2022年5月19日木曜日

ファルス享楽/大他者の享楽(女性の享楽)について

 

◼️「ファルス享楽/大他者の享楽」=「言語の享楽/身体の享楽」

ファルス享楽とは、身体外のものである。大他者の享楽とは、言語外、象徴界外のものである[la jouissance phallique [JΦ] est hors corps [(a)],  – autant la jouissance de l'Autre [JA] est hors langage, hors symbolique](ラカン, 三人目の女 La troisième, 1er Novembre 1974)


まずファルス享楽の「ファルス」とは事実上、言語のこと。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  ](ラカン, S18, 09 Juin 1971)


次に大他者の享楽の「大他者」は身体のこと(前期ラカンの「言語の大他者」とは異なる)。


大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ](ラカン、S14, 10 Mai 1967)


つまりファルス享楽は「言語の享楽」、大他者の享楽は「身体の享楽」である。


享楽は、身体の享楽と言語の享楽の二つの顔の下に考えうる[on peut considérer la jouissance soit sous sa face de jouissance du corps, soit sous celle de la jouissance du langage] (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 27/5/98)



◼️身体の享楽=穴の享楽=他の身体の享楽


ところで、ラカンは次のようにも言った。


身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


すなわち身体の享楽とは、穴の享楽ーー身体の穴の享楽ーー、トラウマの享楽である。


かつまた「身体の穴の享楽」を「他の身体の享楽」とも言った。


穴をなすものとしての「他の身体の享楽」[jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou] (Lacan, S22, 17 Décembre 1974)



◼️他の身体の享楽=女性の享楽


この「他の身体」が晩年のラカンの「ひとりの女」である。


ひとりの女は他の身体の症状である [Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. ](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME, AE569, 1975)


ここでの症状は現実界の症状であり、享楽自体である。すなわち「他の身体の享楽」=「他の身体の症状」。


「他の身体」とは前期ラカンの鏡像身体ーーナルシシズムの身体ーーとは別の新しい身体という意味であり、「享楽の身体」である。


ラカンの身体は、第一に鏡像段階の身体[le corps du Stade du miroir]である。ラカンはその身体をナルシシズム理論から解読した。いやむしろ鏡像段階からナルシシズム理論を解読した。したがって本質的にイマジネールな身体[un corps imaginaire]である。

他方、身体の新しい地位は、ナルシシズムの享楽から脱却する必要がある[Le nouveau statut du corps, il s'impose de l'élaborer à partir du moment où on retire la jouissance du narcissisme]。どんな場合でも、新しい身体は自己イマージュの魅惑によっては定義されない。新しい身体は享楽の支柱であり、他の身体である[c'est le corps qui devient le support de la jouissance et c'est un autre corps]。この身体は鏡像イマージュ[image spéculaire]に還元される身体ではあり得ない。(J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN -09/03/2011)


享楽とは穴であり、享楽の身体=穴の身体である。


享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)


したがってひとりの女[Une femme]としての他の身体の享楽[jouissance de l'autre corps]が、1974年以降のラカンの女性の享楽自体である。


確かにラカンは第一期に、女性の享楽[jouissance féminine]の特性を、男性の享楽[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。


だが第二期がある。そこでは女性の享楽は、享楽自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、享楽形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「享楽自体の形態の原理」として考えられた「女性の享楽」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕


ここでの享楽自体とは極めて厳密な意味がある。この享楽自体とは非エディプス的享楽である。それは身体の出来事に還元される享楽である[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.]

(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



ここまでの用語群をいったんまとめておこう。ファルス享楽のほうはよいとして、誤解を招きやすい大他者の享楽は身体の享楽=穴の享楽であり、これが男女両性にある享楽自体としての女性の享楽である。



◼️女性の享楽(穴の享楽)=サントームの享楽=固着の享楽


ラカンはこうも言った。


ひとりの女はサントームである[ une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976)


つまり女性の享楽はサントームの享楽[la jouissance du sinthome]となる(より詳しくは➡︎参照)。


サントームとはフロイトの固着と等価である。


サントームは固着である[Le sinthome est la fixation]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

