識にのぼせると他の意識内容と相いれないものを排除するのが解離である」という定義は今も通用すると私は思う。


解離は必ずしも破壊者ではない。社会生活に不都合を生むにせよ、むしろ保護的なものである。侵入体験を消失する薬物を、効果を認めながら、断乎拒んだ家族内暴力被害患者を思い合わせる。おそらく、身体の傷と同じく、心の傷も治癒はしかるべき歩調で、そして患者主体で進行しなければならないのであろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって ――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」2006年『日時計の影』所収)



◼️解離=排除=外傷神経症

外傷神経症〔・・・〕その主な防衛機制は何かというと、解離です。置換・象徴化・取り込み・体内化・内面化などのいろいろな防衛機制がありますが、私はそういう防衛機制と解離とを別にしたいと思います。非常に治療が違ってくるという臨床的理由からですが、もう少し理論化して解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。〔・・・〕

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいう解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


◼️外傷性記憶と異物

一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



…………………


※附記


◼️フロイトにおける異物=トラウマ=エスの欲動蠢動=本来の無意識

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異物=異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

異者としての身体は本来の無意識としてエスのなかに置き残されている[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)




◼️フロイトが初期から最晩年まで拘った異物=異者概念

ところであなたはどう思うだろうか、私のすべての新しいヒステリー前史理論はすでに知られており、数世紀前だが何百回も出版されているという観点について。あなたは覚えているだろうか、私がいつも言っていたことを。中世の理論、強迫観念の霊的法廷は、私たちの異物理論[Fremdkörpertheorie]と意識の分裂と同一だと。

Was sagst Du übrigens zu der Bemerkung, daß meine ganze neue Hysterie-Ur-geschichte bereits bekannt und hundertfach publiziert ist, allerdings vor mehreren Jahrhunderten? Erinnerst Du Dich, daß ich immer gesagt, die Theorie des Mittelalters und der geistlichen Gerichte von der Besessenheit sei identisch mit unserer Fremdkörpertheorie und Spaltung des Bewußtseins?  (フロイト、フリース宛書簡、Freud: Brief an Wilhelm Fließ vom 17. Januar 1897)

疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象です。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察されます。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかです。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)



◼️異物(異者としての身体)=ラカンの現実界の享楽

現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


2023年10月16日月曜日

フロイトとパレスチナ

 

◼️1920年にシオニスト会議によって設立されたケレン・ハイェソッド移民基金(Keren Hayesod)代表のChaim Koffler 宛のフロイト書簡より

……しかし他方で私は、パレスチナがユダヤ人の国家になることはあり得ないと思うし、キリスト教世界やイスラム教世界が、自分たちの聖地をユダヤ人の管理下に置く用意があるとは思えません。私には、歴史的な負担の少ない土地にユダヤ人の祖国を建設する方が賢明だと思えます。しかし、そのような合理的な視点が、大衆の熱狂や富裕層の経済的支援を獲得し得ないことを承知しています。また、同志たちの非現実的な狂信主義が、アラブ人の不信を招いた責任の一端を担っていることも、遺憾ながら認めています。ヘロデの城壁の一部を国の遺物とし、そのために地元の人々の感情を逆なでするような、間違った(!)解釈による崇敬の念にはまったく同情できないのです。

Aber andererseits glaube ich nicht, dass Palästina jemals ein jüdischer Staat werden kann und dass die christliche wie die islamitische Welt je bereit sein werden, ihre Heiligtümer jüdischer Obhut zu überlassen. Mir wäre es verständiger erschienen, ein jüdisches Vaterland auf einem historisch unbelasteten Boden zu gründen; ich weiß zwar, dass man für eine so rationelle Absicht nie die Begeisterung der Massen und die Mittat der Reichen gewonnen hätte. Auch gebe ich mit Bedauern zu, dass der wirklichkeitsfremde Fanatismus unserer Volksgenossen sein Stück Schuld trägt an der Erweckung des Misstrauens der Araber. Gar keine Sympathie kann ich für die miss(!)gedeutete Pietät aufbringen, die aus einem Stück der Mauer von Herodes eine nationale Reliquie macht und ihretwegen die Gefühle der Einheimischen herausfordert. Freud, An Chaim Koffler, 1930年)


◼️小説家アルノルト・ツヴァイク宛より

パレスチナは宗教、聖なる愚行、内なる希望的観測によって外なる幻想世界に対処しようとする僭越な試みにほかなりません。

Palästina hat nichts gebildet als Religionen, heiligen Wahnwitz, vermessene Versuche, die äußere Scheinwelt durch innere Wunschwelt zu bewältigen, Freud, An Arnold Zweig, Hochroterd, 8. Mai 1932)



参照:人間の文化は集団妄想(フロイト)


……………


※附記


ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。Weil ich Jude war, fand ich mich frei von vielen Vorurteilen, die andere im Gebrauch ihres Intellekts beschränkten, als Jude war ich dafür vorbereitet, in die Opposition zu gehen und auf das Einvernehmen mit der »kompakten Majorität« zu verzichten.(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶(Ansprache an die Mitglieder des Vereins B'nai B'rith)』1926年)


十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしてこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな![Jud, herunter vom Trottoir!] 』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」

これはどうも少年の手をひいて歩いてゆくこの頑丈な父親にふさわしくなかった。私はこの不満な一状況に、ハンニバルの父、ハミルカル・バルカスが少年ハンニバルをして、家の中の祭壇の前でローマ人への復讐を誓わせた一場、私の気持にぴったりする一情景を対置せしめた。爾来ハンニバルは私の幻想の中に不動の位置を占めてきたのである。(フロイト『夢解釈』第5章、1900年)



『人間モーゼと一神教』におけるフロイトは、すべての宗教を集団神経症とみるだけでなく、さらに、そのようにみる彼自身の、あるいは精神分析の立場そのものがどこからきたかを問うている。いいかえれば、「ユダヤ的であること」がどこからきたかを問うている。フロイトの考えでは、いうまでもなく、それは偶像崇拝を禁止した人間モーゼからきたのだ。〔・・・〕


フロイトはいう。《ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりました。固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです》(「ブナイ・ブリース協会会員への挨拶」)。

この「ユダヤ人」は、フロイトにとって、ユダヤ教やユダヤ人の共同体を意味していない。それは、いかなる共同体の偏見(偶像)をも拒否し、したがってそこから排斥されざるをえない在り方のことである。つまり、「ユダヤ的であること」は、いかなる共同体にも帰属せずその「間」に立つことである。むろん、それを「ユダヤ的」という固有名詞で呼ばねばならないわけではない。しかし、そのような在り方が、たとえばモーゼの「偶像崇拝の禁止」において典型的に開示されたことは疑いがない。なぜなら、それはいかなる共同体の神々に即くことをも禁じているからである。フロイトが固執するモーゼは、そのようなモーゼであって、ユダヤ人に儀礼や戒律を与えたモーゼではない。あるいは、外国人(他者)としてのモーゼであって、「民族の英雄」としてのモーゼではない。フロイトはユダヤ民族のアイデンティティ(選民としての)を否定するが、ただ「ユダヤ的であること」のアイデンティティは確保しようとするのである。

しかし、フロイトがモーゼに異様にこだわったのは、「精神分析」そのものがそのような在り方であり運動だったからである。事実フロイトは、精神分析をたんに治療法としてではなく世界的な思想運動とみなしている。ある意味で、彼はモーゼのように運動を創始しモーゼのようにふるまったのである。(柄谷行人『探求Ⅱ』「ユダヤ的なもの」1989年)


参照;些細な差異のナルシシズム