サントームは固着の反復である、サントームは反復プラス固着である。[ le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)


この固着は身体の穴である。


ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴をなす。固着が無意識のリアルな穴を身体に穿つ。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas, (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


この固着の穴の享楽こそ、ラカンがボロメオの環の想像界と現実界の重なり目に示した穴の享楽[J(Ⱥ)]である。





したがって穴の享楽[J(Ⱥ)]としての女性の享楽は、固着の享楽[jouissance de la fixation](固着の穴の享楽)である。



◼️女性の享楽=異者身体の享楽


さらに最晩年のラカンはこうも言った。


ひとりの女は異者である[une femme, … c'est une étrangeté.]  (Lacan, S25, 11  Avril  1978)


この異者とはフロイトの異者身体のことである。


われわれにとって異者としての身体 [un corps qui nous est étranger](ラカン, S23, 11 Mai 1976)


異者身体とは固着によって発生するトラウマの身体である。


固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体[Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


トラウマの身体、すなわち穴の身体であり、穴の享楽とは異者身体の享楽[jouissance du corps étranger]と等置できる。これが最も深い意味での「享楽自体=女性の享楽」である。


現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)



先ほどのまとめ図の下段に付け加えればこうなる。




◼️ひとりの女はトラウマである。

ラカンは1975年に次のように言った。


ひとりの女とは何か? ひとりの女は症状である![ « qu'est-ce qu'une femme ? » C'est un symptôme ! ](Lacan, S22, 21 Janvier 1975 )

症状は身体の出来事である[le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps](Lacan, JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)


すなわち「ひとりの女は身体の出来事」である。

この症状は現実界の症状サントームである。


サントームは後に症状と書かれるものの古い書き方である[LE SINTHOME.  C'est une façon ancienne d'écrire ce qui a été ultérieurement écrit SYMPTÔME.] (Lacan, S23, 18 Novembre 1975)


したがって「ひとりの女は症状」とは「ひとりの女はサントーム」と等価である。


ひとりの女はサントームである[ une femme est un sinthome] (Lacan, S23, 17 Février 1976)


つまり《サントームは身体の出来事として定義される [Le sinthome est défini comme un événement de corps]》(J.-A. MILLER,, L'Être et l'Un, 30/3/2011)


この身体の出来事とは固着のトラウマのことである。


身体の出来事はフロイトの固着の水準に位置づけられる。そこではトラウマが欲動を或る点に固着する[L’événement de corps se situe au niveau de la fixation freudienne, là où le traumatisme fixe la pulsion à un point] ( Anne Lysy, Événement de corps et fin d'analyse, NLS Congrès présente, 2021/01)


フロイトは次のように言っている。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用は、トラウマへの固着と反復強迫の名の下に要約される。[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang.]


この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen ](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


フロイトは固着とトラウマを等置している時もある、例えば《母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]=原トラウマ[Urtrauma]》(『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)と。


先の『モーセ』の文では、トラウマへの固着[Fixierung an das Trauma]となっているが、上に見たようにフロイトにとってトラウマとは異者身体[Fremdkörper]であり、トラウマへの固着は異者身体への固着[Fixation sur le corps étranger]と言い換えうる。


結局、フロイトにおけるこの「固着としての不変の個性刻印の反復強迫」が、ラカンの穴の享楽=女性の享楽である。


そして異者とは母である。


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger,](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)



未熟児として生まれ出生後の最初の一年弱は常に母(あるいは母親役の人物)に依存しなければならないヒトにとっての身体の出来事(トラウマ)はほとんど常に母にかかわる。



母は幼児にとって強いなトラウマの意味を持ちうる[die Mutter … für das Kind möglicherweise die Bedeutung von schweren Traumen haben](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)

(初期幼児期における)母の喪失(母を見失う)というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この喪われた対象[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)



この母へのトラウマ的固着の反復強迫、これが女性の享楽の内実であるだろう。





そして、この「穴の享楽=女性の享楽」をシニフィアン化した享楽ーー防衛・抑圧としての享楽ーーが「ファルス享楽=言語の享楽」である。上にも示したように女性の享楽としての《享楽自体とは非エディプス的享楽[ la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne.]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)である一方で、ファルス享楽とはエディプス的享楽である、ーー《欲望の法・父の名によって否定された享楽がファルス享楽である[La jouissance négativée par la loi du désir, par le Nom-du-Père, c’est la jouissance phallique]》(Mathieu Siriot, LA JOUISSANCE FÉMININE : UNE ORIENTATION VERS LE RÉEL, 10 Novembre 2019 )








2022年5月18日水曜日

外にある家(外に放り投げられた家)

 ◼️不気味なもの=外にある家(外に放り投げられた家)


不気味なものはかつて親しかった家、昔なじみのものである。この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴なのである。

Das Unheimliche ist also auch in diesem Falle das ehemals Heimische, Altvertraute. Die Vorsilbe » un« an diesem Worte ist aber die Marke der Verdrängung. (フロイト『不気味なもの』第2章、1919年)

不気味なものは秘密の慣れ親しんだもの(家)であり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである。Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,(フロイト『不気味なもの』第3章、1919年)


ここでフロイトは不気味なものは抑圧の徴、あるいは抑圧されたものの回帰と言っているが、この抑圧は原抑圧である。


われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる。

daß die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. (フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


そして原抑圧とは排除のことである。

原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe](フロイト『症例シュレーバー 』1911年)=排除された欲動 [verworfenen Trieb](フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)

この排除 Verwerfungとは「外に放り投げる」という意味をもっている。


したがってフロイトが《不気味なもの[Unheimliche]はかつて親しかった家、昔なじみのもの[ehemals Heimische, Altvertraute]》、そして《この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴[Marke der Verdrängung]》というとき、不気味なものは「外にある家」(外に放り投げられた家)、「外にある親密」のことである。


ラカンがこの不気味なものを外密[extimité]と翻訳したのは、この文脈のなかにある。

親密な外部、モノとしての外密[extériorité intime, cette extimité qui est la Chose](Lacan, S7, 03 Février 1960)


モノとしての外密[extimité qui est la Chose]とあるが、「モノ=異者=不気味なもの」である。


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger,](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


この異者についてフロイト自身、次のように書いている。


不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)

自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert. ]〔・・・〕

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体[Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


不気味なもの(外にある家・排除された親密)は、モノ=異者=エスの欲動蠢動=トラウマであり、これがラカンの現実界のトラウマである。


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)


ラカンはトラウマを穴とも表現した。


現実界は穴=トラウマを為す[le Réel …fait « troumatisme ».](ラカン, S21, 19 Février 1974)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

享楽は現実界にある…現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


すなわち現実界のトラウマとは、現実界の享楽の穴であり、これが不気味なモノである。



◼️究極の「外にある家」

ところで究極の「外にある家」ーー外に放り投げられた家ーーとしての不気味なものが何だかは、実は人はみな知っている筈である。


女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ] (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)

家は母胎の代用品である。最初の住まい、おそらく人間がいまなお渇望し、安全でとても居心地のよかった母胎の代用品である[das Wohnhaus ein Ersatz für den Mutterleib, die erste, wahrscheinlich noch immer ersehnte Behausung, in der man sicher war und sich so wohl fühlte. ](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第3章、1930年)


ラカンはモノとしての不気味なものについて次のように言った。


享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)

モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère], (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


すなわち享楽の対象(欲動の対象)としての不気味なモノーー外にある家ーーは、究極的には喪われた母胎である。


以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[ Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, …eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)








2022年5月17日火曜日

現実界の享楽[Jouissance du réel]= 固着の異者[Fremdkörper der Fixierung]

 

ラカンの現実界はフロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan …, c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.]  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。[The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language](ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


………………


ここではトラウマ(穴)と原抑圧(固着)と置き残し(Staying behind)を見る。


◼️原抑圧は穴=トラウマ=現実界である。

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. ](Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


◼️原抑圧は固着であり、異者=トラウマをもたらす。

抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ](フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

トラウマないしはトラウマの記憶は、異者身体[Fremdkörper] )のように作用する。[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)


◼️置き残し[Zurückbleiben]=リビドー固着の残滓[Reste der Libidofixierung]

=異者身体[Fremdkörper]である。

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者身体は原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)





以上、原抑圧=固着=残滓=異者=トラウマ(穴)である。

ラカンはこれを残滓としての対象aとも言った。


●残滓=対象a=固着

残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


●残滓=異者=対象a=穴

フロイトの異者は、残存物、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968)


●残滓=現実の享楽=異者

享楽は、残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

対象aは現実界の審級にある[(a) est de l'ordre du réel.]   (Lacan, S13, 05 Janvier 1966)

残滓…現実界のなかの異者概念(異者身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

享楽は現実界にある…現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


異者は不気味なものでもある。


不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)

異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)



かつまた異者はモノ(残滓)である。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](ラカン, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger,](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)


我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

(自我に)同化不能の部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)




以上、ラカンの現実界の享楽はフロイトの次の用語群に相当する。



固着の残滓の「の」は同格の「の」である。残滓は固着によってエスに置き残される異者身体という意味だから。


ここでは現実界の享楽[Jouissance du réel]=固着の異者[Fremdkörper der Fixierung]と要約しておく。







マラルメとドガ(ヴァレリー)

 


この二人の交渉は決して簡単な性質のものではなく、またそうある筈がなかった。というのは、ドガの残忍なまでに無遠慮な意識的に邪慳な性格ほど、マラルメの意識的な性格と異なっているものはなかった。


マラルメは或る思想の下に生きていたのであって、彼が想像していた或る最高の作品が彼の生涯の究極の目標であり、それは彼にとって彼の存在を正当化するものであると同時に、宇宙そのものが包含する唯一の意味でもあった。彼はこの、宇宙の本質たる純粋な概念を保存し、それをますます明確にしていく目的の下に、彼の外面的な生活とか、人や出来事に対する彼の態度とかを根本的に建て直し、変換して、この概念を規準としてすべてのことを評価したのだった。敢て言えば、彼にとって人とか作品とかは、彼が発見したことの真理がどの程度に其処に明確に感知されるかということによって整理され、それによってそれらの人とか作品とかの価値が決定されるのだった。

ということは、彼が彼の脳裡において多数の存在を容赦なく処分し、抹殺し去ったことを意味するのであって、彼が何人に対しても、礼儀を重んじ、忍耐強く、また真に驚歎すべき優しさを以て彼らを迎えたということの根柢には、常にこの非情さが横たわっていたのである。

彼は誰が彼を訪問しても必ず面会し、すべて彼の所にくる手紙に、常に典雅な、そして絶えず新しい言い廻しで満たされた文章で答えた……。彼のそういう洗練された応対の仕方や、相手が誰であるかを問わない鄭重さはしばしば人を驚かせ、私にしても、極めて素朴な意味でそれを不愉快に思ったことがあるが、彼はこの普遍的に礼儀正しい態度によって、何人も侵すことができない一つの武装区域を設定し、その圏内に彼の稀有の矜持は、それが彼のものであることにおいて少しも損なわれることなく、彼と彼自身の特異さとの親密な対決の、無類の結実として存在する場所を与えられたのだった。


これに反してドガは一歩も人に譲ることがなく、事情を斟酌したりするには余りにも性急で、専らはったりで物事を批判し、まったく弁解の余地を残さないような辛辣な言葉ですべてを片づけてしまうことを好み、そういう彼の苦々しい気持が、何事も彼の何処かに潜んでいることが感じられ、事実彼は些細なことで機嫌を悪くし、たちまち激昂するのだった。そしてそれはマラルメの少しも変わることのない、滑かな、他人に対する気遣いに掛けて実に微妙な、そして絶えずこの上もない皮肉を裡に含んでいる態度とは似ても似つかぬものだった。

マラルメもドガのそういう、自分とは正反対の性格には幾分辟易していたように私には思われる。


ドガの方では、マラルメのことを常によく言っていたけれど、彼は主としてマラルメの人物に好意を寄せていたのだった。そして彼にマラルメの作品は、一人の卓越した詩人の精神がほんの少し変になった結果であるとしか考えられなかった。しかもそういう誤解は芸術家の間にはありがちなことなのであって、むしろ彼らは、お互いに理解し合うことが全然ないように出来ているということさえも容易に想像されるのである。殊にマラルメの書いたものはその性質からして、あらゆる種類の諧謔や嘲笑の的となるのに適していた。その点でドガの意見は、マラルメも時々寄ることがあったゴンクールの家の常連がやはりマラルメの作品について考えていたことと少しも異る所がなかった。

彼らはマラルメの人物に魅せられて、彼らと話している時は極めて明晰な頭脳の持主であり、常に無類の正確さと純粋さで豊富に暗示しつつ話をする人間が、何か書くと、全然意味が取れない、煩雑さそのもののような作品がその結果として出来上るのを、まったく不思議なことに思っていたのだった。殊に彼らには、彼ら自身は努めてその歓心と顧慮とを獲得しようとしている公衆というものをマラルメが完全に無視しているのが、どういう訳なのか少しも理解することが出来なかった。


そしてもしその時、自分の著作の法外な出版部数を第一義のことに考え、同じ文学者として互いに激烈に嫉妬しあっていたこれらの大作家たちに、五十年立たないうちに彼らの言説に対する信頼や、彼らが書いた有名な小説の売れ行きがまったく衰えて、その代わりに、長い期間に亙って極度に意識的に練磨された形式の効果によって流行や読者数の影響を絶した、マラルメの僅少な、秘教的な作品が優れた精神の持主たちの裡に、完璧さというものの強大な諸能力を発揮することになることを予言したら、彼らはどれほど驚いたことだろう。

或る日ゴンクールの家に集まった人たちが議論をしている時、ゾラがマラルメに、彼の考えでは糞とダイヤモンドは同じ値打ちだと言った。「そうね、――しかしダイヤモンドはそうざらにあるものじゃないな」とマラルメが答えた。


ドガは平気でマラルメの詩を種々の笑い話の種に使った。マラルメの詩は、


Victime lamentable à son destin offerte …


(その宿命に捧げられたる憐むべき供物、……)


だった。

例えばドガの話によると、マラルメが或る日彼が作った十四行詩を弟子たちに読んで聞かせた。弟子たちはそれにすっかり感心してしまってそのあげく、各々その解釈を試みた。或るものは、其処には夕焼けの空が歌われているのだと言い、また或るものは、其処には荘厳な日の出が詠まれているのだと言った。そうするとマラルメは、「そんなことはないよ……。これは私の箪笥の歌なんだ」と言ったそうである。


ドガはこの話をマラルメの面前でもしたことがあるらしく、その時マラルメは微笑したが、それは少し無理な微笑だったということである。(ヴァレリー『ドガに就いて』吉田健一訳)



……………………



マラルメは五歳のときに母を失い、十五歳のときに妹を失い、その二年後には女友だちの病死に立ち会い、二十一歳で父を失って孤児同様となり、さらに後年には若い頃の片思いの相手で友人の妻となった女性の死に遭い、それからまもなく今度は自分の息子の死に直面する。幾多の親しい者たちの死に出会うたびに、散文や詩を書いた。また敬愛する詩人の死にさいしても、数多くの哀惜の念にあふれた詩を作っている。 《私の友が旅立ってはじめて、そのときから本当に私は彼らとともに、また私の「夢」のかたわらにいる彼らの思い出とともにいるのである。》このように告白するマラルメは、まるで生者よりも死者のために生きているかのようである。死者を語るときも、多くの場合は自己を語っていて、亡き詩人の栄光のなかに自己の詩を投影させている。

先輩詩人を別にすれば、彼が死別してきた親しい者の多くは女性である。マラルメにおいて、女性にたいする観念が死者にたいする観念を呼び起こすとしても不思議ではあるまい。妻ですら、生命感の乏しい、現在や未来よりも過去につながる女性である。そこにない自己の理想を求めることと、そこにいない女性に呼びかけることとは、マラルメにとってはほとんど同義の意味をおびている。〈詩〉は〈死〉と〈女性〉に緊密に結びつけられている。したがって、現実から逃れるためにその出口を探すとき、当然その通路は〈未来〉ではなく〈過去〉に通じている。《ゆえに、自然に対しては、マラルメは 「微笑む」 以外に成す術がないと考えたが、一方、言葉にたいしては、そのことが否定的に証明されているにもかかわらず、言葉へと通じた通路がどこかにあることを常に望んでいた。 私見によれば、この希望こそが、彼の詩学の真の源泉である。 なぜなら、この希望だけが彼の生に存在理由をあたえていたからである。》(イヴ・ボンヌフォワ) 

〈死〉ときわめて近いところに位置しているマラルメの〈詩〉が、《沈黙から発し、沈黙へ戻る》のも当然であろうし、またサルトルが言うように、その充溢した瞬間が実際は不在に満ちたものであるのも、必然的な成り行きであったろう。しかし他者の意味も、自己の生の意味も、年を経るにしたがい微妙に変化する。ボンヌフォワの言葉とサルトルの言葉はほとんど同一の基盤に立っているように見えるが、前者はその通路が〈過去〉に向かう限りにおいては1866年以前のマラルメの姿であり、後者はその不在が〈死〉の固定観念を(少なくとも以前ほど直接的には)引き起こさない限りにおいては、1866年以後、より正確には1870年代以後のマラルメを語ったものである。(山中哲夫「初期のマラルメに関するテーマ研究試論(1))




Soupir


Stéphane Mallarmé


Mon âme vers ton front où rêve, ô calme soeur,

Un automne jonché de taches de rousseur,

Et vers le ciel errant de ton oeil angélique

Monte, comme dans un jardin mélancolique,

Fidèle, un blanc jet d’eau soupire vers l’Azur !

– Vers l’Azur attendri d’Octobre pâle et pur

Qui mire aux grands bassins sa langueur infinie

Et laisse, sur l’eau morte où la fauve agonie

Des feuilles erre au vent et creuse un froid sillon,

Se traîner le soleil jaune d’un long rayon.


ためいき


私の魂は、おお、静かな妹よ、落葉の色が点々と

斑に散らばる秋が夢みる  君の額の方へむかって、

また  天使のような君の瞳の  ゆらめく空の方へむかって、

立ち昇る、それはさながら  愁いにふさぐ庭園で、

たゆみなく青空へ  ためいき洩らす一筋の白い噴水!

ーー青空は、仄白い鈍い十月に色も和んで、

きわみないその物憂さを大きな地の水面に映して、

浮かぶ落葉の褐色の苦悩が  風にただよい

冷たい水尾をひきつつ動く  淀んだ池水の上に

ながながと  黄色い太陽の光線が遍うにまかせる (松室三郎訳)





可能なあらゆる言説を、語の束の間の厚みのなかに、白紙のうえのインクで書かれたあの厚みのない物的な黒い線のなかに、閉じこめようとするマラルメの企ては,事実上、ニーチェが哲学にたいして解決を命じた問い掛けに答えるものだ。

L’entreprise de Mallarmé pour enfermer tout discours possible dans la fragile épaisseur du mot, dans cette mince et matérielle ligne noire tracée par l’encre sur le papier, répond au fond à la question que Nietzsche prescrivait à la philosophi〔・・・〕


だれが語るのか? というこのニーチェの問にたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものーー語の意味ではなく,その謎めいた心もとない存在だ、と述ぺることによって答え、みずからの答えを繰りかえすことを止めようとはしない。

A cette question nietzschéenne : qui parle? Mallarmé répond, et ne cesse de reprendre sa réponse, en disant que ce qui parle, c’est en sa solitude, en sa vibration fragile, en son néant le mot lui-même – non pas le sens du mot, mais son être énigmatique et précaire. 〔・・・〕


マラルメは,言説がそれ自体で綴られていくようなく書物>の純粋な儀式のなかに,執行者としてしかもはや姿をみせようとは望まぬほど、おのれ固有の言語から自分自身をたえず抹消つづけたのである。

Mallarmé ne cesse de s’effacer lui-même de son propre langage au point de ne plus vouloir y figurer qu’à titre d’exécuteur dans une pure cérémonie du Livre où le discours se composerait de lui-même. (ミシェル・フーコー『言葉と物』第5章「人間とその分身」1966年)